短編小説#49 坊ちゃん(令和)

(2025.7.7)

 

 親譲りの神経衰弱で子供の頃から損ばかりしている。
 小学校に居る時分学校の屋上から飛び降りて腰を抜かしたことがある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。当時同級生五・六名からのいじめに遭っており、彼らが寄って集ってここから飛び降りて死ね、と詰め寄ったからである。教師が大きな眼をして屋上から飛び降りて死に損なう奴があるかと云ったから、この次は必ず死んで見せますと答えた。
 
 幸い勉強は出来る口であったから、中学校からは受験をして私立の男子校に通った。
 ここには彼の五・六名のようなやんちゃな奴はいなかったが、その分神経に障る悪戯をする者が多かった。
 おれはやに色が白かったから、芝居の真似をして女形になったらさぞ似合うだろうと言われた。
 そうしたら翌日黒板に、おれとクラスのもう一人気の弱そうな奴の名前が相合傘にされて書かれていた。
 学校には男しかいなかったからこのようなことは日常茶飯事であったのだが、相手の名前は違えどもおれだけは毎回標的にされていた。
 そうこうしているうち、何を勘違いしたのか相合傘にされた一人から交際を申し込まれて大いに閉口した。

 そんな訳で、中学高校と良い思い出はない。
 高校を卒業したら大学に行くものだと漠然と思っていたので、とりあえず受験勉強をした。
 この時に至るまで自分の将来だの職業について考えたことが一秒もない。
 とりあえず数学は出来なかったから文系に進み、その中で一番名前が通っていて就職に潰しが利くと言われていた法学部のうち、自分の学力からここなら良かろうと学校から勧められた某大学を受けたら受かったので進むことにした。
 四年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、四年経ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
 卒業式に出ると、学校ではついぞ見かけなかった顔がちらほらある。
 聞くと、大学の法学部などというものは友人のノートをもらって試験を受け、最後に卒業論文さえ書けば卒業できるものなのだそうだ。一生懸命頑張った者が馬鹿を見るのが世の常であるということを知った。

 さて、勉強をするだけではおまんまにありつけない。
 元より法曹に進むような素養もなければ金も気力もない。
 仕方がないので就職活動をしたが、神経衰弱で気が弱く自己主張も利かない者を雇う会社はない。
 就職部に相談したら公務員試験を受けたらどうかと勧められたので、行ったこともないような田舎の県の役所を受けた。
 一次試験に受かって、二次試験の面接で何故縁もゆかりもない県を受けたのか、と言われたのでここなら田舎だから受かるだろうと思って受けました、と正直に答えた。そんなことを言ったら落ちる、と散々に言われたが、受かっていた。外に当てがなかったので漫然と行くことにしたのだが、元を正せばこれも親譲りの神経衰弱が祟ったのである。

 油臭い匂いのする気動車が一つ大きく揺れて止まると、ワンマンの運転手が終着駅に着いたことを告げた。
 それにしても遠かった。新幹線に二時間乗って、気動車に乗り換えてさらに二時間かかった。
 駅を出たら真っ暗である。
 役所が周旋してくれた独身寮に入ることになっているのだが、駅からどう行ったらいいか分らないし、道がどのようについているのかさえ判別がつかない。
 タクシーを呼ぼうと思ったのだが、駅前にはタクシーも止まっていない。
 まだ夜の八時過ぎなのに、この街は寝静まっているようである。
 よくよく見るとタクシー会社の看板を掲げた小屋のようなあばら家があって、ご用命はこちらまでと書いた板が掲げられている。
 仕方がないから電話をして待っていたら、やっとタクシーが来た。
 どう説明をしたらいいか分らないから県の寮を知っているか、と訊いたら知っていると答えたので、じゃあそこまで頼む、と言ったらすぐに車を出した。
 ここは初めてですか、と訊いてきたからええ、と答えたら、びっくりしたでしょうこんな田舎で、と言ってえへへへと笑った。
 確かにびっくりした。こんなに真っ暗だとは思わなかったし、道の真ん中で狸が死んでいる。

 寮に着いてごめんください、と言うと管理人が現れた。
 ああ今日から入られる誰々さんね聞いてますよと事務的に返事をされ、部屋の鍵をもらった。
 お疲れでしょうから詳しいことは追々、今日はもうおやすみなさい、と言われたのではいと言うと、そそくさと下がってしまった。
 随分不愛想な婆さんだと思ったらもう一回出てきて、貴方明日は本庁に辞令交付に行くんでしょう、と言われたのではいと言ったら、あんたまさか汽車で行くんじゃないでしょうね、高速バスに乗って行きなさい、ここの人で汽車を使う者はいない、と教えてくれた。確かに調べたら、鉄道だと朝五時に出なければならないが、バスなら朝六時半に出れば間に合う。
 おれがありがとうございます、と言ったら、管理人はいえいえと言って下がった。悪い人ではなさそうだ。

 六畳一間の畳敷きの部屋に入って荷物の入ったボストンバックを放り投げて窓を開けると、一面の田圃である。
 涼し気な風が緑の匂いを運んできた。
 ああ好い心持だと横になってうとうとしかけたところで、手足に何かが触るので目が覚めた。
 見ると、名前の判らない虫が大勢で集っている。
 今更ながら大変なところに来たもんだと思った。

 初日は本庁で辞令交付式があった。こちらに来る時新幹線から気動車に乗り換えた駅の近くに本庁はある。
 本庁の講堂で辞令をもらって、知事の訳の分らないお説教を聞いて、終わると講堂の出口に貫禄たっぷりの大男が立っていた。
 この男は課長補佐であるらしく、おれを迎えに来たと言う。まさか送迎付きだとは思わなかった。今日来たばかりの若造のおれにこんな下にも置かぬもてなしをするとはどういう了見だろう。
 迎えの車に乗ると、課長補佐はおれに暑くないか寒くないか、寮には行ったか住み心地はどうか、などと気遣いをした。
 何故そこまで丁重なのか気味が悪かったが、どうしてそんなに気を使うのですかとも訊けなかったからそのままにしておいた。
 おれは腹の中で人にあだ名を付けるのが大好きだ。課長補佐は某国の大統領に似ているから、大統領と呼ぶことにした。

 大統領によれば、これから向かうのは地域の出先機関に当たる地方事務所であり、おれはそこの総務課で庶務の仕事をするのだそうだ。
 庁舎の中には土木事務所と保健所と県税事務所があって、庶務の仕事は他事務所の連中の世話を焼いたり、契約や物品購入などの事務仕事を肩代わりしてやることだそうである。
 まあ最初は分らないだろうから、係長や先輩に訊きながら追々やってくれれば良い、とのことである。
 庁舎に着くと、一番奥から年配の女史が出てきた。ブロンドみたような髪の色をして昔の外国の映画に出てくるような風体で鉤っ鼻だから、その場で頭の中でウィッチという言葉が浮かんだ。彼女は課長なのだそうだ。
 ウィッチはおれを連れてもう一つ奥の小部屋におれを連れて行った。ここは所長室である。
 所長は勤務時間中だと言うのに新聞を読んでいる。呑気なものだ。歳に見合わない黒々とした髪をして、太い黒縁の眼鏡を掛けている。穏やかそうな男だ。俳優に似た人がいたような気がするが、思い出せない。

 最後にここがあなたの席、と案内された。庶務係と書かれた札のぶら下がった一番下手の席に着席すると、背の高い痩せた男が近寄ってきて、僕が係長の馬飼です、どうぞよろしくお願いします、と言って深々と頭を下げた。
 係長は背も高いが顔も長い。まさしく馬面である。馬飼と言うが、飼うと言うよりは飼われている方じゃないのかと思った。あだ名は馬で決まりである。
 それから毎日、馬は自分の仕事を二の次にしておれに懇切丁寧に仕事のレクチャーをしてくれた。おかげで二週間も経つと少しずつでもやっていることの意味が分かるようになってきた。なるほどさすがに上司というのは偉いものである。馬は気の毒だから、あだ名は馬師匠にしておいた。

 馬師匠とはいろいろと世間話をした。職場のことも教えてもらった。
 所長は何故毎日所長室で新聞を読んでいるのですか、と訊いたら、所長はああやって世間の趨勢を知るのと、あとは何かあった時に出て行って私たちのために頭を下げるのが仕事なのだ、と答えた。頭を下げるだけで高給がもらえるなら楽なものだ。だから皆出世して所長になりたいと願うのだろう。

 おれのすぐ上に三十過ぎの主任の女がいる。彼女は顔立ちが上品で美しいのだが、化粧も全くしないで寝巻のような恰好をして来ている。馬師匠にこっそりと、なぜ主任はあんなに身なりに気を遣わないのですか、と訊いたら、この3月まではきちんと化粧をして綺麗な服を着ていたと言う。何かあったのですか、と訊いたら、そんなこと訊ける訳がないじゃあないか、と逃げ腰である。ただ、おれの前任に同じくらいの年頃の男がいて、その男と随分仲が良かったそうである。付き合っていたのですか、と訊いたら、そんなはずはない、二人とも所帯があるのにと言われた。おれは未だに付き合っていたと思っている。
 彼女は今の職場に何年もいるベテランで、ここのことを誰よりも知っていて、いざという時に一番頼りにされているのだそうだ。ここの職場は仕事柄いろいろと面倒なことを言われたりもするのだが、彼女はそのたびに毅然と対応をする。おれも何回か助けてもらったので、いつしか彼女のことは姫と呼ぶようになった。

 おれの仕事は庁舎と独身寮と公舎の管理である。
 主な仕事は設備が壊れた時に業者に連絡をして直してもらうことと、独身寮と公舎の世話である。
 殊に寮や公舎の住民が要望を持ってくるから、それを聞いて調整してやらなければならない。
 特にやかましいのは独身寮の住民である。寮にはおれのような若い連中と、単身赴任の年配者が半々くらいの割合で入っている。やかましいのは年配者の方である。おれを新採の若造と侮って、自分だけの我儘を通そうとするから質が悪い。風呂が汚い、掃除が足りない、飯が不味いなど言いたい放題である。
 寮費は月にたったの千八百円ぽっちである。飯代と電気代は別だが、それにしても破格の安値である。一泊で言うと六十円だ。これでは西成のドヤにも泊まれまい。彼らはそのことをすっかり忘れて、又は忘れたふりをしてこのような我儘放題を言うのである。お前らはこの寮がほぼ県民の血税で運営されていることを分っているのか。
 飯代は別だと言うが、それでも朝が二百五十円で、夜が四百三十円だ。これっぽっちの金で人並みに飯が食えるのだから有難く思わないといけない。
 しかし彼らはそんなことなどお構いなしで、至れり尽くせりの住環境を享受するのが当然の権利だと思っている。山賊のような連中だ。

 職場でおれの席に来て寮の要望をするのはそれでも仕事だから百歩譲って我慢するが、それを勤務時間外に言うのだから尚更始末が悪い。酷い時などは寮でおれの部屋までわざわざついてきて、さらに部屋に勝手に上がって座り込んで小一時間説教を垂れる。
 最悪なのが保健所にいる五十がらみの村田とかいう男である。顔はぶちゃむくれで太っていて、相撲取りがそのまま年を取ったように見えたから、あだ名は親方である。
 親方はおれには文句を言うが、こちらから依頼したことはまともにやってくれた試しがない。期限が近くなったから催促をしたら、その期限はそっちが勝手に決めたものだから俺には関係ない、と抜かした。一体どこでどう間違ったらこんな人間が育つのだろうか。親の面が見てみたい。
 さらにこの男は瞬間湯沸し器で、ちょっとしたことですぐ逆上する。せっかく保健所にいるのだから、狂犬病の予防注射でも打ってもらうがいい。少しは穏やかになるだろう。
 奴は単身赴任だそうだ。こんなのでも結婚しているとは思わなかった。若い頃は今よりはましだっただろうが、それにしてもこの顔でこの性格だったら、おれが女だったら絶対に御免である。向こうじゃ単身赴任してくれてさぞや清々していることだろう。

 結局一か月で独身寮は退寮した。別に寮に文句がある訳ではなかったのだが、毎日毎日親方みたいな連中に詰められたらノイローゼになっちまわあ。
 おれは一計を案じた。
 寮を出たと言っても、五分も歩けば知った顔に会ってしまうような狭い街である。親方みたような奴にうっかり出っくわしてまた寮が汚いだの飯がまずいだの言われたらたまったものではない。
 馬師匠によれば、新規採用された職員は基本三年間で次の職場に異動するのだそうである。それを聞いたときはこんなところに三年もいるのかおやおや、と思ったが、逆を言えば三年経てばこの街とはおさらばである。で、最初に出先機関に配属された者は間違いなく次は本庁に行くのだそうだ。
 なので、おれは一足早く本庁のある県都に引っ越すことにしたのである。
 通勤は路線バスと高速バスを乗り継いで二時間かかることになった。確かに痛いのだが、親方の面を見るのに比べればはるかにましだ。

 二か月もすると大体この中の仕組みは知れた。
 何故ここの人たちはこうまで権利意識が強くて偉そうなのかと馬師匠に訊いたら、これは大きな声では言えないがと注釈つきで、この地区は非常に労働組合が強いのだと教えてくれた。
 職員は一人一人が組合員だから、何か不満があれば組合に垂れ込んで、組合が所の管理職を詰めるのだそうだ。上役たちは組合が怖いから、出来るだけ言うことを聞くことにするという。
 別に組合が強いのは悪いことではないし、我々の労働条件を良くするためには強くあってもらわないと困るのだが、それをてめえの理不尽な我儘を満たすために利用する者が、それも結構な数いるのが大問題である。
 所長とウィッチと大統領は地方事務所の管理職だから、組合交渉の矢面に立つ。よくウィッチと大統領が所長室に入ってドアを厳重に閉めて、何時間も密談をしている。これは組合交渉の打合せらしい。変なことを言うと大問題になるから、返答には慎重に慎重を期するのだそうだ。これはこれで大変である。特にトップである所長の発言は取り返しがつかない。所長も傍で見るほど楽ではないのだと知った。

 最終的に割を食うのが我々総務課、殊に庶務係である。特に独身寮や公舎については、住人は何も好き好んで住んでいる訳ではない、人事の都合でこんな遠方の田舎に配属されてしたくもない単身赴任生活を送っているのだから、より快適な住環境を求めるのは当然の権利である、ということで、言いたい放題が罷り通っているらしい。
 だからウィッチはおれに、何かあっても我慢するようにと口が酸っぱくなるほど説いている。
 もっと気の毒なのは馬師匠である。彼はさながら苦情処理窓口のようになっていて、他事務所の職員からは毎日あれやこれや文句を言われ、上役からは穏便に計らうようにとこれまた圧を掛けられる。
 こんなので心身が持つのかと思ったら、昨年度にはノイローゼになって一か月休んだことがあると姫が教えてくれた。馬師匠も見るからに気弱な顔をしているから、きっとおれと同じで神経衰弱なのに相違ない。おれは同病相憐れんだ。
 
 他人のことを憐れんでいる場合ではなかった。
 ある日ウィッチがちょっと来てくれと言っておれを別室に呼んだ。
 どうせ碌なことではあるまい、と思っていたらその通りで、おれに対する苦情が来たのだそうだ。
 曰く、職員に対する対応が悪い、顔が怖い、声が怖い、愛想良くしなさい、ついでに咳がうるさい、まで言われた。この顔と声は親からもらったものだ。けちを付けられる謂れはない。大きなお世話である。おれはアレルギーがあるから鼻水が喉に詰まって咳をする癖があるが、これは病気だから仕方ないだろう。そもそも人が咳をしていたらまず大丈夫ですかと気遣うのが人の道ではないのか。それをやかましいと言って上司に垂れ込むとはどういう了見だ。
 組合云々の事情が分っているからとりあえず返事はしておいたが、何かあるたびに上司に密告する、そんなことが日常で行われているとは恐ろしいところだ。ここは本当に日本なのだろうか。

 こんなことが続いたものだから気がくさくさしてしょうがない。
 ある日馬師匠が年休を取って休んだので、公印の番をおれがすることになった。
 番と言っても大したことではない。公印を押しに来た他事務所の連中の書類をチェックして、問題がなければ押さしてやって、最後にきちんと押されているかもう一度チェックしておしまいである。
 こんなことをやって何の意味があるのかと思ったが、以前油断して好きに押させてやったところ、ある土木の奴が決裁をもらってもいない文書に勝手に公印を押して、有印公文書偽造とやらで大騒ぎになったことがあるのだそうだ。
 油断も隙もあったもんじゃない。どうかすると悪用を企むのがここの連中の性のようである。
 不正だけは許すまじと眼を光らせていると、若い女がやって来た。
 この女には見覚えがあった。何故か知らないが必ず毎朝、おれと同じタイミングで庁舎にやって来る。
 肩口まで伸びた黒髪で目鼻立ちがはっきりした風貌がおれの好みだったから、妙に印象に残っているのだ。
 おれのいる総務課は二階だが、彼女はさらに上りの階段を登っていくから土木か保健所だろうという当たりはついていたが、それ以外のことは知らない。
 決裁文書を見ると、保健所の保健課と書いてある。
 おれは思い切って、よく朝会いますよね、と切り出してみた。
 彼女はええ、と言って微笑を浮かべた。いつもあの時間に来られるんですかと訊かれたから、高速バスで来るから時間が決まってるんです、と答えた。
 彼女はええ、と言って眼を丸くした。毎日大変ですねと言ったから、いえ、好きでやってるから平気ですと言ってやった。
 公印が据わった書類をチェックして彼女に渡すと、ありがとうございます、と言ってまた笑った。
 彼女の後姿を見送ると、胸の辺りから熱いものが込み上げてきて、それが自分のエネルギーになったような心持がした。
 おれは彼女にマドンナというあだ名を付けた。
 
 マドンナとは毎朝同じタイミングで出くわすから、庁舎の自動ドアを入ってから二階で分れるまで言葉を交わすようになった。
 彼女は看護師の資格を持っていて、専門職で保健所に入ったのだそうだ。
 去年入ったらしいから、おれより一年先輩である。
 おれは朝は大抵機嫌が悪いのだが、彼女はいつも静かに微笑んでいて、ゆっくりと優しく、穏やかな声で話す。
 おれは神経衰弱だから、朝起きると胸にずんと重いものがあって、動くのが億劫である。
 しかし、マドンナのことを思うと胸の重いのが融けて、何とか寝床を這い出して仕事の支度が出来る。
 惚れているのかと問われれば、それはどうだか分らない。
 そんなことはどうでも良い。これくらいの楽しみがなくてこんなところで仕事が出来るものか。

 ある日、マドンナが総務課にやって来た。
 何か用事かしらんと身構えて待っていたら、おれの方には目もくれないで姫のところに言った。
 深刻そうな顔をして相談がありますと言ったから、姫は何かを悟ったか、席を立って一緒にどこかに行ってしまった。
 姫は姉御肌であるし、組合の女性部の役員をしていたから、女性職員からの、殊にセクハラとかパワハラとかの相談を受けることがあった。
 おれは心配だったから、姫が戻って来た時に何かあったのですか、と訊いたが、あなたには関係ないからとぴしゃり言われて教えてもらえなかった。
 翌日から、朝マドンナと会わなくなった。
 もしかするとおれに会うのが苦になったのだろうかと訝ったが、姫は関係ないと言っていたからそれはないだろう。もしおれの所為なら、姫の性格だったらその日のうちにおれの失策を論って説教を垂れるはずである。
 とはいえ、ここは密告社会だから何があるか分らない。
 マドンナに会えないのは情けないが、しばらくは大人しくしているしかない。
 
 二週間くらい経って、マドンナが再び総務課に来た。
 やはり今日のお目当ても姫である。
 この間と同じように、姫はマドンナと一緒に出て行った。
 マドンナの表情を見るに、状況は好転していないようである。
 おれには関係ないらしいから何を考えても仕方がないのだが、気が気ではない。
 仕事にならないからとりあえず便所にでも行こうと思って廊下に出た。
 便所の向かい側の少し行ったところに修養室という畳の部屋があって、職場の茶道部の連中が月に一回お茶を立てている。
 その辺りから女の声が聞こえる。姫とマドンナに間違いない。
 おれはトイレで用を足す振りをして聞き耳を立てた。
 マドンナは涙で詰まりがちな小さな声で何か言っている。村田さんがとか今度の土曜日にとか寮がどうこうとか、そのような単語が聞こえた。
 姫はあまり喋らず黙って話を聞いているようで、時々マドンナを慰めている。どうしても嫌だったら逃げなさいと言ったら、職場での何とかが何とかだからと途中まで言ってまた涙声になる。

 便所から戻ると、おれは頭の中を整理した。
 マドンナは親方と同じ保健所の所属である。課は違うのだが、あそこの事務系の仕事は全部親方の課でやっているし、イベントやら何やらで一緒に仕事をすることも多いらしい。
 大方仕事で何か弱みがあって、それをネタに強請られて交際を迫られているのに相違ない。
 以前寮の件で親方に理不尽を言われて困った時に、馬師匠にあの親方を何とかしてくださいと言ったら、あの人は組合幹部の友人で、こちらからはなかなか物を言えないから辛抱してくれと言われたことがある。
 だから姫は勿論、職場の上司でさえ親方には物を言えず、半ば言いなりになっているそうだ。
 どこの国にもコネを利用してやりたい放題する馬鹿がいるものだが、まさかこんな身近にそんな糞がいるとは思わなかった。幹部も幹部だ。よくこんな奴を友人にしたものだ。おれだったら何億もらっても願い下げだ。
 それはともかく、マドンナは今そこにある危機に見舞われている。
 しかもこのおれが管理をしている寮を舞台にした企みである。
 こんなものを放っておいて良いはずがない。断固阻止しなければならない。
 決戦は次の土曜日である。
 全ては決まった。
 
 その日が来た。
 おれは通勤の日でも乗らない、朝一番の高速バスに乗って独身寮に乗り込んだ。
 玄関先で管理人の婆さんが掃除をしている。
 一応挨拶をすると、婆さんはおやいらっしゃい、何かあるのかいと聞いた。
 おれは言い訳を考えていなかったから、休日の管理状況について確認に来ました、あと建物の様子が見たいので、と口から出まかせを言って誤魔化しておいた。
 外観を点検するふりをして、おれは建物の陰に隠れて標的を待った。
 二時間待ったが、動きはない。
 今日は連休だから、住人の多くは実家に帰っている。だから人の出入りもない。見張りをするには好都合だが、退屈で仕方がない。
 外で立っていると暑いし、足がくたびれて仕様がない。腹も減る。
 昼のいい時間になったところで建物の中に入って、玄関ロビーに置いてある長椅子に座って、コンビニで買っておいたおむすびを食べ、ペットボトルの茶を一息に飲んだ。
 婆さんは別段怪しむ様子もなく、管理人室に閉じこもってテレビを見ている。何なら独身寮管理担当の職員が来てくれているのだから今日は安心してテレビを見られるくらいに思っているようである。初めて今の仕事を役得だと思った。
 おむすびを食べ終わると、持ち場に戻る。
 誰一人来る気配がない。
 さてはあれは聞き間違いであったか、あるいは明日かもしれないし、来週かも知れない。
 おれはあまり根性がないから、いくら天誅のためといえど、またいくらマドンナの貞操の危機のためといえども、毎週毎週休みごとにこっちに来るのは真っ平である。何より金が続かない。これで天網恢恢疎にして漏らしちまったりしたら、お天道様を恨む。
 そんなことを考えていると、寮に女がやって来た。マドンナである。
 入口のドアのところで逡巡している。大方無理矢理呼び出されたが、入りたくないのだろう。
 おれは意を決して、後ろからマドンナに声を掛けた。ひゃあ、と小さい声で叫ぶと、おれの顔を見て怪訝な、それでいて少々安心したような、複雑な表情をしている。
 おれがマドンナに、何故今日はここに来たのですか、と訊いたら、親方に呼ばれたのだと存外正直に答えた。
 それはあなたの本意ですか、と訊いたら、下を向いて黙ってしまった。眼に涙が溜まっている。
 マドンナは答えないで、あなたは何故ここにいるのですか、と逆に訊いてきたから、無論親方の野郎に天誅を加えるためですと答えた。マドンナは怯えた表情になった。
 マドンナの電話が鳴った。ええ、今着いたところです、今から行きます、と消え入るような声だ。大方約束の時間に来ないから、親方が催促をしているのだろう。てめえが勝手に決めた時間なのだから相手には関係ないはずだろうが。
 マドンナは意を決したらしく、じゃあ行きますからと言って中に入った。おれは無言で後を追った。
 四階に上がると、ちょうど親方がマドンナを自室に招き入れるところだった。おれは駆けって行ってその場を押さえ、部外者を寮内に入れるのは禁止です、と言った。
 親方はそんなものは知らん、誰でもやっていることだと白を切るから、規則は規則です、管理者である自分が見ている以上、看過できませんと言ってやった。
 親方はちっと舌打ちをして、じゃあ外ならいいだろう、と言って一緒に出ようとしたから、そもそもあなたは単身赴任の妻子持ちじゃあなかったですかねえ、と嫌味たっぷりに食らわしてやった。
 だからどうした、となおも開き直ったから、妻子持ちが若い女と二人きりで何かすると、悪い評判が立ちますよと言ったら、別に何も疚しいことはない、仕事の指導をしてやるだけだと嘯いた。
 仕事の指導なら職場ですればいいでしょう、と言ったら、休みの日じゃないとできないこともあるんだ、と訳の分からない言い訳をした。
 そもそも彼女は同意しているのですか、職場での業務上の地位を利用してデートを強要するのはセクシュアル・ハラスメントですと言ったら、親方は無論同意さ、なあとマドンナを見た。
 するとマドンナは、今まで怯えた眼をしていたところから豹変して、そんな同意なんかしてません、さようならと言って駆けだした。
 親方が後を追おうとしたから、おれは咄嗟に左足を出した。親方は見事に引っ掛かってもんどりうって倒れ込んだ。
 何をしやがる、これは乱暴だ、お前の上司に訴えてやる、組合にも訴えてやると怒鳴った。
 おれは逃げも隠れもせん、休み明けは出てくるから、訴えたければ勝手に訴えろ、と怒鳴り返した。
 親方は呆然と座り込んで、何も言わない。
 こんな糞みたいなところにいるのは一秒だって嫌だったから、マドンナが消えたのを見届けてから憤然として退場した。
 
 週明けに出勤すると、所長とウィッチと大統領がいない。
 馬師匠に聞くと、用事があって保健所に行ったという。
 大方こないだのことが露見したのだろう。多分この後呼び出されて叱られるに相違ない。もしかすると馘を宣告されるかも知れない。
 しかしおれは悪いことは一切したつもりはない。
 何よりこんなところに居るのはもう懲り懲りだ。馘にするのならさっさとするがいい。
 昼過ぎに三人が帰ってきたので、いざと身構えていたがお呼びは掛からなかった。
 おれは何も知らぬ体でウィッチに何かあったのですかと尋ねたが、素知らぬ顔で何もないと言う。
 とんだ拍子抜けだ。
 このまま待っていても無駄だと思い、今日は用事があるから年休を取って帰っていいですかとウィッチと馬師匠に尋ねた。
 特に止められなかったので、そのまま職場を出た。
 親方は訴えなかったのだろうか。
 仮にそうだったとしても、もう二度とここに戻る気持ちはなかった。

 バスが出るまでまだ待ち時間があったから駅前の喫茶店に入って、まず辞表を書いた。
 誰に何と書いて送ったらいいのか分らないから、とりあえず私儀都合之有辞職の上帰り申候につき左様御承知被下度候と書いて地方事務所長宛にしておいた。
 もう一揃い封筒と便箋があったから、馬師匠にも手紙を書いた。
 これは辞表のようにいい加減に書いて送るわけにいかないから真面目に書こうと思ったのだが、やはり何を書いていいのか分らない。
 小一時間考えた挙句、不肖の部下で申し訳ありませんでした、係長は前途ある身であられますから、どうか健康に気を付けて頑張ってください、と書きかけたのだが、神経衰弱の身に頑張ってくださいは残酷だと思い直し、健康に気を付けてくださいと書き直して封筒に入れた。

 喫茶店の勘定を済ませてポストに二通郵便を入れた。
 辞表は糞でも喰らえ、と呟きながら乱暴に放り込んだ。
 馬師匠への手紙は恭しく静かに落とした。
 一仕事を終えて清々した心持でいると、おれの名を呼ぶ者がいる。
 振り向くと、マドンナが立って居り、おれに向かってお辞儀をしている。
 
 マドンナはこの間の一件の顛末をおれに話した。
 あの後逃げようとして一階まで降りたところで管理人の婆さんと出くわして、ただ事ではないと気付いた婆さんが彼女を管理人室に匿ったのだそうだ。
 そこで事の次第を話して、ほとぼりが醒めたところで帰してもらったのだと言う。
 そして今朝保健所長から呼び出されて行ってみたところ、親方と上役が居て、このたびは女性の尊厳を傷つけるようなことをして申し訳ありませんでした、と謝罪を受けたそうである。
 組合の役員からも話があり、組合員がこのような被害に遭うということはあってはならないことであり、所長には厳しく申し入れた、と鼻息を荒くして言っていたそうである。
 おかしなことだ。悪いのは親方なんだから、組合も直接親方に文句を言えばいいのに。
 
 マドンナはおれに、まさか今回のことで辞めてしまうのですか、と尋ねた。
 おれは無論そのつもりです、今辞表を投げてきたところです、と答えた。
 マドンナは下を向いて、私のせいでこんなことになった、あなたの人生をダメにした、と小さな声で言った。泣いているようにも見えた。
 おれは狼狽して、あなたの所為で辞めるのではありません。こんなところは頼まれたって居るのは嫌だから、おれの意志で辞めるのです、と言って聞かせた。
 ではこれからどうされるのですか、とマドンナは気の強い目でおれを見た。
 そうこうしているうちにバスが来たから、これ幸いとばかり、ほらバスが来ましたのでさようなら、と言って逃げようとした。
 しかしマドンナは何の躊躇もなくおれの後について来てバスに乗り込んだのである。
 どうやらおれはマドンナを見損なっていたようだ。

 この日おれはこの不浄な地を離れた。新幹線が駅を離れてごうごう言いながらスピードを上げていくほどいい心持がした。
 マドンナが駅のホームまでついて来て、連絡先を交換させられたことだけが不覚であった。
 それから毎日電話がかかってくる。早く職を探せの、来て世話をするのと言う。
 
 その後ある人の周旋でバスの運転手になった。
 とりあえず普通免許さえ持っていれば後は何とかする、ということだったので当座の食い扶持のために応募したら、すぐに来てくれと言う。
 行ったら大型二種の免許を取らされ、すぐに本採用になった。何でも毎日の定時運行さえままならないほど人が足りない、君が来てくれて大いに助かったと感謝された。
 そこまで言われれば心も動くというものである。たまに変な客がいるのには閉口するが、役所の親方のような畜生の相手をするよりは大いに楽である。
 
 新居は家賃七万のアパートである。
 なぜかマドンナと一緒に住んでいる。本当におれの世話を焼きに役所を辞めてこちらに来た。
 マドンナは看護師の資格を持っているから、働き口は引く手あまたである。近くの個人病院で働いているが、おれなどより収入は上である。
 かくしておれはかかあ天下の恐妻家として日々を過ごすことになったのである。

 当然あれきり役所の連中と会う機会はない。
 ただ、辞めてからしばらくして馬師匠から封書が来た。
 中には雇用保険がどうのこうの、など退職者に関する書類がいくつかと、あと手紙が入っていた。
 君が辞めたことは県にとって大いなる損失であった、このようなことになったのは自分の不徳である、ただうちの職場は何とか回っているから心配は無用である、と書かれている。職場の心配などついぞしたことがない。これはさすがに悪かったと思った。
 なお、あっちではおれとマドンナが駆け落ちをしたことになっているそうだ。おれは目を丸くして手紙を彼女に見せてやった。そして二人で大笑いをした。
 
 

 

 

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