#26 19歳と老刑事

 県警小河原警察署の取調室。
「おい,早いところ全部話してすっきりしたらどうなんだよ,え!?」
 若手刑事の怒声が部屋に響き渡る。そしてその声は,薄汚れた部屋の壁に共鳴して,この小さな一室では持て余すように何度も何度も残響するのだ。あたかもそこに座っている容疑者を無限に責めつづけるが如く。
「お前がアベック殺しをやったのはもう分かっているんだ,証拠も挙がっている」
 刑事は大きな眼をさらに見開いて凄んだ。
「…」
 容疑者は黙り込んだままだった。
「何とか言ったらどうなんだ」
 さらに刑事が言う。
「黙秘権…」
 容疑者は一言言った。
「てめえ!!なめてるのか!!!」
 があん。
 刑事が怒声とともに両手を机に叩きつけた。
「いい加減にしろよ…ぶっ殺すぞ…」
 刑事は容疑者の胸倉を左手で掴んで右手で拳を握った。
「刑事訴訟法第319条1項…刑法第195条1項…」
 容疑者が再び小さな声で呟いた。
 前者は脅迫による自白は証拠にならない,という規定であり,後者は警察官が職務をする際暴行した場合の刑罰を定めた「特別公務員暴行凌虐罪」の規定だった。
「ちっ」
 刑事は左手を乱暴に離した。容疑者の身体がどん,と音を立てて椅子の上に収まった。
 刑事は取調室を出た。疲れ切った表情が傍目からも分かった。
 ドアの向こうで一人の初老の男が立っていた。
「苦労しとるね」
 彼は笑った。
「笑い事じゃないっすよ,畜生,あのガキ,なめやがって」
 彼はまた笑った。
「わしがやろう。あの手は案外難しいよ。あんたじゃ荷が重かろうて」
「…すいません,花さん」
 花さんと呼ばれたその男は若手刑事の背中をぽんと叩いた。そして,取調室に消えた。

「名前は?」
 入ってまず,初老刑事が尋ねた。
「…」
「おいおい,それすら教えてくれないのかい,それじゃあわしはあんたのことを何と呼べばええかわからんじゃないか」
 初老刑事は困ったような表情で,すがるような目をして言った。
「…そうか,わしがまだ自分の名前を言うてなかったな。失礼した。わしは花村肇。59歳,巡査長。よろしく」
 容疑者はこの時初めて,話し相手―刑事の顔を見た。それまでは,顔は確かに正面を向いていたし,目も相手の方に向いてはいたが,その焦点は一点に定まらず,あたかも瞳孔が開いているかのようなぼんやりとした視線を向けているに過ぎなかったのだ。
「あんたは?」
 花村はあくまで優しげな瞳をたたえて,容疑者の目をじっと見た。
「豊田…智です。…19歳です」 
 容疑者はそう名乗ると,今度は下を向いた。

「あいつ,ゲロしたらしいじゃないですか!やりましたね,花さん」
 その日の夕方,最初に取調べをした若手刑事が花村のもとに駆け寄って言った。
「ああ」
 花村はそれだけを言ってふっと息をついた。
「どうしたんですか,花さん。自白さえさせればもう終わったようなもんじゃないですか」
 なおも声を上ずらせて言う彼を,花村はきっと睨んだ。
「何ですか」
 予期しない反応に彼は戸惑い,身をたじろがせた。
「分からんのだ」
 花村は言った。
「何がですか」
「彼が人を殺したという事実は分かった。じゃが,それ以外のことが何も判らんのよ」
「それだけで十分じゃないですか,これで証拠固めさえできれば起訴に持ち込めるんですから」
 それだけ言うと,彼は「殺人犯人」のいる取調室に飛んで行った。
 花村はまたため息をついた。

「てめえ,ついに白状しやがったらしいな。手間取らせやがって。で,凶器はどこに隠したんだ?あと,動機を喋ってもらおうかな」
「…」
 豊田はまた例の眼差しで,黙り込んでしまった。
「あのなあ,てめえはもう殺人の罪は白状したんだろうが。もうどんなに逃げても無駄なんだよ。いい加減に全部喋ってしまえや」
「…」
 黙秘,というよりは無視に近かった。刑事は逆上した。
「この野郎,俺をなめやがって…!!!」
 思わず手が出そうになる。しかし,彼はとどまった。
「まあいい,どうせ罪を認めた以上,てめえの人生はもう終わりだよ。19歳らしいな,未成年だからって甘えるんじゃねえぞ,19でも死刑になった奴だっているんだからな,そうだ,お前は死刑だ。ざまあ見やがれ」
 ひっひっひ。刑事は気味の悪い声で笑った。
 どっちが異常犯罪者か,分からないな。
 見ていた花村も,そして皮肉にも容疑者豊田も,同じことを考えていた。

 市内の住宅街の一角でアベックが惨殺される事件が起こったのは,2週間前だった。
 被害者は大学生カップルで,二人はデートを楽しんだ後,男が女を家に送る途中で,女の家から僅か10メートルのところでこの惨劇に遭った。
 凶器などの物証が全く残されておらず捜査は難航したが,女とかつて交際のあった人物で,犯行時のアリバイのなかった豊田が捜査線上に浮上し,半ば強引に逮捕したものだった。それを主張したのが件の若手刑事だった。
「アリバイがないから逮捕というのなら,あの時一人でいた世界中の人間を全員逮捕しなくちゃなりませんねえ」
 豊田は逮捕後最初の取調べでそう呟いた。
 そしてその後,完全に口を閉ざしてしまっていたのだった。
 皮肉にもこのセリフ,当時慎重な捜査を主張した花村もまた使ったものであった。

 花村の取調べが始まった翌日からのニュースで,この事件の報道が本格的に始まることになった。
 アベック惨殺事件は,19歳の少年による犯行であったこと。
 犯人は女とかつて交際のあった人物で,女からふられるという形で交際に終止符を打ったものの,まだ犯人の側には彼女に対する未練があったということ。
 犯人は女に100回以上の復縁を求める電話をかけたものの受け入れられず,後に嫌がらせ,つきまといなどのストーカー行為を繰り返していたこと。
 そして最近,女に新しい恋人が出来たことを知って二人の殺害を決意し,それを実行するに至ったこと。
 メディアはこの事件をセンセーショナルに取り上げ,被害者の家族の慟哭を大写しにし,嫉妬に狂った鬼畜の身勝手な犯行であり断じて許すべきものではない,と報じた。
 確かに事実関係だけを見れば,そうなるのかもしれない。
 しかし,それだけだろうか。
 花村は,考えていた。

「あんたは罪を認めた。しかも今の時点ではあまりにも淡々としていて,反省や謝罪の言葉もない。このままでいけば,彼の言葉じゃないが未成年でも死刑を免れる保証はない。少なくとも今の世論の多くは,あんたを生かすべからざる鬼畜と考えていて,死刑を望んでいる」
 花村は豊田に通告した。
 豊田は眉一つ動かさなかった。
「ハンムラビ法典って知ってますか」
「?…ああ,知っている。目には目を,歯には歯を…だろ?しかしそれが何だというんだ」
「あれは応報刑といって,人を殺したものには死を与えられるはずなんですよ」
「だから?」
「ボクは二人殺した。でもその結果死を与えられるものはボク一人だけだ。つまり,ボクの方が一人分得をしてるんですよ」

 一体,この19歳は「人間の生命」というものを取引の材料の一つとしか考えていないのだろうか?
 ゲームでモンスターを倒すが如く「人間の生命」を簡単に奪うことが現在の若い人に流行のメンタリティなのだろうか?
 単に「異常」ということだけで片付けてしまったら,この後永遠に,この理解しがたいメンタリティに直接触れその謎を解き明かす機会を逸してしまうのかもしれない。
 事実と論理を積み重ねていけば,一見理解不能に見えることでも必ずや解き明かすことが出来る。それが花村の刑事としてのたった一つの哲学だった。
 もうそれほど長くない刑事としての日々,せめて一つでも自分自身で納得を得てから辞めていきたい。
 ふう。
 束の間の休息,一人自室で茶を飲み,花村は畳敷きの上に身を横たえた。
 理解しがたいメンタリティ―それは一般的な視点から見れば,「精神異常」という言葉で捉えられる事が可能だった。その可能性が1%でもあれば,現在の日本の法律ではその点に最大限配慮が行われなければならない。
 豊田は精神鑑定を受けた。
 結果,異常なし。

「事実,あそこでボクが病気のフリをすることくらい簡単なことだった訳ですよ。もう一人の自分がやったとか,電波に命じられたとか言えば良かったんでしょう」
 豊田はそう言って笑った。
「でもねえ,ボクは別に病気だからやった訳じゃない。逆にここで病気にされてしまうと,ボクのコトバ,ボクの思いが単なる異常者の戯言で片付けられちゃう」
 コトバ?思い?
「ま,今は言わないですよ。追々ね」

「あの二人の男の方,あんたの親友だったらしいじゃないか」
 花村は翌日,捜査から帰ってきてから豊田に言った。
 これが核心だ,という自負。
「あれ,もうばれちゃったのか」
 豊田は笑った。
「いやいや,さすが日本の警察だ。その能力には素直に敬意を」
「茶化すんじゃない」
 花村はいつになく厳しい口調で豊田の言葉を遮った。
 豊田は首を竦めた。
「さあ,言うんだ。何故愛した女を,そして親友を,手にかけた」
 花村は厳しい口調を緩めず,初めて詰問調で豊田に言い寄った。
「…」
 ふっ。小さな吐息が部屋中に響いた。
「ボクに笑顔を見せてくれ,相手にしてくれた女はみんないい娘なんですよ」
 ?
「奴もいい奴だった。紛れもなく,ボクにとって親友だった」
 豊田は花村を正面から見た。
「ボクはねえ,人間ってのはみんないい奴だと思うんですよ」
 数刻置いた。
「…裏切らないでいる限りはね」

 豊田が殺したうちの男のほうは,中学時代からの同級生だった。そして,大学も同じ。
「あいつはねえ,ずうっと彼女出来なかったんですよ」
 豊田は吸えもしない煙草に火をつけた。
「だからねえ,いつもボクにコンパ開けっていつもねだってたんですね。だからボクは彼女,あの女のほうですね,そいつに友達を3人連れてきてもらって,4対4でコンパを開いてやった訳」
「じゃあ何で…」
「まあまあ」
 豊田はもう一本煙草に火をつけた。二本とも花村のショートホープだった。
「いや,でも分かるでしょう,ここまで言えば。分からないの?やだなあ,この先話すの」
「…」
「まあいいか。でねえ,コンパに呼んでやったのはいいんだけど,あの野郎,よりによってボクの彼女を気に入っちゃったんですよ。まあ仕方ないんだけどね。他の3人が3人だったからね。でもさあ,あいつ知ってたんですよ。ボクと彼女のことだって。それを知ってて横から手を出してくるんだから,確信犯ですよ。ボクの気持ちを知っていたらそんなこと絶対出来ないはずでしょう?」
 花村は頷いた。それは必ずしも全肯定を意味するものではなかったけれども。
「まあボクと彼女の関係もね,何か最近彼女冷たくなってたし,そろそろやばいところだったのかも知れないけどね,それを助けるどころかつけこむような真似をするような奴を友人と認めるほどボクもお人好しのバカじゃない訳でね」
「だから殺したのか?それじゃあんた…」
「いやいや,だから,まあちょっと聞いて下さいよ,まあそれだけならいいんだけどさ,その彼女の方も簡単にあいつになびいちゃってさ,簡単に股開いちゃうわけ。ボクには決してさせなかったのにね」
「やっぱり嫉妬じゃないか」
「んー,分からないかなあ。だからね,その時点でボクは人間ってのに愛想が尽きちゃった訳でね,だってそうでしょう,色欲に駆られて友人を裏切るような男や,そんな男に何を騙されたかは知らないが易々となびいちゃうような女,そんな奴らで出来ているような人間世界に住むのがつくづく嫌になっちゃってね」
 何様のつもりなんだ。花村は言いかけたがやめた。言うのなら全て聞いてからまとめて言わないと意味がなかった。
「要するにどいつもこいつも他人に対する思いやりってのが決定的に欠けていてね,自分がこうすることで相手はどんな気持ちになりますか,っていう昔小学校の道徳の授業で言われたレベルの話も分からない。そんな連中に付き合っているのがアホらしくなってね」
「じゃああんたはどうなんだ。二人を殺すことで,二人は勿論,彼らに関わる全ての人間の心を著しく傷つけたことになるんだぞ。自分だけはそういう真似をして許される特別な存在だと思い上がっている訳でもあるまい」
 その時だった。
 能面のような無表情とへらへら笑いを繰り返していた豊田の表情が明らかに変わった。
 花村から引っ手繰った3本目の煙草が,小刻みに震えている。
 止まった。
「ボクはねえ,住む所がもうなくなっちゃってたんですよ」
 その声は,微かに掠れていた。

 調べによって,彼がそこそこ裕福な家に住み,両親ともに健在で,幼い頃から平均以上の愛情でもって育てられてきたことが分かっていた。
 高校卒業後,大学入学のためにこの街に一人でやって来たために現在は一人住まいだったが,それとて一般の大学生の平均以上の暮らしをできるほどの援助を両親から得ていたし,時には帰省もしていたという。ゆえに,彼の言う「帰るところがない」が額面通り「家がない」ということを意味しないことは明らかだった。
 住む所がない。
 それを彼が実感する時。
 それを彼はこう表現した。
 繁華街のスクランブル交差点を歩いている時。
 そこはぱっと見,人で溢れかえっている。
 それはあたかも,群れを成して歩く集団のようにも見えるが,その一人一人に繋がりはない。各々が全て切り離されて歩いている。
 そしてその一人一人が,少なからぬ安っぽさと裏切りと軽蔑と自己中を引きずって歩いているのだ。そしてそれ以外に何も持ち合わせてはいない。彼らは須らくそれを自分以外の全ての人間に向ける。仮に隣に恋人がいたとして,その恋人に対してさえも。そして多くの人間は,自分がそれを向けていることを自覚することこそあれ,自分にそれが向けられていることには多くの場合気付きはしない。
 不幸にもその事実に気付いてしまった者は,人間というものに不信を抱き,人間とともに生きることを拒絶するだろう。しかし,そうなってしまった者は,この人間で溢れ返ったこの地球上,人間の群れから逃れることのできないこの社会の中でどうやって生きていけと言うのだろうか?
 彼が少しでも人間というものの存在から逃れて新鮮な息を吸おうと思ったならば,一人でも多く人間を滅していくより外に手段がない。
 それは言い訳かもしれなかった。
 本当は,単に友人に好きな女を取られた,という怨恨による犯行なのかも知れない。いや,その可能性の方が遥かに高い。人間の行動としてみれば,その方が遥かに自然だ。花村自身,そうであった方がどれだけ救われるか知れない。人間というものが僅か19年にして愛想を尽かされるような阿呆くさい存在であってたまるものか,と思う。
 しかし,豊田の言葉には,聞く方が震え上がるほどのリアルとニヒルが滲んでいた。
 もう聞きたくない。
 花村は思った。
 例えばゴキブリやネズミを追っ払う時に,彼らの神経に直接堪える超音波を出して退治する機械があるが,彼の言葉は花村にとって,聞くことに耐えられないその超音波に似ていた。
 彼は初めて,犯人と接し,その本音を聞いたことを後悔した。
 知らなければ良かったのだ,と思った。

 豊田智は刑事処分相当の判断を受けて,一般の刑事被告人と同じように裁かれることになった。
 求刑は死刑だった。
 しかし,他人の生命を奪う判断に関してじれったいほどに慎重な司法は,この男にも死を命じることはなかった。判決,無期懲役。
 死刑になれば良かったのだ。
 この事件を知るものは皆,そう思ったに違いなかった。
 実は,花村もそう思った。
 彼を最も良く知ったが故に,他の者がそう思うのとは,全く異なった理由で。

★あとがき
 読めば分かると思いますが,最近の少年犯罪を見ながら,ちょっとひねくれた観点から描いてみた小説です。ぼくが人間社会の中で「孤独」を感じた時,その感性を手がかりにして人間が人間に「絶望」する瞬間,そういったものを表現したかったのです。それは本文にも書いた通り,元を正せば単なる嫉妬だの何だのという気持ちを,カッコいい言葉を使ってごまかした逃げ口上に過ぎないのかも知れませんが。

 

バックナンバーへ