#33 編集屋
エレベーターを降りて,「村田」と書かれたポストの前に立つと,俺は一つため息をついた。
彼の家は,駅から5分の比較的新しいマンションの6階にあった。恐らく賃貸なのだろうが,彼の年齢を考えるとそれでも同年代の連中に比べたら裕福な暮らしをしているように見えた。
インターホンを押して職名と名前を名乗ると,勝手に入っていいですよ,という返事。
中は比較的奇麗に片付いていた。男の一人暮らしにしては几帳面なように見えた。
そんな暇があるんだったら,早く原稿を上げてくれよ。
俺は思った。
ワープロのキーを打つ音は聞こえてこない。
彼はのんびりコーヒーを飲んでいた。
俺はまた一つため息をついた。俺が出版社に入社したのは7年前のことだった。
そこそこ名の知れた大学の文学部にいて,サークル活動でも文芸部に所属していたと言えば,誰でも俺が作家に憧れていたことは分かるだろう。
幾度か文学賞に投稿したことがあり,佳作程度までは行ったことがある。ただ,雀の涙程度の賞金をもらったものの,うちの雑誌で何か書かないか,という誘いはついになかった。そうこうしているうちに3年も半ばを過ぎて,周りが就職活動に入っていく中で,文章だけで身を立てていく自信のなかった俺は,貧しさを恐れて就職することを決めた。志望は出版社に絞っていたから,その時点ではまだ夢をつなぐ気があったのだろう。出版社にいて働きながら作家先生方に接して勉強して,あわよくば自分の夢を達成して独立しようという野望は持ち合わせていたに違いない。
最初に配属されたのは,そんな夢とは何の関係もない総務部の経理課だった。毎日パソコンとにらめっこで数字と格闘するのは,純粋に文系である俺には苦痛以外の何物でもなかった。数字が1でも違えば上司にどやされるから,毎日夜遅くまでへろへろになりながら自分の打った数字をチェックしていた。夢にパソコンの画面と数字の羅列が出てきたほどだ。この日はさすがに一日へこんでいた。それでも仕事はしなければならぬ。
もう何年も小説を書いていないな。ある日ふとそう思った。
忙しい日々とはいえども,土日は一応休みだったから小説を書く時間を作ろうと思えば作れるはずだった。事実遊び相手もいなくて暇な日曜日というのはあったから,小説を書こうと思い立って原稿用紙を買ってきて机についたこともあった。
俺は小説が書けなくなっていた。書きたくても,何を書いたらいいのか皆目見当がつかなくなってしまっていたのだ。とっかかりのない状況で仕方なく書いたのは,大学時代から取っておいたアイデアノートの中にあって,当時小説に使おうと書き始めはしたものの結局形にならずに捨ててしまったアイデアの欠片だった。もちろんこの時の出来もひどかった。小説になっていない。そう思って再び捨ててしまった。こんなことを繰り返していたから,俺の部屋には最初の2枚しか書いていない50枚綴りの原稿用紙がたまってしまった。今年やっと経理を出て,希望していた雑誌編集の方に配属になった。
俺の主な仕事は,一人の作家の担当編集者だった。原稿をもらって推敲し,内容を吟味して売り物になるような作品にして編集長に手渡すことだった。作家との打ち合わせや,半ば借金取りのような原稿の取り立てもその中に含まれている。
せっかくの希望していた仕事だったのに,俺はやはりため息をつかなければならなかった。
俺が担当する小説はいわゆる官能小説,俗に言うエロ小説だったからだ。影村夢六。それが彼のペンネームだった。
影村のワープロを覗き見ると,まだ立ち上がってさえいなかった。大方俺が来たから仕方なくスイッチを入れたのだろう。原稿は一行だって書けていないに相違ない。
俺は影村を憎悪した。
いいかげんにしてくださいよ。
俺は半分怒鳴るように言った。
もう締め切りはとっくの昔に過ぎているんだ。たかだか原稿用紙10枚かそこらの小説を仕上げるのにどれだけ時間を食えば気が済むんだ。大体エロ小説なんて決まりきったパターンで決まりきった表現使って,それで男の欲求を満足させさえすれば,それでいいじゃねえか。
それでも収まらず,俺は叫んだ。
あんたはそれでもプロなのか。あんたみたいなのは文芸界の恥っさらしだ。書けねえねらやめちまえ。
影村は俺の方に顔を向けた。
俺は身構えた。
彼は別段憤るでもなく,あくまで冷静な口調で言った。
僕,辞めようと思ってるんですよ。俺はさっき感情に任せて言い過ぎたことを謝罪した。辞めるまで言うほど俺の言葉が彼を傷つけていたのかと思うとさすがに少々気が咎めた。
誤解しないでくださいよ。
影村は笑みさえ浮かべて言った。
僕はあなたに言われたから辞めると言ってる訳じゃないんです。
彼は部屋の隅に立ててある大きな本棚を眺めた。
俺も今の今まで気付いてはいなかったが,そこにははちきれそうなほど多くの本が並んでいた。古今東西の名作と言われる文学作品,そして俺が聞いたこともないような作家の作品もあった。そして,タイトルからそれと分かる官能小説も。
彼はその官能小説を一冊取り出した。
これを読んでみてくださいよ。
本を渡すと影村は後ろを向いてキーを叩き始めた。
することがなくなったので,俺は仕方なくその本を読み始めた。できましたよ。
影村はそう言うと,10枚の原稿を俺に手渡した。
もう外が暗かった。
時計を見ると,あれからもう4時間が経っていた。
こんなに熱心に本を読んだのは,何年ぶりだろうか。
俺は少々恥ずかしくなった。
照れ隠しのようにはいよ,と言って彼の原稿を受け取り,その場で読んだ。
いつもは特に問題もなく,まあいいんじゃないか,と言える彼の小説が,今日はやけに物足りなく見えた。質的にいつもと比べてそんなに劣っている訳ではなかったのに。
ひどい小説でしょう。
見透かしたかのように,影村は言った。
俺は何も言えなかった。
腹,減りませんか。
影村は言った。もう既にコートを着て,出かける用意をしていた。
原稿も仕上がったし,酒飲んでいいすよね。
いたずらっぽく,彼は言った。
俺は同意した。
俺も何だか,飲みたい気分だった。洋子も恵子も和美も,どいつもこいつも女じゃないんですよね。
ジョッキ生を飲み干しながら,影村は言った。
洋子と恵子と和美は,彼の小説に出てくる女性のキャラクターだった。
どいつもこいつも,顔の造形が良くて,おっぱいが大きくって,処女で,それでもって一度男に奪われてからセックスの虜になってやりまくるような,そんな奴らばかりだ。人格もくそもあったもんじゃない。女じゃない以前に,人間じゃない。ただのセックスをする機械だ。マシーンだ。
影村は地声がでかかった。セックス,セックスと叫ぶから客がみんな俺たちの面を見た。
静かにしてくださいよ,先生。
俺はたしなめた。
誰が先生だ。僕は先生なんかじゃない。先生ならば,もっとましなものを書いているはずだ。
彼はそれでもいささか声のトーンを落として,下を向いて言った。
あの本,読んだでしょう。
ああ,読みました。
どうでしたか。
…そうだな,いい,作品でしたね。久しぶりに,うーん,小説を読んだな,という感じがした。
あれが何でいいのか,分かりませんか。
…?
分かるはずですよ。あなただって,一度は文学を志した人間でしょう。
…。あの小説と影村の小説との相違は俺にはおぼろげに分かっていた。しかし,その正体は余りにも漠然としていて,言葉で表現するには難しかった。強いて言えば…
リアリティ…かな?
まあそんなもんですよ。
影村は笑った。
あの小説は,人間の描写がすごくしっかりしている。男も,そして女もね。ある場面があって,男がそこで何を考えてどう動くのか,女がそこで何を考えてどう動くのか,あの作者は全てを熟知していて,その上でキャラクターを動かしている。人間の心の機微を知り尽くした人じゃないと,あそこまでは書けない。
俺はただ頷くしかなかった。
僕だって人生を生きてきて,それなりに人と接してきたつもりですよ。女性との付き合いだって全然なかった訳じゃない。
彼の口調はめっきり静かになっていた。
でもね。
やっぱりまだ分からないんだ。僕は男だから男の考えならば少しは分かる。女は分からない。女を知ろうにも,上っ面でしか見ていないからあとは自分の脳の中で変に加工された,歪んだイメージの女しか生まれてこない。美人で,おっぱいが大きくって,処女で,セックスが大好きで…
また声がでかくなった。またみんなが俺たちの面を見た。しかし俺はもう気にしなかった。俺たちは店を出た。
辞めないでくださいよ。
言いたかったが,言えなかった。
俺だって,そうだったのだ。
今度生まれてくるときは,女に生まれてくるといいなあ。ねえ,真田さん!
影村が俺の名を叫びながらしなだれかかって来やがったから,またみんなが俺たちの面を見た。
俺は人知れず,またため息をついた。あれから何年経っただろうか。
俺は再び,影村夢六改め村田晃の担当編集になった。
芥川賞を獲得し,一躍純文学界の寵児となった,彼の担当編集に。
俺の机の中には,書きかけの原稿が日の目を見ることなく,今日もまた眠っていた。
★あとがき
まあ白状するなれば,私も普通以上のレベルの性欲を持つ助平男の一人でありますからして(苦笑),エロ小説の類を全く読んだことがない,ということはないし,それはそれで役立たせていただいておりますが(また苦笑),ふと素になった時にそれを読みますと,「何じゃいこりゃ?」的な思いに捉われてしまいます。要はこの手の小説がいかに男の都合のいいように作られているか,いかに真実の女性像からかけ離れているか,ということ。まあこういう女性が全く一人も存在しないとは言わないが(笑)。本当の小説ってのはそんなもんじゃないだろう,と。もっとこう何つうか,リアリティというものを大切にしていただきたいな,と。その方が真実味が増して,読者としてはより身を入れて楽しめるんじゃないかな,とそういうことを考えて書きました。