「宮島管絃祭2014」
宮島管絃祭について
 宮島管絃祭の歴史は平安時代にさかのぼります。当時、都で流行した船遊びをモデルに、平清盛が始めたと伝えられています。何かにつけ、平清盛公と関連させて説明するのが宮島史の常套手段です。しかし、宮島管絃祭を見る限り、異なる歴史物語が隠されていると思われてなりません。
 厳島神社の神が、毎年対岸の地御前神社に参られます。地御前の人々には、里帰りしていた厳島神社の神が、宮島に帰られる祭事だと伝えられています。なぜなら、地御前神社が厳島神社の母神様だからです。厳島神社の神は、当初地御前神社(外宮社)を基点として祭事が行われていました。
 宮島は、島全体が神の宿る聖地、聖域で、人はおろか社殿すら造ることが許されませんでした。海中に建てられた厳島神社(内宮社)に、地御前神社から舟で神職が渡り、神事を行っていました。鎌倉中期以降になって、ようやく人が住む事が許されるようになり、厳島神社の社殿も改造され、地御前神社から厳島神社に、その基点が移行したのです。
 赤い船に乗って(海上説)あるいは湯舟の滝を経由して大野浦から地御前に、陸路をたどられたのか(地上説)、大陸から来られた厳島神社の神様が、周辺部族との話し合いのもと、社殿を海中に建立します。正月三日の元始祭で厳島神社の宮司さんが披露する舞楽は、それまでの勇壮な舞楽と異なり、周辺部族長を集めての酒宴をくりひろげる踊りです。武力ではなく平和的に建立を認めさせた経緯を垣間見ることが出来ます。
 宮島管絃祭では、厳島神社の神様が、宮島の警護神である大元神社、長浜神社にご挨拶をされ、厳島神社に帰られます。船を左に3回まわす挨拶は「境界儀礼」といわれ、古代日本祭儀の原型です。
 歴史物語は、文言だけでなく、神事や祭事として残すのが古人の智慧です。重要な伝承事項あるいは後世に継承しなければならない事象を、神事や祭事の中に溶け込ませ、風俗や習慣にする事が賢者の所作なのです。宮島管絃祭は、宮島の歴史を紐解く鍵です。

 宮島管絃祭は、厳島神社、地御前神社、江波、阿賀を包む広域祭事です。そのスケールと内容は他県の祭事を寄せ付けません。海で繋がる人々の輪が宮島管絃祭を維持し守っているのです。
 その昔、1000隻を超える漁船が大鳥居周辺に集結しました。しかし今、その姿は見られません。漁船の高速化で、船底にスクリューを固定したため、係留桟橋が必要になったからです。あわせて、海上保安庁の取り締まりが、家族を乗せた漁船の管絃祭への参加を困難にしました。十七夜としての賑わいはなくなりましたが、粛々と進められる神事は、今も昔も変わることなく続けられています。漁船にお祭りする厳島大明神のお札の販売量が、変わらないところを見ると、瀬戸内漁民の厳島大明神への信仰は、微動だにしてないようです。

地御前からの視点
宮島管絃祭は毎年旧暦の6月17日、潮の干満時刻に合せて執り行われます。従って祭事の進行時間は毎年変わります。朝、満潮時御座船は大鳥居沖合いに引き出されます。

午後5時過ぎ、潮が満ち潮に変わるころ御座船は宮島を出発します。

約1時間で地御前神社沖合いに到着しますが、潮待ちのため沖合いに留まります。午後7時頃
地御前神社周辺にはたくさんの屋台店が並び、大変に賑やかです

提灯に火が灯され御座船にかがり火が焚かれると、いよいよ御座船の到着です。午後7時30分頃

観衆で埋め尽くされた海岸に御座船は到着します。祝詞や雅楽の演奏が約1時間あります。

東の空に満月が昇ると御座船は宮島に帰って行きます。午後8時30分頃

宮島の管絃祭が、十七夜としての市が立たなくなり、賑わいが薄れていく中、地御前神社の管絃祭は大変賑やかです。屋台店はありますし、人出も多く、地域のお祭として定着しているようです。皆さんは、管絃祭の予定表を見ながら、満月の月明かりに照らされた御座船を見送って祭は終了しました。

江波・阿賀からの視点
 宮島の管絃祭を支える2本の柱が、江波の「伝馬船」と阿賀の「櫓船」です。
今から300年前、1701(元禄14)旧暦6月17日、宮島管絃祭の御座船が地御前神社から宮島の厳島神社に帰る際に、暴風雨によって船が転覆寸前になったところ、近くに停泊していた阿賀の鯛網船と、九州からの帰りに、厳島神社に参詣しようとしていた、古川屋伝蔵の船を迎えに行った江波の「伝馬船」が救難にあたり、幸いに事なきを得た縁によって、両村は毎年御座船を引いて奉仕することになりました。

江波の「伝馬船」は14チョウの櫂の伝馬船です。毎年旧暦6月16日朝、江波から出港し広島市内を流れる本川を遡上します。御座船を引いて奉仕することへの、あいさつ回りをするためです。現在中国新聞社本社前で繰り広げられる雄姿の披露は、300年変わることなく続く伝統行事の素晴らしさを物語っています。船を左廻りに3回まわすあいさつは、宮島管絃祭での大切な神事の一つです。

毎年旧暦6月15日夜、呉市の阿賀では、「とんてことんのお祭り」が延崎の住吉神社で行われています「宮島の管絃祭」で御座船をひく「お漕ぎ船」の出港式なのです。「トンテコトン・トンテコトン」と太鼓をたたきながら出航するので「とんてことんのお祭り」と命名されました。この祭りは呉市の無形文化財に指定されています

旧暦6月16日、江波の「伝馬船」と阿賀の「櫓船」は厳島神社に集結します。本番を控え、太鼓を打ち鳴らして予行演習をします。この太鼓の音色と調子が、お祭り気分を自然に盛りあげます。

 旧暦6月17日、江波の「伝馬船」と阿賀の「櫓船」は、潮が満ち潮に変わる午後5時過ぎ、御鳳輩(みこし)を乗せた御座船を曳っぱり宮島を出発します。
 厳島神社から地御前神社までの道中(水路)は、江波の伝馬船を先頭に阿賀の櫓船を両サイドに配する布陣です。約1時間で地御前神社沖合いに到着します。
 午後6時頃、火建岩で灯明をつけ、御座船と阿賀の船は潮待ちをします。その間、江波の伝馬船だけが先行して、若衆は伝馬船から太鼓をかつぎ上げ、地御前神社まで砂浜を一気に突っ走り、江波の盆踊りを奉納(踊り)します。午後7時頃、提灯に火が灯され御座船にかがり火が焚かれると、いよいよ御座船の到着です。御迎船を水先に御座船と阿賀の船が到着。地御前神社での祭典及び管絃三曲が催されます。
 これらが終わる8時過ぎ、御座船は伝馬船により左廻りに3回まわされ、宮島に引き返します。「長浜神社」沖に着き、ここからは江波の伝馬船だけで御座船を曳航し、御座船を3回まわして「大元神社」にむかいます。
 大元神社でも御座船を3回まわしたころには、潮も満潮を迎えます。大鳥居をくぐり、くぐる時にだけ唄われる音頭「西国お船印」にのって厳島神社に向います。
 ここで、江波の伝馬船は御座船から離れて「桝形」に入ります。伝馬船を3回まわし桝形に横付けすると、御座船が入ってきて、水棹で御座船を左廻りに3回まわします。
 ここが管絃祭のクライマックスです。
 御座船は火焼前につけ、阿賀の水主により御鳳輩(みこし)が厳島神社に戻され、祭りは10時過ぎに終了します。
(管絃祭は、潮の満干時刻に合わせて進行しますので、終了時間は毎年違います)
「宮島管絃祭と江波の漕伝馬」参照

 江波の「伝馬船」と阿賀の「櫓船」は、管絃祭で厳島神社の御神体を運ぶ重要な役割を、300有余年勤めています。伝統行事を守り伝えることが難しい時代、江波や阿賀の人々の厳島大明神への厚い信仰と、それを守る心意気を深く感じてなりません。
 本番を控え、各地域で行われる祭事は、御座船牽引の重責を無事に果すための祈願祭なのです。宮島管絃祭は、宮島人にとり身の引き締まる思いの祭りです。

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