#18 マインド・トリップ

 僕はその日,赤字ローカル線の駅のホームに降り立っていた。
 その路線は,かつては交通の要衝として重要な地位を占めていた駅だったが,モータリゼーションの発達に伴って高速バスにその座を取って変わられ,今ではさびれ果てた,単なる田舎の一駅に成り下がっていた。
 その駅は無人駅だったので,容易に改札をくぐることができた。
 その駅の名物に,蕎麦があった。
 僕は幼い頃,その路線がまだ活気を呈していた頃に,よくホームの売り子さんが売りに来ていたその蕎麦を両親に買ってもらって食べていた。
 僕は舌が肥えているわけではなかったし,ましてや当時はまだ物心もついているかどうかすら怪しい年頃だったから,当然その蕎麦の味なんて覚えてはいないはずだった。しかし,今の僕には,その,「覚えているはずもない味」が奇妙に懐かしくて,ものすごく美味い食い物であるに違いないという確信を持っていた。
 まして,それがもう既に手に入らなくなってしまった味であることをこの目で確認してしまっている以上,その思いこみはもう直す術さえなくなってしまっていたのだ。そう,駅の無人化に伴って,その駅の名物であったはずの蕎麦もあまりにもあっけなく姿を消してしまい,未来永劫その姿を復刻させることはなくなってしまっていたのだ。噂には聞いてはいたが,微かな望みを持って,その蕎麦一杯を食うだけのために6時間もかけてこの駅にやって来た僕は,この事実に失望した。
 駅舎から外に出た。
 「高速バスの切符はJR駅でお求め下さい!」
 僕はその看板を見て苦笑を禁じえなかった。その看板は明らかに,JRの本分である列車の,ライバルである高速バスに対する敗北宣言に他ならなかったからだ。
 次の汽車が出るまでにまだ40分あった。
 蕎麦を食うにはちょうどいい空き時間だったが,何もしないとなるとこれほど退屈な時間はない。
 無論この近辺に娯楽施設などあろう筈がない。
 あるとすればスキー場だが,ここから車で40分かかるそうだ。大体今は雪がない。
 仕方がないので,僕は駅の周りをブラブラ散歩することにした。
 駅を出て右に曲がると,国道と思しき一車線の道路に出る。
 平日の昼間だというのに,意外なほど車の通りが多かった。
 仕事上の必要性からこんな田舎に来る必要性があるとは考えられなかった。
 一体何の用があって走っているのか。
 みんながみんな僕のような変わり者の思考を持っている訳でもないだろう。
 そんな事を考えながら川沿いの道を歩いてみた。
 川のせせらぎは耳に心地よい。
 道路沿いに並ぶ古びた商店街が何となしに懐かしさを感じさせる。
 ただ,清涼飲料の自動販売機と並んでビニ本の自動販売機が立っているのには閉口した。
 高齢者人口の比率が県内で最も高そうなこの町で,果たしてこの自販機に需要はあるのだろうか。
 それともこんなところの娯楽といえば,やはりこういうものしかないのだろうか。 
 彼らにとっては,このたった一台の,申し訳なさそうに突っ立っている機械が,この町の住人にとっての歌舞伎町であり,十三であり,すすきのであり,中洲なのだろうか。
 駅を出てから15分経った。
 そろそろ戻っておかないと,次の汽車に間に合わなくなる危険がある。
 僕は踵を返した。
 ジャスト10分前に駅に帰りついた。
 10分ならただボーっとしていても潰せない時間ではない。
 駅舎の中を何気なく見渡してみた。
 一冊のノートが置いてあった。
 表紙にはワープロ打ちと思しき字で,「雑記帳」と書いてあった。
 僕は何気なくそれを開いた。
「彼と二人で来てまーす!ラブラブ」
 多くはこのような,クソでも食らえと言いたくなるような下らない文章で埋められていた。そしてその横に矢印を引張って,「死ねバカ」などと他の奴が書いている。どっちにしたって同類だ。
 しかし,きちんとしたことを―この駅に対する郷愁とか感慨とか,そういったことを書いている者もいる。そういうのは筆跡を見れば大体わかるから,僕はそういうのを選んで拾い読みをしてみた。
「駅の衰退を見るにつけ,時代の流れとは言いながら何とも言えぬ寂寥感に襲われます」
「名物の駅そばはどこに行ったのかなあ?淋しいです」
「モータリゼーションの発達とはいえ,このような旅情ある駅はいつまでも残っていてもらいたいと思います。頑張れ!」
「9時間かけてここまで来ました。今日はここに泊るのかなあ?行ける所までは行ってみようと思うけれど…もう汽車がない」
「青春18きっぷで来たぜ!もうすぐ全都道府県制覇だ!行くぞ!!」
 僕はこんな文章を見ながら,何とも言えない気分に襲われた。
 いいなあ。
 何故か判らないが,不意にそう思った。
 僕はそのノートに短い文章を記した。
 内容は,恥ずかしいので勘弁していただきたい。
 書き終えるのを待っていたように,ぼくの次に乗る列車がやって来た。
 列車は,高校生で多くが埋められていた。
 まだ学校が終わるには少々早い時刻だったが,時期的なことや,時折聞こえて来る彼らの話から考えると,期末テストの時期だったらしい。
 僕の向かいの席に座っている一団は3年生であるらしく,大学受験の話だの就職の話だの,将来の話を交えてお喋りをしていた。
 あーあ,こんな成績じゃ,国公立行けねえよ。
 近くの県立だったら行けるんじゃないのか?
 嫌だよ,あんな田舎。俺は都会で一人暮ししたいの。こんな田舎でくすぶってられっかよ。東京だよ,東京。あーあ,東京行きてえなあ。
 東京なんて行ったら金かかってしょうがねえじゃねえか。親不孝な奴だな。
 だからせめて国公立行こうっていってるんじゃん。何だよ,お前なんてちょっと親の後継ぐって言って親孝行ぶりやがってよお。
 何言ってんだよ,そんなんじゃねえよ。でも俺は長男だし,親父の手伝いとかしててそれが性に合ってるかな,って思っただけだよ。
 でもよく我慢できるよなあ,こんな田舎に骨を埋めるんだぜ,こんな何もない所で。こんな文明から取り残されたような陸の孤島で。
 いいんじゃねえの,東京だけが日本じゃないし。車で2時間もあればH市まで行けるんだから。
 だめだぜ,そんな視界の狭いこっちゃ。やっぱせっかく生まれてきたんだから,いろんな世界を見ておかなきゃだめだってことよ。俺は東京の大学に行って,一流の商社に入社して,ビジネスマンとして世界を飛び回るんだ。それが俺の夢だ。格好いいと思わないか?
 まあお前がそう思うんなら俺は別に反対しないけどさ(笑)。
 目を輝かせながら熱弁を振るう左の男に,まるで悟りでも開いたかのように落ち着き払った様子で応える右の男。
 僕は微かな笑みを浮かべた。
 大人が若者に向けるような好意ある笑みじゃなかった。
 お前もやがて判るだろうさ。
 そう,あと10年もしないうちに。

 翌日。
 僕は束の間の休暇を終え,またいつものように中央特快の満員電車に揺られて会社へと向かっていた。
 僕はいつもの休日明けよりも疲れを感じながら,両手でつり革に,ぶら下がるようにつかまっていた。
 隣に,僕と同じ格好でつり革にぶら下がっている奴がいた。
 それは―紛れもなく,前日汽車の中で,この街に賭ける熱い思いを語っていた,あの男だった。心なしか痩せたように見えたが,間違いなかった。
 まさか。
 他人の空似だよ。
 僕は車窓に再び目をやった。
 電車は新宿に近づきつつあった。
 いつもと同じコンクリート・ジャングルが,ひたすらに流れていた。
 こんな街に憧れを抱く奴なんて,バカだ。
 僕は心底そう思った。

 3ヶ月後。
 僕は再び休暇を利用して,あの田舎町のローカル線に乗った。
 向かいには―再びあの高校生二人組が座っていた。
 この列車に揺られるのも,今日限りだな。せいせいするぜ。
 …
 まあ見てなって。東京に行って垢抜けて,将来サクセスしていい女連れて帰って来っからよ。あ,帰って来ねえかも知れねえなあ(笑)。
 …
 …

 僕はその日,雑記帳に二度目の記帳をした。
 みんな,大バカ野郎だ。
 それだけだった。
 僕の言いたいことは,それだけだった…

★あとがき
 これはエッセイにも書いたことがありますが,神経を癒すための療養のために実家に帰った時に田舎の鈍行列車に揺られながら感じたこと,考えたことを小説にしたものです。モデルとなった駅はありますが,もちろんぼくの書いたそっくりそのままな訳ではありません。とはいえ,みんなが都会都会と憧れて出ていき,結局そのコンクリートジャングルの,一見華やかながら実は無味乾燥とした生活に疲れた,ということは決して小説だけじゃなく,よくあることじゃないかとぼくは思うんですがね。

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