#13 運迷線

 偶然と呼ぶには余りに出来すぎた現実に直面した時,人はそれを運命という名の必然と捉えてみたくなる…
 そんな思いに囚われたこと―ありませんか?

 ぼくの職業は,列車の車掌。
 大学を卒業したぼくは,運良く鉄道会社に就職し,車掌として社会人生活をスタートさせた。
 駆け出しの車掌は主に普通列車,快速列車の乗務に務める。そして時に,近距離特急列車の乗務をすることもある。
 ぼくの一日は割りに早い。早朝から始まり,通勤・通学時間帯の電車にまず乗務する。
 通勤,通学時間帯とは言っても,赤字に近いローカル線だったから,東京だの大阪だのといったところの殺人的な通勤ラッシュとは無縁で,何となく呑気で,田舎臭い中・高校生だの,おじいちゃんおばあちゃんだのの姿の方が目立っていた。
 勿論,多くの客を相手にする車掌の仕事の性質上,一人一人の容貌だの身体的特徴だの,そんなことまで細かくは覚えているような余裕はなかったけれど。
 今日もまたいつものように乗務が始まる。
 まず,D駅発I駅行きの朝一番の鈍行列車から職務開始である。
 二両編成の電車に客は5人しかいない。
 こんなことならワンマンにしてしまえばいいのに。
 眠い目をこすり,そんなことを考えながら乗務する。
 思えば,その時から「始まっていた」のだ。
 その時は知る由もなかったけれど。 
 午前7時半I駅発S駅行きの快速電車の乗務。それが次のぼくの仕事だった。
 S市はこの辺りでは3番目に大きな都市で,中・高生の通学者も多かったし,大学も一つあった。だからこの電車に関して言えば,学生達がひしめいていて割りと混み合う路線ではあった。
「えー。次はT高校前,T高校前です。お客様の中でまだ乗車券をお持ちでない方,今お持ちの切符で乗り越しをされます方は…」
 学生達にぎゅうぎゅう押されながら,俺はお決まりの文句を叫んで車内を回っていた。
 さっきの朝一番の電車に乗っていた見覚えのある顔が見えた。
 とはいえ,それは別に珍しいことではなかった。
 D駅からS駅に朝早くに向かう人は,例外なくこのルートを使うからだ。
 だから,ぼくはまだ「ある事実」を意識してはいなかった。
 S駅についた。しばらくの休憩の後,今度はS駅からI駅に戻る普通電車への乗務だ。
 車掌室に入ると,ぼくは自分の目を疑うある事実に遭遇した。
 D駅〜I駅〜S駅とぼくと同じ電車に乗っていたある女性。
 年恰好は高校生ぐらいだろうか。
 腰まで伸びた美しい黒髪に,ぼくの視線を磁石のNSのように魅(ひ)く瞳を備えた二つの眼。すっとした鼻に,勝手な自己主張をしない程度の大きさながらぼくの性的な欲求を掻き立てる肉厚のいい唇。
 ぼくはさっきも言ったように,いちいち客の顔なんて覚えない性質なのだが,彼女に限って言えば,意識しないようにしながらも,一目でその印象を焼き付けられたことは,否定しようのない事実だった。
 綺麗な人だな。
 最初はそのくらいの意識だった。
 しかし,今のこの状況はどう説明したらよかろう?
 D駅〜I駅〜S駅まで行くのはまだ納得がいく。
 しかし,何故彼女は逆方向に戻って行くこの電車にまた乗るのだろう?
 いや,偶然だろう。
 恐らく彼女は,T高校の生徒で,降りそこなってしまったのだろう。それか,普通電車に乗るべきところを,間違えて快速電車に乗ってしまったか。
 ぼくがそこまで考えた所で,発車時刻が来た。
 彼女は車掌室に一番近い,列車最後尾の一番後ろの席に座っていた。
 ぼくは仕事も忘れそうになりながら,ずっと彼女を見ていた。
 大した偶然だ。
 でも,普通電車に乗ったということは,いずれどこかの駅で降りるという事だろう。
 一体この女(ひと)はどこで降りるんだろう。
 あと一駅だけでも,この女を見ていたい。
 S駅からI駅の間には14の駅がある。
 一駅一駅,近づくごとに妙に動悸が早くなる。
「次は…」
 声が震えて,裏返りそうだ。
 確率14分の1のロシアンルーレットだ。
「間もなく,終点I,Iでございます。長らくのご乗車,有難うございました。またのご利用を,お待ちしております…」
 銃は,ついに不発だった。
 ぼくと彼女を乗せたまま,電車は終着駅のI駅に到着した。
 乗客が三々五々に散って行くのを見ながら,ぼくは複雑な気持ちにとらわれていた。
 一体彼女は,何が目的でこんな乗り方をしているのだろうか。
 ぼくはこの次,I駅発N駅行きの電車への乗務を控えていた。
 考えまい,と思った。
 しかし,もはや意識しないわけにはいかなくなっていた。
 ぼくはある予感を持って,I駅発N駅行きの電車に乗りこんだ。
 予感は,当たった。
 彼女もまた,しかもぼくに当てつけるように,車掌室から一番近い席に腰を下ろしていたのだ。
 ぼくは彼女に対し,ずっとそばにいることに対する気味悪さと親近感の混じった複雑な感情を持つようになっていた。
 彼女はどうだろうか。彼女はもしかして,ぼくのことをつけてきているのではないだろうか。いや,それは考え過ぎだろう。ぼくは彼女を知らないし,彼女もぼくを知らないはずだ。女性,しかも彼女ほどの美人が,ぼくのような冴えない,野暮ったい,青ビョウタンの出来そこないにメガネをかけさせたような貧弱な面構えの一介の車掌を作為的につけまわす理由などどこにもない。彼女にもきっと,何か理由があるのだ。
 でも,彼女にしたってぼくがずっと同じ電車に乗務していることに気付いていたっておかしくはない。だとすると,彼女もぼくと同様の気持ちを抱いているのだろうか。それともやっぱり気付いてさえもいないのか。何せ彼女は,ぼくに視線の一つも向けては来ないのだから。
 ぼくは数刻置きに彼女に視線を向けて,事実を確かめようとした。
 しかし,確かめをするための時間は余りに短かった。
 僅か30分ほどで,電車は終点のN駅に到着したのだ。
 ぼくの今日最後の乗務は,N駅発Y駅行きの特急列車への乗務だった。
 ぼくの乗務はE駅までで,そこで別の車掌と交代する。
 もし彼女が,わざわざ特急券まで買ってこの特急に乗ってきたとすれば…
 そして,ぼくが乗務交代するE駅で下車したとすれば…
 そこまで来たら,もう作為じゃないだろうか…
 いや,彼女がぼくを意識することなく,たまたま偶然が重なって,ぼくと一致した行動を取っているとしたら…
 それは,運命というものかもしれない。
 運命。
 神の意思。
 天が,ぼくと彼女を引き合わすために,わざと二人を操っているんじゃないか。
 赤い糸,なんていう,非科学的で得体の知れないものを信じるほど,ぼくは幼くない。しかし,本来信じないものを信じさせてしまうほど,現実が現実離れしているのだ。
 それが運命であるのなら,理論で片付けられないことが起きても,それは変ではない。
 偶然でもない。
 それは,必然のことになるのだ。
 一体,本当はどうなんだ。
 ぼくは駅のホームで,頭を狂おしく回転させて,必死で考えをまとめる。
 次の瞬間。
 心臓が止まった。
 目は一点。
 彼女の姿。
 再び,ぼくらは一致を見た。
 彼女は,ぼくに目をくれることもなく,そのくせやっぱり車掌室に最も近い,最後尾の車両の一番後ろの座席に腰を下ろした。
 結局頭がまとまらないまま,発車時刻が来た。
 ぼくは車掌室に乗りこんだ。
 他の客は,もはや目に入らなかった。
 ぼくの鼓動は,もはや一秒間に百回も二百回も打つが如く,高鳴りを極めていた。
「毎度ご乗車有難うございます」
 その言葉すら忘れそうになってしまう。
「この列車は,特急せとうち4号,Y行きです。途中の停車駅は…」
 何度も言っているセリフなのに,今日に限って何回もとちりそうになってしまう。
 E駅までの途中停車駅は,6つ。
 もしその6つの駅で彼女が降りることなく,なおかつぼくと一緒にE駅で下車したとするなら…
 彼女は今日朝から晩まで,ずっとぼくと行動を一致させていることになるのだ。
 もし彼女が,運命によってぼくの方へ導かれているとしたら…
 偶然と言う言葉は,もはや完全にぼくの頭から消えていた。
 運命だ。
 その言葉は,音を立てて回転してハリケーンになって,ぼくを巻き込んでどうにかしてしまいそうだった。
 突然,ぼくの言葉にある考えが生まれた。
 彼女に,声をかけてみようか。
 常識で考えたら,車掌が職務中に乗客をナンパするなんて,少なくともぼくの中では考えられないことだった。
 しかし,運命がぼくと彼女を引き合わせようとしているなら,それに乗らない手はない。
 それは運命の邂逅。
 見えない力が働けば,必ず結果は良い方に転がるはずだ。
 ぼくは思いつめた。
 しかし,まだ完全にぼくと彼女の運命性は保証されている訳ではない以上,今ここで声をかけるのはさすがに憚られた。
 そう,もし彼女がE駅で降りたとしたら,その時がチャンスだ。
 その時しかない。
 そんなぼくの思いを知る由もなく,列車はあくまで義務的に一つ一つ駅に停車していく。
 彼女は,降りない。
 ぼくの鼓動は,心臓が破れそうなほどに激しくなっていく。
 もうすぐ,「その時」がやって来る。
 来ない方が,いいんじゃないのか。
 何でこんなに,職務以外の事情で死にそうな緊張をしなければならないのか。
 今ここに用意された「運命」は,少なくとも自分を幸せへと誘う「運命」のはずではないのか。
 しかし,今その運命を利用する能力のないぼくは,まるでただそれに振り回されて自分を追い込んでいるだけじゃないのか。
 もしここで彼女がさっさと降りてくれたら,その方がぼくにとってどんなに楽か知れない。
 しかし彼女は,ぴくりとも動かないで,文庫本に目を落としている。
 列車は,6つ目の駅を出た。
 「その時」は,確実に近づいてくる。
 6つ目の駅を出てからE駅までの最後の区間―それは30分ほどの時間だった。
 しかし,それはぼくにとって3分ほどの短い時間にも,24時間の長い長い時間のようにも思われた。
 百もの千もの葛藤が渦巻いて,生涯で最も脳を使った30分間だった。
 慈悲深い神の用意した運命に乗って,ぼくと彼女が,ただの見知らぬ他人同士,という壁を破るためには,ぼくの方からアクションを起こさなければならなかった。
 そして,運命のシナリオに乗れば,ぼくの起こしたアクションは,必ず成功するはずだった。
 しかし。
 ぼくが何回も車内を回っているにも関わらず,彼女はぼくに一度たりとも視線を向けてはいないのだ。
 もちろん,普段電車に乗る時に,わざわざ殊更に車掌に関心を抱く乗客なんているもんじゃないことくらいは分かっている。
 しかし,まる一日同じ車掌に当たっているのだから,あら?またこの人,くらい気付いてくれても良さそうなものじゃないか。またこいつかよ,気味悪い。という悪意の視線だって構わない。むしろそうしてくれた方が,ぼくは悩まなくて済むのだ。
 なのに彼女は,ぼくに一瞥さえくれない。一度車内改札に回った時も,彼女はただ切符を差し出すだけで,文庫本から目を離すことがなかった。
 そこがぼくには分からなかった。
 彼女はぼくに気づいているのか。
 もし彼女が,本当にぼくの存在を全く認識していないのであれば,ぼくがアクションを起こしても,それは全くの空振りに終わるだろう。今まで信じてきた運命性は全て妄想,砂上の楼閣に過ぎなくなるだろう。運命の悪戯は,本当にただの悪ふざけで,慈悲深い神は,ぼくをあざ笑う悪魔と化すだろう。
「間もなく,E,Eです」
 機械のように,ぼくは言った。
 そして,乗務交代の準備を早めに済ませて,その時を待った。
 列車はE駅に滑り込んだ。
 ぼくは交代の車掌と入れ違いにE駅のホームに飛び降りた。
 そして,不意に目を閉じた。
 そんなぼくの後ろから,軽やかな足音と,覚えのある香水の匂い。
 それは彼女に違いなかった。
 ぼくは一瞬きつく目を閉じてから,おもむろに目を開いた。
 声を出そうとして息を吸い,ゆっくりと後ろを向いた。
 そこには,誰もいなかった。
 構内のどこを見渡しても,誰もいなかった。

 一体あれは何だったのだろう。
 ぼくがあの時E駅のホームに降りた時には,確かに彼女の気配があった。
 しかし,やっと声をかけようと決心した時,彼女の姿はもうなかったのだ。
 ぼくは,運命の出逢いを逸したのだろうか。
 それとも,運命でもなんでもなく,単に悪戯好きの神が仕掛けたほんの悪ふざけで,ぼくがそれにまんまとひっかかってしまっただけなのだろうか。
 それとも…
 全ては,ぼくの見た幻想・白昼夢だったのだろうか…
 今となっては,知る術もない。

 あれから5年。
 今ぼくは,別の女性と結婚し,家庭を築いている。
 あの時見た彼女のような美人じゃないけれども,気立てが優しくて,笑顔の可愛い女だ。
 幸せだと思うし,不満はない。
 でも時々,あの時のことを思い出す。
 そして,あの時の彼女との運命の行く末に思いを馳せてみたくなる。
 偶然も生かせば運命になるし,運命も生かせなければただの偶然に過ぎなくなる。
 今はそれを分かっている。
 彼女を見たのも運命なら,今のカミさんと出逢い,結婚をしたのも運命。
 それも分かっている。
 でも,要は,運命の線のもつれ方。
 それがもし,僅かでも変わっていたら。
 そう思うこと…
 ありませんか?

 追伸・この話は,ぼくとあなただけの秘密にしておいてください。こんな話は誰も信じないでしょうし,特に,嫉妬深くてぼくを愛しているカミさんに知れたら大変ですから。

★あとがき
 実はこの題材は,大学時代から考えていました。ただこの時は,実在の鉄道を使って異常にマニアックなものになってしまったので人には見せませんでしたが…まあ,とにかくぼくは結構「運命」なんてのを信じてしまうところがあって,それがこの話の主題材となったことは間違いないでしょう。まあこの主人公ほど思いこみの激しい男ではありませんが…ところでこの男が見たのは果たして現実だったのでしょうか。それとも,白昼夢だったのでしょうか。それは皆さんの想像に任せることにします。

 

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