長編連作小説#1 六脳(第19回〜最終回)
第19回 戦場にかける橋(3)
栗山一路は関西の人間ではない。
東京のベッドタウン・S県のK市に生まれた彼は,幼少時から漠然としたエリート志向を抱いていた。
一生懸命勉強して,偉くなって,有名になって,いい暮らしをして,幸せになりたい。
そんな小さな夢がどんどん現実となっていった。
彼は公立の小学校に行っていたが,自分の意思で進学塾に行くことを決めた。有名進学塾でも常にトップの座を譲らなかった彼は,私立の名門である開命中学・高校へ進学した。
あとは日本一の東都大学法学部に入り,国家一種試験に受かって大蔵省に入り,出世街道を走り,省のトップである事務次官になること。そしてそれを足がかりに政治の世界に進み,大臣,果ては首相になること。それが彼の究極の目標だった。
しかし,その夢はあっさり打ち砕かれることになる。
彼は東都大学の前期試験に落ちたのだ。そして,後期試験で,彼にとってはすべり止めだった京阪大学に合格した。
彼の自尊心は,初めて砕かれた。
勿論,浪人して東都大学に再挑戦する道もあった。
しかし,東都大学法学部の前期試験の合格者数640人の中に入れなかった俺が,その大学でトップを取り,国家一種試験でトップを取り,大蔵省に入ってもトップを取り続けることが出来るのだろうか。
栗山は初めての挫折を覚え,不安を覚えた。恐怖した。
日夜,布団をかぶって涙を流し,一人悩み続けた。
トップを取り続ける必要はないじゃないか。
トップを取らなくても,東都大学でなくても,受かりさえすれば全員平等に社会的なステータスを認められ,尊敬され,自らの目標である天下取りの足がかりともなり得る,そんな試験があった。
それが,司法試験だった。
人間,二十歳を過ぎると脳細胞が死んでいくという。
今現在の,吸収しようと思えば何でも吸収してしまえるこの頭脳を今のうちにフル稼働させて,将来への布石を今からでも作っておかなければならない。
善は急げ。
彼は大学のステータスよりも,一年の歳月を選んだ。
そして,彼にとっては未知の土地である関西へやって来たのである。
K市での一人暮しの体制を整えると,彼は早速その日から法律の入門書を買って勉強を始めた。同時に,大手法律予備校の基礎講座へも通うようになった。彼が基礎ゼミで,1回生としては図抜けた法律知識を誇っていたのはそのためだったのだ。
2回生の時点で既に短答式試験に合格してもおかしくないほどの力をつけ,その後1年をかけて論文式試験への対策も施し,満を持して挑んだ3回生時の試験。短答式には受かったものの,自信を持っていた論文式試験でまさかの不合格。
しかし。
俺は諦めない。
諦めるわけには行かない。
俺自身の夢とプライドのために。
そして,自分に劣らないほど優秀な,あの愛すべき女性に見合う立派な男として彼女をリードするために。
もう俺だけの自己満足の戦いじゃない。
来年こそ俺は,絶対に勝たなきゃいけないんだ。
絶対に―
久我山京子は,表面上フリーの身だった。
前の彼氏とは,彼女の方から別れを切り出す形で別れた。
彼のほうも,特に何も異論を唱えなかった。
久我山は,単に遊び慣れている男と大学時代の一時を楽しみたかっただけ。
彼氏にしても,この京阪大学の美しき才媛を一時の遊び相手に選んだだけ。
その点で二人の利害が一致したに過ぎない関係。
男女の行為でさえも,単なる遊びと割り切れる関係。
所詮この二人ではほんまもんの愛だの絆だの,そういったものは築けないのだ,ということをお互いに分かっていた。
楽しかったよ,ありがとう。
久我山はそう言って,笑顔で別れた。
その後彼女は,司法試験を自分の目標と決め,本格的な勉強を始めることになる。
そして彼女の心の中には,本当に自分に見合う,将来を預けられる男性―栗山一路の姿があった。
ただ,まだ彼女には,栗山に告白して「二人」になろうという気はなかった。
自分にも栗山にも目標があって,それは今やらなければならないことだ。
お互いがお互いをサポートすることがあっても,お互いがお互いを邪魔することがあってはならない。少なくとも,自分が栗山の果てしない目標の邪魔にだけはなってはいけない。
そうならないためには,今の,親しいけれど恋人ではない,それでもお互い心の支えになる,そういう関係がベストなのだ。
恋愛だけなら,受かってからでもできる。
栗山ならほどなく合格してくれるだろう。そうなったら自分は晴れて栗山と「二人」になって,彼のサポートに回ることもできる。
勿論私だって,出来ることならあの難関を突破して,法曹三職で活躍したい気持ちがある。
とりあえず今やるべきことは,勉強すること。
恋愛に現を抜かしている暇は,自分にも彼にもないのだ。
久我山はその点では実に割り切りの良い女だった。
二人は,友達以上恋人未満のまま,司法試験に全霊を向けることになる。
第20回 戦場にかける橋(4)
6人は,4回生になった。
5月の第2日曜日。
択一試験の試験会場には,彼らの姿があった。
いや,6人ではなかった。
加藤宏。
彼の姿だけがなかった。
彼も司法試験を目指す学徒であるはずだった。
しかし,彼は今ここでのことに限って言えば,戦いを避けることを選択した。
加藤がいないことを口にする者は,誰もいなかった。
彼を忘れたわけではないのは勿論だったが,もはや彼の気持ちを理解するほど彼を知る人間は彼らの中にはいなかったのだ。
試験はあくまで淡々と始まり,淡々と終わった。
途中で筆を止めるものもいた。
「こいつら,もう出来たのか。すげえなあ」
受験生の中にはそう考えて動揺するものもいる。
しかし,そういう奴に限って実はいわゆる「記念受験組」で,「出来た」のではなく「諦めた」奴らなのだ。小林はそれを知っていたから,そういう奴らが1人,また1人と出てくるのを感じるたび,微かな笑みを漏らした。
栗山は違っていた。
そういう奴らは端から計算外なのだ。
司法試験の択一試験の倍率は,「真面目に勉強して受ける奴」だけを計算に入れておよそ4倍程度である。
ここでいま真剣に問題と格闘している奴らこそが真のライバルであり,これから一緒に合格を賭けて戦う資格のある人間なのだ。
幸か不幸か,5人の中には「合格を賭けて戦う資格」を失った人間はいなかった。
全員真摯に司法試験に取り組み,そしてここまでたどり着いた奴らばかりなのだ。
栗山はそれを確認してから微かな笑みを漏らした。
合格発表の日。
結果から言うと,5人はいずれも択一試験を突破した。
しかし,番狂わせはあった。
卒業してからも司法試験を目指していた小松の彼氏が落ちたのだ。
彼は必ずしも出来の悪い方だった訳ではない。
教授・坂元の目に止まってゼミに入り,その中でゼミ幹としてリーダーシップをとってきた男だ。
そんな彼の挫折を知った時,小松は少なからず失望した。
共に合格を喜び合う小林と木下を見ながら,彼女は今までにない類の嫉妬の気持ちを抱いていた。
択一試験の合格は,司法試験の序章に過ぎない。
本当の天王山は,次の論文試験だ。
特に前年,絶対の自信を持ちながら不合格の辛酸をなめた栗山は,毎日のように坂元の研究室に通い,論文のレクチャーを受けていた。
ダメだな。
坂元ははっきりと言ってのける。
お前の知識は誰にも負けねえ。でもその知識が邪魔をしすぎてるんだよ。
こんな条文を持ってくる必要は,少なくともこの問題に関してはないんだよ。
必要な条文を取捨選択して必要ないものは捨ててしまうことも勇気なんだよ。
要らない条文に長々と説明していたらそれは時間の無駄だし,逆にマイナスの要素になることだってあるんだよ。
お前の前年の論文試験の評価を見てみろ。
全体評価C。しかも俺様の教えてやった民法が評価Eで一番悪かったじゃねえか。
それは俺が教えてきたことを全部出そうとして力んでしまったのが原因じゃねえのか。
いらねえ物はいらねえで捨ててしまう勇気が必要なんだよ。
女と一緒だぜ。
どうせお前の性格だったらいい女がいたら片っ端から手ぇ出してよ,結局なかなか捨てられなくて最後にみんなの恨みを買って刺されるのがオチなんだろうぜ。
論文にはなあ,人生が表れるんだよ。
坂元は酒を飲みながら言っていた。
これは決して酔っ払いの雑言ではない。
栗山は思った。
この言葉が,俺の今の弱点を言い当てているのだ。
彼はますます論文の勉強にのめりこむようになった。
試験前日。
よし。
今のお前なら,何かのアクシデントでもない限り大丈夫だな。
もし落ちたら言って来い。
俺様の首でも何でも,お前の欲しいものをくれてやる。
そう言って,坂元は笑った。
そこでやっと,栗山は安心して笑顔を浮かべた。
論文試験は,暑い暑い夏の日に行われた。
冷房の設備はあったが,何故かこの日に限ってクーラーの効きが悪かった。
しかも各3日間に渡り,6科目合計12時間の長丁場だ。
こうなると,法律の知識や論文のテクニックは勿論だが,それ以上に体力と精神力の戦いとなる。
5人は,表面上はこの地獄を乗り切った。
後は,結果がどう出るか。
それが全てだった。
結果はあまりにも冷徹に勝者と敗者を振り分けた。
9月下旬の合格発表で合格者名簿に名前があったのは,栗山一路1人だけだった。
残りの4人は,枕を並べて討ち死にだった。
しゃあないな。
また来年や。
4人とも,ここから司法試験を諦めて就職活動をする気はなかった。
10月に最後の関門,口述試験が行われた。
9割合格,という試験ではあったが,6科目について,法律家の人々と20分間面接をする試験であり,待たされる時間を含めると約2週間緊張を強いられる試験だ。勿論面接といっても「あなたはどんな法律家になりたいですか?」というような,就職活動の面接のようなものではなく,その多くは,法律の知識,考え方を問う質問に費やされる。
勿論,助け舟を出してくれるような「優しい」試験官もいるし,厳しいツッコミを入れて来る厳しい試験官もいる。それは運が左右する。その点でも「やねこい」試験ではある。
栗山にとってはペーパー以外の試験は初体験だった。
勿論面接も。
しかし,彼には法律的知識に関する自信という絶対的な武器があった。
俺の理論武装は完璧なのだ。
彼はその自負を胸に,殆ど動揺することなく,この2週間を戦い抜いた。
そして,合格発表日。
今日は―11月の3日か。
病院のベッドの上で,栗山はそんな事を考えていた。
10月下旬の合格発表の日,合格を確信してやって来た彼に,現実はあまりにも残酷だった。
彼は,9割合格とされる口述試験の,残りの1割に入ってしまった。
まさか。
そう思った瞬間,身体中の力が抜け,思考能力が消えた。
彼はその場に倒れこみ,意識を失った。
通報によって救急車に運ばれた彼は,即刻入院を命じられた。
病名は,「過労」。
張り詰めたものが一気に切れてしまった,そんな疲れ切った,ミイラのような彼の姿がベッドの上にあった。
第21回 エピローグ(1)
最初に見舞いに訪れたのは,小林陽一だった。
小林。
栗山は意外そうな顔をしてそう呼びかけた。
大丈夫か。
ああ。
そう言ったきり,二人はどちらも口を開くことなく,ただただ黙ってお互いを見つめていた。
そんな雰囲気を破ったのは,栗山の方だった。
ああ,何だか疲れちまったぜ。
そう言って,彼は笑った。
小林はまだ神妙な顔をしていた。
俺って,この程度の男だったのかなあ。
栗山が言った。
そんなことあらへん。お前にそんなこと言われたら,論文も通らへんかった俺の立場はどないなんねん。
小林は少々むくれるような顔でそう返した。
ははは。
栗山が笑った。
小林が栗山の笑顔を見るのは,これが初めてだった。
ははは。
小林も笑った。
いや,分かってるんだよ。…どうも俺は人間性に問題があるらしい。それを試験官の先生に見抜かれたようだな。
そんなことあるかい。
小林は真剣な顔で言った。
もし自分が人間性に問題のある人間やったら女がついて来うへんわ。
栗山はその小林の目を見て,全てを悟った。
…そうやな。すまん。
栗山が言った。
謝ることあるかい。
今度は笑いながら小林が言った。
まあ今はゆっくり休んどけばええわ。何もかも忘れることが今の自分には必要や言うて神様が言うとるんや。それでまた元気になったらまた勝負しようで。お前は俺のライバルなんやから,こんなことで諦めたら承知せえへんで。
分かっとるわ。
栗山が返した。
彼が話した,初めての関西弁だった。
小林が病室から出てから数刻,今度は1人の女が現れた。
久我山京子だった。
大丈夫?
大丈夫だったら,こんな所にはいないな。
笑って栗山は返した。
冗談やないわ。自分倒れた言うて聞いた時にあたしがどんなに…
悪かったよ。別に今日明日死ぬ訳じゃなし。
そんなんやない。倒れたんやったら,一番に教えて欲しかった。一番にお見舞に駆け付けたかった。それやのに…
悪かったよ。
悪かったじゃ済まへんわ。
少しの間,沈黙があった。
私,司法試験諦める。就職活動して,就職する。
何だよ,いきなり。
お前,司法試験続けるんじゃなかったのか。
そのつもりやった。でも,こんなことで倒れてしまうような頼りない男を支えていこうと思ったら私が働いて稼いであげるしかないやない。
お前,俺のために夢を諦めるつもりか。そんなバカなことがあるか。俺にお前の将来を支配する権利なんてないだろうが。俺のためにお前の将来を犠牲にするなんて,そんなバカなことがあるか。
しょうがないやない。私の夢はもう司法試験やない。あなたと一緒に…
そこまで言ったところで,彼女は言葉を失った。
栗山は久我山の顔を見つめて,静かに彼女に口付けした。
小林は病室の廊下にいた。
その隣には,木下がいた。
栗山のベッドはカーテンで閉め切られていたから,彼らの様子は分からなかった。
しかし,彼らの様子だけは手に取るように分かった。
彼らは二人見つめ合って,微笑を交わした。
そうして彼らは病院を出た。
第22回 エピローグ(2)
3月25日。
京阪大学の卒業式が行われた。
加藤を除く5人が出席した。
彼らの進路を述べておこう。
小林はフリーターをしながら生活費を稼ぎ,翌年の司法試験に向けて牙を磨いていた。
木下は学生時代の成績が良かったので,推薦で大学院への進学の権利を手にしていた。
二人は,「どちらかが合格したら結婚しよう」という約束を交わしていた。
小林に異存はなかったし,木下も初めて「信頼できる」男性を得たことで,心身ともに充実した日々を送ることができるようになった。
栗山と久我山はこの年の1月に入籍した。学生結婚だった。
久我山は栗山との生活のために司法試験を諦めて就職活動をし,幸い内定を一つ取った。
彼女は司法試験の勉強で得た知識を生かし,法務部に配属されることになった。
栗山はとりあえずは彼女の助力で勉強し,来年度の合格を目指すことになる。
小松は試験を受けて大学院にパスした。彼氏も同様だった。まだ両方とも学生の身である故,栗山と久我山のように学生結婚に踏み切ることは出来なかったが,目途が立った時点で将来の話をしよう,というコンセンサスは出来ていた。
そして残りの1人―加藤宏は,司法試験を目指した経験を生かし,一編の小説を書いた。
そしてそれを投稿し,高い評価を得た。
その年の文学誌に,このような記事が載った。
「1999年度○○文学新人賞受賞作品決まる―加藤宏・『六脳』」
彼は結局大学を中退し,文章で身を立てていくことになる…
6人がこの先,本当に幸福な一生を送れるか,ということはここでは書けない。
彼らはこれからもいろいろな悩みや苦しみを抱えながら生きていくことになるのだろう。
しかし,これだけは言えるだろう。
彼らは彼らなりに考えて,自分の将来の生きる道を選んだ。
司法試験という日本で最も難しい資格試験にチャレンジしたこと,そして大学の4年間で悩み,苦しみ,時には楽しみ,様々な思いを抱いたことは,必ずしも彼らにとって無駄ではなかったということだけは―