#9 現代という時代へ〜男サイドと女サイドから見たある恋の話〜
1. 男の話
ぼくは,おかしいのだろうか?
ぼくは,おかしくなったのだろうか?199X年,何の変哲もない冬。何の変哲もない予備校に,何の変哲もない浪人生をしていたぼくがいた。
ぼくの抱えていた想い―それすらも,傍から見ている分には,恋というカテゴリーにおいては,あくまで何の変哲もない恋心だったのだろう―は,多くの致命的な病気がそうであるように,ゆっくりと,しかし確実に,僕の身体に根を下ろしていった。
想いの相手―Kさんは,ぼくの高校時代の同級生だった。といっても,クラスが一緒だったのは一年の時だけだったから,お互い顔と名前は知っていたものの,殆ど話をすることもなかった。ぼくの想いも,さすがにまだ始まってはいなかった。ただ,他の数人の女の子を含め,ぼくが「意識的に知っていた」女のうちの一人だったことは間違いないことだったようだ。
そして今年の春。正確に言えば五月も終わりの,どちらかといえば夏っぽい日差しのさす日に,ぼくとKさんは再び顔を合わせた。
模擬試験の会場だった。Kさんがぼくの名を呼び,話しかけてきたのが最初だった。広い会場の中で迷子になってしまい,知り合いもいなくて心細かったから,と彼女は言った。
浪人,という共通した,あまり喜ばしくない境遇に置かれていた所為だろうか,二年以上話をしたことがなかったにもかかわらず,ぼくと彼女は割と打ち解けて喋った。
そこで知ったのは,彼女が国立の医学部を狙っていること。そのくせ数学が大の苦手で困っていること。
そして―これも今まで気付いていなかったのだが―お互いクラスは違うけど,同じ予備校に籍を置いているということ。
ふうん。じゃ,また会うかもな。
別れ際,ぼくは言った。
特別な意味があった訳でなく,あくまでさらっと,半ば無意識に言ったものだ。
まだ,ぼくの彼女に対する気持ちは,平穏を保っていた。
いや,内心ではある程度高揚していたのかもしれない。確かにあの日,彼女と別れた後のぼくは,多少なりとも浮かれていた。そして今でも,そこまではっきり覚えている。しかしそれはあくまで,単に「可愛い娘の中の一人として意識していた」女の子と仲良くなれたということが嬉しかった,ということに過ぎなかったはずだ。
何せ,ぼくには女の子の友達なんていなかったのだ。だから,こんなことでも,浮かれるに十分な事件だった。
Kさんに対する気持ちが,はっきり自覚できる恋心に変わるには,まだしばらく時間が必要だった。
夏。
予備校の,“夏を制する者は受験を制す”という謳い文句に尻を叩かれるようにして,ぼくは夏季講習にせっせと通っていた。
その講習の中の,「ハイレベル数学講座」の受講生の中に,Kさんがいた。
意外な偶然だった。予備校は同じでも,学力レベルがまるっきり違うぼくとKさんは,あの模試の日から,一度として会う事さえなく,全く違う世界で勉強していたのだ。そんなぼくらが机を並べることになったのは,ひとえにぼくが数学だけ得意で,彼女が数学だけ苦手にしていたという偶然の産物だった。
だから,久しぶりに彼女を見た時,ぼくは少し動揺した。彼女を見つけるだけは,不思議なほどたやすく出来たのだが,声をかけることは妙にはばかられた。二ヶ月ぶりなものだったから,変な気まずさを感じたのだ。また会うかもな,なんて言っといて。
そうしているうちに,彼女がふとこっちを向いて,不意に目が合った。こうなってやっとぼくは,ばつの悪そうな顔をそのままで,おずおずと近寄って行く。
そんな姿が滑稽だったのだろうか。ぼくを見ながら,不意にKさんが微笑んだ。
初めて見せてくれた笑顔。
瞬間,僕の身体を何かが貫いた。
この女性(ひと)が,この笑顔が欲しい。
狂おしい衝動と,爆発しそうな胸の鼓動。
それが始まりだった。
講習の間は,ぼくにとっては最高の日々だった。ぼくはしばしば,彼女が解けないと言って悩んでいる数学の問題を教えてあげた。彼女はそのたび目を輝かせてくれた。そしてまた笑顔を見せてくれた。その度ごとに胸がうずき,胸を押さえる度ごとにぼくは,ますます彼女を好きになっていった。
いつしか,ぼくは後戻りできなくなっていた。
講習最後の日。
ぼくは傍目にも,明らかに沈んでいた。
今日が終われば,またしばらくKさんと会えなくなる。いや,運が悪いと,もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。そう考えたら,浮かない表情でため息をつくのは,当然の成り行きだった。
「どうしたの?」
Kさんだった。こんなぼくを気遣ってくれている。
ぼくは何か言いかけて,やめた。
「そっか,もう夏休みも終わるし…あと5ヶ月しかないもんね」
ぼくは再び何かを言いかけた。その前に,彼女が言葉をつないだ。
「気にしない方がいいよ。あたしだって不安だし,みんなそうだと思うから」
優しい慰めが胸をつく。
そうじゃないんだ。俺は…
しかし,それはどうしても言えなかった。
代わりにぼくは,あの台詞をまた使った。
また会うかもな。
今度は,敢えて,意識して,力を入れて,願望丸出しで,そう言った。
なあに,突然?
彼女はそんな風に笑った。
会えるよね?
もう一度言い直そうとした。
しかし,言えなかった。
「いやあ…何でもないっす」
そう言って,ぼくは横を向いてしまった。
講義が終わった後,別れ際。
Kさんが,カバンの中からちっちゃこい包みを出して,ぼくに渡した。
「はいこれ。今までずっと数学教えてもらってたから,そのお礼」
訳もわからず立ちすくむぼくを尻目に,じゃあねと告げて,彼女は軽やかに走り去った。
数刻置いて我に返ったぼくは,彼女の背中に何かを叫ぼうとしたが,出来なかった。
生まれて初めて女の子からもらったプレゼントを片手に,馬鹿みたいにその場に立ち尽くしていたぼくは,どうしようもない苦しさの中に放り込まれていた。
それから一日一日経つごとに,苦しさは薄らぐどころか,加速度的に増幅していった。
秋。
もはや,我慢の限界だった。
Kさんに会いたい。
会って,話がしたい。
しかし,今のままでは…
運命は,ぼくと彼女を引き合わせてはくれない。
このままでは何も始まらない。
いてもたってもいられなかった。
何かに操られるかのように,ぼくは動き始めた。
予備校の通常の授業が再開されたその日から,ぼくはまるでスパイのように,Kさんの足跡を求めるようになった。
彼女が何時の電車で来て,各時限どこの教室で勉強して,いつ帰っていくのか,昼食はどこで食べるのか,行き帰りに買い物とかで寄り道をするのか。するならどこへ寄るのか。自習室で勉強するのか。するならいつするのか。等など…
最初は,うまく行動を合わせて,会えたらもうけ,くらいの気持ちでいた。しかし,それがいつしか,彼女をそれとなく待ち伏せしたり,尾けたりして行動を探る,という方向へと変わっていったのだ。
彼女の全てを知らなければ,満足できないようになっていた。
本来予備校の授業を受けることに費やされるべき時間の多くを,こんな下卑たスパイ活動に費やしている。
その行動はおかしかった。止めなければいけなかった。
しかし,止められなかった。
勿論,こんなことをいつまでも続けようという意思があるわけじゃなかった。
あくまで,Kさんと会うチャンスを作るためにやってるんだ。
会うチャンスを増やすことが出来れば,きっとそこから,何か突破口を開くことが出来るはずなんだ。
その後の計算も何もないくせに,望みだけはいっちょまえに持っていた。それだけが頼りだった。
こうしないと会えないんだから,しょうがないじゃないか。
ぼくは,Kさんが好きなんだ。
みっともないのは仕方ないじゃないか。それは惚れた弱みなんだ。
自分への言い訳を,呪文のように唱えながら,義務のように続けた。
彼女の行動パターンは,二週間もすれば大体分かってきた。
ぼくは幾度となく,Kさんの行く先に現れ,偶然の出会いを装っていた。
一度,また一度。
しかし,当初ぼくが企んでいた「突破口」という奴はいっこう開けなかった。それどころか,回数を重ねるごとに口数は少なくなり,あいさつだけになり,遂には声をかけることさえままならなくなった。手も足も出ず,顔をこわばらせてただ見つめるだけのダルマ。彼女はもはや,そんなぼくにいちいち構ってはくれなくなっていたらしい。
彼女は自分からぼくに話しかけては来なかった。ぼくの方から話しかければ応えてはくれたが,その対応は以前よりぎこちなく見えた。ぼくが声をかけられないと,たとえ目と目が合って,互いに存在を認識していたとしても,彼女はぼくを認めなかった。まるでぼくがいないかのように,そっと目を伏せ,ぼくの横を通りぬけるのだ。そして,そんな彼女を呼び止めることさえ出来ず,ぼくは馬鹿みたいに立ちすくんでいるのだ。
耐えがたい状態だった。ぼくは,このぎこちなさの中で,自分が会おうとすればするほど,逆にKさんは自分を嫌い,遠ざけるようになるのだと思った。
しかし,にもかかわらず,ぼくは会いたい気持ちを抑えることが出来なかった。会うのをやめることが出来なくなっていた。欲求に突き動かされるままに彼女のもとに現れ,かといって何も出来ず,彼女に不審だけを与えて帰っていく。
冷蔵庫の中には,未だに勿体なくて開封できない,Kさんからもらった菓子包みが入っていた。
扉を開ける度ごとに,そのスカイブルーの物体が,ぼくの胸を締め付ける。
どんなに苦しんでみたって,事態は一歩も前に進まない。むしろ,後ろに下がっていくのが分かるのだ。
苦しい。
それがひとえに,片思いそのものの苦しさであるのなら,まだましだった。いや,恋愛感情を持つことそのものは,きっとぼくにとっては喜び,快感と言えたに違いなかった。
それとは別の苦しみが,徐々に,そして後には専ら,ぼくを支配するようになった。
十月の初め頃だったろうか。
ある男性が,一方的に想いを寄せる相手の女性に尾行・無言電話を繰り返した末,思い余って殺してしまったとニュースで報じられた。
その男性のような「種族」の存在は,噂程度には聞いたことがあった。その時は,冗談にしか聞こえなかった。好きな相手にしつこくつきまとい,嫌がらせの手紙や電話を続ける。遂には相手を傷つけ,殺してしまう。どこの世界にそんな奴がいるというんだ。好きな人を傷つけるなんて,まともな神経の人間のやることじゃない。
今回のニュースだって,本来ならそういう風に笑い飛ばせるはずだった。
なのに今は,それが出来ない。
ぼくは,変な動揺を覚えていた。
例えるなら,誰にも見つかることなく万引きを成功させた後,その発覚を恐れて,盗んだものをどこかへ隠した後のような感じだった。
ぼくにも,好きな人を死へ追いやったあの男と共通したものがある。まだ他の誰にも気付かれてはいないほど小さな芽だけど,確かにあるのだ。
そのおぞましい自覚による苦しみは,昼と夜とで,違った形でぼくを襲った。
ぼくの中のおぞましい芽は,確かに誰にも気付かれないほど小さなものに違いなかった。しかし,他ならぬKさんだけは,それを敏感に察知しているように思えてならなかった。ぼくが彼女に抱いている暗い熱情も,彼女に触れたいがためにやっている下卑た企みも,全て見透かされているように思えてならなかった。
ぼくは昼間,Kさんと会うことを恐れた。会えば怪しまれる。疑念に満ちた視線に突き刺される。会う度ごとに疑念は確信へ変わり,嫌悪は強まっていく。
ぼくは,Kさんのスケジュールを殆ど完全に把握していた。会おうと思えば会うことは出来る。しかも,会いたくてたまらない。それなのに,会うことが出来ない。会ってはいけない。
ぼくはKさんを追わなくなり,遂にはわざと避けるようにさえなった。なのに,会ってはいけない時に限って,意地悪な神様はぼくと彼女を引き合わせるのだ。夏の終わりに,純粋に会いたいと念じていた時は全然会えなかったのに。そして彼女は,また「あの目」でぼくを見るのだ。この遭遇は仕組んだものじゃない。本当に本物の偶然だってのに。
やり切れない気分で家に帰ると,夜の,もう一つの苦しみが待っている。
ぼくの机の上に無雑作に置かれているのは,高校の卒業アルバムと,名簿。
そしてそこには,当然の事ながら,Kさんに関するデータが記載されている。
ぼくは,机の上に目をやるたびに,自分が恐ろしい衝動に突き動かされそうになるのを感じていた。
即ち,彼女の住所も,電話番号も握っているぼくが,その気になれば彼女の住所を調べて待ち伏せをしたり,思い込みと独り善がりに満ちた,下品で迷惑なラブレターを大量に送りつけることも,彼女の電話番号を調べて,話をする術も持たないくせに一方的で迷惑な電話をし続けることも可能なわけで,しかも自らが,ともすれば理性が挫けて,そういうことをしてしまいそうになる,ということが,恐ろしい衝動として自覚されてならなかったのだ。
しかも,その衝動は,時と場所を選ばなかった。
夜中,強引に目を閉じて眠りに就いても,決まってKさんの偶像は,ぼくに憑いて離れなかったのだ。
夢の中の彼女は,決まってぼくに優しかった。疑念とも嫌悪とも無縁で,いつもぼくに笑顔でもって応えてくれる。ぼくが笑えば,一緒になって笑ってくれるし,ぼくが沈んでいれば慰めてくれる。そして,ぼくが愛を囁けば,照れたように微笑んで,うつむきながら軽く頷いてくれるのだ。
決まってそこで目が覚める。
朝が来たわけでもないのに,それ以上を許さないかのように。
現実に戻されたぼくは,現実のKさんを反芻してみる。
夜中の軽い興奮の所為か,ぼくの頭は,夏の頃から先へ進むことが出来ない。夢と現実が妙にシンクロして,Kさんが自分を愛してくれているような気がしてならなくなってくる。
もし,Kさんがぼくを愛してくれているなら…。
不意に,今すぐに彼女をとらえなければならないという気持ちが湧き上がってくる。
彼女との接点を,守らないといけない。
不意に,電話に手が伸びそうになる。
それは,寝る前よりももっと大きな衝動だった。
馬鹿,何考えてんだよ。
今何時だと思ってるんだ。
最後の理性の声で,やっと我に返る。
何とも言えぬ恥ずかしさ,恐ろしさだ。
もし,最後の理性の声さえぼくの心に届かなくなったら。
歯止めを失った自分は,一体どこまで堕ちていくのか。
遠ざかって行く彼女を引き留めるために,何かをしなくてはいけない。何かをしたくてたまらない。なのに,そのために有効な手段を持たない。仮に持っていても正しく使えない。放っておくと,何をしでかすか分からない。何もしないでいればジリ貧になって消えていくしかないこの恋に,諦めるには余りに大きすぎる気持ちを抱えてしまった自分。
好きだ。
愛してる。
貴方しかいない。
Kさん。
Kさん。
Kさん。
何十回,何百回と叫んでみても,気持ちは一向に静まってはくれない。ただ,眠れぬ深夜の闇があるだけ。
今ここに彼女がいてくれたら,いくらでも思いの丈をぶちまけられるはずなのに。
Kさん。
Kさん。
Kさん。
ただ空しいだけだ。
頼む。
今日の今夜だけは我慢して眠ってくれ。
これまで眠れない時なら,棚に飾ってある親父のウィスキーをくすねて嘗めれば,何の苦もなく眠れたものだった。
しかし,今は違った。酔いが回ろうものなら,今まで自分を抑えてきた歯止めがなくなり,何をするか分からない。
酔いの回った自分自身をコントロールし切る自信がない。
最後の理性の声を,みすみす自分でかき消してしまうような真似は,出来ない相談だ。
結局,素面のままで苦しみ続けながら朝を待つより他に,手段は残されていないのだ。
眠ったかどうかあやふやな気分のまま,早すぎる朝はやって来る。
身体が重い。
寝が足りないだけの所為じゃない。
朝食をとる。
味なんて分からない。
予備校に出かける。
自分の向かうべき教室へは,決して足が向くことはない。
Kさんに合わせて電車に乗り,
Kさんに合わせて電車を降り,
Kさんに合わせて道を歩き,
Kさんの向かうべき教室に行き,
Kさんの授業が終わるのを狙いすまして,偶然を装って廊下で出会う。
Kさんの昼食の時間に合わせ,
Kさんの行き付けの食堂に行き,
Kさんのテーブルから2つ置いて後方に自分の席を取り,
Kさんの後姿を眺めながら昼食をとる。
不意に彼女が後ろを向く。
虚を突かれたぼくは,やましい気持ちで下を向く。
何やってんだよ。
せっかくのチャンスじゃないか。
何故告白しない。
何故声さえもかけられない。
昨夜何十回も何百回もシミュレーションしたことが,今日の昼にはもう出来ない。
嫌われてる・怖い・言えない。
その事実が,ますます後ろめたくする。
毎日毎日少しずつ,彼女がぼくから遠ざかっていくようだった。
そしてそれが今,積もり積もって,銀河の端から端までより遠くなっている気がしていた。
将来,ぼくはどうなってしまうんだろう。
これから,ぼくはどこへ行くんだろう。
ある日,恐ろしい妄想が,不意にぼくを襲った。
念願かなって女医になった彼女の病院を,職もなく金もないプータローのぼくが,やれ風邪を引いたの腹が痛いのと理由をつけ,毎日毎日訪れる場面だった。
金もなく,ツケと借金で来院するぼくに,彼女は心の底から軽蔑した目で,汚いものでも触るようなやり方で,脈を取るため手を取るのだ。
そしてその手触りに,下品な欲情を覚える自分がいる。
駄目だ!
余りに惨めで,なおかつ予知夢と呼ぶに十分過ぎるほどの信憑性を持ったこの空想に,ぼくは断を下さざるを得なかった。
Kさんのことを,忘れなければならない。
所詮実らぬ恋に憂き身をやつすよりも,今は目先の蝿を追え。
お前は,受験生なんだ。
お前の今やるべきことは,大学受験に勝利すること。
そして,そのためには,勉強すること。
ともすればぼくのまぶたの裏にとりついて離れなくなるKさんの幻影を振り払うため,ぼくは本来の浪人生の職務に専念することにした。
勉強に集中するためにKさんを忘れるのではなくて,Kさんのことを忘れるために勉強で紛らわせようとしたのだ。
最初のうちは,それで良かった。
しかし,受験生以前に,ぼくは人間だった。
勉強をして入ってくる知識より強い勢いで,Kさんの幻影がぼくの脳を襲ってくる。
気がつけば,問題集は1ページも進まないまま,Kさんへの想いと扇情的な妄想だけが進んでしまっている。
それを忘れたくて,気分を変えるため外を散歩する。
ふとすれ違った仲睦まじいアベック。
その片割れの女は…
Kさん?
ぼくはきびすを返して走った。そして,実際を確かめる。
それは全くの別人だった。
二人は変な目でぼくを見ながら何事もなかったように去って行く。
ぼくは真実を確かめた後も,まだがくがく言っている自分のひざを押さえて立ち尽くしていた。
もし,あれが本当にKさんだったとしたら。
いつかその日は来るだろう。
Kさんが他の誰かのものになるその日。
その時ぼくは,何を思えばいいのだろう。
その時ぼくは,どこにこの思いをぶつければいいというのだろう。
Kさんに,誰のものにもなって欲しくない。
ずっと,ずっと,永遠に。
そのために,ぼくは何をすればいいというのだろう。
それ以上を考えることは,ぼくには余りに恐ろしいことだった。
あの黒い芽が,再び息を吹き返そうとしているのか。
どうして俺はこうなんだよ。
どうして俺はこうなっちまったんだよ。
どうしてKさんは,俺をこんなにしちまったんだよ。
どうして…。
勉強になんてなりやしなかった。
勉強が出来なくなってしまった身でありながら,ぼくの成績は不思議なほど下降を見せなかった。いや,むしろ上昇カーブさえ描いて見せていた。
しかし,この状態が続けば,いつかどん底に堕ちる日はやって来る。
それがいつなのかは分からないが,絶対確実にやって来る。
それは明日かも知れないし,十一月かも知れない。
いや,試験本番の一,二月かも…。
いずれにせよ,ぼくが導かれる道の果てにあるものは,不合格の3文字のみ。
そして,それはあたかも底なし沼のように続く浪人地獄の1丁目。
あの日見た恐ろしい空想が,そして今そこにあるぼくの中の黒い芽が,ぼくを捉えて離してくれない。
Kさん。
お願いだから,ぼくをこの閉塞から解放してください。
これ以上,ぼくの心を捉え,縛り,掻き乱さないでください。
このままだと…
ぼくはあなたを憎んでしまうかもしれない。
そして…
いつか・ぼくは・あなたを・殺してしまうかも・知れません…
あの日のニュースが報じたように。
ぼくは,おかしいのだろうか?
ぼくは,おかしくなったのだろうか?
ぼくは,本当に彼女のことを好きなのだろうか…?
2・女の話
Y君…ですか?
ええ,知ってますよ。高校の時の同級生で,一緒に浪人してて…
よく勉強とか教えてもらってましたね。私,数学苦手だから。変でしょ,理系のくせに。
言い方古いけど,戦友みたいなもんかな。
時々会いますよ。あ,最近は余り会わないかな。予備校は同じだけど,クラスも別々だし。でも,会おうと思えば会えるのにな。何か最近避けられているみたい。嫌われてるのかな,なーんてね。
まあ,私の方も時々機嫌悪かったりするし。やっぱりね,浪人してると焦りとかいろいろあるわけですよ。そうよね,こんな時だから,お互いいちいち構っていられないもんね。
でも,やっぱり淋しいな。ずっと一人でやってるとね。ゆっくり話したいな,って思うこともありますよ。気分転換って必要じゃないですか。せっかく友達なんだから,5分でも10分でも,お互い励ましあったりして。電話くれないかな,って思いますよ。でも,勉強の邪魔とか考えたらなかなかそれも出来ないかな。
え?彼のことをどう思うかって?何ですかそれ。私はそんな興味ないですよ。そんな余裕ないですもん。どうしてそんな事聞くんですか,もう。
彼に告白されたらどうするかって?もう,やめてくださいよ,そんな話。彼だって怒りますよ,きっと。そんなんじゃないって。どうしても答えなきゃダメですか?
…分かりません,やっぱり。
だって想像できないんだもん。
少なくとも,今は。★あとがき
読めば分かると思うが,ストーカーの話である。これを書いた当時は本当に親の仇のように叩かれまくっていた時期だったのだが,ぼくの考えは少し違っていて,こういう芽って結局誰にでもあるんじゃないのかなあ,ということなのである。もともとそんなに簡単に好きになった相手に器用に気持ちを伝えてくっつくことが出来る奴なんてそうそういなくて,殆どの奴は不器用に,カッコ悪く,それこそストーカーと誤解されるようなアプローチしか出来ないのではなかろうか。最初は。それをいちいち指弾していては今の男どもは萎縮してしまって恋愛できなくなってしまうのではなかろうか。別にストーカー行為を奨励するわけじゃないが(法律に違反するような行為や明らかに相手に迷惑になる行為は絶対に指弾されるべきだからね),あまり窮屈になってしまうのもやだなあ,と思ったので。