#45 夫の葬儀にて

 

 まさか,こんなに早々に喪服を着てこの場に立つことになろうとは思ってもみなかった。
 いや,そんな思いを持つ余裕とてなかったのかも知れない。
 夫が死んだ。
 まだ45歳の若さである。
 元々少々心臓が弱い,ということは聞いていたが,目立った持病はなかった。
 しかも心臓ではなく,脳をやられて亡くなったのである。
 その日の夕方,会社を出て少し歩いたところで倒れ,通行人に救急車を呼んでもらって病院に運ばれたが,そのまま帰らぬ人となったのである。

 夫は酒も煙草も博打もやらない人で,金のかかる趣味もなかった。
 ただ,保険の類だけにはかなりお金をかけていたので,死んだ後のお金の心配は要らなかった。
 あるいは,このことを予期してそうしていたのかも知れないが,それはあまり考えたくないことだった。
 そもそもそんなことを考えるより前に,切羽詰まった問題として彼の葬式をしなければならない。
 夫の両親と私と私の両親で駆けずり回って何とか算段をして,どうやらこの場を調えることができたのである。
 
 ただ,妻として喪主はやらないといけない。
 よく夫を早々に失った妻が喪主として立っている姿を見て,「涙の一つもこぼさず毅然とした態度だった」と言われることがあるが,それは違うと思った。
 いざこの場に立つと分かるが,涙をこぼす余裕などないのである。

 夫は会社ではうだつの上がらぬ平社員であった。
 それなりに大きな会社で,なおかつ年功序列の風習があったのが幸いして給料はそれなりにもらえていたが,長のつく役職とは無縁である。
 直属の上司―課長は夫より一つ年下であった。
 彼は私のところに急ぎ足で駆け寄って深々と一礼をし,このたびは突然のことで誠にご愁傷様で,と型通りの挨拶を述べた。
 課長はその後,いや通り一遍の挨拶はここまでにして,と一度言葉を区切った後,夫のことを話した。

 田辺さん(夫のことである)はよく気が付く性格で,社の若い社員をとてもよくフォローしていた。また意外に厳しい面もあり,相手が上役や得意先であったとしても言わなければならないことははっきりと言う性質であった。特に若い人に対する理不尽なことについては敢然と立ち向かう人だった。あるいは昇進が遅れたのはその所為だったのかも知れない,と。
 彼はそして,それは本当は僕がやらなければならないことだった,田辺さん一人にやらせてしまってとても後悔している,と声を落とした。
 
 夫は普段,家で仕事の話は一切しなかった。
 大体毎日残業もせずに夜の7時前には家に帰って来て,着替えるとすぐに夕飯になる。
 夕飯を食べ終わるとリビングの隣の和室にこもって,寝転んでネットを見ていた。
 時々笑い声が聞こえてくる。
 うちには子どもが二人いるが,子どもが勉強もせずにテレビやゲームに夢中になっているのを咎めることもなく,時折何とも優しい,子犬のような目をして見つめることがあった。
 おかげで子どもを𠮟るのはいつも私の役目であった。
 思えば私も出会って付き合って結婚して,あれからもう15年ほどになるが,夫に怒られたり喧嘩をしたことは一回もなかったのだった。
 ただ,結婚式の準備で不手際があった時に彼が業者を厳しく怒鳴りつける姿は見たことがある。

 普通,こんなことを思い出すとすっと涙がこぼれたりするのだが,何故か今は泣けなかった。
 もしかすると私は,冷たい妻なのかも知れないなあ。
 少し自分に嫌気が差した。
 課長はそんな私の思いを知るはずもなく,お気を落としとのこととは思いますがどうぞご自愛を,と今一度頭を下げた。
 そして私の邪魔にならないように,少し離れたところに立ってずっとお堂を見ていた。

 ふと見ると,入口のところに一人の若い女性が立っている。
 眼鏡をかけて,すっきりとした黒髪が印象的なすらっとした美人だと思った。
 黒いワンピースを着ているから恐らく参列者なのだろうが,何となく入りにくそうにしている。
 すると課長がそれに気が付いて,山崎さん,と声を掛けた。
 山崎さんと呼ばれた彼女は,少しほっとしたような顔をして課長のところに駆け寄った。
 私は少々胸騒ぎがして,どちら様ですか,と二人に問うた。
 うちのアルバイトさんで山崎さんと言います,と課長が言い,彼女も山崎です,と頭を下げた。
 
 山崎という名前には覚えがあった。
 一度だけ,夫のスマホを盗み見したことがある。
 夫は「山崎麻美」という女性と頻回にメールのやり取りをしていたのであった。
 私はうっかり,ああ山崎さんですか,と言ってしまった。
 課長は,ご存知なんですかと驚いた顔で問い,彼女は下を向いた。
 私は自分の粗相に気付き,いえすみません,お初にお目にかかります,と言い直した。
 山崎さんは田辺さんにとてもお世話になったんですよ,と課長は柔和な笑顔になって言った。
 彼女は少し恥ずかしそうに俯いたままである。
 
 夫と山崎さんのやり取りはいつも他愛のないもので,特に好きだの愛してるだのという不穏なものはなかった。
 時々仕事などの悩みを相談するような内容のものがあり,そのたびに夫はアドバイスをしつつ,山崎さんなら大丈夫だから,と励ますメッセージを送っていた。
 初めてそれを見た時は,胸にずきんとくるものを感じた。
 この人誰よ,と問いたい気持ちもあったが,普段の夫の様子を見てそれを思いとどまったのである。
 女房の妬くほど亭主もてもせず,という言葉もある。
 そもそもあの人に浮気をするような度胸があるとも思えなかった。
 
 課長は俯いた彼女の顔を窺って,泣いたのと聞いた。
 彼女はいえ,花粉が,とだけ言って最後に頭を下げてその場を離れた。

 もう少しで葬儀が始まるので,私は会場に入る。
 ふと後ろを見ると,二人の若い女性がやはり入口の方で入りづらそうにしている。
 今度は私が自分で向かうことにした。

 二人は会社の別々の課の社員だと言う。
 これまた結構な可愛らしい女性である。
 田辺さんにお世話になったので,と言っていた。
 別の課の子にまでお世話をするなんて,と少々呆れたような心持がしたが,それはそれはと言いながら丁重にご案内をした。

 葬儀が始まった。
 私は件の3人の女性が気になったので様子を見ていた。
 参列者は皆一様に沈痛な表情で下を向いていたが,山崎さんは下を向いて大粒の涙を流して泣いていた。
 あとの二人はお互い泣くのを我慢しているように見えた。
 少し離れたところからであったが,二人の瞼が震えているのが分かった。
 夫がどう思っていたかはもはや知るすべがないが,この3人はきっと夫のことが好きだったのだ。
 私は悟った。
 葬儀中,そのことが気になって気もそぞろになり,若干の手違いがあったのは喪主として失格であった。

 夫の遺体は斎場に運ばれ,荼毘に付される。
 出棺の時が来た。
 親族で棺を運び出し,霊柩車に積み込む。
 彼女たちは顔の前で手を組んで,祈るような恰好をしていた。
 怯えるような表情。固く目をつぶっている。
 山崎さんは見ていられなかったのか,ついに目を背けてしまった。
 私たち親族は夫の遺体と共に霊柩車に乗り込む。
 霊柩車が出ると,多くの人が見送っているのが見えた。
 彼女たちははるか後ろの方にいて,すぐに見えなくなった。
 私はふう,とため息をついた。

 最後のお別れを終え,夫の遺体は遺骨となった。
 本来最後のお別れは一番哀しく,涙を誘うものである。
 夫の両親をはじめ,親族一同は皆泣いていた。
 子どもたちは嫌だ,と叫びながら大声で泣いた。
 私だけが,泣けなかった。

 全てが終わった。
 私は通夜・葬儀をはじめとする一連の仕事を終え,若干の開放感に浸っていた。
 すると何故だろう。
 あの時には一粒も出なかった涙がボロボロと流れてくるのである。
 私は涙だけでは飽き足らず,嗚咽して号泣した。
 そしてあの3人のことを思った。
 あなたたちよりも,きっと私の方が。
 止まらなくなってしまった。
 結局私は小一時間,夫の遺影の前で泣き続けたのである。

 
 

 

 

ホームへ