#29 闇〜我が文学論〜

 闇,というものを文学的に描いたケースはいくつもある。
 そう思いながら,ぼくは慣れない手付きでハンドルを握っていた。
 高速道路を時速80キロでのろのろと走っていると,トンネルが迫ってくる。
 まるで吸い込まれるように闇の中に吸い込まれると,何だか車体がふわふわして,どこかに飛んで行ってしまいそうな心持になる。
 普段明るい時には,景色の流れの速さが恐ろしくてスピードを上げることが出来ない。
 普段暗い時には,前の見えない不安にやはりスピードを上げることが出来ない。
 この整備された高速道路のトンネルは,ぼくを恐れさせるほどの不安に誘うような景色の流れがなく,さりとて外壁に明かりがあるからぼくを不安に陥れるほどに視界を失くさせる訳でもない。
 ぼくは油断すると,このトンネルの中でメーターの100のラインを踏み越してしまう。その時ぼくは,今までになかった感覚に苛まれ,どこかに連れて行かれそうな心持になるのだ。
 この闇の果てに何がある?

 恐らく,かつてどんな文学者も描かなかった奇妙な闇が,ここにあるように思われた。
 恐らく,ぼくの車を軽蔑の眼差しで眺めながら追い抜いていくドライバーどもはこんな事実に気付きさえもしないのであろう。
 しかし,この中途半端な闇は,決してこのぼくを異国に誘う訳でもなければ,宇宙に誘う訳でもなかった。ましてや,死出の黄泉へと誘うわけでもない。数刻後には卵型の出口がぼくを出迎え,元の世界,入る前と大差ないその風景の中に戻ってきたのだ,ということを告げる。それがしばしば,ぼくを歯がゆい思いに苛む。
 白昼夜の顔を見せるその闇は,夜にはこの臆病なドライバーの救い,昼の世界となり得る。もっと大きな闇に包まれた世界であるが故に,中途半端な闇は却って光となる。
 そのもっと大きな闇でさえも,恐らくはかつて文学者達が表現したのと同じ闇ではないのだ。家々の明かり,街灯,ネオンサイン,その他もろもろのファクターによって,かつて彼らが表現した本当の闇に比べれば,遥かに中途半端な闇があるに過ぎない。
 少なくとも今のぼくには,本当の闇の恐ろしさ,深遠さ,それこそ別の世界に誘われるようなその異形を見ることは出来はしないだろう。
 ぼくはその中途半端な心持を潜り抜けて,何だか欲求不満に近い思いだけを抱えて目的のインターチェンジに辿り着くのだ。
 もしもぼくが現実に疲れ切っていて,どこかに逃げたいと願っていたとしたら,闇はそれを叶えてくれるのだろうか?答えは否,であろう。そのような闇はもはやない。いや,そもそもそんなものは存在しないのかも知れない。闇というものはあくまでも現象の一つに過ぎないのであって,そこにどのような意味を与えるのかは我々自身なのであるから。
 闇にどこかへ誘って欲しい。
 そのような思いを抱くことはなくはない。
 恐らくそれに最も近いのは,死出の世界に他なるまい。
 宇宙だの異国だの,実際に存在しながらも遥かに遠いそれらの場所に一瞬のうちに辿り着こうという願いは,不遜な野望と言わざるを得ないのだから。
 しかし,今の世界ではない,現実的に許されたただ一つの場所に辿り着きたいという願いさえも,ただ一瞬の夢に過ぎないのだ。

 その夢は,けたたましい音によって打ち破られる。
 パパーン。
 バカ野郎,てめえ,死にてえのか!!
 ぼくの文学者然とした尊大な妄想は,一人のトラック野郎によって覚まされる。
 現代,その中途半端に明るくて,なおかつあまりにあくせくとした時代は,恐らく文学者を生み出すほど懐が深くはないのだろうな。
 そうやって冷や汗をかきながら,現代文学に関する考察を試みるのが,最近のぼくの習慣である。

 ぼくは車の運転に関して言えば,誰よりも未熟であると言える。
 それ故,車の運転中においては誰よりも「闇」に対する特殊な思いと敏感な神経を持ち,最も「別の世界」に近い存在にあるというその事実に対する自負がある。
 それがひいては,一人の文学者を生み出すのであると,自分では信じている。
 ぼくの命がそれまであればの話であるが。

 

★あとがき
 一応真面目に体裁を繕い,文学についての雑感を述べているように見えますが,自分にとってはギャグ小説のつもりでかいたものです。ただ今一つ中途半端になってしまったのでそうは見えないのでしょうけど。勿論私が実際車を高速で走ってみて,その時に考えたことを元にして書いたものですが。…ていうか,その時に漠然と考えたことをそのまま書いただけ,という気がしないでもありません。個人的にはまだ練る余地を残した中途半端なものになったような気がするので,満足はとてもできないです。ていうか,これ小説じゃないですね。エッセイみたい(汗)

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