#30 或る新婚

 俺と妻とは確かに普通の夫婦だった。

 1995年6月9日,2年半の交際の末,俺たちはゴールインした。俺は26歳で妻は1つ年下。二人とも同じ広告代理店に勤めていて机を並べて仕事をしていた。どっちからともなく話をするようになってそのうち親しくなった。一緒に飯を食うようになり,遊びに行くようになり,少しずつあいつを知っていった。俺はあいつを知るのに比例してあいつを明確に意識していった。あいつがいない時無性に寂しくなった。胸の中で何かが湧き上がって,興奮するくせ何か虚しい夜。耐え切れなくなった俺は,わざわざ公園にあいつを呼び出した。大袈裟な舞台を整えたくせに,告白は単純。好きだ,付き合ってくれの僅か11文字。たった11文字を言うのに顔は真っ赤,手は震え,冷や汗が流れたのを覚えている。あいつは笑って受けてくれた。
 2年半の歳月。あの時のビデオテープを見るような飾りも何もないガチガチのプロポーズ。あいつの笑顔。違ったのはあいつの目尻の光るもの。
「ねえ,街角の白い教会で式挙げたいなあ」
 ガキみたいなことを言う奴だ,と思ったが,俺はあいつの望みを叶えた。ウェディングドレス,結婚指輪,ブーケ,etc,あいつは何から何まで全てに瞳を輝かせていた。横目で眺めて苦笑いを浮かべる俺。ささやかな結婚式。「あいつ」は俺の「妻」になった。
 新婚旅行。行き先はハワイだった。ホテルに着くや否やビーチへ直行である。日が暮れるまで波と戯れ,日が暮れるとホテルで美しい夜景を眺めながらのディナーである。まあ夢のようなとはまさにこのことで,俺は天国か竜宮城にでも来たんじゃねえかという錯覚を覚えたほどである。妻は妻でとろんとした目をして,完全に陶酔していた。まさに恍惚の時であった。
 新婚初夜。俺自身は無我夢中というヤツで,完全に「とんで」いた。本能に操られるままに,取り憑かれたが如く動き続けていた。だから,この時どうやって妻を愛したかなんてことは覚えちゃいない。しかし,不思議なことに,こんなトランス状態の中,目の記憶だけは正確に働いていた。妻という女の部分(パーツ)の一つ一つを,そして時間が経つにつれて変わっていくその姿を,俺は今も鮮明に覚えている。少女のようなあどけなさを残したその顔,ほどよい肉付きのその腕,その脚,きちんとくびれたそのウエストに,グラマーとはお世辞にも言えぬまでも形の整ったバストとヒップ。最初は硬直して俺を拒絶していたこれらの部品(パーツ)が,次第に緊張感をほぐし俺を受け入れる。苦痛に歪んでいた表情が微かな笑みを湛えた悦びの表情に変わるまでに時間はかからなかった。その時,俺の快感は肉体的のみならず,精神的にも最高潮に達していた。妻は確かに好い女だった。美化された思い出なんかじゃない。これは確かな事実である。

 ここまでは別段変わったところはなかった筈だ。俺たちは,どこにでもある,ごく普通の,平凡な,幸せな一組の新婚夫婦に過ぎなかった筈だ。こんあ俺たちがどこでどう狂ってしまったのだろう。俺たちに何が起こったと言うんだ。俺たちが何をしたって言うんだ。何故俺たちだけが…

「百合子,ひげが生えてるぞ」
 俺は会社の出掛けに,結婚後専業主婦になった妻の顔を見つめながら言った。
「ひげ…?まさかあ」妻は笑った。「ひげなんて生えるわけないじゃない。私は女よ。産毛でしょう」
「そうかな?でも何か目立つぜ。ちゃんと剃れよな」「はいはい」
 その晩寝る前,妻の寝顔をもう一度じっくりと眺めてみた。顔の毛は剃ってあった。ただその剃り跡が妙に青い。触ってみるとざらついている。産毛にしちゃおかしいな,やっぱひげだよなあ,女にもひげって生えるのかも知れんなあ,とその時は結論付けた。今までこんなもん生えてなかったよなあ,と不審には思ったのだが,それ以上考えなかった。深く考えるようなことでもあるまい,と思ったのだ。
 妻は毎日ひげ剃りを使うようになった。
「ヘンねえ,今までずっとこんなことなかったのに」
「そう言えば女子陸上選手でドーピングやってたっていう奴には,ホルモンのバランス狂って突然ひげ生えたりする奴いるらしいぜ」
「ちょっとぉ,ひどいわ。失礼ねえ。私がドーピングなんてやる訳ないじゃない」高校時代陸上部でならした妻はふてくされるように怒った。彼女自身全く心当たりがなさそうだ。妙だな。俺の心に小さな影が差した。
 その後間もなくして,妻の妊娠が明らかになった。俺は狂喜すると同時に,そうか,妻の変調の原因はこれだったんだな,なるほどなるほど,と単純に納得し,幸福いっぱいの昇天気分で,一日一日指折りながら,我が子よ早く産まれて来いよ,と念じていた。
 半年後,妻は元気な女の子を産んだ。一姫二太郎と言うし,こりゃ幸先がいいねえ,とまさに有頂天であった。
 しばらくの時を置いて,母子は揃って退院した。その後3ヶ月が経った頃だろうか,妻を再び変調が襲った。
「声…が…出ない…の…」婆さんのようなしわがれ声で妻は訴えた。
「風邪でも引いたんじゃないのか?悪くならないうちに病院行った方がいいぜ」
「ううん…他…は…何とも…ないの…ただ…声が…出ない…だけ…」
「無理に喋らない方がいい。そうだ,もう寝ちまえ。後片付けとか全部俺がやっとくから」
「あり…がと…」
 妻は数日後には一応普通に喋れるようになった。悪性の風邪か,はたまたガンかも,と心配していた俺は一応安心した。しかし,完全に回復した訳ではなく,小さい声でぼそぼそと喋るのがやっとのようだった。
 妻の声に変化が生じつつあった。大学時代に女性合唱団でソプラノを歌っていた彼女の声がだんだん低くなっていったのである。気がついた時にはアルト,いや,ちょっと声の高い男で通ると思われるほど妻の声のトーンは下がってしまっていた。この事実に気付いた時,俺の背筋に寒いものが走った。最大級の不安感と,とてつもなく大きい,それでいて得体の知れぬ嫌な予感が襲ってきた。

 不幸にも俺の予感は的中することとなった。
 決定的な一撃が,徐々に妻を侵しにかかってきたのである。

 思えばあの時,俺たちは殆ど毎晩愛し合っていたし,そうでなくても毎日彼女の生まれたままの姿を見ていた。逆にそれ故あまりに緩やかなその変化に気付くことが出来なかったのだが…。

 俺は出張で2週間家を空けた。久しぶりで帰宅した時,妻は俺の胸に飛び込んできた。一見情熱的な出迎えに俺はちょっと辟易した。そして苦笑いを浮かべた。おいおい,大袈裟なヤツだな,たかが2週間離れていたくらいで…妻は俺に抱きついたまま離れようとしない。体が震えている。しゃくりあげているようだ…尋常ではない…俺は初めて彼女の深刻さを悟った。直後,体に戦慄が走った。妻のそれが伝わるように。
 家の鍵を全て掛け,家中のカーテンを全て閉め,俺たちは応接間に向かい合っている。眼前にはとめどない涙を拭おうともせず,生気を完全に失った妻が,一糸まとわぬ姿で立っている。
 妻の体はこれまで俺が愛してきた彼女のそれではなかった。乳房の膨らみは完全に消え失せ,尻は硬く締まっている。喉には凸状の突起が見られる。四肢には奇妙な硬い膨らみがあって太い。女の大切な部分は今まさに消失寸前である。
「病院だ!!」
 妻は病床の人となった。

 僅か五日後。病院から会社の俺に電話。大事な話があるからぜひ来いとのこと。俺は40キロ制限の国道を120キロでぶっ飛ばし,赤信号に目もくれず,気付いた時には丸椅子に座って医者に向かって目を血走らせていた。
「手に負えませんね…」医者は素っ気無く言い放った。
「ホルモン関係の異常だと思うんですよ。それでまあ毎日女性ホルモンの注射と投薬を繰り返したんですけど,病状は一向に好転せず,逆に進行するばかりで…」
 最後の方はもはや聞こえなかった。
 妻が出てきた。顔中に無精ひげが伸び,股間には忌まわしい膨らみが生えていた。
 もはや涙も出ない。

 妻は男の体になった。信じられないし信じたくないがこれは事実である。しかしこのまま手をこまねいているわけにはいかない。何より何らかの行動をとっていないと発狂してしまいそうになるのだ。俺は「一身上の都合」で会社を休職し,全国の名医と名高い医者を尋ねた。
 いわゆる名医は悉く役立たずであった。それどころか,妻を病理標本の如き好奇の目で眺め,金を出すから自分に預けてくれとぬかす馬鹿までいる始末である。あまりムカついたので絞め殺そうかと思ったが,怒鳴りつけるだけで我慢して出て来た。最悪である。もはや奇跡でも起こらぬ限り妻を女に戻すことは諦めざるを得なくなった。
「別れてもいいんだよ…」
 最後の病院を出た玄関で妻は切り出した。
「私がこんなになったばっかりにあなたに苦労させちゃって…ごめんね…もういいの…もういいから,あなたは他の女の人ともっと幸せになって…」
「バカ!!」間髪入れず俺は怒鳴った。「俺を見損なうな。一番苦しんでるのはお前じゃねえか。そんなお前見捨てて他の女に走るような人でなしだと思ってるのか,ふざけるな!」
 妻は俺を案じ何度も離婚を切り出したが,毎回同じように怒鳴りつけてはねつけた。言っておくが妻への同情心なんかじゃない。体は男になってしまったが顔と心は昔のままなのだ。そんな妻をどうして捨てられようか。体が男だろうが女だろうが関係ない。俺は妻を裏切らない。そう決めた。

 理想と現実とはえてして一致しないものだ。日を追うごとに俺の性的欲求不満は深刻なものになっていった。俺に許された唯一の性の対象は妻である。頭では分かっている。しかし妻の体は男である。俺の本能は当然ながら男の体を受け付けないのである。顔と心が妻のままであったとしても,体が男であるというその事実だけで俺はもうダメなのだ。
 会社復帰初日のこと。
 妻は朝から終始うつむき,青ざめている。料理の手を止めて,時々包丁を見つめている…
「いいか百合子,頼むから自殺だけはしてくれるな。お前が死んだら俺も死ぬからな。俺を死なせたくなかったら早まった真似をするんじゃないぞ。いいな,分かったな」
 俺は出掛けに言った。図星だった。妻は無言で俺に抱きついてきた。言っておいて良かった。俺は安堵した。しかし同時に抱きついてきた彼女の体に対する気色悪さを感じていたことも事実だった。

 その週の金曜日,午後8時。明日が土曜で休みということで,俺は仕事仲間に誘われて飲みに行った。彼ら曰く,「原田智明(俺の名だ)復活祭」らしい。あまり気は進まなかったが,連中が俺のためにやってくれるものを無下に断る訳にもいかないし,家に電話したところ妻の様子が割と落ち着いていたので付き合うことにした。メンバーは俺を入れて男女4人ずつ。全員同期でプライベートでもかなり親しく付き合っている連中ばかりだ。この時点では不安なし。
 一次会は行き付けの居酒屋で軽く飲んだ。俺は酔うとしゃべりになる性質である。間違っても酔って妻の「病気」のことをばらしてはいかん。あれは極秘なのだ。俺は酒量を極力抑えていた。
「原田く〜ん,あんまり飲んでなぁ〜い」
 早くもほろ酔いになった女二人が両脇から絡み出した。
「そうだぞぉ原田ァ,今日はお前が主役なんだからなァ,お前が飲めぇ」
 野郎共のブーイングが始まる。
「やめなさいよォあなたたち」
 このメンツの中では一番の良識派と思われる石川沙織が制止した。
「ほらぁ原田君顔色悪そうじゃないの…誘った時から何か気乗りしなかったみたいだし…原田君,体調悪いなら無理しないでね」
「ああ…」助かった。さすが沙織だ。有難い。サンキュー。俺は心の中で最大級の謝意を送った。
 2次会から先は俺はもう参加しなかった。石川沙織が俺を気遣って,もう帰った方がいいわと言ったのである。俺自身も,妻のことをずっと心に懸けながら遊ぶのが嫌になっていたので,渡りに船とこの言葉に従ったのだ。
 石川沙織が,付き添うと言って俺について来た。殆どシラフなんだし一人で帰れると言ったのだが,心配だと言って聞かない。しぶしぶついて来させた。
 二人とも少々酒が入っている。俺は会社に置いてきた車を諦めて,電車で帰ることに決めた。
 飲み屋から駅へ至る道すがら,近道するため俺たち二人は暗い裏路地に入った。
「原田君…寂しくない?」
 それまで全く無言だった沙織が不意に尋ねた。
「ささ…寂しい!?何でだよ?」
 虚を突かれた俺は不覚にもうろたえた。
 沙織はそんな俺の様子を眺め回し,数刻の時を空けて呟いた。
「奥さん…病気なんでしょ…しかも…不治の病…」
 俺は凍りついた。声が…出なかった。直後,体が小刻みに震え始めた。動揺を抑えようとして必死に体を鎮めようとしたが,無駄な抵抗だった。必死に首を横を首に振ったが,やはり無駄な抵抗だった。そうですと言っているようなものだった。
 何でこの女が知ってるんだ。俺は休職を申し出る際,「自分自身の都合,家の事情」を理由にした筈だぞ。妻のことなど,ましてや同僚の一人に過ぎない彼女が知る由もない。どうしてだ。どこかで見られて…
 ここまで考えた瞬間,沙織の唇が俺の唇をふさいだ。
「……!」 
「……」
 2時間とも3時間とも思われる程に長く感じられる一時だった。沙織は俺から唇を離し,俺の肩越しに腕を回して俺の右肩に頭を乗せた。髪の甘い香りが俺を刺激する。風前の灯火の理性をフル回転させながら,
「な…何のつもりだよ…」俺はやっと言った。
「…好きだったの…ずっと…あなたが…奥さんと…出会う…ずっと…前から…」
「お前なぁ…俺は」
「私には分かってるんだよ…今の原田君,新婚らしい幸せそうに満たされた感じが全然なくて…とても寂しそう…」
 返す言葉もない。俺は金縛りである。
「原田君」沙織は顔を上げ,俺の眼を見て叫んだ。その瞳から涙が溢れている。
「今だけでいい…ひとときでいい…私を…あなたの奥さんにしてよ…奥さんの代わりを…奥さんがあなたにしてあげられないことを…」
 俺は沙織を突き放さねばならなかった。理性はそう命じた。しかし,俺の取った行動は全く逆のものであった。俺は沙織をきつく抱いた。それは本能の命令だった。本能は理性より強かった。あとは本能の導くまま,俺は沙織と背徳の道へ足を踏み入れた…

 翌朝。俺は喫茶店にいた。ぼうっとして時計を見た。午前5時20分。この店は24時間開いていて,夜遅くまで仕事をした日とか,同僚と飲みに行った帰りなど割とよく利用していた。しかし…こんな時間に店を訪れたのは初めてだな…思いかけてふと俺は思い出した。百合子との3度目のデートの時もここへ来たっけ…あの時は二人で思いきり飲んで,歌って…今夜こそこいつと一夜を共にするんだと思って…でも言い出せなくて…一晩夜の街をぶらぶらして,結局何もできないで,結局ここで二人でコーヒー飲んでたんだ…。
 朦朧とする意識の中で再びこの喫茶店に戻ってきたのは,帰巣本能とでも呼ぶべきものかも知れなかった。しかし,今の俺はあの時の俺ではない…。喫茶店はあの時と同じように俺を迎えてくれた。その事実が尚更胸を締め付ける。
 深刻は突き詰めると,諦めと責任放棄へと変わる。それは,自分を責め過ぎて精神に異常を来さないための,人間に備わった自己防衛本能かも知れない。曰く,俺が沙織と一夜を共にしたのは,妻への裏切りという悪意の仕業ではなく,止める術なき本能の仕業である。曰く,俺の不倫は非常識かも知れないが,妻が男の体になったのはもっと非常識ではないのか。曰く…
 次に気がつくと,午前10時だった。眠ってしまっていたらしい。不倫の罪悪感に悩む男の気分ではない。思えばあの一夜は,性的欲求不満に苦しむ余り見た単なる夢だったのかも知れないな。そうだそうだ。そうに違いない。そうでなければならないのだ。
 俺は強引に結論付け,必要以上に胸を張って立ち上がった。その瞬間。
 立ち上がった風圧で,俺の体についている甘い香りが鼻をついた。女物の香水。沙織の香り。
 俺は勢いよく立ち上がったその格好のまま,いつまでも無様に立ち尽くしていた。

 夕方,俺は家に帰ってきた。帰ってきたと言うより,徘徊の挙げ句辿り着いたのがたまたま家だった,というべきだろうか。半ば無意識のうちドアを開けて家に入った。
 中では全く変わらぬ日常が繰り広げられていた。妻は全く変わらぬ口調で,「あらあなた,お帰りなさい」と言い,娘は全く変わらぬあどけない笑顔でキャッキャ言いながら俺を迎えた。
 俺は残業のない日,いつもこの時間に帰って来る。今俺の目の前に広がる光景は,「仕事を終えてまっすぐ帰って来た日の俺」がいつも見る光景なのだ。ふと腕時計をに目をやる。11月25日「土曜日」午後6時40分。事実は変えられない…
 夕食。妻は何もなかったかの如く俺にビールを注ぎ,話を振ってくる。俺はそれに応える。やけに食が進む。昨日の夜から何も食べてないから当たり前なのだが,妻を裏切っておいて平気な顔をして三杯も飯を食うなんて,俺はこれでも人間なのだろうか。
 飯を食い終わって,俺たちは差し向かいで茶を飲む。妻は依然として笑顔で喋っている。俺への疑いなど微塵も感じさせない。いや,そればかりか,男の体になった自分の辛さが俺に伝わらないように,無理に明るく振舞っている姿である。こんな妻を目の前にして平気な顔をして茶を飲んでいたならば,俺は間違いなく畜生道に堕ちていただろう。しかし,それだけは救われた。妻の笑顔を眺めているうちに,両目から不意に涙が噴き出した…

 妻は思いの外淡々と俺の自供を聞いていた。ただ頷くのみ。怒るどころか溜め息の一つもこぼさない。その事実が尚更辛い。ひっぱたかれたほうが万倍マシだ。いや,いっそ…
「殺してくれ…もう死にたい…」フッと言葉が漏れた。
 乾いた音がして,俺の左頬に鋭い痛みが走った。
「甘ったれないでよ!!私には死ぬなと言っておいて自分だけ死のうっての!?甘いわよ!」
 妻は少しだけ眉を吊り上げ,あくまで冷徹に俺を怒鳴りつけた。
「死なせてなんか…やらないからね…あんたが死んだら…この子はどうなるのよ…自分の所為で夫を死なせる私の気持ちは…どうなるってのよ…誰が…死なせてやるもんですか…」
 涙声になっていた。
 俺は始終泣いていた。
 二人とも止まらなかった。
 ベビーサークルの中で,娘だけが不思議そうな目をしてこの光景を見ていた。

 俺は妻を愛しているし,一生添い遂げたいと思っている。
 しかし,妻の体が男であり,俺の本能が妻の体を拒絶する以上,本能と愛のはざまで俺は苦しみ続ける。沙織とのことのようなことがまたあるかも知れない。自信がないのだ。
 神よ仏よ,もし実在するのなら,俺たちを本能のまま愛し合える二人に戻してくれ。
 これ以上俺たちを苦しめないでくれ。
 頼む…
 俺は日々念じ続けた。

 願いは叶った。

「あなたー」妻の野太い声が響く。
「何だよー」俺の甲高い,甘みを帯びた声が響く。
「ちょっと火見ててくれるー?」
「分かったよ,ちょっと待ってな,すぐ行くから」
 俺は応えた。こないだ産まれた二人目の子供―俺にとっては初めてお腹を痛めて産んだ可愛い息子に自分の乳房を含ませながら。

 

★あとがき
 この作品は5年前,21歳のときに,「はちゃめちゃなものを書きたい!」という欲求が昂じて書いてみたものです。以前書きましたが,筒井康隆氏のスラップスティックでSF色のそれほど強くないものが好きでしたので,その影響をけっこうかぶってるんですが。「愛」と「本能としての性欲」をテーマにした,自分の信念と熱情がこもっているので,自分の中では割と自信のある方の作品なんですが,この作品を超えるものが自分の中で未だにそれほど書けていないというのがつらいと言えばつらい。ただ,このテーマについてはまた書いてみたい思いはありますね。

 

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