#36 ぎりぎり―奇妙な木の実―
今日も私は,毎日通るルートを辿りながら,食料を探して歩いていた。
物心ついた時にはこの,まるでおとぎ話のような森の中に独り放り込まれていた私であるが,この森は私の食に関する欲求を常に満たしてくれていた。その日に食べたいと願った食べ物が,ここには必ずあった。
今日は肉が食いたいな。
私はそう思った。そう思ったならば,この道を辿れば必ず熊だの猪だの鹿だの狸だの,そういう動物がいるから,出会った先から襲ってしまえばいい。私に狩れない動物は,この森には存在しなかった。しばらく歩き回って探したが,不思議なことに今日に限って都合の良い獲物に巡り会えない。さすがに少々疲れを感じて,私は木陰で休むことに決めた。
大きな木の木陰でよいしょと横になって,私は空を見上げた。思えば最近,腹が減ったという欲求に気を取られすぎて,こうやってゆっくり景色を眺めるということをしたことがなかった。
その木には一個だけ実が生っていた。まだ熟していない,青々とした実だ。勿論,取って食おうと思ったことはない。まずいに決まっている。いつも何気なく見ているその実は,いつでも青かった。これからも青いまんまかも知れない。いや,そうに決まっている。そう思えた。一休みを終えて,立ち上がって歩き始めると,すぐに獲物が見つかった。
鹿である。
私は我ながら呆れるほどの瞬発力でそいつに襲いかかった。鹿は最初私に気付き,一瞬おびえるような目をしたが,すぐに観念して私の思うままになった。これも運命と悟ったのであろう。こういう素直な獲物が,私は好きだ。腹を満たし,私は満足して塒に帰った。翌日。
私はその日,何を食いたいかとっさには決めかねていた。
こんなことは珍しい。いつも朝目を覚ますと,今日食いたい物を身体が命ずるはずなのだが。
今日は適当に,思い当たったものを食おう。それだけ決めて,私はいつもの散歩に出かけた。
昨日休んだあの木の根元に差し掛かって,私は不意にあの木の実に気を留めた。
普段ならばそんなことは全く考えないはずなのだが,今日に限って何故か。
ふと視界にその実を捉え,私は不意にどきりとした。
その実は,昨日までの青い未熟な姿から,あたかも薄化粧でも施したかのように,うっすらとした薄紅色に染まっていたのだ。
勿論,昨日まで青く堅い食えない実だったものが,一日で熟する訳がないから,それはあくまで表面的な変化に過ぎないのであろう。しかし,その余りにもさりげない成熟を思わせる艶かしさは,私の動物的な衝動を刺激するに充分であった。
胸の鼓動が,止まない。
あの実を,食べたい。
私ははっきりとそう願った。思えば,あの実はいつでも私の生活圏の中にあって,私の目に留まる場所にいた。一度もそれを意識したことはなかったが,あの実は…今,はっきりと私を誘惑している。私の食欲を喚起し,私に食べられるために。
私はその一点に目標を定め,思い切って飛び上がった。木に登るのは得意だった。しかも今日の私は,あの実を自分の物にしたかったのだ。その衝動が私の運動能力をさらに高めてくれる。
その高さまで登ると,あとはその実をもぎ取るだけだ。
私は思い切って手を伸ばした。
届かない。
ほんの僅かの差だった。爪の先がもう少しで当たりそうなのに,届かないのだ。 何度も何度も,トライした。
目に涙が滲んできた。
もういい。
私は,諦めた。
今日のところは。さらに翌日。
私は再び,その木に駆け寄り,登った。
もう,あの実のことしか考えられなくなっていた。
今日こそあの実を食べてやるんだ。
それだけを願っていた。
昨日より僅かに伸びた爪が,その実を捉えかけるのに,まるでこんな私をじらすかのように,すんでのところで避けていく。
この実は,私を拒絶しているのか?
本来精神だの運動能力だのを持たないはずのこの一個の物体に対してこんなことを考えるのは,本当ならば私の被害妄想だ。しかし,この実が私の爪を巧みにかわす姿は,そう思えても仕方のないものだった。
再び,目に涙が滲んでくる。
私は,声を上げて泣いた。
諦め切れないのだ。
どうしてお前は,そうやって私を拒絶するんだ。
少なくとも二日前までは,お前はいつも私の近くにいて,私のことを誘惑していたじゃないか。せっかく私がお前の魅力に気付いて気を惹かれ,こうしてやって来てみればこの仕打ちだ。余りにも残酷すぎはしないのか。
ならば何故,あなたは私を食べたいと願うのですか?
…?
私はどきりとした。今まで単なる「モノ」としか思っていなかったあの木の実。言葉だの,気持ちだの,そういう物を持っているなんて,今まで考えもしなかったのだ。
私は今まで,貴方に食べられることを確かに願ってきました。しかし貴方は,そんな私に目もくれないで,他の食べ物―肉だの草だの他の木の実だの―そういったものにばかり目を向けてきた。今貴方が私を食べたいと願うのは,私の表面的な成長―単に薄化粧を施しただけの変化に今頃気付いて一時的な衝動からそう思っているに過ぎないのでしょう。
この飽食の時代,他に食べ物ならばいくらでもあるはずです。単にご自分の欲求を満たすために私を食べたいと願うならば,私は貴方に食べられようとは思いません。悪いことは言いませんから,代わりを探してください。
何が哀しくて,一介の木の実にこんなことを言われなくてはならないのだ。
少し腹が立ってきた。しかし―信じられないことであるが,この木の実が本当に心を持っているとすれば―今の私がいくら願ったところで,この実を食べることは,私には出来ない。
私は塒に戻った。
今日は何も食べる気になれなかった。毎日毎日,私はあの木に通い詰め,あの木の実を得ようと手を伸ばして上下にぶんぶん振り回すことを繰り返した。
実はあくまで穏やかに,なおかつ巧妙に,私の爪を避けた。
何故避ける?
今私が食べたいと願うのは,お前だけなんだ。
あの日から私は,何も食べないで毎日ここに通っているのに。
何故貴方は,「今すぐに」私を食べたいと願うのですか?
?
今の私は,まだ熟しかけの木の実に過ぎません。もう少し待てば,もっと成長して熟した木の実になれます。その時になってから食べた方が,きっと美味しいはずなのに。
違う。私は,今のお前を食べたいと願っているのだ。今のお前を…
何故ですか?
何故?理由など…
あるでしょう。貴方は,他の誰かに私を食べられるのが怖いのでしょう。だから,そうならないうちに私を食べてしまいたい,自分のものにしてしまいたいと思っているだけでしょう。そんな気持ちで食べられても,私は嬉しくはありません。どうか他を当たってください。
私はうなだれた。次の日からも,私は何も食べる気になれず,あの木の前を毎日通っている。
もうあの実に手を伸ばす気にはなれなかった。
しかし,あの実―相も変わらず,まるで私を誘惑するかのように赤みを湛えたみずみずしい「彼女」は,私の心をかき乱してやまなかった。
彼女の言う通り,私は他の誰かに彼女を奪われることを心の中で恐れていた。そうなる前に,自分の手で奪ってしまいたかった。今まで誰も気がつかなかった彼女の魅力。それに初めて気が付いたのは絶対にこの私だ。後になって,完成された彼女の魅力に憑かれてのこのこやって来るような奴らに易々と彼女を奪われてしまったら,私の積年の想いはどうなるというんだ。そんな理不尽が許されて良いはずがないのだ。どうあっても,彼女だけは私の手で食べてやらなければならないのだ。ああ,そうだよ。それのどこが悪いんだ!!
今日も彼女は変わりなく,あの木の枝に生っていた。
しかし,明日も同様であるという保証は何もない。
私は狂おしいほどの焦燥に取り付かれ,不意に塒を飛び出した。
何をするでもなく,あの木の根元に縋り付いた。
私は,今までで一番大きな声を上げて泣いた。
いつまでも,いつまでも泣き続けた―腹,減った。
ぽつり,ぽつりと出てくる単語は,もはやそれだけしかなかった。
もう二週間くらい,物を食べた記憶がない。
このままでは死んでしまう。
もう食べ物を選んでいる余裕はないはずだった。
あの実にこだわっていられる状況ではないはずだった。
しかし,他の食べ物を探すことがどうしても今出来ないでいた。
他の食べ物を食べてしまえば,あの実を手に入れることは絶対に出来なくなる。
どうして?
どうしてそこまで?
この上まだ言葉で説明しなくてはならないのですか?
…ぽとり。
私の目の前に,求め続けた「彼女」が―真っ赤に色づいたあの木の実が音を立てて落ちた。
私はそれにかぶりつくことができなかった。その代わりに,そっと胸に抱きかかえて,後生大事に塒に持って帰った。★あとがき
まあ自分としては,結構ストレートな作品かな,と思いますけどね。女性を好きになり,得たいと思う心理を,食物を得ようとする動物にたとえた,という。どちらかと言うと,成長した女性ではなく,まだあどけなさを残した純朴な女性を想起させるように書きましたが。
ちなみにこのタイトルにはある意味が隠されているのですが,それを言うと自分的にちょっとやばいので読者の皆様の想像にあとはお任せしたいと思っております(何のこっちゃ)。