#7 落陽
まだ夕暮れ時だというのに,俺はとあるカウンターバーで酒を飲んでいた。
土曜日のこの時間に一人で酒を飲んでいるなんて,大概ろくでもないものだ。
今日の俺もその例に漏れなかった。もっと言えば,その時の俺は最悪の部類に属する人間だった。
ウイスキーは味が嫌いだった。しかし,今の俺は一秒でも早く酔っぱらってしまう必要があった。「貴方とは友達以上にはならないから。」
ランチの時に彼女が不意に言ったその言葉が俺の胸に突き刺さって取れない。
確かに彼女とは,その時点で単なる友達に過ぎなかった。しかし,俺にとっては単なる女の友達以上のものを彼女には感じていたし,彼女にしたって俺のことを大切に思っていてくれていたはずだった。毎週のようにお互い電話をして,辛い時には励まし合い,悩みを相談し合っていた。誕生日やクリスマスはいつも一緒にいて,プレゼントを交換したりして,まるで恋人同志のように過ごしていた。いいところも悪いところも全てをさらけ出して,二人はいた。この5年間,俺と彼女はいつだってお互いを大切に思って生きてきたはずだった。…少なくとも俺は。
確かに「友達」だった。しかしそれは,将来に可能性を…いつか結ばれるという期待を残した関係だと,俺は思っていた。
彼女はそれを否定した。
友達として,大切に思ってきただけ。
友達にはみんな,同じようにしてきたから。
彼女はそう言った。
もはや,思い出したくもなかった。
俺は水割りを水のように飲んだ。
空けてしまうと,インターバルを置かずお代わりをした。
一秒でも間を開けると,あの忌まわしい一言が何度も何度も頭を回り出して気が狂いそうになっちまう。「隣,いいかな?」
そう言いながら,いいとも悪いとも言わないうちに一人の男が俺の隣に座った。
「どうだ青年,わしと飲まんか?」
なんだこいつは!?なんで男をナンパするんだ?
俺はびびった。いくら女に振られたばかりとはいえ,やけになって男に走るような趣味はない。気味が悪くなり,俺はその場を離れようとした。
「何だよ爺さん,また来たのか」
バーのマスターが振り向いて言った。爺さんは笑った。
「いやねお客さん,この人はここの常連でね,貴方みたいに一人で寂しげに飲んでいる若い人を見てはこうやって声をかけてるんですよ。話がしたいみたいでね。まあちょっと変わってるけど,危険はないから」
「危険た何じゃい,失敬な」
二人はそう言ってお互いに笑った。
そう言われていささか安心はするけれど,しかしこの小洒落た雰囲気のカウンターバーに,この霞でも食って生きているような爺さんの風体は明らかに浮いている。白髪三千丈とも言える白髪に,聖徳太子か何かのような長いあごひげを生やしている,80越えていそうな爺さん。俺は,マスターを間にはさむようにして,恐る恐る爺さんのお相手をすることにした。
「青年,歳はいくつじゃ?」
「はあ,…25っす」
「若いのう…そのええ若いモンが何故にこんな時間から一人で飲んでおるんじゃね?」
「…」
「…そうか,聞いてはいかんことじゃったか。すまんかったの」
「いや…いいです」
だいぶ酔いが回っていた。この奇妙な雰囲気にも順応し始めていた。何より,誰かにこの悲惨な話を,俺の愚痴を,聞いてもらいたかった。
「振られたんですよ…大好きだった女にね」「まあ…深くは聞かないが」
切り出したものの,その後の言葉を続けることが出来ない俺に,爺さんはフォローするように言った。
「しかしなあ,青年」
爺さんは俺の目を見ないで,下を向いて静かにウィスキーを一口飲んだ。
「あんたはまだ若い。若ければ…何だって出来るさ」
その真剣な…しかしどこかしら寂しげなその口調が,俺を責めるように耳に痛い。
「ワシなんて…」
俺はその先を止めようとした。それは余りに悲しい言葉。
「ワシなんて,バイアグラ使うてももう役に立たんのじゃからな」
そう言って爺さんは大笑いをした。
俺は拍子抜けをして腰を抜かしてその場に倒れそうになった。
「何なんだよアンタはよう」
怒ったように,俺は叫んだ。
「はっはっはっはっ。まあそう怒るな」
爺さんはまだ笑っていやがる。
「いや,冗談はともかく」
一呼吸置くように,爺さんは真面目な顔を作って言った。
「青年,アンタはまだ若い。今から一度や二度の失恋でやけになって大酒を食らってどうする。今からいくらだってチャンスはある。めげんことじゃ。さっき冗談のように言ってしまったが,ワシなどもう恋をしようにもできやせんのじゃからな」
「爺さんも…いろいろあったのか,若い頃に?」
「そりゃそうじゃ」
爺さんは少し胸を張るようにして言った。
「聞きたいか?」
俺は無言でうなずいた。
爺さんは自分の若い頃を語り始めた。自分は若い頃,どうしようもない純情青年だった。
惚れた女は何人かいたが,その事を言葉にしていう事はなかなかできなかった。
そりゃ話をして仲良くなって,「友達」になるまでは出来たさ。
しかしその後…男女の関係になるのはどうしても出来なかった。
まあ…ワシの時代は今のようにさばけてはいなかったから,その所為もあるがな。
好きな女と「友達」で止まってしまうのはなんとも言えず悔しいもんじゃ。
「友達」だの「思い出」だの,そんなものは結局恋愛に敗北した者の負け犬の遠吠えに過ぎんのよ。
何だか,自分のことを言われているようだ。俺は自嘲気味に,
「どこかで聞いたような話だなあ」
と言った。
爺さんは静かに微笑んだ。そして,トイレに行く,と言って席を立った。
数刻後,トイレから一人の男が出てきた。
それは,あの爺さんではなかった。
髪は黒々としていて短く,ひげもなかった。そして,その顔かたちは,俺に生き写しだったのだ。
男は俺の方を向いて,笑顔で手を振った。そして,静かに店を出た。
俺はある考えがあったから,トイレに駈け込んだ。
トイレに鍵は掛かっておらず,個室の中には誰もいなかった。
俺は店の外に出た。
すっかり暗くなった上空から,一筋の光が差していた。
見上げると,光の先には俺に生き写しのその男が,若い女性と一緒に空へ上って行くところだった。
女は後ろ向きで,姿は定かでなかった。
「爺さん!!」
俺は確信を持ってそう叫んだ。
俺に生き写しのその男は…いや,「爺さん」は,再び微笑みながらさっきよりも大きく手を振り,なおも空へ上って行った。そして,見えなくなった。一体あれは何だったのだろうか。
ともあれ,何故か分からないが,俺はその日からふられたことなどすっかり忘れて,明るめの毎日を送っている。
確かに未だに彼女はいないし,あの女に代わる人だってまだ見つかってはいない。
でも,あの日のことを,爺さんのことを思い出すと,何だか安心するのだ。
今でも,目を閉じると,あの爺さんが手を振っていた姿が思い出されてならない。
また,現れてくれるだろうか。
俺が恋に悩んだ時に。
★あとがき
吉田拓郎の歌に似たようなのがあったが,はっきり言って意識してます。「世にも奇妙な物語」にありそうな話だが,それもかなり意識してます。もともとSFっぽいのは不得手なんですが,敢えて挑戦してみた作品です。ストーリーの真意,特にここでは「爺さん」の正体について,掴みにくいみたいなんですが,そこは読者の皆さんで想像してください。この作品に関してはぼくなりの正解を用意してはいますが,ここでは敢えて言いません。