#23 ドール
街を歩いていた。
暑くなってきたのでそろそろクーラーが欲しくなって,1円でも安い電気屋を求めて歩き回っていた。
そんな時期だったから尚更額から汗が噴き出してきて,どこかで一息つきたい気分になっていた。
思えば今日は久方ぶりの休みだった。仕事そのものにも行き詰まっていたし,上司にがみがみ言われることもあって,どうやら心身が疲れ,弱っていたのかもしれない。水準点。
建設省が立てたその標柱がふと目に止まった。
それが何を意味しているのかぼくは知らなかったけれど,それを見ながらぼくは,壮大な地図の上に立っている自分を夢想した。
地図が好きだった。
子供の頃,机の上に地図を広げて,その紙切れの上を指でなぞりながら,あたかも自分がその見知らぬ土地にいるような空想に浸っていたものだった。少し風変わりな子供だったのかもしれない。
地図が好きで,将来街を作るのが夢だった自分が,今は自分の会社の製品を一つでも多く売るために日夜苦闘している。毎日顧客に叱られ,上司に怒鳴られ,出来の悪い報告書を作るために毎日遅くまでパソコンに向かっている―「水準点」の向こうに広場があった。
子供達が野球をしていた。
プラスティックのバットと,テニスボールだ。
一人の子供がふわりとしたボールを放ってやり,相手の子が打つ。
なかなかバットに当たらなくて,バッターの子はそのたびごとに転々とするボールを拾いに行く。
5球に1球くらい鈍い音がして,バットがボールを捕らえる。
そうすると今度はピッチャーの子がそれを追って走るのだ。
なんだい,へなちょこピッチャー。
さっきまで全然打てなかったバッターの子が,得意そうに友の後姿に叫ぶ。
ぼくは思わず,その姿に気を取られる。
ぼくも小学校の低学年くらいまでは,同じようなことをしていた。
何人かの子供達が集まって,同じようにプラスティックバットでテニスボールを打つ。
ぼくの家の周りには広場というものがなくて,団地に囲まれた駐車場がスタジアムだった。
三方を自転車置き場と建物に囲まれて,もう一方には金網を隔てて草むらがある。
そこには丈が高い,しかも触ると手が切れてしまうような,まるで刃のような草が茫々と生え,一度打ち込んでしまうと探すのは至難の業だ。
みんなはそこにだけはファールを打ち込むまいと思っていながら,それでも何回か打ち込んでしまい,代わりのボールなんてなかったからみんな危険を侵してボールを捜すことになる。結局ボールは見つからず,顔だの手だのを傷だらけにして収穫なしで世にも情けない顔をして出てくるのが常だった。それには,ガキ大将も,ぼくのようなもやしっ子にも違いは無かった。
ふと,あの中に入りたい衝動に駆られた。
でも,ぼくはもういい年をした大人である。あの日のように,「入〜れ〜て〜」と気軽に言うことなど出来る筈も無い。それどころか,ここでこうやって眺めていることさえそう長くは出来ないだろう。あの子の親が見たら,怪しまれて警察に通報でもされかねない。
ぼくは後ろ髪を引かれる思いで,その場を立ち去ることにした。
もう子供に戻れない自分が,何とも恨めしくなった。
うつむきかけたその時,ぼくは面白いものを見つけた。
人形だった。
しかも,おもちゃ屋で売っているようなチャチなものじゃない。まるで本物の女の子のようで,放っておくと喋ったり歩いていったりしてしまいそうな,そんな人形。
そして…その人形のリアルな表情は,懐かしくて胸に詰まる,あの時の顔だった。
同じクラスにいた,大好きだったクラスメートの女の子。
あの時恋なんて言葉さえ知らなかったぼくは,その子を何となく意識して,そして臆面もなく話しかけた。彼女もそんなことは知らなかったから,優しく微笑みながら答えてくれた。それが嬉しくて,また話しかけた。そうしているうち,ぼくらは仲良くなった。
しかし,小学生の時,男友達をほったらかして女の子と遊ぶことは,何より攻撃の対象になった。「吉田は沢田が好きなんだろう,ヒューヒュー」なあんてからかわれて,それを何となく気恥ずかしく思い,そのうちぼくは彼女に話しかけることができなくなって,その後クラスが変わって離れてしまった。
その人形は,不気味なほどにあの時の子に似ていたのだ。
ぼくは電光石火の早業で,その人形を拾い上げて懐に隠して,無我夢中で家に持って帰った。その日から,ぼくの人に言えない秘密の日々が始まった。
朝起きると,まず「彼女」に挨拶をする。彼女と差し向かいで朝食を取って,歯を磨いて着替えて出勤する。ぼくは彼女に優しくキスをして,そして囁きかける。
どこにも行くなよ,と。それからの毎日は,ぼくにとっては夢のような幸せな日々だった。
彼女の顔を眺めるたびに,ぼくはあの無邪気な毎日に浸ることが出来たし,それは同時に大人としての辛いことを忘れることでもあったのだ。
彼女はぼくにとって,気持ちを暖かくしてくれる恋人であり,癒してくれる母親であり,世話を焼かせてくれる妹だった。
ただ,一つだけ気に食わないことがあった。
当たり前のことかもしれないが,彼女はあの時のあの子と違って,決してぼくに笑顔を見せてはくれなかったのだ。
しかし,それさえもこのまま暮らしていれば,可能であるような気がしていたのだ。
あの時のぼくは…いつものようにぼくは,布団を敷いて,彼女を横において,抱き枕のように彼女を抱きしめて眠ろうとしていた。
不意にぼくは,激しい性欲に囚われた。
高ぶる心臓に抗えないぼくは,そっと彼女の,一着しかない古ぼけたスカートを脱がせ,次いで下着も脱がせ,両股を広げようとした。
一瞬だけ,その間が覗いた。
あまりにリアルなその姿に,ぼくは肝を潰して何もできずに元に戻した。
彼女に服を着せて,ぼくは布団をかぶって眠ろうとした。
その夜は,眠れなかった。翌日,一睡もしないで出勤して夜遅くまで仕事をして疲れ果てて帰ってきたぼくを,彼女は初めて笑顔で迎えた。
でもその笑顔はどことなくよそよそしくて,今しがた作ったそれのように思えた。
それはぼくにとって慰めにはならなかったが,ぼくは寝床で隣に彼女がいてくれればそれでよかった。
おやすみ。
ぼくはそう言って彼女にキスをする。
彼女はふとうつむいたように見えた。
電気を消して,二人は眠る。
1週間の懲役のような勤めを終えて,晴れて休みが訪れた。
今日と明日は何の気兼ねも無く,彼女と二人で過ごせるのだ。
それが嬉しくて,ぼくは一日中家にいて,彼女を日がな眺めて過ごしていた。
不思議に飽きない。
ぼくはいつしか,彼女を愛していた。
それは人間として誤った道であることは間違いなかった。
しかし,いまのぼくにとって,人間としての道がどうのこうのなんて関係なかった。
こんな狂ったふざけた世の中で,俺に人の道がどうのと説いて聞かせる資格のある奴がどこの世界にいるというのだ。
ぼくはもはや,彼女がいればなにもいらなかったのだ。
彼女が誰かに奪われ,彼女と別れなければならない日が来るなんて,想像できなかった。翌日の日曜日。
不意に荒いノックがぼくの部屋を揺らした。
ドアを開けると,怖い顔をした男が,黒い手帳をぼくに示し,言った。
「警察です。吉田琢哉さんですね,未成年者略取誘拐の現行犯で,貴方を逮捕します」
その時,彼女は―その可憐な人形は,ぼくに怯えるような眼差しをくれた後,その怖い顔の男の後ろに隠れるようにしていたぼくの知らない女性の元に駆け寄った。そして言った。
お母さん―ぼくは今,冷たい取調室で,怖い顔の男に怒鳴られながら,今までのことを話している。
ぼくは幸せだったし,彼女だってきっと幸せなはずだった。
いや,少なくとも,彼女が「自分を不幸だ」なんて思えるはずがないはずだった。
だって彼女は人形だったのだから。
こんな日は,彼女にそばにいて欲しいと思った。
けれど今は,彼女がいない。
それが何より哀しかった。
この先に待っているであろう,他のどんな仕打ちよりも。★あとがき
以前疲れ切った身体で街をふらふら歩いていた時の経験と自分の子供時代の思い出と,そして最近問題になった,少女に対する誘拐事件をリンクさせて書いたものです(←そんなもんリンクさすなっちゅうねん)。こういうことをしでかす人間の心理状態に少しでも迫ろうと試みて書いてみたのですが,いかがでしょうか。心理を完全な形で描写することは困難であろうとは思いますが,小説作品としてはぼくは結構よく出来た方に入るとは思っているのですが。