#28 ワンポイント・リリーバー

「あなたは野球に例えれば,どのポジションだと思いますか?」
「はい,私は自分をキャッチャーだと思っています。目立たない役回りですが,縁の下の力持ちとして,投手をリードし,試合をコントロールする司令塔的な役回りを…」
 俺はこの会社に入る時,面接でこう述べた。
 少しでも野球を知っている奴なら,恐らく皆こう答えただろうな。
 俺は後でそう思った。

 キャッチャーというポジションが脚光を浴び始めたのは,ごく最近のことだ。
 それまでは草野球や少年野球でも,キャッチャーというのは誰もやりたがらないポジションとして認知されていた。プロテクターとレガースに身を固め,決して目立つことがない。そして,「ただ座って,投手の投球を後ろにそらさなければそれで良い」という単なるイメージの問題から,そのポジションは大抵の場合,運動神経の鈍い,なおかつ身体の表面積の大きい奴,平たく言えば太った奴がやるものだ,という不文律が出来ていた。
 しかし最近,肩が強くて頭が良く,その頭脳を生かして司令塔としてチームを引っ張る役目を果たすキャッチャーがプロ野球界に現れ,一人二人そういう人間が増えてくるに連れて,野球というスポーツにおけるキャッチャーの重要性がクローズアップされるようになってきたのだ。
 俺は,この社の名捕手,司令塔になってやるのだ。
 入社した時,俺は確かにそう思っていた。

「お前はリリーフピッチャーだな,何たって試合終了前と延長戦の時だけ全力出すものな」
 口の悪い先輩がそう言ったことがある。試合終了前とは終業前のことで,延長戦とは飲み会の時のことだ。何も反論できず,上手いことを言うものだと笑っているしかなかった。

 笑っていられなくなった。
 会社の業績不振から,大規模なリストラが行われることになったのだ。
 俺のいる部署は,来年にはなくなることになった。
 そして,社員の来年の雇用は必ずしも保証されない,という話を聞いた。
 特に,来年になくなる部署―即ちそれは業績が悪くて存在価値がないということを意味しているのだ―にいる俺たちは,一般の社員よりも首を切られる可能性がより高いということになる。特に先輩からも,終業直前と延長戦にしか全力を出さない「リリーフ投手」という称号を与えられた俺は,上司の評価も低いであろうし,最も首筋の寒い部類に入る社員なのだろう。
 あーあ,また職探しかよ。
 しかも,この不況の中,リストラを食らうような男を採用しようという奇特な会社があるんだろうか?
 しかし,そんなことは関係なく,今日もまた俺は会社に行って働かなくっちゃあいけない。
 俺が要らないなら,とっとと首にしてくれればいいのだ。
 そうすればこっちの方でも諦めて,さっさと次の仕事を探すのに。
 今ならまだ,学生も就職活動真っ盛りの時期だし,上手いこと誤魔化してどこかの会社に紛れ込む事だってできるだろうに。
 どうせ首になる会社のために自分の貴重な人生の時間と労力を捧げるなんて,馬鹿馬鹿しいや。
 俺は毎日会社に行ってもそんなことばかり考えていたから,全然仕事する気になれなかった。
 俺の考えていることくらいは,当然他の連中も考えていたのだろう,俺の仕事場はもはや完全に活気を失ってしまっていて,みんな仕事もしないで欠伸をして無駄話をして,終業までの時間をどうにかこうにか潰していたのだ。

 その日も5時までただ机に縛り付けられているだけの空虚な一日を終えて,俺はアパートに帰ってきた。
 今日は金曜日だ。土日はあの空間にいなくていいかと思うとこんなに嬉しいことはない。
 テレビをつけると,プロ野球中継をやっていた。
 その試合は,巨大戦力を誇り優勝候補筆頭と言われているチームの試合だった。
 俺はこのチームがどうも好きになれなかった。人気抜群,実力もある,もう一つおまけに財力も無尽蔵にある。そういう非のうちどころのない奴が俺は嫌いだった。さらにこのチームが,財力を最大限に使って他チームからいい選手をかき集めてくるのも俺には気に食わなかった。
 ただ,その日は少し様子が違っているように見えた。
 その優勝候補筆頭チームは終盤8回で3点のリードを許し,なおかつ1アウト満塁のピンチで,マウンド上には見たこともない投手が上がっていた。
 俺はその男の背中を見た。
 背番号は良く見えなかった。ただ,十の位が8だったことは分かった。
 その左投げの投手は,前の投手が蒔いた満塁のピンチを刈り取るためにマウンドに上がっているのだという事を知った。
 そのチームは巨大戦力故に選手が有り余っていて,例えば前日完封した投手でもホームランを打った野手でも,翌日二軍に落とされることが珍しくなかった。そんな状態なのだから,この背番号八十何番のどこにでもいるような有り触れた左投手の運命など風前の灯火に近いものであることは容易に想像がついた。今回一軍に上がったのだって,たまたま名のある投手がケガで二軍に落ちたから,たまたま二軍で調子の良かった彼が運良く引き上げられたのに過ぎない。その有名投手の体調が戻ったらまた二軍に落ちるのだろう。そして,来年他球団の有名選手や,アマで実績を残した有望新人でも入ってきたらあっさり首を切られてしまうのだろう。このチームの八十何番なんて,その程度の扱いだ。

 恐らくそう思っていないのは世界で一人―彼自身だけだったのだろう。

 彼は額から汗を滴らせながら,荒い息をしながら打者に向かっていた。
 傍目から見ても力が入りすぎているように見えた。
 球は高めに浮いて,ノーツーになった。
 ここで押し出しでもやれば,恐らくこの試合は終わる。
 いや,ここで彼がどんな投球をしようとも,この試合に与える影響は大したことがないのかも知れない。何せそのチームに残された攻撃は残り1イニング,しかも3点ビハインド,なおかつ相手には絶対的な抑えのエースがいるのだ。
 ブルペンではその,相手の絶対的な抑えのエースが戦況を見つめている。
 いや,そう見えただけかも知れない。
 彼が普通に投げれば,この試合は何の波乱もなく終わるだろうから。
 思えば,この巨大戦力のチームは「他球団の有名選手」としてこの抑えのエースに触手を伸ばしている,という噂もある。

 キャッチャーが八十何番の彼の元に行った。
 恐らくは間を取りに,あるいは励ましにでも行ったつもりなのだろうが,顔はへらへらと笑っている。
 八十何番は不快そうな思いを瞳の奥に隠しながら,彼の言葉に頷いていた。
 もうどうせ負けじゃないか,適当にやろうぜ。
 恐らくキャッチャーはそうでも言ったに違いなかった。
 キャッチャーは所定の位置に戻った。
 サインを出す。
 八十何番は首を振った。
 何でだよ。
 キャッチャーの苦り切った顔が,マスク越しでも分かる。
 サインの交換は5回に及んだ。
 もうどうにでもしてくれ。
 キャッチャーがそう思っているのが分かった。
 八十何番はその長い左腕を振り下ろした。
 ここで彼がストレートを投げたがっていたことは素人にでも読めた。
 そして,彼はその通りに,バカ正直にストレートを投げた。
 いくら速いストレートでも,プロの一流バッターならばタイミングを合わせれば容易に打つことが出来る。
 打たれる。投げた瞬間に俺はそう確信した。
 次の瞬間だった。
 俺は,ゆっくりと,しかし何通りにも変化する彼の表情を見た。
 彼はこの僅かな瞬間に,まるでスロー・モーションのようにいくつもの感情をその心に映し,そしていくつもの表情をその無骨な侍の顔の上に映して見せた。
 他の者にとって,特に相手バッターにとっては一瞬の時間が,彼にとっては何秒にも,何分にも相当する濃密な時間だったとでも言うのだろうか。
 その分の差だった。
 バッターは,振り遅れた。
 そして,そのバットは力なくそのボールを捉えてしまった。
 ボテボテのピッチャーゴロで1,2,3と渡るダブルプレー。

 その試合は結局そのまま終わった。
 彼には勝ちも負けもつかず,しかも翌日二軍に落とされた。

 月曜日。
 俺はあの八十何番のことを考えながら,変わり映えのしないデスクワークをしていた。
 何て言うか,やらなきゃいけないな。
 そう思った。
 もし首になったら,また会社回りをして,採用してくれる奇特な会社を探せばいいさ。
 きっとその時は,あの八十何番も一緒にいるのだろうな。
 俺は書類をまとめながら,一人でくすりと笑った。
 そうだ,もしそうなったら,面接の時に言ってやろう。
「私は野球に例えるならば,ワンポイント・リリーバーです。たとえ報われない努力だったとしても,とにかくその一瞬に全力を投入できる,そんな負け試合のワンポイント・リリーバーでありたいと思っています…」

 

★あとがき
 私の好きな野球ネタなんですが,ヤクルト古田の登場で一躍花形となった捕手とは対照的に,今も(投手分業制の中で少しずつ光は当たりつつありますが)記録にも記憶にも残らない地味な役どころである中継ぎ,中でもワンポイントリリーバーに思いがありまして,それをサラリーマンの人生になぞらえて書いてみました。ちなみに最初に出した面接の話は,私の公務員試験の時の面接で実際に聞かれました。勿論「キャッチャーです」と答えておきました(笑)。

 

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