#3 ある小説家の病

 長いこと小説・漫画の類いを書いていると,不思議な現象が起こるらしい。
 自分の作品の中の登場人物たちが,当初の構想・ストーリーを離れて独り歩きを始めるというのだ。
 それは勿論,より好ましい方向へ歩き始める,ということにほかならない。キャラクターの個性が確立されているからこそ,よりその個性に相応しい方向に動く。自己主張をするキャラクターはもう勝手に動いてくれるのだから,あとは環境を整えてやればいい。作者としては,これほどラクな話はない。
 しかし,それが高じると悲劇が起こる。
 今から書く話は,実際に俺の先輩にあたるある作家センセイが体験した話である。

 先輩センセイことT氏は,もうかれこれ20年近く小説で飯を食っているベテランである。ことさら人間の描写にこだわる人でもあり,もうずいぶん前から「キャラクター独り歩き現象」を経験していた(何で俺がそんなことを知っているかというと,T氏はつねづね俺にそのことを自慢げに話し,人間描写がどうのこうの,と俺に説教していたからだ)。

 ある日のことである。
 T氏は長編の恋愛小説に取りかかっていた。
 人間描写にこだわる氏は,当然のようにまずは登場人物の構想から練り始めた。性格,容姿の特徴から身長,体重,年齢,スリーサイズ
(これは女性のみ),食べ物の好き嫌い,果ては足のサイズや一日に吸う煙草の本数といった,話の本筋とはまったく関係のないところまで熱心に構想したものである。ここまでくると殆ど病気だが,ここまでしないと氏は小説を書き始められないのである。他人の我々がどうこう言う筋合いのものではない。
 さて,このような偏執的な作業を経て,ようやくT氏は本筋に取りかかり始めた。
 ストーリーそのものは,お互い幼なじみで気が強い同士の男と女が,反発し合いながらも,様々な紆余曲折を経て最後に結ばれる,というしごくシンプルでありふれたものであった。しかし,こんなありふれたラブストーリーでも,T氏にかかればすごく複雑で先の見えない珠玉の人間ドラマになってしまうのである。それもこれもすべて,氏の病的なまでのキャラクターへのこだわりの賜物であった。
 書き進めているうち,登場人物はおのおの自己主張を始め,独り歩きを始めた。これはT氏の憶測の範囲内であった。少しくらいストーリーの枠をはみ出したところで,氏がちょいと軌道修正してやれば,それはストーリーに彩りをそえるハプニングで済んだ。
 ところがである。
 事態はそれだけでは収まらなかった。
「こら,T!!」
 小説の主役の男女のうちの男のキャラクターが突然叫んだ。
「何でこんな女が俺の相方なんだよ!?大体なあ,こいつは全然俺のタイプじゃないんだよ!俺はもっと色白で,グラマーで,大人しくて,あと知的な女が好きなんだよ!おまえの勝手でこんな女とくっつけられるなんざあまっぴら御免なんだよ!いいか,分かったか!!」
「何よ,さっきから聞いていればえっらそうに!!私だってねぇ,あんたみたいにワガママでやかましくて,カバが5階から落ちたような顔の男なんてジョーダンじゃないわよっ!!やい,T!聞いてんの!?こんなのとくっつけるんなら,私はもうこんな小説,降りてやるんだからねっ!!」 女のほうも負けずに叫ぶ。
 いつもの痴話ゲンカでは済まなかった。二人は本気でお互いに愛想を尽かし,反目し始めた。
 困ったのは,自分の作ったキャラクターに反乱を起こされたT氏である。結ばれるはずだった二人は,お互い顔も見たくないといって引っ込んだまま出てこない。大人しかった脇役連中もぎゃあぎゃあ騒ぎ出す始末で,話は一歩も前に進まず,執筆は暗礁に乗り上げた。
 困り果てたT氏は,泣く泣くその小説を諦めて次の構想を練ることにした。今度は,氏が以前北海道旅行をした時のことを元ネタにした,紀行文的な小説である。
 悲劇は続いた。
 作中に登場する駅員たちがストライキを起こしたのである。原稿用紙の中で「合理化反対」「JRは救済命令を守れ」と書かれたプラカードを持って座り込む駅員に対し,T氏はただ,
「それは俺のせいじゃないやん…」
 と呟く以外に術を持たなかった。
 T氏は執筆活動を中止し,先輩大御所作家たちにヘルプを求めたが,さすがの大御所先生たちといえどもこんな奇病をどうにかできるはずもなく,苦笑いを浮かべながら首をひねられるばかりであった。「T氏断筆」。こんな見出しの記事が各新聞に載ったのは,その3日後のことであった。その原因は勿論紙上では明らかにされなかったが。

 えらいことになってしまった。
 俺はどうやらT氏に,例の病気を伝染(うつ)されたらしい。
 何が原因で伝染ったのかわからない。いや,そもそもこれが伝染る病気だったというのが俺には信じがたい事実だったのだが。確かに俺はあの後,T氏と何回か会っていっしょにメシを食ったりした。その時に伝染されたのか?風邪みたいに空気感染するのだろうか?しかし,以前にT氏と会った大御所先生方にそんな病気が大発生したという事実は聞かない。血液感染…まさか性的…違う違う!俺にはそんなケはない。
 とにかく原因は分からない。分かっているのは…俺の小説の中の登場人物が俺の言うことを聞かなくなった…その事実だけだ。
 俺がはじめてその兆候を感じたのは,2ヶ月ほど前,子供向けの連載冒険小説を書いていたときのことだった。ストーリーは単純なもので,時空間の歪みに巻き込まれてたった一人絶海の孤島に放り込まれた少年が,自然の猛威だの怪物だのと戦いながらたくましく生きていく,というものであった。
 ところがである。いよいよクライマックス,最強の敵との戦い,これに勝てば晴れて助けが来てハッピーエンド,と言うときに,あろう事か,主人公が消えてしまったのである。そして,海岸には,「もう疲れました。これ以上,いつ果てるともない戦いを続けていく自信がありません」と書かれた書き置きが置いてあった…。
 自分の作ったキャラクターに自殺されたショックと疑念を引きずったまま,俺は作者急病を理由にその連載を中止し,今度は大人向けの週刊誌に,いわゆるエロ小説の連載をはじめた。言っておくが,俺は決して好きでそんな低俗な小説を書いたのではない。ひとえに生活のための当座しのぎのつもりだった。
 結果として,それは当座しのぎにさえならなかった。女のキャラクターは不感症で,男のキャラクターはインポになってしまったからだ。
 この期に及んで事の次第に気づき,俺は真っ青になった。
「もう,小説が書けないのか?」
 しかし俺は,T氏より少しだけ執念深く,大いに貧しかったため,簡単に小説を捨てることをせず
(出来ず),夜も寝ないで,昼寝もしないで,この袋小路を突破する方法を思案した。
 そして思いついたのは,私小説,それも自伝に近いものを書くことであった。作中のキャラクターが他人だから自分の思い通りに動かないのだ。自分をキャラクターにしてしまえば,まさか自分が自分を裏切ることはないだろう。俺はこの哲学的名案を思いついてしばし自分の賢さに酔いしれたのち,早速実行に移すことにした。

 赤ん坊時代。ただほぎゃあほぎゃあないているだけの自分を,俺は心底ほほえましく見つめた。
 子供時代。俺はいじめられっ子だった。ガキ大将に殴られていつも泣きながら家に帰る原稿用紙の中の俺が,今の俺を不意に,心底恨めしげな目で見上げた。
「どうして,もっと強くならなかったんだよ…どうして一度でも,あいつを殴り返してやらなかったんだよ…」
 俺はぞっとした。言い知れない不安が襲った。
 俺は大学に入るとき,3年浪人した。しかも,第一志望の大学にはついに入れず,さらには医学部にはいって医者になりたいという夢まで捨てて,いわゆる「入れる大学」の「入れる学部」に方向転換してしまったのだ。
 そんな俺を,原稿用紙の中の大学生の俺がにらんだ。
 その後のことは,もう思い出したくもない。
 女にふられた俺。ひとりぼっちで友達もいない俺。日々をただ時間をつぶすためだけにむなしく費やす俺。小説家にはなったけれど芽が出ず,貧しさの中でもがき苦しむ俺。原稿用紙の中のキャラクターとしての「俺」が,そのたび俺を憎々しげに見上げ,恨み言を呟く。
「どうして,あそこで諦めてしまったんだ!」
「どうして,あの時ほんのわずかな勇気を起こせなかったんだ!」
「どうして,あの時何かに打ち込んで,日々を充実させようとしなかったんだ!」
「本当は,俺はもっと幸せであるはずだったのに!」
「どうして…」
 そして最後に,「俺」は決定的な一言を吐く。
「どうして,俺は今生きているんだ…?」

 そして,何も書けなくなった。
 俺は,小説の筆を折った。
 俺の行く先は,誰も知らない。

★あとがき
 これは結構気に入っている作品。よく名を成したマンガ家さんとかが「登場人物が独り歩きする」と言ってるのを聞いたことがあるので,それを悪用して作ってみた。所詮小説とかマンガとかは作家の作った箱庭に過ぎないというのが私の持論なのだが,その箱庭の住人が反乱を起こしたらどうなるのか,という事を考えていたら想像がむくむくと湧き上がってきて,そこから出来た作品。ラストには異論があったが,自分自身ではこうするのが一番良かったんじゃないかな,と思っています。

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