#27 余所者(よそもの)
久しぶりに同期の友人に会って,一緒に酒を飲んだ。
毎日のように居酒屋をはしごして回ったこの街で,毎日のように一緒に連れだって飲みに行った奴らと。そうそう,入社以来ずっと憧れていたあの女性もそこにはいた。主催した友人の一人が,気を利かせたつもりで誘ったのだろう。
ほぼ滞りなく宴は終わった。
そしてぼくは彼らと別れ,ビジネスホテルの乱立する駅前に足を向かった。
何故かあの日のように気分良く寝床に転がることが出来ない。
ぼくは何か,心にもやもやしたものを抱えていたのだ。
何故だろうか?
憧れていたあの女性(ひと)と,ろくすっぽ話も出来ないで別れたからか?
いや,そんな単純なものではないだろう。
大体それなら,今までだってずっと同じだったじゃないか。
今日に限ってぼくの心に残る,何となく何かを残しているような,そんな気持ち。ぼくは入社4年目だった。
ぼくの会社は,K市を中心に多角的に事業を展開しているグループ企業体である。
事務所は殆どがK市内に集まっていて,あとは県内のいくつかの都市に散らばっている程度。良く言えば地域密着,悪く言えばローカル,そんな会社だった。
よって,多くの社員はK市内に勤務していて,集まろうと思えばいつでも集まれる環境だった。
会社では,まず入社したルーキーのほぼ全員をK市の本社勤務とし,大体入社三年をメドにして転勤させる。それは,長いこと同じ環境にいることで生じる澱みを防ぎ,またいろんな部署を経験させることでオールラウンドな能力を若手に身につけさせよう,という意図からであるらしい。
ぼくは同期の仲間と共に本社での3年を勤め終え,初めての転勤を経験した。
ぼくが赴任することになったのは,従業員が6人しかいない,山間部の小都市にある小さな小さな事務所だった。
他の同期は皆,K市内かその近郊への転勤で,引越しの必要もないくらいの移動距離だったのだが,ぼくの新しい勤め先は,K市からだとJRの急行で2時間かかるR市にあった。
本社での仕事に忙殺されていた身にとって,R市でののんびりとした暮らしはある意味憧れでもあった。それほど残業もなく,6時半か7時にはアパートに帰って,ナイターを見ながらうでうでとビールを飲むのは,この上ない至高だと思った。
しかし,少々退屈していることも事実だった。
職場の仲間は皆気のいい人達ばかりだったが,いかんせんぼくの気の置けない遊び相手となるには年をとりすぎていた。何せ,ぼくの次に若い人がもう40を越えているのだから。
ここにきてから3ヶ月も経ったある日,いつものように寝っ転がってスポーツ新聞を読みながらケツを掻いていると,携帯電話の呼び出しが鳴った。
「飲みに来たまえ。金曜日だ」
本社時代,嫌になるほど飲みに誘われた友人の,あの特徴ある間延びした声だった。
「長崎さんもきますよう,うふふっ」
長崎さんというのが,ぼくの憧れていた例の女性の名前だった。彼は,いや,同期の友人の多くは,ぼくの好きな女性の名を知っていたのである。
「お前なあ,俺はそっちに行くのに2時間かかるんだぞ。大体飲んだ後帰れない」
「大丈夫大丈夫,7時半には来れるではないか。どうせそこにいたってやることがなかろう。是非来たまえ。こっちに宿を取れば問題はない」
一人で合点して決めてしまっている。ここまで言われて断るほどぼくは不人情な人間ではないつもりである。それにもはや滅多に会う機会さえなくしてしまった友人たちと久々に話もしたい。毎日変わり映えのしない今の暮らしも退屈だ。それに…あまり認めたくないが,彼女―長崎さんのことを未だに忘れられないで未練を残していることも確かだった。
「わかった」
ぼくは表面上は友人の説得に折れるような形で,久しぶりにK市に飲みに行くことにした。「ちゅうもーく!!お待たせしましたあ,杉山君が,はるばるR市から,駆けつけてくれましたあ!!」
ぼくがK市内の居酒屋に姿を現した瞬間に,件の友人がそう叫んだ。
参加した同期の人数は,ぼくが思っていたよりはるかに多かった。20人はいたろうか。
しかし,もう一時間はここで飲んでいるのだろう,彼らはめいめい出来上がって,大体3人から5人くらいの小グループに分かれて思い思いに話をしていた。「注目」と言われて本当に注目したのは,本社時代に本当に仲の良かった飲み友達2人か3人くらいだった。
ぼくはかなり困惑した。友人の紹介の仕方は,あたかも外国からやって来た有名人か,さもなくば珍獣でも紹介するようなやり方だったし,しかもその叫びは殆どの人の耳に届いていなかったからだ。ばつが悪いことこの上ない。
しかし友人は全くお構いなしで,長テーブルのど真ん中に用意された席にぼくの背中を押すようにして,半ば無理矢理に座らせた。隣に長崎さんがいたのは言うまでもない。
「では,杉山君に今一度,乾杯の音頭をとってもらいましょう!静粛に!注目!」
彼はそう言って,無理矢理彼らの視線をぼくの方に向けさせた。
ぼくはますます困惑した。まだ一滴も飲んでいないぼくに,この役目はあまりに荷が重かった。
「ええと,まあ,その,皆さん久しぶりに集まったわけで…楽しくやりましょう。乾杯」
今思い出しても冷や汗が出るくらいベタベタな挨拶である。
ぼくはそそくさと座り込み,度胸付けとばかりにビールを一気に飲み干した。
その辺にいた友人と話をした。
長崎さんともほんの少し,話をした。
一時間ほどで,宴は終わった。そしてぼくは,今何かを抱えたまま,駅前のビジネスホテルの一室で寝っ転がってスポーツ新聞を読みながら,ケツを掻いている。
しかし,何かとりとめもないもやもやした思いがあったから,ぼくは新聞の活字を追うことが出来ないでいた。
違和感。
スポーツ紙の野球の記事に載っていたらしいその言葉がぼくの脳を捉えていた。
そう,あの時のぼくが感じたもの,それは明らかに違和感だった。
たった三ヶ月しか離れていなかったはずなのに。
いや,ぼくがただ漫然と三ヶ月を過ごした間に,彼らの間にはそれ以上の濃密な時が流れていたのだ。
余所者。
ふと,ぼくはそう思った。
ぼくは,もう彼らにとっては余所者になってしまっていたのだろうか。
大体,わざわざR市からただ酒を飲むためだけにK市まで出てくるなんて,杉山くらいなもんだぜ。
本当よねえ。
得体の知れない嗤(わら)い声が聞こえて来る。
その声は何重にも重なっていて,主は誰だか特定できない。
それは,あまり仲の良くなかった奴だったかも知れない。
三月まで仲良く飲んでいたはずの友人だったかも知れない。
あるいは,その両方なのかも知れない。
そして,女性のほうは―
むしろぼくは,そちらの方を気にした。
一人かも知れない,幾人もの重なった声かも知れない。
誰がいて,誰がいない?
そこにいるのは…
長崎さん?
長崎さんなのか?
嫌だ。
それだけは…
俺は…
俺…彼らが自分を余所者だと思っている。
いや,彼らの意識の中にあるか否かに関わらず,既に事実としてぼくは彼らには「余所者」になってしまっているのか。
その思いが,自分の胸のもやもやの原因だとするならば,ぼくは何を思えばいいのだろうか?
思えば,ぼくをわざわざ飲み会に呼んだことも,ぼくが来た時のあの扱いまでも,友人がぼくを特別に扱っていた証拠ではないだろうか。彼はぼくを「ゲスト」として呼んだのだろうが,「ゲスト」ということは「お客さん」であり,「余所から来た者」,即ち「余所者」―
そして,友人はかつての繋がりがあったから「余所者」となったぼくを「ゲスト」として必要以上に手厚く扱い,逆にさして仲の良くなかった連中は,「余所者」となったぼくを既に「過去の人」にしてしまっていて,今姿を現したことに,何を今更と思っているのか。
いや,むしろそちらの方が自然だろう。あの場に呼ばれたことだけでも,ぼくには勿体無い扱いなのかも知れない。
ぼくは何度も転校を経験していた。だから,知っていたのだ。
最も嫌われ,イジメの標的にされるのは,「必要以上になれなれしい,もしくは目立つ余所者」であることを。
ぼくは,もはやあの街を,あの人々を,忘れなければならないのだろうか―翌朝。
携帯電話の呼び出しが鳴った。
何だ,こんなに朝早く。
今何時だと…
思いながら時計を見ると,昼前だった。
良く考えたら,昨日の夜はいろんなことを考え過ぎて,明け方前までまんじりともしなかったのだった。
もうチェックアウトタイムは過ぎているはずだったが,恐らくどんなにドアをどかどか叩かれても目を覚まさないから,ホテルの奴も諦めて引き下がったのだろう。
ぼくは電話を取った。
飲みを企画してぼくを誘った,例の友人だった。
「どうかね,元気かね。もうR市に帰ったかね」
例によって間延びした口調だった。
「…いや,今起きたところだ。さっきまで,よう寝てたわ」
「そうかね。どうだ,飯でも食わんか」
「そうだな,良く考えたら,昨夜は酒ばかり飲んでろくに食ってない。腹減ったな」
「分かった。今どこにいる」
「駅前のホテルだ」
「そうか。じゃあ駅前で待ってろ」
「ああ」
ぼくは電話を切った。その夜,ぼくは夢を見た。
あの日の飲み会の続きだった。
男と女の何重もの声が,ぼくを嗤っている。
誰なんだ。
ぼくはその姿を正面から見据えようとした。
前,その想像がぼくの脳をよぎったその時は,ぼくの中でその姿は見えなかった。
何かの陰に隠れていたようで,その正体は不明だった。
しかし,この時は,ぼくはその姿をはっきりと見る覚悟ができていたから,その陰を取り去って光をその中に呼び込むことが出来た。
ぼくは息をのんだ。
その姿は,全てがぼくの形をしていた。
あの男も,あの女も,
ぼくだ。ぼくだ。ぼくだ。
ぼく…あの夢の持つ意味を論理的に考えるならば,全ては「自分」の中にあった気持ち,ということなのだろう。
人は別に,ぼくのことを「余所者」と殊更に見てはいないのだ,ということ。
考えてみれば,みんな自分のことで精一杯で,自分が楽しむことに夢中で,ぼくという存在を,いい意味にしろ悪い意味にしろ,殊更気に留めるほどのことはなかったのかも知れない。それを考え過ぎて,歪曲して,自分で自分を「余所者」の境地に追いやっていたのだ,ということ。ぼく自身が,自分に「余所者」という殻を被せて,その中に閉じ篭ろうとしていたのだ,ということ。
今のところ,ぼくは,K市にもR市にも,自分の気持ちを帰属させていない。
どっちつかずの,中途半端だ。
K市での思いは捨てる,と格好をつけ,R市での新しい生活に出て行こうとはしたものの,自分の中でK市を捨てられない。さりとてK市でのことは想い出にしてしまおうという諦めの気持ちがあって,R市にも素直に入り込めないでいる。
そんな半端な気持ちを,「余所者」という言葉でオブラートに包んで,ぼくは他人に責任を被せて逃げようとしていたのだろうか。
自分を「余所者」にしていたのは,自分自身だったのだろうか。
しかし,それが分かったからといって,そうしたらぼくはどうしたらいいのだろうか?
K市民にもR市民にもなり切れないままに,ぼくは今日も彷徨(さまよ)い続ける。
ぼくの安息の地は,まだ見つからない。
今日も,明日も,明後日も…★あとがき
この話は,ぼくが実際転勤になって,かつての仲間と一緒に飲んだ時にふと感じた微かな思いを膨らませて書いてみたものです。それ故結構実話チックなんですが,まあこれほど深刻な思いをしたわけでもなく,かつての仲間たちもなんだかんだ言って飲み会があるたんびに律義に呼び出してくれますから完全に実話という訳じゃないんですが,まあ人間関係がこういったことで希薄になってしまうことはどうしてもありがちですから,こういう寂しさは小説で書いてみる価値があるのかな,と思って書いてみました。転勤になりそうな方はちょっと覚悟しながら読んでいただければいいのかな,と(笑)。