#10 はらっぱ
月曜日の朝が来た。
絶望の朝だ。
悲しみに胸をつぶし,大空を呪う。
いつ果てるとも知れない,まるで永遠の懲役のような1週間が,また始まるのだ。
起きると体がだるくて重い。
激しい嘔吐が繰り返し起こる。
頭がちっとも働かなくて,何か考えようとすると脳がかちかちに凍り付いてしまったようになって動かず,脳の芯から鈍い痛みを感じる。
もう何度この発作に襲われただろうか。
こういう日は無理をしないで,何か理由をつけて有給休暇を取ってしまう方がいいに違いなかった。
どうせ会社に行ったって仕事になんてなりやしないし,どうせ怠けてるように見られるのならば,始めから行かない方が楽でいいに決まっている。どうせうちの会社なんて東大卒の奴や天下りでやって来た元官僚なんかが上位のポストを全部占めてしまっていて,俺のようにどれにも当てはまらない奴はどんなにしゃかりきになって働いたところでうだつがあがらず,良く行っても課長かそこらで納まるのが分かっているから,今更会社のため,自らの出世のために心身を削ってまで働く気ももはや俺にはなかった。
しかし,こんな俺にも責任感だの義務感だののかけらは残っていたらしく,朝の6時半に目が覚めてしまった以上,何とか会社に行くだけは行かなければならない,このままむざむざと休暇を取ることに対する抵抗のようなものは辛うじて感じられた。そもそも,俺の有給休暇取得日数は既にデッドゾーンに突入していた。これ以上休んでしまうと,明日仮に元気になって出社したとしても,肝心の俺の座る席がない,という事態も笑い話でなく,充分に考えられることだった。
せめて起きた時にもう8時半を回っていました,という展開だったならば,俺は何の抵抗もなく休む道を選んでいたろうに,なまじ規則正しい生活が身についてしまっていたがために,俺は行くべきか行かざるべきか,それが問題だのハムレットの懊悩を堪能する羽目になっていたのである。
疲れているのならば,無理をしないで休んだ方がいいですよ。
会社に行ってしまったら,調子が良かろうが悪かろうが関係なく働かされるわけだから。
行き付けの精神科の医者は非常にしばしば俺にそう言った。
しかし,事態はそんなに単純なものではない。
いや,行けるのなら行くに越したことはありませんがね。ずっと行かないわけにはいかないのだから。
彼はそうも言った。
しかし,事態はそんなに単純なものではない。
所詮彼は他人だから,俺の本当の苦しみなんて分かりはしないのだ。
どっちにも決められないままで,布団の上で無駄に時間だけが過ぎて行くのだ。
不意にどうしようもない怯え,怖さ,不安が俺を襲った。
これは得体が知れない,原因の分からないものだった。
ただ,夜明け前に非常にしばしば俺を襲う発作の一つだった。
原因は分からなかったが,対処法はあった。
俺は向精神薬の錠剤を一錠取り出して,冷蔵庫のミネラルウォーターと一緒に飲んだ。
この薬は不安を取り除くのに大きな効用があるが,副作用として強烈な眠気に襲われる。
しかも幸か不幸か,その時俺は寝る時そのままの姿勢をとっていたから,一瞬にして眠りの世界に落ちた。
いや,眠っていたのかどうか,それも判然としなかった。
あれは果たして夢だったのだろうか。気がつくと,久しく嗅いだことのない匂いが俺の鼻先に漂ってきた。
みずみずしくて,そのくせからっとしていて,ちょっと生臭いような,そんな匂い。
それは紛れもなく,かつて子供の時に飽きるほど嗅いだ,草と土の匂いだった。
そこはどこかは分からなかった。
ただ,広々とした一面の叢,どこまでも続く果てしのない原っぱだった。
どこなんだろう?
さっきまでいた俺の部屋は?
そして,会社は?
最初はそう訝った。
しかし,もはやそんな事はどうでもいいのだという結論に至るまでに時間はかからなかった。
今はここでしばらく休んでいればいいのだ。
目を閉じれば全身の感覚がより敏感にこのすばらしい空間を感じてくれる。
風はあくまで心地よく,俺の顔をそよそよとなでた。
ああ。
俺は愛する女性に愛撫された時のように,小さく息を吐いた。
草と土の匂いはより強く俺の鼻をくすぐり,ガキの頃の郷愁を思い起こさせた。
そう言えばあの時,友達と一緒によく野球をしたり,鬼ごっこをしたりして走り回っていたっけ。
そうそう,でも何たって一番夢中になったのは…
耳をすませば聞こえて来る,あの合唱―げ,げ,げ,げ,げこげこげこげこぐわ,ぐわ,ぐわ。
そして今,寝ている俺の顔の横をはねていったコイツ―蛙の奴をみんなで競争で捕まえていたんだ。
雨蛙はいくらでもいて,一番見付けやすかった。
でもそのくせすばしこい奴で,しかもぬるぬるしてるものだから,せっかく捉えても油断をしているとすぐ逃げられちまう。
トノサマガエルはなかなかその姿をあらわしてくれず,まして捕獲は至難の業だった。
そして,どっちでもない見たこともない奴がたまにいて,そんなのを捕まえた日にはもうその後1週間くらいはヒーロー気取りだったっけなあ。
もう俺はいい大人だから,あの日のようにしゃかりきになって捕まえようなんて思わないけれど。
たとえこれが夢の中だとしても,この静かな原っぱの平穏を乱すことはヤボなことのように思われたし,そもそも今の俺には,残念ながらそこまでしようという元気ももうなかったのだ。
今はこうして寝そべって,自然の中に自分の身を投げ出していたいのだ。
目を開けた。
真上に見える空は青く,その中に綺麗な白雲がぽっかりと浮かんでいた。
あの時一緒に蛙を取った,あの友達は元気だろうか。
小学生だったあの日のままで,やけにはっきりと一人一人の顔が浮かんでくる。
次に浮かんできたのは,親父とおふくろ。
もうずいぶん帰っていない。
元気かなあ。
そのまた次に浮かんできたのは,おじいちゃんとおばあちゃん。
もう二人とも,この世にいない。
そんな彼らが,生きていた時の面影そのままに雲の中で寄り添っているのが,なんだかとっても不思議で,淋しい。
彼らが消えると,最後に再び親父の顔が浮かんできた。
思えば親父とはよく喧嘩をした。
小さい頃はあんなによく遊び,慕っていた親父だったのに,成長するごとに俺は彼を疎んじるようになっていた。
サラリーマンとして平凡な人生を選んだ彼を俺は心のどこかで軽蔑していて,そのくせ口うるさくああしろこうしろと,それこそ人生の生き方から風呂に入る時間まで細かく干渉したがるものだから,よく衝突し,反目していた。
でも自分が同じように社会人になってみると,何だか無性に彼にシンパシーを感じる自分がいる。
雲の中の親父が不意に笑った。
お前も来いよ。
彼は確実にそう言った。
どこに来いと言うのか。
それは多分,彼が今暮らしている田舎の町だと俺は解釈した。
それもいいかもしれない。
そうすれば夢の中でなく,現実としていつでもこんな原っぱでのんびり寝そべって暮らしていけるのだ。
いつまでもこうしていたかった。
いつまでも,いつまでも。
最後にもう一度,乾いた風が俺の身体を撫でた。電話のベルの音で,俺は叩き起こされた。
会社からや。
無断欠勤だと思って電話してきやがった。
そう思って,まず時計を見た。
時間はあの時―薬を飲んでひっくり返った時,朝の6時半から1分たりとも動いてはいなかった。
俺は受話器を取った。
声の主は,おふくろだった。
「健二か。お母さんや…お父さんが…死んだ。」俺は田舎に帰る電車の中で車窓を見つめながら考えていた。
あの夢は,親父は疲れ切った俺にくれた,束の間の休息だったのかもしれない。
そして,親父もあの世界で俺と一緒に暮らしたかったのかもしれない。
でも…
俺は眠るような親父の死に顔にそっと呟いた。
ありがとうよ,親父。
でも,俺はまだアンタのところには行かれへん。
もうちょっと,もうちょっとだけ,俺に時間をくれへんか。
もうちょっと,もうちょっとだけ,頑張ってみるからな。
だから,しばらく静かに俺のことを見ていてくれ。
あの原っぱの白い雲の上から。★あとがき
「癒し」というのがキーワードになってるんですよね,最近。ぼくも最近何だか疲れ切ってしまって,「疲れている全ての人へ」っていうか,「疲れている私のために」ってな感じで書いたんですよね。でもこれ,親には見せられませんね。「勝手に殺すな!」みたいな(笑)。冗談はさておいて,これを読んだ人が少しでも平安な気持ちになってくれれば,書いたほうも物書き冥利に尽きるんですがね。