長編不定期連作小説#3 生臭志願

第23回 救いへの道


 次の週も男がやってきた。
「すみません、たびたび失礼をして」
「本当にそうだな。あんたと話すと普段の倍は疲れる」
「冷たいことを言わないでくださいよ。今日は…」
「いや、大体わかる。先週の話にまだ合点が行っていないのだろう」
「…はあ、まあそんなところで」
「まあ、先週は駆け足で話をしてしまったからな。言葉が足りない点も多かった。今日は続きと、補足の話をしようか」
「言葉が足りない点は大丈夫ですよ。もしこの話が間違って本にでもなったら、作者がこっそり修正しますから」
「メタいことを言うでない」

「さて、冗談はともかくとして、『御仏の救い』について、そして『救い』へ至る道についてもう少し話をしよう」
 私は姿勢を正し、座り直した。
「まず浄土の教えについて言えば、仏様―阿弥陀様は全ての衆生を等しく救ってくださるものだ。阿弥陀様に一心に帰依し、『南無阿弥陀仏』―即ち、『私は阿弥陀様に帰依します』、とひたすらに念仏することが救いへの道だ。念仏することで極楽に行ける、ということで、ある意味最もシンプルで分かりやすい教えだと思う」
「しかし、たとえば私が『南無阿弥陀仏』と唱えたとして、『救い』というものを実感できるのか、と言われると疑問です」
「確かに、念仏したからと言って現世的な御利益がある訳ではないから、『救い』を実感するということは難しいだろうな。ただ、念仏することで極楽に往生できる、その事実が心に安寧をもたらす。無論これは、浄土の教えを深く理解して信心していればの話だがな」
「なるほど」
 男は言った。ただ、なるほどとは言ったものの、それは口だけの納得に見えた。
「まだ合点しておらぬようだな」
 男は何とも言えない顔をしている。
「私見になるが、念仏を唱えることによる『救い』には2種類あると思う」
「はあ」
「まず何度も言うように、阿弥陀様に導かれて死後極楽に往生できるという安心がある。ただ、これはあんたがそれこそ『死』に直面しないと実感できないものであるかも知れないな」
「そうですね」
「ただあんたは時々『死』を想うが故に苦しむ、という悩みを私にしていたではないか。そのような心境に至った時、念仏によって救われる余地は大いにあると思う」
「はい。しかしまだ私は念仏によって安心する、というところまでは至っていないですね」
 男はやや俯いて言った。
「まああんたはまだ若いからな。本当に『死』に直面したことがないし、仮に『死』を想う時があったとしても、日常に紛れてすぐに忘れてしまうだろうからな」
「そうですね」
 私は一呼吸置いた。そして徐に切り出す。
「…そしてもう一つは、一心に念仏することによって『無』の境地に至ることだ」
「『無』の境地ですか」
「うむ。一心に念仏することにより、悩みや苦しみ、邪念が消え失せ、心が空っぽになる。これが『無』の境地よ」
「いつか仰っていた『四苦八苦』を心から消し去るという働きと言えますかね」
「そうだな。いつぞや『マインドフルネス』の話が出たと思うが、心の働きという点で言えば強ちハズレでもない」
「はい」
「ただ、浄土の教えの本来は、念仏することで広く衆生が阿弥陀様に導かれて極楽往生に至るというのが本道だ。現世的な『無』の境地に至る、悟りという点について言えば、禅宗の方が得意分野と言えるかも知れない」
「禅宗ですか。臨済宗と曹洞宗」
「そうだ。この二つについて、先週は少し説明が足りなかったから、今回はもう少し話をしようか」
「お願いします」

「禅宗はいずれも『座禅』によって『悟り』を開くことを目的としたものだ。これはまあ分かるな」
「はい」
「臨済宗は座禅しながら『公案』という問題―師が弟子に与える問題について思索する修行を中心とする」
「禅問答、というやつですか」
「そうだ。で、曹洞宗はひたすら心を無にして座禅に打ち込む、『只管打座』によって悟りの境地を目指す」
「しかし先生、たとえば臨済宗で『公案』ですか、問題を考えることで悟りの境地に至ることができるものですか?ひたすら心を無にすることを目指して座禅に打ち込むことで悟りに至る、という方が分かりやすく思えますが」
「『公案』を考える時、それは言葉によって考えるものではない、と言われる。言葉では表せない境地―いわゆる形而上の事柄について、『言葉』によって応答しなければならない。これは大いなる矛盾であり、非常に困難なことだ。しかし、その『言葉では表現できない何か』を『公案』を通じて掴む、その経験によって人は『苦』を乗り越えて仏の境地に至ることができる、ということではないかと私個人としては考えている」
「ううむ」
 男はしばし間を置いた後、呟いた。
「よくわかりませんね」
「そんなに簡単に分かれば世話はない」
 私は笑った。
 男は頭を掻いた。
「ちなみに、臨済宗以外でも『禅問答』は行われている。永平寺で雲水がやっているのを見ただろう」
「はい」
「なので、禅の教えにおいては方法は異なっていてもこういったことに対して思索するという点は共通しているのかも知れないな」
「そうですね」
「禅の教えは臨済宗と曹洞宗、あとは黄檗宗と言って江戸時代に隠元禅師が広めた宗派がある。方向性としては臨済宗の流れを汲むものだが、中国様式が特徴だ。あと、禅の教えでありながら念仏を取り入れている」
「そうなんですか」
「念仏と禅は対立するものと捉えられることが多いが、座禅と念仏の併修は決して珍しいことではなかった。大元が同じ仏教であるということもあるし、同時に行うことができないというものでもないからな」
「しかしそれは…大変そうですねえ。一つでも私には難しすぎるというのに」
 私はまた笑った。

「ところで、やはり仏教により救われるには、得度して仏門に入り、先生のような高僧に師事する必要があるのですか」
 私はお茶を噴きそうになった。
「気持ち悪いな。腹にもないおべんちゃらを言うでない」
「いえいえ。まあそれはいいんですが、どうなんですか。やはり出家というのは重要なことですか」
「師弟の関係を重んじるのは禅宗の方だな。禅で悟りを開くには出家が必須とされる。たとえば、道元禅師は『正法眼蔵』において、戒律を守る在家より出家した破戒僧の方が良い、とまで記されたほどだ」
「高僧に師事し、師の下で厳しい修行に取り組む、というイメージですか」
「その通りだ」
「浄土の方はどうですか」
「浄土は出家を重視していないと言っていいだろうな。阿弥陀様は出家か在家かに関わらず、全ての衆生に等しく慈愛を与え、極楽浄土に導いてくださるものだ」
「では先生は要らないのではないですか」
 私はまたお茶を噴きそうになった。
「酷い男だな。さっきとはえらい違いだ」
「いやいや…南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生出来るのであればそれが一番楽ですし、多くの…いや、全ての人に救いの扉が開かれている訳じゃないですか。だとしたら、出家して仏門に入らなくとも、普通に生活していても同じではないか、ということを言いたいのです」
「いやいや…じゃあまあ、私の存在意義について説明しようか」
「お願いします」
「簡単に言うと、阿弥陀様は現世にはいらっしゃらないだろう」
「そうですね」
「であれば、誰があんたのような迷える衆生を念仏の道に導くというのか。まさかあんたが、何もないところから突然念仏に目覚め、勝手に育って南無阿弥陀仏の仏教者になる訳ではなかろう」
「まあそうですね」
「あんたがこの寺に来るようになったのは、あんたの中に生・老・病・死の苦しみがあって、その苦しみをどうにかしたいという思いから、藁にも縋る思いで来たのだろう。そのことを思い出しなさい」
「はあ」
「現世であんたに仏の道を説き、南無阿弥陀仏を唱えなさいと教え諭す。それが私の役目だ。見てみなさい、これだけでも私が居る意味があるではないか」
「了解です」
 男は言った。
 しかし、一呼吸おいてまた言った。
「しかし、そうだとすれば、私は別に出家する必要がなくはないですか」
「本当に念仏を理解したとすれば、あんたには後に続く者を念仏の道に導く使命がある。言ってみれば伝道師、とも言える役割かな。その道を目指すものがいなくなれば、教えは絶えてしまうだろう。だからこそ仏教に専心して衆生を導く役割を担う者が必要だと私は思っている」
 言い終わったところで、夕焼け小焼けが鳴った。
「ちょうどいいところで終わったな」
 私は呟いた。

「という訳で、衆生を導く役割を担う気はないかな?」
 私は言った。
「新しい勧誘のフレーズですね」
 男は苦笑いを浮かべながら皮肉のようにそう言った。
「まあ、考えさせてください」
「あんたはいつもそうやって逃げるな。まあ別に急かすわけでもないし、強要する訳でもないからいいがな」
 男は同じ表情のまま、車に乗り込んだ。

 私はまだしばらくは大丈夫だと思うが、あと20年、30年したらどうなるだろうか。
 私自身、というより私がどうにかなった後、この寺と檀家さん、そしてこの界隈の仏の教えが絶えてしまうことがどうにも心配でならなくなってきた。
 私の後、私の意思を継ぐ者がもし現れなかったとしたら…

 縁起でもない。
 そもそも、あの男にそのような期待をしてどうするというのか。
 私は少々自分に腹を立てながら部屋に戻り、残ったお茶を思い切り啜った。



 

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