#25 女神が消えた日〜恋愛の傾向と対策〜

 「貴方の全てが分かったから」
 それを理由にして,彼女は私の下を去った。
 そう簡単に一人の人間の全てを知ることなどできないはずなのに。
 しかし,彼女が私という人間に対し,これまでの交際を通じて一定の評価を下し,そして失格の烙印を押したことは厳然たる事実なのだろう。そして彼女は,私よりも自分に相応しい男性が存在すると断定したからこそ,私との別離を選択したのだろう。

 そもそも,ある人一人だけにとっての最高の人間などというものが存在するなどということなど有り得る筈がない。そういう人の存在を肯定するという事は,ある意味自分で自分を納得させるための言い訳に過ぎないのだろう。人がいたとする。その人よりも優しくて金持ちで頭が良くて高潔で,なおかつ顔の造作が整っている人間が広い世界には必ず存在する。少なくとも広い世界にそういう人間が一人くらいは存在するだろう,と考えることは容易く出来る。例えば一生のパートナーを決める時,たとえどんなに相手のことを好いていたとしても,この人よりももっと自分を幸福にしてくれる人間が他に一人や二人いるかもしれない,と考えるのはむしろ自然なことと言えるだろう。ここで相手を一人に決めてしまうのは妥協になってしまうのではないか,そこで止まってしまったらその時点でもう終わりだが,そこで止まらないで一人でも多くの人との出会いを求めることで,もう少し,もう少しでもいい人を。僅かでも上を望むのは人間として自然な感情なのかもしれない。それが女だろうが男だろうが。

 その事実に気付いた彼女の方がむしろ賢明な女であり,それに気付かずこうして一人取り残される形となった私はおめおめと醜い感情をさらけ出したまま死んだ子の年でも数えるかのように彼女との想い出を反芻しているのか。私は彼女の所で止まってしまってもいいと思っていた。いや,むしろそれを自ら進んで望んでいた節さえある。私はこの女性こそが自分にとって最高の女性であり,それ以上の人にはこの先到底出会えないものと思っていた。よし出会えたとして,つい今しがたまで私が件の彼女との間に築いていたレベルまで関係を高めていけるとは到底思えなかった。その点において私は大変にペシミストであり,彼女は相当程度オプティミストであったのだろう。私は現実に生きる者であり,彼女は夢に生きる者であったのやも知れぬ。私は彼女を女神と慕い,彼女より上の女性を追い求めようとは夢にも考えはしなかったのだ。彼女は貪欲にさらにレベルの高いパートナーを求め,結果的に私の下を去った。人はどう思うだろう。私の思いを称え,彼女の冷徹に眉をひそめるもの有り哉。彼女の決断を称え,私の固執を嘲(わら)う者有り哉。人の評価などはしかし,今の私にはどうでも良かった。可能なら彼女に私の下に戻ってきて欲しかった。しかしそれがどう転んでも叶わぬ今となれば,そのことを態度に億尾にでも示すことは却ってますます自らを堕(お)とすことになりかねなかった。今まで作ってきたものを全て壊して,全てをゼロからやり直すというのは大変なエネルギーを要する。しかしもう彼女と必死で築いてきたものはもう修復が利かなくなって,壊す以外に手がなくなっていた。そのまま残していれば邪魔になるばかりでなく,腐って虫が湧いて自らに悪い影響のみを与え続けることになることを,私自身は既に承知していた。私も遅まきながら,彼女と同じ冒険を開始しなければならなかったのだ。

 しかしながら,その冒険の中途において,私は非常にしばしば前の女性の幻影に取り憑かれることになった。彼女に似た顔,似た声,果ては彼女と同じ髪型の後姿や彼女と同じ香水の匂いにさえ心を乱される始末である。思えば,小学校時代にクラスメイトに淡い初恋をしてからというもの,私が好意を抱く女性の系譜は,必ずどこかで繋がっていた。その目,その髪,その唇,その体型。どこかに共通点があって,私は決まってそれに惹かれてその女性を好きになっていくのだ。そして今,私が好きになる女性の傾向,条件はと言うと,すぐ前の女性と一つでも多くの共通点を持つ女性に他ならなかった。私は普段の生活の中で,幾度か新しい女性に目を惹かれたことがあったが,すぐさまその女性が,彼女と多くの共通点を持っているという事実を痛感し,その度自分の諦めの悪さに呆れ果てる日々だった。その幻影を消し去ることはしかしながら,かなり時間と労力を要することであり,俄かには困難なことであった。私は自らその幻影を引きずりながら冒険を続けていかなければならぬ身の上であることを覚悟しなければならなかった。

 彼女は冒険に挫折した。彼女は自らの死によって,永遠にその成果を誇ることが出来なくなってしまったのだ。交通事故だった。彼女が最高の相手に限りなく近いと見込んだ男は,高級外車の助手席に彼女を乗せたまま,スピードの出し過ぎでカーブを曲がり損ね,民家のブロック塀に激突したのだ。彼とともに,彼女は死んだ。彼女はその時何を思っただろうか。自らの判断の失敗を悔いただろうか。己の運命の皮肉を呪ったろうか。心の片隅にでも私のことを思い起こしたろうか。少なくとも私は,こと安全運転に関して言えば,世界の誰にも負けぬ自信を持っていたのだから。私は彼女の葬式に顔だけを出して来たが,不思議と涙は出なかった。残酷なようだが,私のための女神たり得なくなった彼女は,その時から既に私の中では死んだも同然だったようだ。涙はその時に涸れた。

 私はしかし,その時から明らかに焦りを覚えるようになった。妥協でも何でも構わないから,早く幸福と呼べる状況に自分を放り込んでしまいたくなった。仮にそれが蜃気楼であったとしても構わない。限り有る人生の中で,私が死ぬまでの仮初の生を彩り,ばれないように私を騙してくれればそれで良かった。最高の女性などというものはもはや求めはしなかった。
 結局こうして人間というものはパートナーを得ていくものなのかもしれない。私はその後すぐ一人の女性と出逢い,交際開始から時を経ずして速攻で結婚を決めてしまった。私の妻となった女性は,前の女性とは似ても似つかない容姿をしていたし,取るべき見所がさしてあるわけでもない,シビアな見方をするなら何の変哲もないただの女だった。しかし私にとってただ一つ重要だったことは,彼女が私でいいと言ってくれたことだった。私が妥協したのと同様に,彼女もまた妥協したのだ。お互い冒険に疲れ,身の落とし所を探していた男と女が今日もまたくっついて家族を築いていくのだ。身もふたもないようだが,そうやって夢も希望も持たないで一緒になった二人が,案外悪くない夫婦になって年を取っていくことを,私は知ることになった。

★あとがき
 ぼくなりの「恋愛論」に似た小説を一度書いてみたいと思っていました。ここでは「恋愛」から「結婚」にいたるまでの話になっていますが,「結婚」に関して言えばぼくはこれほど冷めた考え方を持っている訳ではないです(笑)。まあでも,相当程度現実的な真実に近いオチなのかなあ,とは思いましたけどね。ちなみに,やたら持って回った言い方や古臭い言いまわしを使っていますが,これはわざとです。恋愛「論」を気取っているので。

 

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