#15 知られたくないこと

 俺は2年目のサラリーマンだ。
 ただ,普通の(という言葉の信憑性自体が俺にとっては怪しいものだったが)2年生に比べて,俺には特殊な事情があった。
 俺にはどうも「鬱」のケがあるらしいのだ。
 とにかく体がだるくなる時がある。
 しばしば頭が痛くなり,肩で息をしながら仕事をする事態も珍しくはないのだ。
 ある日どうしても体が動かなくなり,有休をとって病院に行くと,体はどこも悪くない,精神的なものじゃないのか,と言われた。
 仕方がないから神経科に行ったら,「うつ病」と思いっきり診断され,薬と「1週間休みなさい」という診断書をもらった。
 1週間明けて帰ってきてみると,課の人事担当の係長が不機嫌そうな顔でソファに腰を下ろしていた。
 聞くと,今日面接に来るはずのバイトさんが,約束の時間から20分経っても来ないので苛立っているんだそうだ。
「大川さんのタイプじゃないかと思うんだけど,どう?」
 人事担当の職員のおばちゃんが,まるで見合い写真でも見せるようにその人の履歴書を見せた。
 その写真は白黒で,しかもプリントの色が濃かったものだから,どんな顔をしているのかさっぱり分からなかった。
 そもそも,俺はあまりその時女に食指を伸ばそうという気にもなれていなかった。
 女と布団とどっちと結婚したいですか,と聞かれたら迷わず布団,と答えてしまいそうだった。
「ふうん,そうですねえ」
 生返事で答えた所で,ガラガラとドアの開く音がした。
 件の彼女だった。
 顔はよく見えなかった。
 ただ,悪びれる様子もなく平然と面接に臨んでいた。
 へえ。
 俺はちょっとだけ感心した。

 彼女が正式にバイトとして働きに来たのは,3日後からだった。
 俺が課の部屋の隅っこのOA室でパソコンを叩いていると,不意に彼女がやってきた。
 俺は彼女を横目で見た。
 顔が小さく,背が高く,まるでモデルのような,今風の風体だった。
 ただ,俺はさっきも言った通り鬱だったから,彼女についてどうこう感想を抱くような事はなかった。極端なことを言うと,そういったことに気を回すことさえ面倒くさかった。俺はこの仕事をとっとと終わらせて何も文句を言われることなく5時に退社することしか考えていなかったから,彼女の存在はむしろ邪魔でさえあった。
「大川さん」
 彼女は,不意に声をかけてきた。
「ここ分からないんやけど,どうしたらええん?」
 彼女は関西弁のため口で,そう話しかけてきた。
 質問自体はパソコンの簡単な操作法に属することで,俺は難なく彼女の疑問に答えることが出来たが,俺は一風変わった違和感にも似た気持ちを彼女に抱いていた。
 彼女が俺より一つ年上なのは,履歴書を見て知ってはいた。
 しかし,今まで来たバイトさんの中で,腐っても正職員である俺に,初対面でいきなりため口で物を言って来た人はいなかった。
 しかし俺は,そのことに対して,別に失礼な,とかの不快感は感じなかった。
 むしろ逆に,ごく自然に,そのことを,彼女の俺に対する親愛の情ととった。
 俺はその時,パソコンの話とかを一言二言彼女と話した。
 その時の俺は,明らかに今までの「鬱」の俺とは違っていた。
 俺は課の中で一番若かったから,課の仕事以外にも,いろいろと雑用を任される機会が多かった。
 そして,バイトさんもそれを手伝って一緒に雑用をすることが多かった。
 俺と彼女は,必然的に一緒に行動することが増えた。
 俺は彼女と色々な話をした。
 その多くは,仕事とは関係ないことだった。
 唯一仕事と関係のある二人の話題―それは,彼女の今の職場に対する不満だった。
 どうして女性ばかりがお茶くみをしなければならないの。
 どうして私ばかりがコピー取りをしなければならないの。
 大体この職場の人って,何だか暗いし,細かいことばっかり言うし,どうしてもなじめないんよねえ,あたし。
 こうやって人のいないところで職場の不満をぶちまける彼女に,俺は,まあ職場ごとに雰囲気があるから仕方ないよ,とか,あの人たちだって決して悪い人達じゃないんだから,と逆にフォローをしてやるのが常だった。
 彼女は言いたい事を言ってしまうと,顔を近づけ,片目を閉じて口をすぼめ,人差し指を一本上げて,シーをして言うのだ。
「これは大川さんやから言うんやからね」

 俺と彼女が親密になりつつあることは,狭い職場のことだから多くの人が気付いていた。
 勿論職場で彼女の前でそういう話が出ることはなかったが,ある時年の近い先輩と飲みに行った時は,早く彼女をデートに誘わな,とせかされたし,課の有志でのみに行った時は,隣の係の係長に,好きなんやったら応援するで,と冷やかされた。
 確かによくよく見れば,彼女はモデル体型だったし,顔も美しかった。遊び好きな所も何となく合いそうだ。
 誘ってみたい。
 恋だの何だの,そういったものを抜きにしても,一度遊んでもらえたら。
 そういう意識が少しずつ自分の中で高まっていったことは,紛れもない事実だった。
 いつしか,嫌で嫌で仕方なかったはずの職場に行く足取りが軽くなっているのを感じた。
 それが彼女のおかげであることもまた,紛れもない事実だった。
 なあ,下城さん,飲みとかよく行くん?
 んー,まあ,コンパとかは多いかな
 飲めるの?
 あんまり…まあ,人並みには飲めるかな。
 人並み言う奴に限ってほんまはめちゃめちゃ飲めるんやで。今度飲み比べせえへんか。
 (苦笑)
 カラオケとか好き?
 んー,人が歌うのを聞いてるのは好き。自分で歌うのは苦手やね。
 そうか,じゃあ今度聞かせたるわ。俺,カラオケで笑かすの得意やねん。
 (苦笑)
 土日とか何しよるん?
 んー,何だろう。分かんない。
 こんな会話が続いた。
 何とかきっかけを掴もうとしながらも,彼女は巧妙にそれをすり抜けるように見えた。
 これは大川さんやから言うんやからね。
 あの言葉の意味は何だったのだろう。
 俺を信用して,俺となら秘密を共有してもいいと思ったからそう言ったんじゃないのか。
 俺が彼女を誘おうとしているのは,あまりにもあからさまに彼女に分かっていたようだった。
 彼女はそんな俺を弄ぶように,巧妙に逃げ道をつくって俺との距離を離していく。
 どうすることもできないまま,時間だけが過ぎていく。
 彼女のバイト期間は4ヶ月。
 彼女が来てから,既に3ヶ月が過ぎようとしていた。
 残りの1ヶ月が,少なくとも俺にとって重要な時であることは分かっていた。
 恋人になるとかデートに誘うとか,そんなことじゃなくてもいい。
 彼女との接点をつないでおかなければならなかった。
 その大切な1ヶ月。

 きっかけは仕事上の失敗。
 上司にこってりと油を絞られ,後始末さえどうしていいか分からなくなった俺は,袋小路に迷い込んだ。
 その日から,再び頭に鈍痛が溜まり,体に力が入らなくなり,肩で息をして働く日々になった。
 忘れかけていた「鬱」の病が,再びぶり返し始めたのだ。
 俺は再び神経科に行き,再び1週間休養の指令を受けた。
「どうしたん?1週間も休んで」
 久しぶりに出てきた俺に,彼女はいの一番に聞いた。
 本当のことなど言えるはずがない。
 もし言えば,俺は彼女から即座に精神異常者のレッテルを貼られ,今まで築いていた「それなりにいい関係」も破綻してしまうことは明らかだった。
 少なくともこの事だけは,彼女に知られてはならなかった。
 悟られることさえも許されない,と思った。
 なあに,ちょっと風邪をこじらせてな,もう大丈夫や,と俺は彼女の前で虚勢を張った。
 体も精神も,もはやまともに働ける状態ではなかった。
 しかし,俺は,彼女に自分の今の状態を悟られたくない,ただそれだけのために,少なくとも夕方の5時まではしゃかりきになって「元気に」働くことを強いられた。
 頭は痛い。体はだるい。誰もいないエレベーターの中では座り込んでしまっている。
 そんな状態なのに,彼女にばれたくない一心で,「若くて健康でやる気に溢れた」勤労青年を装いつづけた。
 それはあたかも,いつ切れるか分からないけれどひたすら限界まで引っ張るゴム紐のようだった。
 彼女のバイト期間は,明日で終わる。
 最後に二人で荷物運びをした。
「下城さん,明日で終わりやね…俺,淋しくなるわ」
 俺は言った。最後の賭けだった。
 間髪入れず,返事が返ってきた。
「また新しいバイトさんが来るじゃない」
 俺はその言葉の真意を把握するまでに若干の時間を要した。
 そしてそれを把握した時,自らの芝居が単なる徒労であったことを知った。
 これは大川さんやから言うんやからね。
 その言葉に彼女が込めた,その奇妙な親近感の意味さえも。
 ゴム紐は―切れた。

 また新しいバイトさんが来るじゃない。
(だから,あたしのことは諦めてちょうだい。)
 だめなんだ,他の人じゃ。
 君じゃなきゃ,だめなんだ。
 そう言えれば良かったのかもしれない。
 しかしその時の俺には,それを言うほどの度胸も気力も残されてはいなかった。
(私はもう二度とここには来ません。ここにいる人達に会う事もないでしょう。この,私にとってあまりにも息苦しい場所でただ一人この気持ちを共有してくれたのは,紛れもなく大川さんだけやった。でも,それだけやった。私にとって貴方は,それ以上でも以下でも決してなかった…) 
 最後の日。
 課の人たちが総出で彼女を見送った。
 俺は行かなかった。
 行かないの,大川さん。
 人事担当の職員のおばちゃんが,不思議そうな目で俺を見ていた。

★あとがき 
「二年目の窓際族」の続編である。好意を持っている相手がいる。でもこっちには人には言えない弱みがある。でもそんな弱みはできるだけ相手には見せたくはない。特に「ノイローゼ」という,誰にでもありうる(←この辺り強調しておきたい),でもなおかつともすれば偏見の目で見られがちな病気を持っている場合,無理してでもその病巣を隠し,強がっていないといけない,そこが苦しくてたまらない,ある程度ぼくの経験も踏まえて書いてみた話である。二回続けて重いテーマをやってしまって申し訳ないが,お許し願いたい。このテーマについては,もう少し突き詰めてやっていきたいとぼく自身は考えている。

 

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