#19 蝿

 土曜の昼下がりのことだった。
 貴重な休みを何に費やせばいいかも分からず,俺は公園のベンチで文庫本を広げてとりあえず当座をしのいでいた。
 ふと,目の前をちらちらする何かに気付いた。
 小蝿だった。
 五月の陽気に誘われたらしき珍客は,何故か俺にまとわり付いて離れようとしない。
 気にせず活字を追ってみたが,絶えず視界でちらちらされるためそれも難しくなっていた。
 手で幾ら追い払おうとしても効果がない。
 元来神経質な性質もあり,俺の気持ちは徐々に不快に囚われつつあった。
 一体何だって,「こいつ」はここまで俺にまとわりつくというのだ?
 三基あるここのベンチには,俺を含めて五人の人間が座っている。その中から,何だってこいつは,わざわざ俺を選んで付きまとっているというのだ?
 他人の目に映る俺の姿―ベンチに同じように腰掛けている五人の中で,選ばれて一人だけ顔に小蝿をたからせている自分の姿を想像して,俺は心の底から惨めな気分になった。
 この蝿野郎の目に映る俺の姿―それはきっと奴にとっては魅力のある物体,おいしい食べ物…具体的に言えば,巨大な糞だ。少なくとも奴にとっては,ここにいる五人の中で俺は誰よりも「糞」なのだ。
 冗談じゃない。
 俺は人間の左手でもって,この不愉快な生物を捕らえようと試みた。
 数度握っては広げ,握っては広げしているうち,ついに掌中にそいつを捕らえた。
 ざまあみろ。
 心の中で呟いた。
 何となく,無理をしている気がした。
 俺を侮辱したから,罰が当たったのだ。
 何となく,言い訳をしている気がした。
 俺の横には,飲みかけのミルクコーヒーの缶があった。
 口元から漂う牛乳の匂いが,あいつを引き寄せたのだと知った。
 俺は缶の中身を丁寧に下水の溝に流してしまってから,彼の死骸を代わりに入れて,そいつを無雑作にゴミ籠の中に投げ込んで帰った。

★あとがき
 昔「鳩よ!」という雑誌で「千字小説募集」とかいうのをやっていて,大学時代に友達と頭をひねらせたもののその時はどうしてもできず(千字って意外に短いんですよ),それ以来忘れていたのだが,社会人になってからふと思いついて書いてみたのがこの「千字小説」。残念ながらその時にはその企画は終わってしまっていたので応募できなかったが,もし応募してたらどうなってたんでしょうね。ボロクソこき下ろされてボツだったんでしょうね(笑)。

 

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