国宝大鳥居の扁額
令和2年11月20日

大鳥居の令和大修理で、有栖川宮熾仁親王直筆の扁額が、厳島神社の平舞台に展示されています。正面入口の額には厳島神社、裏側の額には伊都岐島神社と書かれています。神社に2つの名称が付けられてる謂れを説くと興味深い事が解ります。”いつくしま”に祀られる神様が、”いつくしま”をイツキシマ、イツキシマと呼称されたための名残だと言うのです。赤い船に乗って”いつくしま”に来られた神様が、おそらく大陸方面からお越しに成ったためではないかと伝えられています。

宮島は、我島、霧島、恩賀島、御香島と呼称された時代がありました。いつの頃からか、島の景観が美しいという事で、”いつくしま”と呼ばれるようになりました。後に、イツキから市杵島と呼ばれ、神を「斎、奉る」島という意味から「厳島」となりました。宮島と呼ばれるようになったのは、昭和25年の町名変更からです。

宮島は、もともと西中国山地に属し、本土と一体化していました。8千年から2万年前、瀬戸内盆地が、地殻変動による沈降や地球温暖化に伴う海水面の上昇等によって、瀬戸内化することにより、宮島も6千年前、離島化しました。「厳島の自然」参照

宮島は、広島湾の西側にある周囲30.2qの小島です。東北から南西に9q、幅4qの長方形の島です。本土との距離が最もせまい大野瀬戸で500m、干潮時の幅は250m、水深も10m以下になります。標高535mの弥山、509mの駒ヶ林などの山並みは、丁度人が横たわる姿に似ています。

宮島には、厳島神社よりも古い神社があります。大元神社と長浜神社です。”いつくしま”を守る警護神だと言われています。赤い船に乗って来られた神様が、御島周りをして、鎮座すべき場所を選定されます。この時、知性の象徴である神鴉(おがらす)に導かれて、御笠の浜を選ばれました。神鴉信仰が生まれた所以です。毎年5月に行なわれる「御烏喰式」は、全国から信者が参集します。勿論、厳格な神事ですので、参加者には、精進潔斎が求められます。

厳島神社では、正月三日に元始祭が行われます。それまでの勇壮な舞楽の奉納とは打って変わり、酒瓶を抱え、車座に座る周辺部族長にお酒を振舞う酒宴の舞です。歴代の宮司さんが踊られる舞は、厳島神社の成り立ちを語っています。厳島神社は、武力ではなく話合いで、陸上ではなく海の中に御社を造営する事で、周辺部族との融和をはかられたのです。運よければ、見学者にもお酒が振舞われることがあります。

旧暦6月17日、厳島神社最大の神事、管絃祭が行われます。神様が、外宮である地御前神社に里帰りされる行事です。管絃船は、潮の干満差を利用し、上げ潮に乗って行われます。瀬戸内での航行術の手本となる行事です。地御前神社から厳島神社にお帰りに成る時、”いつくしま”の警護神である、長浜神社、大元神社にご挨拶されて、内宮本社に入られます。この時、御座船を3度回して結界を切ります。結界を切る神事は、古代から続く神道の源流行事です。

”いつくしま”は、古代より周辺部族にとって、生と死を司る島だったようです。大潮の満月の日、潮に乗って各部族は”いつくしま”の海岸に集合します。霊を弔う祭事を行い、部族間の交流を計ります。カップリングを済ませた舟は、沖合に出ると、別れを惜しむかのように舟を廻しあい、新しい世界への旅路につきます。また、死者となった霊は、海を渡って”いつくしま”に帰ってきます。杉之浦と包ヶ浦の間の、岬の海底にあるカエル岩は、霊が島に帰る入口だと言い伝えられています。”いつくしま”は、周辺部族を固く結び付ける神聖な島であったようです。