#34 踊り子
午後7時を回って,携帯に電話もメールも入っていないことを確かめると,僕は今夜の夕食を買出しに出かけた。
彼女にその宣告を受けたのは,2週間前。
率直に言って,原因は僕の方にあったのかも知れない。
僕が去年の今日彼女にプレゼントした腕時計を,彼女がして来なくなったことに気が付いて,僕が機嫌を悪くしたのが始まりだった。
彼女は,僕がプレゼントしたものよりもずっと高そうな時計をしていた。
それに気が付いたのが3ヶ月前。彼女の誕生日の直後だった。
僕は今年の誕生日に用事があって,彼女の誕生日に付き合ってやれなかった。そのたった一回の隙に,誰かが僕と彼女の間に割って入ったように思えてならなかった。彼女が僕の時計でなく,僕の知らない高そうな時計をして来たのが,あたかも僕よりも僕の知らない誰かを選んだことを象徴しているかのようで,それが何より悔しかった。もちろん,彼女が単にプレゼントの値段だけで男の値踏みをするような人間ではないことを僕は信じていた。いや,信じたかった。でも,事実がある以上,疑いの気持ちを全く捨て去ることはできなくなっていた。
「彼」は,こんな高い時計をくれたのよ。
そんな風に,あてつけられているようにさえ思われた。
僕はその日の帰り道,とうとう一言も口をきかなかった。彼女が何か言ってきても,うんとかああとかくらいしか返答しなかった。しかもかなりぶっきらぼうに,確実に何かに対していらいらしているかのようなうんとかああだった。彼女がそれに気付くのに時間はかからなかった。
怒ってる。
怒ってないよ。
嘘。
本当だって。
どうして?
どうしてって,何が?
変だよ,今日の祐ちゃん。
最初はおどけるように言っていた彼女も,その原因がつかめないでいる間に,その気持ちは困惑から憤りへと変わっていったのか。最後には追求さえ諦めてしまって,ため息をついてあっかんべえをしてそれっきり黙り込んでしまった。
疲れていたから話ができなかっただけだ,ごめん。
ううん,あたしの方も分かってあげられなくて,変な感じになっちゃって,ごめんね。
その時は,それで済んだ。
しかし,それを境に,僕と彼女の間は確実に隔たっていった。
逢う回数が減り,電話の回数が減り,メールの回数が減り,そして―
今日―12月24日のクリスマスイブに,彼女は僕と逢うことを拒絶した。
いや…それは僕の蒔いた種だったのか。
何せ,去年のような思いをすることを最も恐れていたのは,他ならぬ僕自身だったのだから―今日の夕食は,鳥の腿肉とパックのローストビーフ,そしてショートケーキだった。
少年の日の,サンタクロースを楽しみにしていた時の意味も,大人になってからの,愛する人とともに過ごす記念日としての意味もないクリスマスイブは,僕にとっては単なる日曜日だった。だから取り立てて特別な夕食を買ってきて祝う必要もないはずだった。一体日本人ってえのは,いつからこんな風に踊らされるようになったと言うんだい。
おととしのイブの日,まだ恋人とともに過ごすことを知らなかった僕は,同じように独り身をかこっていた友人と鍋を囲んで日本酒を飲みながら一緒に愚痴をこぼしていた。
バレンタインデーならばチョコレート業界の差し金だから分からなくはない。
クリスマスに子供にプレゼントをやるのはおもちゃ業界の差し金だろう。
それならばクリスマスに男と女がちちくりあうのは誰の差し金だ?ラブホテル業界か?
僕らはそう言って,クリスマスを笑い飛ばし,踊らされる日本人を笑い飛ばしていた。
踊らされることさえできない自分自身を棚に上げて。
そして去年。
初めて人並みにクリスマスをともに過ごす恋人が出来て,僕は初めて人並みに踊らされる日本人となった。
クリスチャンでもないのに,クリスマスを変な風に利用するんじゃねえよ。キリスト様が泣いてるぜ。
前の年まではそう言っていたのに,そんなことはすっかり忘れていた。
そして今年。
もはや以前のように,踊らされる人々を笑い飛ばすことは,僕には出来なかった。
反抗期の中学生じゃあるまいし,それは余りにも幼すぎるじゃないか。
出来ないことは仕方がないから,せめて出来ることだけでも,クリスマスイブという日の恩恵にあずかろうじゃないか。
その雰囲気だけでも味わって楽しめれば,それがせめてもの救いじゃないか。
ふう。
ワインを飲んで鳥の腿肉をかじりながら,僕は朦朧とする意識の中で考えていた。いい子にしていれば,クリスマスにサンタさんが来てくれますからね。
僕が子供だった頃,親はよく僕にそう言った。
思えば,親にはよく騙されたものだ。
おもちゃを買ってあげるから,と言われて歯医者に連れて行かれたり,学校の成績が上がったら何でも好きなものを買ってやる,と言われてテレビゲームをねだったのにプラモデル一個でごまかされたり。
しかし中でも最大の嘘は,サンタクロースとやらの存在だろう。
何たって物心ついた時から小学校4年まで騙され続けた,超ロングランの嘘だった。
そして10歳の年に偶然目を覚ましてサンタクロースの正体を見てしまってからは,サンタクロースは来なくなった。代わりに両親がおもちゃ屋に連れて行って何か買ってくれるようになった。
一番続いた,一番優しい嘘が,今の僕には一番欲しい物なのかも知れない。
もしもサンタクロースがいてくれるのなら―そして,本当に全てをかなえてくれるとするならば―僕のたった一つの望みを,最後にかなえて欲しかった…プレゼントなんて欲しくなかった。
一番好きな人がそばにいてくれれば,他に何もいらなかったのに―翌朝,僕が目を覚ますと,横にはサンタクロースのプレゼントならぬ,携帯電話のメールが入っていた―
★あとがき
クリスマスの時必ず,「クリスチャンでもないのに」と言われますが,それをテーマにした作品です。まあ日本人というのは,本来自分たちの習慣でないことを取り入れてそれを利用して楽しむのが上手な民族ですから,それはそれで別に構わないと思いますけど,ただまあ,「クリスマスに恋人がいない奴はダメだ」みたいな風潮で大騒ぎするのは個人的には何とかしてくれ,と思いますけど(笑)。