#17 自由人
僕は普段から関心を持って見ていた訳じゃないから,いつからそのルールが変わったのかよくは分からないのだが,この間久しぶりにバレーボールの世界大会の試合を見ると,様相がだいぶ変わっていた。
まず一セット15点で決着するはずだったのがいつの間にやら1セット25点マッチになっていた。そして,サイドアウトがなくなって全セットラリーポイント制になっていた。
僕が最後にバレーボールの試合を見た時はまだサイドアウトはあって,ラリーポイント制は最後の5セット目の時だけだったし,一セットはまだ15点決着だった。
そして,何より僕を驚かせたのは,コートの中に一人だけ,人と違うユニホームを着た選手がいたことだった。
見ていて分かったのだが,あの選手は「リベロ」と呼ばれるポジションで,彼は攻撃に参加してはいけないらしい。即ち,ただひたすらボールを拾うのが仕事なのである。
日本チームのリベロがテレビに映った。
彼の名前は対馬 敏(つしま さとし)。
身長は173センチ,体重は66キロ。
既に中年太りの兆候を見せている僕よりも体重は大分少なかったが,身長は殆ど変わらなかった。彼のそれは,恐らく日本人男性の平均とほぼ同じくらい,何より身長(タッパ)を要求されるバレーボールの選手の中に交じったら驚くほど小さく見える。25年前。
僕は当時小学4年生だった。
体育の時間に,クラスでサッカーの試合をやった。
僕のポジションはゴールキーパーだった。
別段の理由があった訳じゃない。
僕は当時,いわゆる「ガリ勉」と言われる存在だった。
小学生のサッカーなんて,戦術も何もなく,ただひたすらボールの周りで人が群がって球の蹴りっこをしているだけだ。運動神経のいい奴は目立ちたかったからフォワードになってひたすらゴールを目指し,そうでない奴は大抵ディフェンダーかゴールキーパーに回されるに決まっていたのだ。
僕はその日も,ボールの飛んで来ないゴール前に突っ立って欠伸をしたり,ディフェンダーの奴とバカ話をして時間をつぶしたりしていた。
と,その時だ。
不意にロングボールがゴール前に飛んできた。
相手チームのフォワードの奴が突っ込んで来る。
予想しない事態に,こちらのディフェンダーは狼狽した。
何とかボールを奪ってクリアを試みようとしたが,彼はそのボールを見事に空振りした。
僕は相手フォワードと1対1になった。
彼は至近距離から強烈なシュートを放った。
僕は無我夢中で右へ跳んだ。
痛みにも似た,確かな感触があった。
ボールはペナルティエリア内を転々とした。
シュートを打った奴は,信じられない,という表情で僕を見た。
しかし,僕の弾いたボールの所には既に別の相手フォワードが詰めていた。
再び至近距離からグラウンダーのシュートが放たれた。
僕は滑り込むような格好で,今度は左に跳ぶ。
指先に感触が走る。
再び僕はシュートを防いだ。
しかしそこにも相手フォワードが,まるで僕を包囲するように待ち構えている。
彼は更にシュートを放った。
僕は真上に跳んだ。
そのボールは僕の手に触れることなく,ゴールバーを大きく越えて体育館の前を転々と転がって行った。
試合は結局,双方無得点で終わった。
体育の時間が終わってから着替えをしている僕に,三人のクラスメートが集まってきた。
僕にシュートを浴びせた,あの三人だった。
やるじゃないか,お前。
やられたよ。
凄いよお前は。才能あんじゃない?
彼らは口々にそう言い,笑って僕の肩を叩いた。
その日の掃除当番だった僕は,掃除を終えたことを担任の先生に報告しに職員室に行った。
担任は掃除の仕上りを確認すると,話があるんだがいいか,と僕に聞いた。
僕はそれに従った。
バレー部に入らないか。
彼は出し抜けにそう切り出した。
僕の通っていた小学校は,スポーツと言えばバレー,バレーと言えばスポーツ,というくらいバレーボールの盛んな学校だった。
バレーボールの県大会で毎年のようにベスト4以上には入り,3年に一度は全国大会に出場し,出れば必ず全国制覇を果たしていた。
そして当時の僕の担任は,そのバレー部の4年生チームの監督だった。
今日の体育の時のお前の名キーパーぶりは見せてもらったよ。あの反射神経はバレーでも絶対ものになると思う。
お前の気持ち次第だが,だまされたと思って挑戦してみないか。やめるのはいつでも構わないから。
僕はまるで催眠術にかかったかのような目でその言葉を聞いていた。
二年後に,あの日本一を賭けた夢舞台に自分が立てるかも知れない。
僕は殆ど考えなしで,入部を決めた。まだ4年生ということもあり,練習は週3回,3時間程度で,練習自体もそれほど厳しいものではなかった。
しかし,1ヶ月もやってみると,周りの人間と自分とのレベルの差は残酷なまでに僕を打ちのめす。
まず僕はサーブが苦手だった。
どんなに力いっぱいボールをひっぱたいても,ボールはネットを越えてくれない。
困ったものだ。
そんな先生の視線が僕を刺す。
どんなに他のことに長けていても,サーブが入らなければ試合が始まらないのだ。
そんな人間が試合で使ってもらえるはずもない。
僕は練習が終わってからも,居残りでひたすらサーブの練習をしていた。
3ヶ月かかってやっと入るようになったサーブは,下から打つアンダーハンドサーブ,俗に言う「安全サーブ」だった。
次に困ったのは,スパイクだった。
僕は相手のトスに合わせてスパイクを打つことがどうしても出来なかった。
当てようと思えば触ることしか出来ないし,強く打とうとすれば空振りしてしまう。
次第に僕はこれらの練習から遠ざけられるようになった。
こういう練習の指導は,まず背の高くてセンスのある連中から優先して行われた。
4年生とはいえ,将来全国制覇を目指す礎となる連中を育てなければならないのだから,ある意味非情とはいえ,それは当然の論理だった。
タッパもセンスもない僕がそこから弾き出されたのは当然のことだった。
秋になると,チームは二つに分けられた。
上手い奴や将来の見込みのある奴で構成されるAチームと,それ以外の奴で構成されるBチーム。
僕は当然Bチームで,しかも補欠だった。
毎回練習の最後にゲームが行われた。
僕はその多くを,ただ見学の時間として過ごしていた。
帰り道,僕はやり場のない悔しさ,空しさ,悲しさにうつむき,鼻の頭をつんと熱くしながら,感情を抑えて歩いていた。
僕は5年生になると,中学受験対策の塾通いを理由にバレー部を辞めた。
覚えたのは,安全サーブと,アンダー・オーバーのレシーブだけだった。二年後。
僕は私立の名門進学校と言われる中学に進学した。
しかし,体も小さく気の弱かった僕は,そこではいわゆる「いじめられっ子」だった。
言葉によるイジメ。暴力。シカト。
ありとあらゆる体系の迫害が,あくまで陰湿に,そして狡猾に僕に与えられた。
そんな折だった。
期末テストが終わった後,その学校の恒例行事であるクラスマッチが行われることになった。
僕はその選手の一人に名を連ねた。いや,連ねられた。
僕を推薦した奴は,最も手ひどく僕をいじめていた奴だった。
運動神経の鈍い僕を出場させて恥をかかせ,それをネタにまたいじめるつもりだったのだろう。
そのクラスマッチの種目は,バレーボールだった。
奴の思惑は見事に外れた。
僕は相手チームの選手の打つスパイクを拾って拾って拾いまくった。
サーブでは,威力はないが確実性があり,奇妙な変化をする「安全サーブ」で相手を翻弄した。
僅か1年間とはいえ,名門と言われる小学校で基礎を叩きこんだ僕にとって,進学校の,僕と運動神経では大差ないぼっちゃんどもは相手ではなかった。
僕らのチームは,そのクラスマッチで優勝した。
担任の先生は泣いていた。
それは決して,自分の受け持ちのクラスのチームが優勝したからだけではなかった。
先生は,僕がどういう立場に置かれていたかを知っていたのだ。
それきり,イジメはぴたりと止んだ―その日の日本の相手は,バレーボールでは後進国ながら,日本をライバルとして着実に力をつけ,今や日本と比肩する力をつけた韓国だった。
戦前の予想以上に,日本は序盤から苦戦を強いられる。
両者に力の差は感じられなかった。
しかし,それ以外の何かのファクターが,徐々に両者の点差を広げていった。
韓国が2セットを連取し,3セット目も韓国が4点のリードを奪ったまま終盤に入っていた。
ラリーポイント制で終盤の4点差は殆ど致命傷に近い差だった。
僕の目は一人の男に釘付けになっていた。
サーブとレシーブしか許されないその男に。
その男の遥か頭上を白い球体が飛んで行く。
僕は思わず知らず叫んでいた。
「跳べ,対馬!お前が落とさなきゃ,負けないんだ!!」★あとがき
バレーボールの話である。ちょうどワールドカップをやっていたこともあり,それを参考に書いてみました。あの演出の仕方そのものにはもちろん賛成は出来ませんが,バレーを見る,ということ自体が私には有意義なものでした。ちなみにこの話は私の経験が多分に入ってまして,本当は山際淳司氏のようなクールな作品を書きたかったのですが,どうしても熱くなってしまいましたね。失礼失礼。