#39 中古車選び
「この車はどうなんだ?」
俺は傍らの男に尋ねた。彼は中古車のディーラーであり,俺の友人である。俺は車を探しに来ていた。
一応家族用の車は持っているのだが,時々一人で車を飛ばしたくなる夜がある。家族はあまりいい顔をしないが,俺にとっては今のところただ一つの憂さ晴らしだから,文句を言われる筋合いはないのだ。それほど高くていい車が必要な訳ではないが,ツーシーターでそれなりに飛ばせる車がいい。オープンカーならなおいい。それで安ければ言うことはない。
そういう車を求めて,俺は彼の店にやって来た。彼ならば間違いのない車を周旋してくれる。現に俺の初代の車も二代目の車も彼の見立てによるものであり,今まで大変良く走ってくれた。
彼の店は小さいが,その地道で誠実な商売振りを反映して,台数は規模の割に多い。
そんな中で,俺の目にふと止まった一台がある。さっき言った俺の条件にぴったりはまるなかなかに格好いいスポーツカー。新車で買えば150万円を下らないはずだが,値札には「15万円」と書いてある。ただ,それほど良さそうな車なのに,できるだけ目立たないように隅っこに佇んでいるのが不思議と言えば不思議である。
「この15万円のスポーツカーは」
友人は怪訝な顔をして,値札の中央辺りを指差した。
良く見たら,15万円ではない。1.5万円である。1万5千円である。
「1万5千円?」
声が裏返ってしまった。15万円でも相当破格だと思うのだが,1万5千円とは。
「安いじゃないか。と言うより,安すぎる。何かあるのか?」
俺の問いに,彼は少しの間うつむいて黙っていた。そして,上目遣いに声を顰めて言った。
「事故車だよ…」その車は,走行距離が7千キロそこそこ。中古車と言うより,新古車のレベルだ。
ボディはぴかぴかで,傷一つない。
中心がずれている,すなわちフレームが歪んでいるという訳でもない。
「事故車には見えないぞ」
「うむ。俺もそう思う。九州の方から来た車なんだが,人づてにその話を聞かされただけで,詳しいことは俺も知らん」
「走るのか」
「それは大丈夫だと思う。俺も心配だったから,2〜3キロその辺を走らせたが,何の異常も見られなかった」
「う〜ん」
俺は考えた。こんな自分好みの好条件の車が,しかも格安で手に入る。こんなチャンスは滅多にあるまい。事故車であるらしいことが心配だが,見た目どこにも欠陥はなさそうだ。俺は自動車工場に勤めるエンジニアである。車のメカニックのことなら大抵は分かるつもりだ。
「他の客にはまず勧めないが,お前ならある程度分かるから大丈夫だろう,とは思うんだが」
彼もそう言った。
俺はその車を買うことに決めた。
「どこか悪いところがあったら,いつでも返品してもらっていいから」
彼は言ったが,俺はそれを杞憂だと思った。俺の家は,人口20万のK市の郊外にある。
県道に面していて,その道を北へ15分も走れば,隣町との市町境に至る。
そこまで来てしまえば,民家はおろか人工の建造物すら何一つない,鬱蒼とした森を抜ける山道になる。
もう少し走ると,農道と交わる交差点に突き当たり,右折してしばらく走れば再びK市との境,これを越えてさらに走ると,今度はさっきとは逆,山道から郊外の住宅街へ,そして市中心部の喧騒へと進んでいく。喧騒の一歩手前で右折して20分ほど走れば,俺の家の近くまで戻ってくることができる。
これが俺のいつものドライブコースだ。1周大体1時間30分ほどであり,一人の時間をエンジョイするには手頃である。全線よく整備されていて,変なカーブや狭路もない。また,夜の十時を過ぎると大抵人通りがなくなってしまうから,間違って人を撥ね殺す気遣いもない。勿論警察が張っていることもないから,心おきなく飛ばすことができて,ストレス解消にはもってこいなのだ。
そのお気に入りのコースが,この車のデビュー戦だ。
俺は意気揚揚と家を飛び出し,北へと向かった。制限速度+αくらいのスピードで,俺は市内最後の民家を見送った。
それでも周りに人間の生活があるうちは,万が一のことがあるから少し遠慮して走っていたのだが,ここまで来てしまえばもうその種の気兼ねもいらないだろう。
俺はさらにアクセルを踏み込んだ。
その時である。
不意に横を,小さく黒い影がよぎった。
咄嗟に俺はハンドルを右に切り,それを避けた。
この近辺は野生の狸や狐,野良猫などがよく出没し,時々車に撥ねられてひっくり返って死んでいるのを見かける。
人騒がせな狸だ,と俺は思った。
確認するためにバックミラーを見た。
街灯に照らされていたのは,狸でも狐でも野良猫でもなかった。
もう少しだけ大きな物体―それは老人であった。
俺はぞうっとした。もしも避けきれていなかったとしたら…
それにしても,あの飛び出してくる時の横切り方は,とても老人とは思えない俊敏な動きのように思えた。
今,はるか後方で,7mほどの幅員のこの県道をようやっと真ん中辺りまで渡り終えた彼と,とても同一の人間とは思えなかったものだが…
とにかく,轢かなくって良かった。
俺は少しスピードを落とし,さらに北上を続けた。心臓の鼓動がようやっと元に戻りかけ,落ち着くのと一緒にまたスピードが上がりかけて来たその矢先のこと。
再び黒い影が俺の眼前に立ちふさがった。
右に目一杯ハンドルを切って避けた。
またか。
俺は再びばくばく言い出した心臓を抑えるため,すぐその場で道路脇に車を止めた。
とりあえず深呼吸をした後,それでも気になったから,走ってさっきの地点に戻ってみた。
信じたくない光景が,そこにあった。
さっき飛び出してきたと思しき黒い影が,頭から血液らしき液体を垂れ流しながらひっくり返っていたのである。
狸でも狐でも野良猫でもなく,今度こそ正真正銘の人間である。
作業服姿の,40絡みの中年男だった。
俺が轢いたのだろうか。
いや,それは決してあり得ない。俺はちゃんとハンドルを切って避けたし,音も衝撃も感じなかった。
しかし,こうして目の前で引っ繰り返ってぴくりとも動かないこの男をどう説明したら良かろうか。こういう場合,自分の感覚と目の前の光景と,どちらを信用したらいいのだろうか。
本来ならば,男を病院に連れて行かなければならないはずだった。
しかし,俺はその時携帯電話を持っていなかった。持っていたとしても,こんな山の中では圏外だろう。勿論公衆電話もない。何より,何とか連絡をつけたとして,この状況の中では100%俺が彼を轢いたのだと思われてしまうだろう。自分の身に覚えがないのだから,そんな身に覚えのないことで要らない責任を負いたくはない。
そして何より,目の前で動かないこの男は,恐らくかなり高い確率でもう死んでしまっているだろう。
俺はその場を立ち去った。暗澹たる気持ち,とはまさに今,この気持ちを指すのだろう。
俺,人殺しになったのかなあ。
いや,そんなはずはない。
しかし,現実にさっき人が死んでいたのではないか。
あれはきっと,何かの間違いに決まっている。
俺は,幻想を見ているのだろうか。
俺は病気ではないはずだし,幻覚を見るような何かをやっている訳でもない。
考えたが,結論は出ない。分からない。
もう何もかもがどうでも良くなってしまった。
とにかく,早く帰って布団を被って寝てしまいたい。
そう思ったが,もう道程は半分以上過ぎてしまっているから,この道をまっすぐ行くより他,家に帰る術がない。
俺は後ろを気にしていた。
さっきから後ろを,一台の車がぴったりとくっついて走っているのだ。
ハイビームにしているから,バックミラーに反射して眩しいったらない。
時々,ぱっ,ぱっ,とパッシングさえしてくる。
脇へ避けて道を譲ろうか,と思った。
しかし。
あの車は俺の後ろから来ているのだから,もしかしたらさっきの「轢き逃げ」の現場を見ているかも知れない。そして自分のすぐ前にいる車,すなわち俺のことを「犯人」だと疑って追いかけてきているのかも知れない。もしもそうならば,俺が車を止めれば,彼は俺を取り押さえて警察に突き出すかも知れない。
俺はアクセルを踏んだ。
同時に,後ろの車が猛烈なスピードで追ってきた。
やっぱりか。
俺は泣きそうな顔になって,アクセルをベタ踏みで逃げ切ろうとした。
しかし,どれだけスピードを上げても振り切ることが出来なかった。
奴は無尽蔵のスピードで,余裕を持って後ろについていた。
まるで煽るように,すれすれまで近づいては離れ,近づいては離れを繰り返し,最後に奴のフロントと俺のリアが触れようとした,いや,もう触れたかと思った次の瞬間。
かあっとものすごい閃光とともに,轟音が耳を貫いた。
バックミラーはまるで昼間のように明るい,火の海を映していた。何なんだ。
俺は分からなくなった。
あれも俺がやったのか?
違う。あれは奴が勝手に…
頭を整理しようとするがなす術なし。
とにかくその場から離れたく,涙と鼻水とよだれを垂れ流しながら,俺はただアクセルを踏み続ける。
その時だ。
後ろから,今一番聞きたくない,忌まわしい音が響いてきた。
赤色灯をぐるぐるぐるぐる回し,サイレンを鳴らしながら,黒と白の車が猛スピードで迫ってくる。
俺を,逮捕しに来たのか。
信じたくはなかったが,他に理由が考えられない。
いっそわざと捕まって,自らの正当性を主張したく思った。と言うよりはむしろ,今この場で起こっている不可思議な出来事を,誰でもいいから聞いてもらいたく思った。
しかし,それを誰が信じてくれるだろうか?
やはり,逃げるしかない。
俺はまたアクセルをベタ踏みにした。
前へ,前へ,前へ,前へ。
前,
右前方から,大型トラック。
左前方から,ダンプカー。
そして真正面からは,タンクローリー。
止まる素振りも避ける素振りもまるでなく,一直線にこちらに突っ込んでくる。
後ろのパトカーは,既に後方50センチまで迫っている。
雪隠詰にされた。
もう逃げる道はない。
目の前がぱあっと光った。
― !!!次に気がついた時,俺は車の中にいた。
車は完全に無事だった。傷一つなかった。
降りて周りを見渡すと,確かにさっき―気を失う前まで走っていたその道だった。
しかし,その気を失う前に見たもの―大型トラックもダンプカーもタンクローリーも,そしてパトカーも,跡形もなく消えてしまっていた。燃えてしまったのか,と思ったが,その燃えカスさえもなかった。
まるでそれらが,初めからなかったかのように。
俺は再び車に乗り込んだ。
もう何も考えられなかったし,考えたくもなかったが,朦朧とする頭で一つだけ気が付いたことがあった。
この車は「事故車」だと,ディーラーの彼は言った。
「事故を起こした車」だから「事故車」なのではない。
「事故を招く車」だから「事故車」と言うのだ,と。翌日。
俺は恐る恐る新聞を開けた。
あれだけ大きな事故が,しかも立て続けに起こったんだから,間違いなく新聞に載るはずである。もしかしたら,既に指名手配されているかも知れない。
隅から隅まで何度も読んだが,K市近辺での事故の記事は掲載されていなかった。
家族も会社の連中も,誰も何も言わない。皆いつもの通りに俺に接した。
勿論警察も来るはずがない。平穏な一日だった。
さらにその翌日もそれは変わらなかった。それからもずっと―俺は不思議に思い,今度は件のスポーツカーではなく,家族を乗せるワゴン車に乗って昼間に例のコースを走ってみた。
どこを見ても,事故の跡は全くなかった。
その代わり,事故の現場付近には,奇妙な光景が広がっていた。
そこには,狸の死骸が転がっていた。
見渡す限り,延々と,累々と。俺は,深夜憂さ晴らしにドライブに出るのをやめた。
今は専ら家族との行楽のために,週末にワゴン車で出かける。
スポーツカーは,売主の友人が引き取ろうと言ってきたが,断った。
出かける前にこいつを拝めば,間違っても無謀運転は出来なくなるから。祈 安全運転―
★あとがき
車でドライブをしているとき,結構ひやっとするような経験を今までしてきました。一回狸を轢いた,というか狸が走行中の私の車に体当たりをかましてきて結果的に死なせてしまうことになってしまったことがあり,その時に相当嫌な気持ちになった,そういったことがモチーフになってこの話を書いてみました。本当はもっと現実離れした,それでいて切迫感のある切実な,そういう描写をしたかったんですが,今ひとつ実現できなかったのが不満です。私の表現力では難しかったでしょうか。