#38 四等賞

 満員電車から吐き出されるように降りると,その人波の中に見慣れた顔があった。
「よお」
 声を掛けてきたのは向こう―横田の方だった。
「早いんだな」
「まあ…俺はいつもこんなもんだよ」
「そうか。こっちは忙しくてやれんよ。今日はやっと抜け出してきた」
 横田はそう言って笑った。
「せっかく会ったんだ,一杯やって行かないか」
「いやあ…かみさんが待ってるから」
「相変わらず生真面目な奴だなあ。いいじゃあないか,女房なんてたまには放っといたって」
「そんな訳にはいかないよ。大体お前だってあんな可愛いかみさんもらっといて,たまには早く帰ってやれ」
 俺が言うと,横田は声をあげて笑った。
 大声で笑うのは奴の昔からの癖だ。しかし最近は妙にそれが癇に障る気がする。

 横田は俺の職場の同期であり,高校の同級生だ。そして,お互い結婚した今は,社宅の同じ棟に住んでいる。
 高校時代は,どちらかと言うと俺の方が成績が良かった。しかし,進学は,横田が記念受験で受けた一流私大に一発合格し,国立志望だった俺は大学入試センター試験に失敗して第一志望を諦め,安全策で受けた第四志望に進んだ。
 そこからけちがついたらしく,偶然同じ会社に同期で入社して以降は,俺はいつも奴の一つ後ろを歩く羽目になってしまった。
 仕事の面でも,何をしてもそつのない横田に比べ,俺はどうにも間が悪かった。同じような仕事をしても,いつも評価されるのは奴の方だった。

 同じ課に一人だけ若い女がいた。
 彼女―北原美紗は,社内でもトップクラスの美人だった。よく気が利いて,仕事もこなし,趣味の料理の腕も評判だった。彼女を自分のものにしたい,と願う男は数知れなかった。勿論俺もその一人だった。
 彼女を射止めたのも横田だった。きっかけは実に単純で,課の歓送迎会で隣同士になったからだった。そこで意気投合した二人は,二年後にゴールインした。ちなみにその時の俺は,両脇に座った先輩にお酌をしたり相槌を打ったりするので精一杯だった。席も彼女とは遠く離れていて,一言も口をきけなかった。
 一年後,俺も結婚した。相手は,彼女の友達だった。よく横田と俺と美紗とその女の4人で遊んでいて,横田と美紗が結婚したから,成り行きのように決めてしまった。好みの女は他にいたが,どうせダメだろうと初めから諦めてしまっていて,出来るのならもう誰だっていいや,という気分だったのだ。
 俺のかみさんになった女―桂子は,顔はどう贔屓目に見てもぱっとしない。俺は面食いだったから,初めて見たときは不細工だとさえ思った。横田には,「他にもいい女はいるだろう。妥協すると後で後悔するぞ」と言われた。俺の前ではよく笑ってくれるから,それだけが救いだった。

 夏。
 異動の内示が出る。
 横田は本社のままで,人事に配属されることが内定していた。事実上,出世コースに乗ったも同じだ。
 俺は…海辺の田舎町の小さな事業所への配属を打診された。早い話左遷だ。
 同じように仕事をしているはずだったのに…俺は愕然とした。

 第四志望の人生。
 俺は時々,自嘲気味に考えた。
 大学も第四志望,出世も第四志望,女も第四志望。
 人生,運不運と言うものが確かに存在するのだ。いくら努力をしたところで,横田のように運命の女神様が微笑みっ放しの奴にはかなわないのだ。ついている奴とついてない奴。それは生まれながらに違うのだ。生まれついての勝ち負けの宿命には,どうあがいても抗うことはできないのだ。

「宮内,宝くじ買わないか?」
 横田が俺を呼び止めて言った。
 俺はあまり気が進まなかった。どうせ当たる訳がない。立ち止まったまま黙っていた。
「どうせ当たらないと思っているだろう?買わないと当たらないぜ」
 横田はもう売り場に顔を突っ込んで物色をしている。
「バラで10枚買おう。5枚ずつ分けようぜ」
 言うが早いか,横田は売り場のおばちゃんに千円札を3枚渡してしまっている。
「1500円だ」
 俺は言われるままに金を払い,下半分の5枚を受け取った。
「当たったらその金でお前の送別会をやろうぜ」
 余計なお世話だ。思ったが,口には出さなかった。

 しばらく後。
 日曜の朝,のんびりと新聞を読みながら朝食のトーストを齧っていると,不意に電話が鳴った。
「誰だよ,朝っぱらから」
 呟きながら俺が電話に出た。
「もしもし,宮内さんのお宅ですか…」
 聞き覚えのある声である。
「何だ,横田か。俺だよ,俺。こんな朝っぱらから何の用事だ」
 応えると,電話の向こうの横田はしばらく押し黙ってしまった。
「何だよ,言わなきゃ分からんだろう。切るぞ」
「…たった…」
「何?」
 声が震えている。何かあったのだろうか。ただ事ではない雰囲気だ。
「何かあったのか,横田?」
「当たった…一等…2億円…」

 動転していた横田が落ち着きを取り戻し,電話口できちんと喋れるようになるまでに十分くらいかかった。
 この間一緒に買った宝くじのうち,横田が取った上半分の5枚のうちの1枚が一等に当たっていたのだ。
「…こ,こんなことってあるんだなあ…俺,夢見てるみたいだよ…じられないよ…」
 そりゃあそうだ。俺だって信じられない。本人ならばなおさらだろう。
「お前もさあ,見てみろよ。俺だってこういうことがあったんだ。お前だって当たってるかも知れないぜ…」
 最後に彼はそう言った。

 俺は冷めきっていた。10枚しか買ってないのに,その中の一枚が2億円に当たってしまって,この上まだ当たりくじがあるなんて到底思えない。
 …まあ投資した分の5分の1でも帰ってくればタバコ代位にはなるだろうな。
 そう思いながら,たんすの引き出しにしまってあった5枚のくじと照合してみた。
 一枚当たっていた。
 4等。10万円。
 これでも俺には大したラッキーに違いなかった。
 しかし,すぐ身近に2億円当たった奴がいるのに,10万円で喜ぶ気にはなれなかった。
 大体,今にして思えばあの時,10枚のくじのうち下の5枚でなく上の5枚を受け取っていたら,2億円は俺のものだったはずだ。
 今回も幸運の女神は,横田の方に微笑みかけ,俺にはそっぽを向いたのだ。
 横田は1等賞で,俺は4等賞ですかい。
 俺は溜息をついた。
 そんな俺を横目に,妻の桂子は10万円の使い道を,目を輝かせながらあれこれ思い描いていた。

 横田が会社を辞めたのは,それから間もなくのことだった。
 周りの人間は皆一様に驚いていた。それはそうだろう。何せ,出世コースに乗り,将来を嘱望された期待の若手だった彼が,ある日突然何の前触れもなく辞めてしまったのだから。
 しかし,俺だけは驚かなかった。それはそうだろう。何せ,宝くじで2億円を当て,もうストレスに苦しみながら日々夜遅くまで働かなくっても一生食べていけるだけの金が手に入ったのだから。
「何か悩みでもあったのだろうか。私に一言相談してくれれば…」
 課長はそう言って嘆いていた。
 相談できないだろう。宝くじの1等が当たりました,なんて。俺だったら口が裂けても言わないな。言っても誰も信用しないだろうしな。
 皆が横田の噂を怪訝そうにする中で,ただ一人真実を知っている俺だけが,心の中でにやにやと笑いながら一人で普段の仕事をしていた。

 社宅に帰って横田のいた部屋をのぞいてみると,そこはもぬけの殻になっていた。
 会社を辞めたから,社宅は出ないといけないのだ。
 もう引っ越したのか。そう思って桂子に話をすると,怪訝そうな顔で彼女は言った。
「そうなの?変ねえ。横田さんも美紗も私には何も言ってなかったわよ。昨日だって美紗と話をしたけど何も言ってなかったし」
 おかしいな。
「そう言えば…」桂子が声を顰めて続けた。
「昨日夜中に,横田さんのところの方から変な物音がしてたわよ。私それで目が覚めたもの」
 俺は携帯を取り出して,横田の携帯に電話をしてみた。
「こちらは…です。おかけになりました電話番号は,お客様の都合により,利用を停止しております…」

 翌日。
 前日まで全く触れられていなかった退職理由―すなわち,横田が宝くじで2億円を当てたらしい,という噂が,今日になって社内中に広まっていた。
 いや,社内中だけではない。社宅のある町内は勿論,市内全体にその話が広がっていた。さらに,県内のローカルテレビ局のレポーターが,俺たちがくじを買った売り場にやって来て,売ったおばちゃんにあれこれとインタビューをしていた。
 俺は不気味に思った。俺は勿論誰にもこのことは話していない。横田も美紗も話してはいないだろう。桂子は横田が宝くじに当たったことさえ知らなかった。誰も誰にも話していないはずの事実が,一日でどこかへ漏れ,県内中に広まってしまっているのだ。
 どこでどう突き止めたのか,テレビ局や銀行員や各種セールスや寄付を求める宗教の連中やらが大挙して,かつて横田が住んでいた社宅の部屋に押し掛けてきた。
「横田さんはもう引っ越しました。ここにはいません!」
 隣の住民が苛立ったようにそう叫ぶ声が聞こえる。
「どこに行ったかも分かりません!あの人はもう会社辞めたんです!何ですかもう,貴方たちは!警察呼びますよ!!」
 俺は恐ろしくなった。
 横田が夜逃げ同然に消えた理由がようやく分かった気がした。

 3ヵ月後。
 俺は桂子と一緒に,温泉宿にいた。
 4等の10万円で,引っ越す前に一回社宅の連中と居酒屋で飲み会をして,残った金を使って,連休を利用して温泉旅行に来たのだ。旅行と言っても,俺が新しく配属になった海辺の田舎町から車で30分ほどの近場だ。
「やっぱりここは魚が美味しいわねえ。のんびりできて,来て良かったあ」
 桂子が言った。 

 俺は横田のことを考えていた。
 死んだという話は聞かないし,捜索願が出ていると言う話も聞かないから,どこかで生きていることは間違いないだろう。しかし,もはや音信不通になってしまった。2億円のことを知らない,知っていても誰も追いかけてこないどこかの街で,世間にばれないように細々と暮らしているのだろうか。何のために当てたのか,分かりゃしない。
 なあに,あいつのことだ。今ごろ軽井沢かどっかに屋敷の一つもおっ建てて,何不自由なくのんびり暮らしているさ。
 …って,何で俺が横田のことを心配しなければならなくなったんだろう。
 この間までは,横田の方が全てにおいて幸せで,羨むことしかなかったってのに。

 あの時,上半分を取らなくて良かったと,今にしてみれば思う。
 少なくとも俺は,急に大金持ちになって,その状況で上手く立ち回っていけるとは思わない。4等賞で良かったと,心から思う。

「あなた」
 桂子の言葉で,ふと我に帰った。
「お注ぎしましょうか?」
 俺の顔の目の前に顔を寄せて,俺の目を見つめながら彼女は言った。
「あ…ああ」
 俺はどぎまぎした。
 湯上がりで,浴衣姿の桂子を,俺は初めてちょっとだけ綺麗だと思った。
「美味しい〜!ねえあなた,本当にお魚が美味しいわねえ」
 顔をでれでれさせて言う桂子に,俺は言った。
「…お前の作った炒飯の方が,少しだけ美味いな」
 桂子は無言で下を向いて,俺の身体をぽんと叩いた。
 俺は大声で笑った。
 桂子も笑った。

 2億円よりも幸福な10万円。
 1等賞よりも幸福な4等賞。
 俺はこう見えて,案外とついているのかも知れない。
 そう思いながら,俺はいつまでも桂子と二人で笑っていた。

 

★あとがき
 率直に言って,これは評価の分かれる小説でしたね。好きな人は結構好きらしいんですが,そうでない人は「なあに,これ?」っていう感じで(苦笑)
 まあこれは,自分のことを本当に幸せだと思えない人が,「まあ,それでも捨てたもんじゃないよね」という,厳しい言い方をすれば慰めのような,そんな部分があるので,自分が本当に幸せだと思っている人から見たらあまり共感できないのかな,と。
 とりあえずこの小説に共感できるかできないかで,その人が幸せかどうか分かります。私は…この小説を書いた張本人ですから,それは推して知るべしでしょう(笑)
 ちなみにこのシチュエーション,考えようによってはものすごく怖いサイコホラーの世界にもなるんですが,そういう読み方をされた方はいらっしゃいますでしょうか。どんな考えようか,ということは言いませんので,想像してみてください。

 

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