#31 リバーシ

 英語の「Reverse」から来ていると思われるその言葉が「オセロゲーム」の別称であることを,僕はここへ来て初めて知った。
 その語感が気に入ったから,僕らは新しく作ったそのサークルの名前を「リバーシ同好会」と名付けた。「オセロゲーム同好会,じゃガキっぽくて恥ずかしいからな」というのがその理由だった。
 リバーシ。
 リバーシ。
 僕はその言葉をあたかも呪文のように唱えていた。
 リバーシ。
 それは,「反転」を意味する言葉だった。
 確か,学校でそう習った。
 リバーシ。
 リバーシ。
 反転。
 …

「あーもう,そんな厳しいとこ打つなよ。俺,打つとこねえじゃんかよお!」
 昼休みに一度だけ彼と対戦した時,そいつは僕が一つ石を置くたびにそう叫んだ。
 事実,その対局は僕の方が圧倒的に勝っていて,僕の白い石が二十何個あったのに比べ,彼の黒い石は三つしかなかった。
「完封されちまうよお,ちきしょう!!」
 事実その通りに思えた。彼は僕が置くとその3秒後にはさっさと打ってしまっていて,まるで何も考えずに闇雲に打っているように見えた。
 こいつは上手くないな。
 さして経験のない僕でも,そう思えた。
「あーもう,ここでいいや!!」
 彼は半ば投げたかのように適当なところに石を置いた。
 何も考えていないかのごときその一手が,僕を追い詰めるのに十分な威力を持つ一手であることを,不覚にも僕はその時には気付かなかった。
 角を4つ取れば,大抵このゲームは勝てる。
 そのためには,相手に角をやるようなところに自分が打たないこと。
 ひいては,そういった「危険な場所」に打たせるように相手を追い込むこと。
 昔そう教えてもらったその必勝法を,僕は自分が相手に対してやっていると思っていた。
 しかし実際は逆に,僕が彼にそういう方面に追い詰められていたのだ。
「やばい,やってもうたかも知れん」
 17個目の石を置いた時,僕はそう呟いた。
「どこをどうやってもうたんか分かんねえよ,もう!!」
 言いながら彼は間髪入れず石を置いた。
 それは,僕が「やってもうた」と思った時に,「頼むからあそこにだけは置かないでくれ,見逃してくれ」と思っていたその場所だった。
 数刻後,僕は何とも言えぬ悔しさの中で,真っ黒になった盤上の石を片付けていた。

 彼は常にそんな奴だった。
 彼はいつも,何も考えていないようなお人好しの顔をしていて,こちらが油断していた隙に全てを攫っていってしまう。
 彼が,友人であるこの僕の最も大切にしていた女性―そしてそのことを彼自身も知っていたはずだった―それさえも盤上の石と同じように最後に全部引っ繰り返して攫っていってしまったのは,それからさして日を置かずしてのことだった。ある日,彼女が彼に僕の目の前で無残に奪われる夢を見た。くだらない夢だと笑い飛ばした。それが予知夢だったと知るまでに時間はかからなかった。僕は,自分が徐々に追い詰められていたことを,敗北が決まったその時まで全く気がつかなかった―

 恐らく,この状況は,ちょうど一年前のあの時と全く同じなのだろう。
 僕は同好会の新しい友人と,盤を隔ててにらめっこをしている。
 あの日と同じく,僕の白い石は,彼の黒い石を完全に包囲していた。
 彼は眉をひそめながら,もう三分以上も盤をにらみつけている。
 まいったなあ。
 そんな呟きが漏れた。
 それは本心によるものか。
 それとも,僕を油断させるためにわざと聞こえるようにそう漏らしたのか。
 まだ勝負は,分からないのだ。
 僕はあの日よりも,遥かに用心深くなっていた。
 今はどう見たって,僕が彼を圧倒している。
 しかしここから恐らく,彼の反転攻勢が始まるのだ。
 僕と彼の間には,同じ同好会で同い年で,趣味と星座が僕と同じで,華奢で優しくて顔とプロポーションが僕の好みぴったりの女性が座っている。
 表面上,少なくともサークル内では,彼女は僕と仲良くしていた。彼は僕の友人で,彼女とは口もきかない。
 しかし,彼女がこの間彼に誘われて一緒に二人で食事に行ったのを,僕は知っている。
 どこで引っ繰り返されるか,分からないのだ。
 油断はするまいぞ。
 リバーシ。
 リバーシ。
 リバーシ。
 僕はその言葉を唱えながら,胃の痛くなるような緊張を,一秒たりとも気を抜かずに生きている。
 目を,耳を,全ての神経を,この一瞬,この一瞬に。
 リバーシ。
 リバーシ。
 リバーシ。
 この先もう二度と逆転を食らわないように。

★あとがき
 この話は,実際に職場のイベントでオセロ大会があって,本当にこういうことを言いながら実際には強くて決勝で唯一ぼくを負かした人間がいたからそれをモデルにして書いたものです。それを女性関係になぞらえて書いたものですが,こういう奴っていますよね?こうやって勝者になる奴も,敗者になる奴も。どっちかと言うと敗者の側に思い入れをした感じになったのは,ぼくが非常にしばしば敗者の側に回るからであることは言うまでもないことです(涙)。

 

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