#4 あの人ごっこ

「あなたがあの人だったら,良かったのに。」
 その世界一残酷なふられ文句を聞いた瞬間,俺は頭の中が真っ白になった。
 そして,しばらく眠るように意識を失っていた。

「あの人」は,俺の会社の,同じ職場の先輩だった。
 男の俺から見ても,確かに彼はカッコよかった。顔の造作もそうだし,仕事も出来た。細かい気配りの利く人で,上司の覚えもめでたかった。何をするにもスマートで,洗練された印象だった。はっきり言って,俺ではどう逆立ちしても彼に勝てないことは,明白な事実だった。
 会社の女子社員の中にも,彼にアプローチをかける者は後を絶たなかった。しかし,彼はそれらのどの誘いにも乗らなかった。
 彼は出来の悪い後輩である俺を可愛がってくれた。時々食事に連れて行ってくれたし,二人で一緒に酒を飲んだこともある。その席で彼は,最近失恋したことを俺に話した。何年も付き合って,結婚まで考えていた彼女と,喧嘩別れしたという。
「しばらく休憩だ。しばらく恋はいいよ。」
 彼は自分に言い聞かせるように,そう呟いていた。
 その姿はあくまでクールで格好良く,ある意味で俺を嫉妬させた。
 何しろ俺ときたら,年齢と彼女いない歴が全く同じで,この境遇を何とか脱け出したいと,日夜目をギラギラさせて,そのくせ不器用で,女と見れば辺り構わず,下手な鉄砲も数撃てば当たるとばかり,格好悪い迷惑なアプローチを繰り返していたのだから。
 そんな中で仲良くなった女性がいた。俺と気安く話し,屈託のない笑顔を見せてくれる彼女を見て,俺は彼女とならうまくいくと信じた。そして,思いきって告白した。その結末は,余りにも悲惨なものだった。
 彼女を憎む気持ちは微塵もなかった。
 ただ,思ったこと。
 「あの人」になりたい。

 気がつくと,俺は見知らぬ誰かの部屋にいた。
 そして,自分の意思とは関係なく,その場に立ち上がった。
 そして,自分の意思とは関係なく,もそもそと歩き出して,部屋の隅の炊飯器から冷や飯を茶碗によそった。
 そして,自分の意思とは関係なく,冷蔵庫からカップの納豆を取り出して,それを冷や飯にぶっ掛けて食べた。
 俺は納豆が嫌いだ。なんで俺は,吐きそうになりながらこんなまずいものを自分の意思に反して食っているんだ。
 不思議な,かつ不気味な気分でいると,俺は不意に再び立ちあがり,今度は歯ブラシとコップを持って洗面所に向かって歩き出した。
 洗面所で歯を磨いて顔を洗って,髪を直す。
 俺は髪が硬い。まるでワイヤーブラシのようで,一度寝癖がついたが最後,スーパーハードのムースとかジェルとかをフル稼働してもなかなか直らず,苦闘する羽目になる。
 しかし,櫛を使って梳く自分の髪はとてもスムーズで柔らかく,自分の髪じゃないみたいだった。
 それもそのはずだった。
 洗面所の鏡の中にいる自分は,俺ではなかった。
 それは紛れもなく「あの人」,件のカッコいい先輩だったのである。

 俺が「あの人」になってしまったのは,紛れもない事実だった。
 しかし,俺は完全に彼と同化したわけではなかった。
 行動に関しては,俺の意思は一切彼に反映されなかった。
 俺は彼を操ることは出来ず,ただ彼の感じた感覚を彼と同様に感じることが出来る,それだけに過ぎなかった。
 彼は朝の7時に家を出て,会社に向かった。
 普段この時間はまだ寝ている俺は,冗談じゃないよ,勘弁してくれよ,と思いながらも,彼の行動に逆らえず,従う他なかった。
 会社に着いた彼は,まず窓を開け,部屋のコピー機のスイッチを入れ,布巾でみんなの机の上を拭き始めた。本来は一番若い俺の仕事であるはずなのに,どんなに努力をしても彼より早く来る事の出来ない俺に代わって,二番目に若い彼がその役目を負っていたのだ。
 俺は疲れを感じながらも,本来俺の仕事でなければならないものである以上,文句を言う訳にもいかず,逆にただ恥じ入りながら,彼の行動に従うしかなかった。
 さて,もろもろの朝の仕事を終えた彼は,休む間もなく,今度は自分の仕事に取り掛かり始めた。
 そういえば,彼は毎日,かなり遅くまで残業していた。俺が見ていたわけじゃない。ただ,課内での噂になっていた。噂になるほど評判だった,というのもあるが,それだけではなかった。彼が付き合っていた彼女と別れたのも,仕事が忙し過ぎて彼女の相手をする暇がなく,そこからすれ違いが出来たのが原因であった,というある種スキャンダラスなファクターがあって,それ故なおさらその話は有名になったのだ。
 こんなに朝早く来て,しかもそんなに遅くまで残業しているなんて,そんなに働いて体を壊さないのだろうか。
 たまたま事務分掌でそれほど忙しくないポジションを割り当ててもらっていて,遅くまでの残業などめったにせずにさっさと帰ってしまう,それなのにいつもヒーヒー言いながら死んだような目で仕事をしている俺は,ずっとそう思いながら彼を見ていた。
 今は他人事じゃない。彼の苦しさが,俺にダイレクトに伝わってくる。そして俺は逃げることが出来ない。彼が倒れたら,俺も道連れだ。
 そうこうしているうち,俺を除く職場のメンバーが全員集まり,開始のチャイムが鳴った。
「ところで,新井君はどうした?」
 課長が不意に言った。
「そういえば来てませんねえ」
「連絡はあったのか?」
「いいえ」
「無断欠勤かよ,ふてえ野郎だな」
 係長が不機嫌そうに言った。
 違う,俺はここにいるんだ…とここで叫んだところで彼らに伝わろう筈がない。
「まあいいじゃないですか,どうせいてもいなくても仕事に支障はないんだから」
 主任が笑いながら言った。
 俺が密かに憧れていた5つ年上の紅一点の先輩が続いて声をあげて大笑いをした。
 くそ,いないと思って言いたいこと言いやがって。
 陰ではこんなこと言ってやがったのか。
 俺はこの体を使って思うさま暴れてやりたいと心中に考えた。しかし,それはできない相談だった。俺はひたすらこの労働と陰口と煙草の煙の真っ只中で,心と身体で彼の疲労を甘受するしかなかったのだ。

 その日は昼過ぎから,ちょっとした変化があった。
 俺は会社の寮に住んでいた。無断欠勤の知らせを聞いた管理人のばあさんは乱暴にも,俺の部屋の鍵をこじ開けた。すると,意識不明で倒れている俺の体が横たわっているではないか。ばあさんは仰天して救急車を呼んだ。意識不明のまま俺の体は病院に担ぎ込まれた。その話は職場の上の人々に伝わった。課長と係長は俺の体が運ばれた病院に走った。どうやら医者からは,俺が死ぬかもしれないという事を言われたらしい。
 もし俺が死んだと見なされたら(特に最近,「脳死」というのが人の死であると認められる方向に向かっているらしいし),俺は一体どうなってしまうのだろう?俺の意識はここ,つまり先輩の体の中にあるのだから,俺は帰る場所を失ってずっとここにいなくてはいけなくなってしまうではないか。
 それも案外悪くないかもしれない,と思った。どうせ今のままの俺でいたところでろくなことがないのだから,いっそこのまま先輩の体の中で暮らした方がいい思いが出来るかもしれない。何せ彼はカッコよく,モテモテで,出世街道を行く人間なのだから。
 彼はその日も,午後5時を回っても帰るそぶりは微塵も見せず,仕事に明け暮れていた。
 彼は俺が意識不明で病院に担ぎ込まれ,死にかけている(と,傍目には映っている)ことは知らなかった。
 それは俺には少々残念なことではあった。せっかくこうして縁あって他人の中に入りこんでいるんだから,今しかできないような事をやってみたかった。自分で自分の見舞いに行くなんて,そうめったにできる経験ではないではないか。もし万一俺が「死んだ」なんてことになったら,自分の葬式に行くというこの上ない稀有な体験ができるな。こいつは面白い。
 俺がこうしてバカなことを考えている間にも,彼は一心不乱に仕事をしていた。いや,その言い方は適切ではない。彼があまりにも根をつめて仕事をするから,こんなバカなことでも考えてないとこちらの神経がもたなかったのだ。
 彼の苦悩,疲労は容赦なく俺にも襲いかかってきた。彼が何に悩んでいるのかさえ,俺には分かっていなかった。目の前の山積みの書類には悉く宇宙語が書いてあるかのように俺の目には映っていた。しかし,とにもかくにも彼が何かに悩んでいて,しかも心身に著しい疲労が広がっていることだけは,感覚として俺にも感知できた。
 彼が職場を出たのは,もう日付が変わろうか,という時間だった。
 しかし,これでも彼にとっては早々に見切りをつけての決断だった。心身に疲労が回りに回って,これではもはや仕事にならない,という精神状態からのものであることは,俺にもよく伝わっていた。
 彼は終電車に揺られて家に帰ると,シャワーを浴び,冷蔵庫からビールを取り出して飲み始めた。
 何度か一緒に飲みに行った者の証言として話すと,彼はそこそこ酒は飲める方だった。しかし,最近の彼の酒の飲み方にはどことなく暗さが感じられた。静かに,あくまで紳士的にゆっくりと飲みながら,時に寂しげな目を宙に浮かせて,別れた女の話を,まるで独り言を呟くように俺に聞かせた。
 家で酒を飲む彼は,いつも俺に見せる飲み方とはうって変わって,まるで浴びるように,まず500ミリリットルの缶ビールを一気に飲み干した。
 そして,返す刀でウイスキーをロックで作って,それをまた一気に飲み干した。
 彼は何事かをぶつぶつ呟きながら,引出しの中から一枚の写真を取り出した。
 そこには,いかにも快活そうな,髪をブラウンに染めた今風の美人が写っていた。
 彼はそれをしげしげと見つめたかと思うと,ふと眼を閉じて,その写真に顔を近づけ,そっとくちづけをした。
 そして写真から唇を離すと,またその写真を見つめ,言いようのない悲しげな目をした。その眼は,心なしか潤んでいるような気がした。
 次の瞬間だった。彼は不意にその写真を高く空へ振り上げ,まるで子供がめんこをする時のように畳に叩きつけた。
「このクソ女,冗談じゃねえ」
 彼は吐き捨てるように呟いて,気味の悪い笑みを浮かべた。そして,次に気味の悪い声で,ひっひっひっひと笑いを漏らした。
 それは止まらなかった。そして,その声には泣くようなうめきがこもっていた。
 ひっひっひっひ,は,直にあっはっはっは,という高笑いに変わった。
 吉田(課長の名前)の馬鹿野郎。
 鈴木(係長の名前)のボケナス。
 貴様らみんな無能なんだよ。どいつもこいつも,全部俺に擦り付けていきやがって。
 狂ったように,そう叫んでいた。
 狂った上での叫びであるとは,俺は思わなかった。
 ただ,決して明かしてはいけない本音を壁に向かってぶつけているだけ。
「ともみー!!」
 それは恐らく,前の彼女,例の「クソ女」の名前。
 彼はその叫びを最後に前のめりに倒れこみ,それきり死んだように眠ってしまった。
 俺は何故か,彼と一緒に眠ることができなかった。

 翌日。
 目を覚ますと,頭がズキンズキンした。
 それなのに彼は,いつもの時間に起きて,あくまで格好よく身なりを整え,いつもの時間に出かけた。
 そして,いつものように朝一番に出勤し,朝の用意をこなしていた。
 彼は,彼を演じていなければならなかったのだ。
 何だか,彼が不憫に思えてきた。
 その瞬間,気が遠くなった。
 ふわふわしたひとときの後,目を覚ましたのは,俺の体が運び込まれていた例の病院だった。

 翌日から,俺は会社に復帰した。
 奇跡的な生還を果たした俺を,職場の人々はおおむね好意的に迎えた。
 俺はそれが本心からのものだとは決して思わなかった。
 しかし,そんな事は実はどうでもいい事だった。
 俺は「彼」に,以前よりも強いシンパシーを感じ,その一方で,自分の人生をもう少しだけ闘ってみよう,という気持ちになっていた。
 俺が俺であることも,案外と悪くはないのかもしれない。
 彼ほど格好よくは振舞えないかもしれないけれど,彼は彼,俺は俺で楽しいことも,辛いこともあるのだ。それを受け入れよう,という気持ちになっていた。

「新井君,最近元気じゃないか。すごくやる気が感じられるよ。何かあったの?」
 あの日陰口を叩いていた主任にそう言われたその時,俺の「あの人ごっこ」は幕を下ろした。

★あとがき
 この辺からでしょうね,本気で書き出したのは(異論もあるでしょうが)。カッコいい先輩のモデルはいますが,私の職場が全くこのまんまと言う訳でないのは勿論である。どんなにカッコいい人でも,どんなに強く見える人でもカッコ悪い所,弱い所を(見せないだけで)持っていて,それでトータルで人間なのよね,ということが書きたかった。まあ私は弱い所やカッコ悪い所を人目にさらしてしまうから問題外だが,自分の弱さを自覚していてそれが原因で劣等感を抱いている人がいたら,これを読んで癒しにしてくれれば幸いである。

 

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