#44 光の糸

 

 最近は家に帰ったらインターネットの動画サイトばかり見ている。
 その多くは馬鹿馬鹿しくて他愛のないものであるが,時には音楽を聴くこともある。
 
 ポール・モーリアのイージーリスニングが好きだった。
 僕が大学時代を過ごした街の商店街で,毎時00分になると「恋は水色」が流れた。
 卒業して社会人になり,中年と言われる年齢になってからも,観光地でも何でもない,何の変哲もないその街を,出張だの旅行だの口実を作っては何度も訪れた。
 きっとその街も変わっていっているに違いなかった。
 ただ,いつ訪れても,その街はあの時と同じ顔で僕を迎えてくれた。
 そして,あの景色の中では,僕は大学生のままだった。

 最近の僕はよく,予備校にいる夢を見た。
 夢の中の僕は,やはり40過ぎの中年男だった。
 しかし,僕はもう一度大学に入り直そうとしていた。
 そろそろ,受験の手続きをしなければな。受かったら新しい家も探さないと…
 そこで目が覚める。
 目が覚めると僕は,大学にもう一度入るためにはあの面倒な古文や漢文,英語の文法に数学の公式,その他もろもろの知識を覚え直し,それを巧みに操って答案を埋めるという作業をしなければならないことを思い出し,それが今の自分には到底出来もしないであろうことを悟り,ただ茫然とするしかなかったものである。

 つまるところ僕は単にあの時代への未練がたらたらで,できることならやり直したいけれど,実際にはできるはずもなく,毎日嘆息しながら職場と家の往復を繰り返すだけの一介の中年男に過ぎない。
 毎朝のように現実を突き付けられながらも,そのことを認めたくない自分がいた。
 そんな僕を嗤うように,日々はあくまで淡々と過ぎた。

 その日も帰宅すると早速パソコンの電源を入れ,いつもの動画サイトにアクセスした。
 最近の機械はよくできているもので,今までに見た動画の傾向から,利用者が好みそうな動画を「あなたへのおすすめ」と称して紹介してくれる。
 もっとも,機械に自分の好みを知られているというのは少々気味が悪いものなのだが。

 僕の好みをどこで知ったのか知らないが,その日にこの機械は僕に「恋は水色」のピアノ演奏を勧めてきた。
 音楽のことはよくわからないが,美しい演奏であることくらいは分かった。
 女性のそれと思しき細い指が,鍵盤の上を自在に駆けた。
 長い脚が,小気味よくペダルを踏む。
 無論,このご時世であるから顔は映っていなかった。
 「mai0802」
 それが「彼女」のハンドルネームだった。
 
 大学時代にただ一人好きになり,少しだけ付き合った女性がいた。
 彼女とはアルバイトで知り合った。
 僕より7つ上で,当時28歳だった。
 僕はインターネット上にホームページを持っていて,小説と称した駄文を書いて載せ,自己満足に浸っていた。
 彼女もインターネット上にホームページを持っていた。今で言うところの地下アイドル的なことをやっていたように記憶している。
 そんな共通点があったから,彼女は僕に興味を抱いたらしく,遂には好きだと言ってきた。
 彼女はただ美しかったから,まるで熱に浮かされたように,僕もそれに同意した。

 彼女は僕にいろいろなことを教えた。
 酒や煙草,当時流行の歌,そして男と女のことも,僕は彼女から教わった。
 しかし,彼女がなかなか教えてくれなかったことがあった。
 それは,自分自身のことだ。
 僕が彼女のことで知っているのは,名前とメールアドレス,そして誕生日だけだった。

 彼女は少し悪っぽい雰囲気を漂わせる女だった。
 その唇からはいつも煙草とコーヒーの混じった味がした。
 家族のことは話さなかった。
 ただ,妙に自信のある態度で,困ったことがあったら何とかしてあげる,と口癖のように言っていた。
 それが何を意味しているのか,当時は分からなかったけれど。

 時々夜中に呼び出され,彼女の車でドライブをした。
 電話が鳴ると車を止め,僕を置いて彼女は外に飛び出した。
 内容は分からなかったが,何か言い争いをしているようだった。
 何かあったの,と聞くと,不機嫌そうに別に,と言った。
 そのくせ,近くの空き地に車を止めると,さっきのことはまるでなかったかのように,しなだれかかって甘えてくるのだ。
 そしていつも僕は,それに負けてしまった。

 彼女は僕と結婚したいと言った。
 子供が欲しい,とも。
 僕はそのたび,彼女を慰めて誤魔化した。
 この女性と結婚し,子供を作る。
 僕の嗅覚が,それは危険だと僕に告げていた。
 僕がなかなか願いに応じなかったために,彼女は僕から離れていった。
 もっと男らしくならなきゃダメだよ,と台詞を残して。

 あれから20年以上が経った。
 彼女の名前は舞。誕生日は8月2日だった。

 彼女と別れた後も,僕は舞のことを案じていた。
 恐らくは経済的に豊かでもなく,少々荒れた生活をしていた舞。
 悪い仲間と一緒におかしな世界に行っていなければ良いのだけれど。
 どこかの金持ちにでも見初められて幸せに暮らしていれば良いのだけれど。

 もちろん,「mai0802」と称してピアノを弾いている彼女と舞が同一人物であるという確証はない。
 単なる偶然かも知れない,いや,多分偶然だろうとは思う。
 舞は小柄だったし,動画で見せたようなすらっとした長い脚ではなかった気がする。
 もう今は50が近いはずだから,あのような綺麗な手指でもないだろう。
 そもそも,ピアノを持っているということはある程度上流の暮らし向きなのだろう。
 舞がピアノを弾くなどということはもちろん当時聞いていない。
 その後の消息は,知る術もない。

 かくして僕は,以来些か複雑な気分で「恋は水色」を聴くことになった。
 その美しい演奏と,少々悪ぶった舞がどうしても重ならないのだが,さりとて思い出さない訳にいかない。
 動画のコメント欄にはその演奏を称えるコメントが並んでいる。
 そんな中に,僕が私情でコメントを連ねることは,どうしても憚られた。
 
 代わりに僕は,歌を歌うことにした。
 彼女が教えてくれた,当時流行の歌。
 僕は人より随分と声が低く,特徴的な声をしていると言われる。
 流行の歌はキーが高くて歌えないものだから,1オクターブ下で歌ったものだった。
 まるで違う,と彼女は不満がったが,それでも笑って聴いてくれた。
 僕と同じ声を出せる人間はあまりいないだろうから,知っている人が聴けば僕の声だと分かるだろう。

 「90年代の歌を超低音で歌ってみた」
 このタイトルで,僕は同じ動画サイトにカラオケ動画をアップした。
 もちろん自分の姿は晒さない。
 ただ,バックにはあの街の風景を流したく思った。

 「tatsu0918」
 これが僕のハンドルネームだ。
 舞はいつも僕のことを「タツ」と呼んでいた。
 僕の誕生日も知っている。

 無論,このことで舞からレスポンスが来ることを期待などはしていない。
 僕は僕で家庭があるし,舞は舞の暮らしがあるだろう。
 単なる僕の自己満足である。

 ただ,僕が舞のことを思い出したように,舞が僕の歌を聴いて「ああ,あんな奴がいたな」と片隅にでも思い出してくれたら,それは割と素敵なことではないだろうか,と思っただけのことである。
 
 
 

 

 

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