#16 教祖(後編)

 あの話を聞いた次の日から,彼女のことが無性に気になるようになった。
 そして―これは俺にとって決して認めたくない事実であったが,俺が彼女をいわゆる「他の人とは違う人」,もっと言うならば「精神のおかしい人」という色眼鏡の入った目で見ざるを得なくなっていることもまた間違いのないことだった。俺は彼女を,怖いもの見たさの好奇と怯懦の入り混じった目で,一定の距離を置きながら見るようになった。
 俺が昨夜まんじりともしないで考えたあの物思いは,所詮いい子ちゃんの理想論に過ぎなかったのだろうか。しかも俺は口では理想を唱えておいて,その理想を行動ではあっさりと裏切っている―

「元気がないですね,どうなさったんですか」
 その秀才面からは想像しがたい人懐っこい目をして,主治医のセンセイがその日の回診で俺に聞いた。
「いやあ,なんでもないです」
「憂鬱とか,イライラとかがありますか?」
「いや,大丈夫です」
「夜は眠れますか?」
「ええ,まあ」
 嘘ばかりついている。
「仕事のことが気になりますか?」
「いいえ,全然」
 これは本当だ。
「まあ,眠れないとか落着かないとかいうことがありましたらいつでも言ってください。薬を替えながら様子を見てみましょう」
 そういうと,彼はそれではまた明日,お大事にと言って病室を出ていった。
 なるほど医者というのは偉いものだ。
 俺はあまり医者という人種を信用してはいなかったのだが,この男と話していると何故だか妙に心が落着く。安心する。
 ああ。
 俺は一つ欠伸をしてベッドに寝っ転がった。
「よう」
 人の声がしたので入り口の方を向くと,見覚えのある男の姿があった。
 俺より2年先にデビューした先輩漫画家の山手龍二先生だった。彼は俺と同郷でもあり年も近く,俺の漫画界におけるほぼ唯一親しく付き合える人間であり,俺は彼を「山さん,山さん」と呼んで慕っていた。
「山さん」
 俺は意外そうな声をあげた。
「何で分かったんすか,ここに俺が」
「ああ,編集の奴が言ってたからな」
「あいつがですか」
「違うよ」
 山さんは笑いをかみ殺すかのような表情で言った。
「あいつは飛ばされた。今は別の奴が入ってる」
「え?」
「実はなあ,うちの雑誌今だいぶ売上が落ちてるんだよ。そりゃもう急降下って感じでな。業界二位の少年サタデーにだいぶ迫られてもう抜かれるのは時間の問題らしいんだよ」
「はあ」
「それもこれも編集の上町が悪いんだよ。あいつが口を出しすぎて若い漫画家達をみんなスポイルしちまったんだよ。お前も含めてな」
 上町というのはかつて俺をボロカスにけなした,あの忌まわしい担当編集である。
「でな,ほら,富山先生がいるだろ,大御所の」
 富山先生というのは,もう15年もうちの雑誌で連載を続けている大漫画家で,その際限のないバイタリティーとアイデアで隆盛期のうちの雑誌の屋台骨を支え,なおかつ若い世代を育てることにも情熱を注いでいた,まさに漫画界の至宝と呼べる大先生だ。
「上町の奴があまりに若い漫画家にああだこうだ口出しして自由に描かせない,うちの雑誌を自分の色に染めようとする,それが富山先生にも前々から気に食わなかったらしいんだ。挙げ句の果てに富山先生の作品にまで,貴方の作品はもう時代遅れだ,とか何とか難癖をつけて自分の方向に進めるように言ったらしいんだよ」
「そりゃまずいだろう。富山先生にだって長年やってきたプライドがあるだろうし」
「そこなんだよ。富山先生は仰った。もし貴方の言う通り自分の感性が今の読者のニーズに合っていないとするならばぼくはいつでも方向性を変えるだろう。ただ結果を見てご覧。うちの雑誌の売上は貴方が担当に就任して以来下がり続ける一方だ。そうなると貴方も編集者として,今の自分たちの方向性が合っているのか,読者の求めるものを自分たちが作っているという確かな手応えがあるのか。そこを自分自身で内省する気はないのか,と」
「至極もっともだ」
「更に先生は,上町の過去を取り上げて,そもそも君が手がけた新人達は誰一人としてモノになっていないじゃないか,君があれこれ言い過ぎたがために,才能がありながら潰れてしまった漫画家のいかに多いことか,と言ったんだ」
 俺は思わず手を叩いて喝采してしまった。
「そしたら上町の奴ぶち切れてな,そんなことを言うのならあんたはもううちで描いてもらわなくても結構だ,まで言ったらしい。その話を聞いた上層部は真っ青になって先生のところに謝りに行ったんだけど,富山先生ももう引っ込みがつかないし,これからの漫画界のことを考えたらやむを得ない,自分を切るか上町を切るか二つに一つだ,という回答を返した。結局上層部は人気漫画家の富山先生を切るほど馬鹿じゃないから,先生を選んだ。そして上町を閑職に飛ばして一件落着という訳だ」
 山さんはそこまで話して,そういう訳だからもうあの馬鹿の上町はいないから安心して漫画界に帰って来いよ,と笑った後,じゃあ俺は帰って仕事だから,これでも随分やりやすくなったもんだぜ,と言って病室を出て行った。
 俺は何の気もなくライバル誌「少年サタデー」を開いた。
 そこには,見覚えのある絵柄の漫画があった。
 間違いなく,ついこの間までうちの雑誌で描いていた若手の漫画家の作品だった。
 彼も上町の独裁に愛想を尽かして,「少年サタデー」に移籍したのだ。
 俺は本を閉じ,溜め息をついた。
 安心して帰って来いよ。
 山さんは確かにそう言ったが,俺にはもはや漫画を描く自分の姿が心に浮かばなかった。
 ここ数日間,自分が漫画家であることさえも忘れかけていたのだ。
 病室の入り口をふと見ると,例の女性患者が,いつものように焦点の定まらない眼をしてふらふらと廊下を歩いていた。

「殺されるぅー!誰か来てぇ!殺される!」
 その2日後のことだった。
 俺と彼女は最悪の形で邂逅を遂げた。
 俺はコップと歯ブラシを手にして洗面所に呆然と立ち尽くしている。
 そんな俺を怯え切った目で睨みながら,彼女は俺を指差して叫び続けていた。
 ごめんなさいね。気にしないで下さいね。
 家族は必死で頭を下げ,看護婦さんは彼女を押さえつけながらなだめていた。
 ほら,見て御覧なさい。
 あの人はコップと歯ブラシしか持っていないでしょ。
 どうやって貴方を殺すの?
 殺される。殺される。
 あの人は私を殺そうとしている。
 ○×△がそう言っている。
 助けて。殺される。
 ころ…

 翌日,彼女の家族が彼女を連れてわざわざ俺のベッドまで謝りに来た。
 どうもすみませんでした。とんだお騒がせを。
 窓際のオヤジ二人は何事か囁き交わしている。
 どうせろくなことじゃあるまい。
 彼女は家族の後ろで,昨日と変わらない怯えた目をして俺を見ていた。
 しかし,昨日とは一つだけ違った所があった。
 彼女の瞳の中には,某かの頼りない光が宿っていた。
 それが気になったから,俺はこの日も昼寝が出来なかった。

 さらにその翌日。
 俺は食事のお膳を下げに外に出た。
 そこには,同様にお膳を下げに来た彼女がいた。
 俺は少し動揺した。
 また殺される,なんて騒がれたらたまったものではない。
 彼女のとった行動は,しかし俺の予想とは違っていた。
 彼女は俺の前に跪いた。
 助けて。
 私は何故ここにいるの。
 どうしてこんなところにいなければならないの。
 私の何が悪いというの。
 何故なの?
 教えて…教えて…
 彼女はそう言うと,声にならない声で嗚咽した。
「しかし,貴方は昨日,俺に殺されると言った。その殺そうとしている相手に,何故そんなことを言うんだ」
 俺はあくまで冷徹に,論理的に彼女を諭した。
 いいえ。
 貴方は本当はいい人。
 優しい人なの。
 でも,◎▽■の声に操られて,昨日は私を殺そうとしたのよ。
 今日はまた,別の人が私を殺しに来るわ。
 助けて。助けて…

 精神病の人というのは,なかなか自分が「病気」であることを認めないんですよ。
 最初に来た時に主治医のセンセイがそう言ったことを俺は今更のように思い出していた。
 彼女は真性の精神病なのだ。
 そして,自分が病気であることも自覚してなければ,自分が何故今この病院に閉じ込められていなければならないのかも判らないのだ。
 同情などという眼で彼女を見てはいけない,ということは良識で判っていた。
 しかし,今ここで良識などというものを発動した所で何の意味があるのか。
 俺は心底彼女が可哀相になった。
 もしも俺に力があるならば,彼女がこの状況から少しでも脱け出せるように協力してやりたい,と心から思った。
 この女は俺にそう思わせる,何か不思議なものを持っていた。

 どうですか?
 主治医のセンセイはいつものように,回診で俺に訊いた。
 ええ,まあ落着いていますね。
 俺は応えた。これは本当だった。
 もう1ヶ月になりますね。病院にずっといるのも何かと退屈ですし不便でしょうし,投薬と休養で落ちついているのなら,もうそろそろ退院しても結構だと思いますが。
 彼は言った。
 確かに入院してからの俺は,精神的にも体調的にも落着いていた。ずっと寝ている生活にもいい加減に飽きつつあった。
 もちろん,退院してからすぐ仕事をしろ,という訳じゃありません。自宅療養という形で,世間の風に吹かれて,それで自分の体調が元に戻ったところで,少しずつ慣らすような形で仕事に入っていくのが理想だと思うんですが。
 彼は続けた。
 普通のサラリーマンならそれは可能かもしれないが,俺は漫画家である。復帰したら読者のために,休む前と同じか,それ以上の質のある仕事をしなければならない。大体,自分の体調が元に戻ったところで,仕事があるという保証がない。俺の書いている漫画は一話読み切りだったからいつ切っても不自然ではない。ということは裏を返せばいつ切られても不思議ではない。編集部からは入院後何の連絡もない。早く帰って来いとも言わないし,お前はもういい,とも言われてない。実に不安定な立場だ。普通のサラリーマンの抱く,久々の職場復帰に際して抱く不安と今の俺の不安では性質が違うのだ。
 それに,俺にはもう一つ気になることがあった。
 他ならぬあの女のことだ。
 もし俺が退院すれば,彼女はまた毎日のように被害妄想に苛まれながら日々苦悶の生活を送ることになり,なおかつ人々にいらぬ迷惑をかける事になるだろう。
 今朝―彼女が俺に跪いて助けを請うた朝,彼女の家族は再び俺のベッドにやって来た。
 そして言った。
 あの子は―これまで誰も彼もに敵対感情を抱き,全員が自分に対して刃を向けていると信じて来たのです。あの病気の所為で…
 私どもはあの日,あの子が貴方に縋り付く姿を見て正直驚きました
 あの子が自分の気持ちをあそこまで素直に話したのは,貴方が初めてだったのですから…あの子は今まで,家族である私達にさえ自分の思いを正直に伝えてはくれなかったのですから…
 まあもうしばらく様子を見てみてもらえますか。
 私の場合,退院すればすぐに100%で仕事しなきゃいけない職業ですから。
 そうですね。
 主治医は笑った。
 まあもうしばらくのんびりするのもいいでしょう。
 焦って出ることもないですし,ここにいてくれた方が私も安心ですから。
 その言葉に,俺も苦笑した。

 翌日の昼飯の後,俺と彼女は病棟のロビーで話をしていた。
「誰かが自分を殺そうとしている,そんな気持ちはずっとあるの?」
 俺は訊いた。
「はい。私は,その恐怖から逃れたことがないのです」
「誰か,頼る人はいないの?」
「いません」
「1人で,戦い続けるつもりなの?」
「判りません。でも,誰も助けてはくれないし…」
「誰か助けてくれる人がいるとするならば,戦う覚悟はあるの?」
「…」
「神様とか,信じるものはないの?」
「神様は…信じていたこともありました」
「その時は,気持ちは落着いたりしなかった?」
「…少しは」
「それじゃあ,だめだったの?」
「…」
「貴方を殺そうとしている何かというのは,きっと貴方の心の中にいて,そして貴方が他の何かを信じるとするなら,それによって守ってもらえるものなんだ。信じるものがあれば,きっと安心できるはずなんだ。それが守ってくれるって」
「でも…」
「貴方はきっと,非現実の世界の何かが現実の世界の誰かを使って自分を殺しに来ているのだと思っている。普通ならそんなことはあり得ない。考えようともしない。でも貴方は人一倍感性が鋭敏に出来ているからそんなことを考えたりするんだ。それを人は病気だと言う」
「私,病気なんかじゃ…」
「判っている。ただ,人がそう思ってしまうのは事実なんだ。それは現実として受け止めないといけない」
「…」
「いいかい,自分だけの神様を持つんだ。自分を絶対的に守ってくれる神様を。しかも天の上におわします神様じゃダメなんだ。現実の世界でも完全に自分を守ってくれる神様じゃないとダメだ。それを持つことで君は今の状況を脱け出すことが出来る」
「でも,そんな人が…」
 俺はとっさに彼女の両肩を抱えた。
「俺がその神様になってやる…君がそれを必要とするならば」
「…」
「ただ一つ,条件がある」
「何?」
「髪を整えて,化粧して欲しい」

 その日,編集部から,連載打ち切りの連絡があった。
 俺の心は決まった。

 正気か?
 俺の決意を聞いた時,俺の周りの人間たちは一様にそういう反応をした。
 俺はこの女を引きとって一緒に暮らすことに決めていた。
 場所はどこでも良かった。
 できるなら,人のいないところが良かった。
 俺は今までの貯金で山奥の二束三文の広い土地を買った。
 彼女も同意した。
 と言うより,彼女は俺についてくるより他に術がなかったのだ。
 彼女は俺の信者となった。
 彼女は俺を現実の世界でも非現実の世界でも守ってくれる存在として俺についてくることに決めていた。
 結婚,という形態を取るのかどうかは決めていなかったが,少なくとも俺と彼女は世間の目のない場所で一緒に暮らすことを決めた。
 彼女の両親は最初躊躇していたが,結局賛成した。
 彼女を救うことが出来るのは俺だけしかいないことを悟っていたからだ。
 彼女が元の,一般社会人としての生活に戻ることが出来たら返してくれれば幸いなのだが,と口で言っていたが,仮にそれが成ったとしたところで俺以外の人間の元へやることが出来ないことも知っていたから,正面切って反対することも出来なかった。
 問題は俺の家族だった。
 職も持たないくせに,精神を病んでいる女と二人まるで隠遁のように暮らすことに,さすが漫画家になることはしぶしぶ認めた家族達も我慢ならぬという体で,半ば殴りこみのようにやって来た。
 職を持たないのは俺が悪い。俺は責任を持ってこの女を養ってみせる。貴様らの援助など俺はいらない。山奥とは言え広大な土地を持っているのだから農業だろうが畜産だろうが何だって生計を立てる自信はある。
 この女は俺が選んだ女だ。誰に文句を言われる筋合いはない。もし彼女の精神の病を理由に反対するのならば,それは精神病者に対するいわれのない差別・偏見によるものだ。それを理由に飽くまで反対するならば,俺は貴様らを差別者として永遠に軽蔑する。
 俺は出来る限りの理論武装をして機関銃のようにまくし立てた。家族達は勝手にしろ,今度こそお前は勘当だ,と捨て台詞を残して帰って行った。実際の所,そうするしかなかったのだ。俺は勝ったのだ。

 俺は退院した。
 彼女も無理矢理退院させた。
 彼女の家族が「専門病院に入れる」と嘘をついて退院させたのだ。
 よろしくお願いします。
 もし迷惑をかけるようなら,いつでも仰ってください。
 彼女の家族は涙を流しながらそう言った。
 誰が言うものか。
 俺はそんな無責任な甲斐性なしじゃないんだ。

「ねえ,こういうの作ったんだけど,どう?」
 彼女が俺に,小さな紙切れを見せた。
 それは公衆電話にべたべた貼ってあるピンクビラと同じ大きさで,
「太陽・そして自然―人間の帰る場所がここにあります」
 とでかでかと書いてあり,その下には日の出を象ったイラストと俺の似顔絵が書いてあった。
「おいおい,俺は宗教団体を旗揚げするんじゃないんだぜ。お前と二人で静かに」
「それで生きていけるの?」
 遮るかのように彼女は言った。
「こんな山の中で自給自足で生きていこうと思ったら,私達二人だけじゃ無理よ。仲間を集めて,みんなで一緒にやっていくことを考えなきゃ。もちろんお金儲けとかはしなくてもよ。力を合わせて,家畜も野菜も育てていかなきゃいけないでしょ」
 彼女は俺が思ったより,遥かに現実を見据えた女のようだった。俺は苦笑した。
「まあええわ。勝手にし」

 二人は四人になり,四人は八人になり,八人は十六人になった。
 そして今,気がつけば(公称)二千四百九人。
 そして今,俺を含めて全てのここにいる人々が,この大自然の中で,米と野菜を作り,家畜を育てて暮らしている。
 もちろん金を集めているわけじゃないし,教祖と言われている俺自体が,実際自分が今何を崇拝しているのか判然としない。
 そんな状態で,今俺の目の前にいる人々は俺の前に跪いている。
 俺はそんな彼らを見て,滑稽であると同時に,ある種の怖さを感じつつあった。
 何たって,これからの俺達がどうなるかなんて,誰も知りはしないのだ。
 俺自身でさえも,そして…皮肉なことに―たとえそれが神様でさえも。

★あとがき
  この話は,ぼくが一時悩みすぎて体調を崩した際の経験を元にして作ったものです。ぼくは精神医学についてはあまり明るい方ではないので間違ったことを書いているかもしれませんが,もしそういう部分があれば率直にお詫びしたいと思います。ただ,人間というのはどんな人でも何らかの「神様」,頼るものを求めているんじゃないかな,という考えがあったので「宗教」という,これまた以前から関心のあった分野とリンクさせて書いてみました。ぼくはあまり「天の上におわします」神というのは信じてなくて,「神」という存在自体「人間の概念の中にあるもの」だと思っているので,そういう考えが前面に出ていることは否めません。「神」の絶対性を信じている人には少々不快な考えかもしれないので,その点でもお詫びしておきたいと思います。でもこれがぼく自身の考えなので…

 

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