#41 卒業試験

 T市行きの特急バスに一番に乗り込むと,僕は真ん中あたりの席に腰を下ろした。
 その街に住む女友達に会いに行く。
 今日こそは,「女友達」という関係から卒業するために。

 特急バスは,30分ほど走ると,隣のF市の駅前に停車する。
 F市の方が大きな街だったから,大勢の客が乗り込んでくる。
 何気なくちらちらと乗客の顔を眺めていたその時,僕は一瞬,凍りついた。

 客の中にあった見覚えのあるその女は,僕の横を何もなかったかのように素通りして,僕の斜め後ろのあたりに腰を下ろした。 
 その顔を見るのは2年ぶりだった。
 しかし,彼女が僕の横を通り過ぎた一瞬,その記憶は呼び起こされた。
 それは別れた女,陽子の姿だった。

 2年前,僕が最後に見た彼女とは,少し違っていた。
 髪はショートになっていたし,少し顔が丸くなったような気がした。
 ぱっと見ただけでは,間違いなく彼女なのかどうか確認はできない。 
 僕がはっきりと覚えていたのは,彼女の耳の形―少し上を向いていて,両目のラインよりも少し上についていた,その特徴のある耳の形だった。
 しかし,その最後の手がかりさえも,まるで意地悪のようにブラウンヘアに隠されてしまっている。
 僕は彼女に悟られないように気をつけながら,ちらりちらりと彼女を見た。
 気がつかないどころか眠りこけてしまっている彼女を見ながら,僕は何とも言えない気分に囚われていた。

 僕は陽子との日々を思い出していた。
 彼女は僕にとって,最初で,今のところ最後の女だった。
 愛している,と言ってくれた唯一の女。
 もう終わってしまったことと,切って捨てるつもりでいた。
 しかし,2年前のあの日以来,愛している,愛されているという感覚を与えられなかったがため,僕の気持ちは少し弱くなってしまっているようだった。
 僕はもう一度,陽子から愛していると言われること,そして陽子と,別れる少し前まで毎日のようにそうしていたように,愛し合うことを夢想した。
 それはその時限りの夢想であり,自分がそれを望んでいることを認めたくはなかった。もしその種の未練が残っているのならば,あの時に別れるはずがなかった。僕は彼女との将来に確信が持てず,覚悟を決めることが出来ず疎遠にしてしまったし,彼女はそれを察して僕に愛想を尽かしたのである。
 しかし,そんな頭とは裏腹に,僕の心臓はひどく鼓動を打ち,手がしびれて息が苦しくなった。

 普段ならば嫌になるくらい長く,退屈なT市までの2時間半が,今日はやけに早かった。
 僕は陽子の反応をもう一度見ようとして,着いてもすぐに降りないで座っていた。
 陽子は乗ってきた時と同じように,僕のほうに目もくれないで,そそくさと降りていった。
 僕は少し残念なような,安心したような,そんな気持ちで一つふうと溜息をついた。

 バスターミナルを出ると,陽子はいなくなっていた。
 もしかしたら,彼女たちは僕の見た幻―それは,過去を振り切って新しい女性を愛するために,その資格があるのかどうか試すために神様が用意した,卒業試験であったのかも知れない。
 もしもそうだとしたら,僕は合格なのだろうか。

 帰りの特急バスに揺られながら,僕は車窓の景色をぼんやりと眺めていた。
 僕は件の女友達に告白したが,断られてしまった。
 やはり,僕は卒業試験に落第してしまったようだ。
 過去を振り切れずに気持ちが動いた,そのために一途になり切れなかった,そういう部分を彼女に見透かされてしまったのかも知れない。

 陽子を忘れることは,恐らくは出来ないだろう。
 だからと言って,いつまでも引きずっていては先に進めはしないだろう。
 過去のない奴なんて,いないだろう。
 結局皆,適当に過去と折り合いをつけて他の誰かとくっついてしまうのだろう。
 その「他の誰か」に,過去の相手より強い思いを抱けるかどうかにあるのだろう。

 思えば,僕は陽子を含めて,1人の人に強い思いを抱いたことがあるだろうか。
 単に愛してくれそうな人,自分を満たしてくれそうな人だったから近づいただけだったんじゃないだろうか。

 一目合ったその日から,恋の花咲くこともある。
 一目見て,この人と結婚すると確信しました。
 そんなこと,あるのだろうか。

 おかしな悪戯をするのならば,僕に今一度,恋の魔法とやらをかけてやってくださいよ。
 バスを降り,田舎でしか見られない綺麗な星空を眺めながら,僕は呟いた。

★あとがき
 まあとりあえずこの話は,自分の状況,思っていることをヒントに,さんざん妄想を膨らませて書いたものです。恋愛に対するこの種のニヒリズムというのをこれを書いた当時自身の中で持っていたのは事実です。それでもきっと人間と言うのはどこかで「恋の魔法」とやらをかけられて妄信的にくっついてしまうのでしょうなあ。そうでなかったらどこかで妥協して適当に(以下自主規制・笑)。

 

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