短編小説#48 最後の男性異性愛者(ストレート)
(2023.12.16)
私が通勤電車の席に座ると、明らかにそれと分かる男たちが隣に座り、周りに群がってくる。
もう慣れたが、あまり気分の良いものではない。
彼らは独特の潤んだ瞳で私の方をじっと見るのだ。
私は思う。
俺はお前たちとは違うんだから、放っておいてもらいたい。
車内はほぼ全員が男性である。
女性はもはや絶滅危惧種となってしまい、それも年配者がぽつりぽつりといるだけである。
若い女性は都市部にごく一部生き残っているようだが、地方では見ることができなくなった。
最後に若い女性を見たのはいつだろうか。
人間は、X染色体とY染色体によって性別が決まるというのは有名な話である。
男性はXY型、女性はXX型の染色体を持つ、というのが定説であった。
男性と女性が配偶した場合、男性のX染色体と女性のX染色体を持った子どもが産まれれば女子となり、男性のY染色体と女性のX染色体を持った子どもが産まれた場合は男子が産まれる。
ただ、この染色体の仕組みを根本から覆す実験が数十年前に成功した。
現代医学の発展により、男性のXY染色体同士を配偶させ、YY染色体を持つ「超雄(ちょうおす)」と呼ばれる生命体が誕生したのである。
これに伴い、これまで不可能と思われていた男性同士の配偶が可能となり、男性カップルが子どもを持つことが、人工的にではあるが可能となった。
この配偶は時を経て一般的なものとなり、子連れの男性カップルは珍しいものではなくなった。
遡ること遥か昔、同性愛、殊に男性同性愛は忌むべきものとされていた。
男性同性愛者(ゲイ)は自らのその事実を隠して生きるか、さもなくば自らの性的嗜好を自虐し、道化として生きていくことを強いられていたのである。
21世紀の初めごろからそのような状況に変化が生じた。
人が生きていく上での多様な生き方に対して寛容になろう、という空気が広まり、少数派(マイノリティ)とされる人たちが生きにくさを感じることがないような世の中にしよう、という機運が強まった。
その中には当然、いわゆる性的少数者(セクシュアルマイノリティ)とされる人たちも含まれていた。
これまで自らを偽って生きざるを得なかった同性愛者に光が当たる日がやってきたのである。
そのような機運をさらに後押ししたのが、「超雄」の誕生であった。
これまで養子という形でしか叶わなかった男性同性愛カップルの「子どもがほしい」という願いが叶う日がきたのである。
しかも自分の遺伝子を引き継ぐ子ども、という形で。
しかし、この「超雄」の誕生によって一つの誤算が生じた。
YY遺伝子を持つ「超雄」は、たとえ女性と配偶したとしても50%の確率でXY遺伝子を持つ男子か、あるいはもう50%の確率でYY遺伝子を持つ「超雄」しか誕生しない。
つまり、「超雄」から女子が誕生する可能性はない。
世代が進むにつれて「超雄」が増えるとともに女性の数は減った。
結果として現在、女性は希少な存在になってしまったのである。
さらにこの状況を加速させたのは、ただでさえ希少な女性が男性との結婚を望まなくなったことである。
殊に我が国においては一人当たりの平均所得が下降の一途を辿り、仮に結婚をしたとしても、男女双方が働かなくては生活できない状況となっている。
然るに、家事・育児は相変わらず女性の役割であるとするジェンダー観が払拭されることはなく、結婚した場合に女性に過大な負担がかかる。
このため女性は結婚・出産を望まなくなり、多くの女性が一人で生きていくことを選ぶようになった。
なお、女性の中でも結婚を望む者は少数ながらいたものの、いざ現実の男性に目を向けた途端その実態に絶望し、その意欲もいつの間にやらなくなってしまったということもあったようである。
こうして、女性との配偶が叶わなくなった男性は、その性欲を男性に向けざるを得なくなった。
かつては少数派(マイノリティ)であった男性同性愛者(ゲイ)がもはや圧倒的多数派となり、逆に私のように女性が好きな男性(ストレート)の方が少数派となっていったのである。
本来、多くの男性は元々本能的には性的嗜好が女性に向いていたはずである。
ただ、そのうちの殆ど全ては、現状に順応して後天的にゲイに転向することとなった。
しかし残念ながら私は、いくら女性との配偶が叶わないからといって男性に目を向けることは出来ない。
以前は私と同様に女性を求める男性も幾らかは見たことがあったと思う。
しかし、ここ数年はそのような者を見ていない。
そしてついに先日、衝撃的な事実を知ることとなった。
私が我が国に残された、最後の男性異性愛者(ストレート)であるということを。
男性と女性が配偶しなくなったことで、人口の減少は顕著なものとなった。
いくら男性同士で「超雄」を残すことができるようになったとはいえ、それは簡単なことではない。
このため、我が国の配偶と性的嗜好に関する調査が大々的に行われ、その結果が公表された。
その結果、男性異性愛者はとうとう我が国で私一人となったことが判明したのである。
最後の男性異性愛者が私であることは勿論世間には公表されなかったが、メディアはありとあらゆる方策を尽くして「最後の男性異性愛者」を捜索し、ついに見つかってしまった。
無論週刊誌やタブロイド紙に大々的に報道され、私の存在は世間の知るところになった。
なお、私の住所氏名その他は伏せられて報じられたが、すぐにネットの暴力で特定されて晒されるに至ったことは言うまでもない。
こうして私の、不幸ながらも平穏な生活は破壊された。
我が国に住まう私以外の男性(=ゲイ)の興味は、「誰が最後のストレートを手に入れるか」ということに向けられた。
彼らにとってストレートの男性を自分の力でゲイに目覚めさせることはこの上ない悦びであり、ゲイとして是非成し遂げたいことであるようだ。
周りの男たちは皆例外なく私の尻を狙うゲイである。
私は日々、胃の痛くなるような緊張感の中で生きていくことを強いられることになったのである。
ついにこの日がやってきてしまった。
会社の男性上司にトイレの個室に連れ込まれ、唇を奪われたのである。
彼は私のズボンに手を掛けたが、私は激しく抵抗し、身を反転させて躱し、何とかそれ以上の事態を防いだ。
私は会社を抜け出して帰宅し、内鍵をかけてチェーンロックし、洗面所に駆け込んで何度もうがいをし、顔を洗った。
一通り顔を拭いたが、目から溢れる液体を止めることは出来なかった。
私は上司の「不同意わいせつ」を警察に訴えたが、受け入れてもらえなかった。
未だに男を拒む男がいるのか。
そういう空気に包まれていた。
しかもあろうことか、警官の男が私の手を握り、「忘れさせてあげようか」と言ったのである。
私はその手を振り切って逃げた。もはやこの国に頼るべきものは何もない。
こうなったら最終手段である。
江戸時代、幕末の日本が外圧により開国したように、この状況を変えるには外圧に頼るしかない。
私はあらゆる伝手を頼って「外国人記者クラブ」に自らの窮状を訴えた。
性的マイノリティに人権を。
私は何度も叫んだ。
私は今、母国を捨ててとある国に移住している。
この国ではまだ男性異性愛者の人権が強く保証されている。
女性も比較的多い。
そして私はその国の女性と交際している。いずれ結婚するだろう。
私はつくづくここに来て良かったと思う。
同時に、我が祖国が一日も早く、本当の意味での多様性を受け入れるようになることを心から祈っている。
何だかんだ言っても、あの国が私の祖国であることには変わりはない。
いつか将来の家族になるであろう彼女と子どもたちに、誇りを持って「ここが私の国だよ」と言えるように。