知られない神に

8/18ネガティブニヒリストとしての現在の病

過ってデンマークの思想家キェルケゴールは、絶望は死至る病で在るといいました。現代多くの人々は、何かしらめまいのような絶望の淵に立っているように思います。例えばわずか14才で 残酷な殺人を犯した少年の場合でさえ、彼の空想のなかに彼自身のルサンチマンの 対抗手段としての神を創造していたということに 僕は、驚かざるを得ないのです。 彼自身いわゆるいじめという不条理な現実にさらされた経験があり、だからといって少年の犯した犯罪の許しになるとは思いません。問題なのは、少年がいかにニヒリスチックに殺人を侵すことができたかということです。それは、少年の他者に対する共感の欠如によるところか大きいということではないでしょうか、現代のように宗教的、思想的不毛の時代に在って、いかに他人の心を知る努力をすることが難しいかということを示していると思います。ただたんにサイコパスとして[精神病質者]として少年を扱うことは、あまりにもこの現代的な病いを、凡等価してしまうことになるのではないでしょうか。
9/14 アクティブニヒリストとしての理想主義者

それはルサンチマンを持った、理想主義者の歴史です。帝国主義者の理想が、歪められた愛国心で在った様に、彼らの犯した殺戮を私は許すことができないのです。それと同じ様に、過ってキリスト教徒が、魔女刈りとしょうして、何の罪も無い人々を、火あぶりにしたり、拷問にあわせたこと、或いは、十字軍と称して、異教徒を迫害したこと、お金の力で、犯した罪の許しとする、免罪符を販売し不当に搾取したこと、等々です。しかし、もっといけないのは、表象 としての天国を在りもしないペテンで、人々に信じこませたことでしょう。もし精神が人の大脳皮質と、身体意外にその器として宿りうるとするならば、天国は惚けた老人と、遺伝子の記憶を持たない土塊から出来上がった、塵ばかりの住まいになってしまうでしょう。
9/22 語る主体としての意味への意志

人が、言葉のロゴスを発し始めた時、人は、新たな意志をも持っ様になったのである。それは語る主体としての意味への意志である。人は、様々な事物に名前を付け、記号として意識的につまり言語的に物事を理解しょうとする。日常の中に在るエートスを、より確かなものとするために、理想化された表象としての仮想の世界をも虚構しうるのである。

9/23 言語とは主観的、客体である。

言語がなぜ、主観的で在るかと言えば、言語は意識的に語られ、聞かれるからである。(或いは書かれ、読まれる。)意識は人間の脳の働きであり、(無意識も、また無意識という意識である。)人間の意識は、主観的にのみ働くからである。意識は、(脳は、)言語を客体として、つまり道具として使用しているので在って、そういう意味で人間の発明した最高の道具は、言語であると言えるのかもしれない。そう考えると、私達が普段、客観的真理として捉えている全ての事柄は、脳の働きである意識の、言語という主観性の上に成り立っているという事実に気づかされるのである。

10/01 自己自身の主体性

人の意識が、事物を、主観的にしか捉えられない以上、パスカルが、パンセの中で言っている様に、神が実在するかどうかを、客観的事実として証明することは誰にも出来ることではない。それ故にパスカルは、神の実在する方に賭たのである。より利益のもたらされる方に、(無論そこには純粋な信仰心が在ったに違いない。)一寸、穿った考え方をすれば、純粋に信仰心を持って、神や仏に使えていると固く信じている人でさえも、そのことが実際の生活の上で、有利に働いていたり、そのことによって、経済的、社会的、精神的な、利益を得ているのかもしれない。ただそのことが意識されていないだけなのである。そこには、無意識の主体性である、意志の力が働いているのであって、ニーチェはそのことを、力への意志と呼んだのである。

10/15 通時態としての力への意思と共時態としての意味への意思

この対立する二つの概念に付いて考察する事は少なからず意味のあることであろう。通時態としての力への意思とは、無意識の主体性としての力への意思と言う概念に因って、力動学としての力への意思と言う意味で、その通時的なつまり歴史的な積み重ねに因って、主体的にもたらされる事柄である。このことは、人類の最も古い皮質にまで逆上る事ができるのであり、ニーチェの言う力への意思とは、真にこの事実に因って人の高さと、高貴さを推し量ろうとするものである。マルティン・ハイデッガーが、その著書ニーチェの中でなぜニーチェの思想である、力への意思を、形而上学の完成と証したのであろうか、あらゆる観念論を押し退けて、ニーチェの力への意思と言う思想を、形而上学的完成と見なしたのには意味があるのであって、それこそが主体性の哲学だからである。

1/11 ヒューマニストとしての人類

世の中では今、自然と人間との共存という事が叫ばれている。最近のマスコミは、その事に付いてよく報じている。フロンガスによるオゾン層の破壊や、地球の温暖化問題、ゴミの焼却から排出されるダイオキシンの問題、等々である。それらはすべて自然を守ろうということがテーマになっている。しかし、ここで守られるべき自然は、言うまでもなく先進国という特異な環境にいる人類にとって都合の良い自然環境の事であって、決して未開の人々の自然環境や野生動物達の自然環境を守ろうと言うことにはならない。

4/23 無意識の分別

多くの人達は、人間の意識が無意識から弁別されたというふうに、勘違いをしている。そうではなくて人間の無意識のほうが、抑圧された意識の表象として、ネガティブな対立関係である差異として、共時的に弁別されているのである。

4/26 心の中心

ユング心理学によれば、意識の中心に自我があり、無意識と意識を合わせた心の全体の中心には自己が在って、そうして無意識の最下層部分には集合無意識という、人類や民族、あるいは生物に至るまでの、連綿たる進化の記憶までもが蓄積されているそうである。ユングにとっての知られない神は、この老賢者にも似た、自己自身の存在であったのかもしれない。

4/27 もう一つの知られない神に

もう一つの知られない神として、フロイトの言うタナトス(死への本能)がある、これは生の本能(エロス)と対置させられている。エロスに対するネガティブな対立関係であるタナトスは、フロイトに因っては、鮭が産卵の為に、意味のある死を迎える為に、特別な死を死ぬことである。フロイトの言によれば、「しかし、どのような死でもよいのではないただ一つの特別な死に向かって進むのだ。」という言葉にあるように、フロイトにとっての知られない神は、タナトスという死への本能に因って特別な死を死ぬ為に、現在の生をせいいっぱい生き抜くことであろう。

4/29 様々な知られない神に

ヘラクレイトスは、万物は火の変成したものであると云い、プラトンは事物に先立つ英知的世界(イデア)を創造し、デカルトは、cohgit,ergo sumを考えだした。ニーチェは、その全てを人の力への意思の現れだと考え、キリスト教を含めるあらゆる観念論(理想主義)を否定しようとした。ソシュールは、言語も記号学の一部門にすぎないと考え、シーニュ(記号)における、能記(意味するもの)と所記(意味されるもの)との恣意的、非自然的関係を紡ぎだした。ソシュールは、あらゆる学問の基盤となる言語のロゴス中心主義を否定してしまったのである。

5/3 無意識と意識について考えること

前提として、意識の側からしか無意識は理解できない、というより無意識そのものが意識的要素を含んでいて初めて理解されるものである。無意識がたとえ、ア・プリオリな実体であり、自然的・身体的要素を本質的に備えているにせよ、あるいは、意識の側が、ア・ポステリオリに、非自然的・精神的実体であると考えるにせよ、何方か一方が、実態としてより本質的で在って、通時的に、先行していると考えることは過ちである。

5/18 人間学としての・・・・・・

科学的な知は、絶えず人の意識的な営みから客観的な事物を対象とし、それを認識しようとしてきた。人間の陥るであろう思想の迷妄から人々を救う為に、科学の側から思想を批判する為に、しかし、人間学としての、哲学、心理学、言語学は、丸山圭三郎氏の言うようにエピステモロジーに、思想の側から科学を批判する様な学問である。つまり科学的客観性やアトミズムを疑い、キリスト教的ロゴス中心主義を疑う、またダーウィンの進化論も一つの仮説に過ぎないとする。人間学的に言えば、言語に先だつて事物そのものが存在しないからである。メルロ=ポンティ「事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである。」人間学としての批判者の視座を持つことは、新たな世紀を生き抜く上で必要なことではないだろうか。

6/20 無意識の共時性

人間に在っては、無意識の領域に至るまで、恣意的であり非自然的である。それ故、意識の主体性を、人の無意識の恣意性から切り離して考えることは出来ない。語る主体としての意識の主体性と、人の無意識の恣意性とは、総合的に考えられるべきであり、どちらが実体としてより本来的であるかと問うことは、無意味である。

8/22 言語による制圧

言語による制圧は、社会的制圧であり、ア・ポステリオリな実体としての制圧である。