このコーナーだけ異質な感じを受けるかもしれませんが、ぼくにとって酒を止め続けていくことがすべての活動の原点になっているので、自己確認の意味もあって敢えて最初にもってきました。いま、とくに酒でお困りでない方も「アルコール依存症」についてご理解いただくために、お役立てくだされば幸いです。

  *「アルコール依存症」とは

 
以前は「アル中」というと、仕事もせず昼間から酒におぼれ、なりふり構わずどこにでも寝てしまう… そんなイメージでした。それは、本人がだらしないためであって、原因は本人の人格にあるとされてました。近来になって、酒害(酒が本人と周囲に及ぼす害)が主婦層や青少年にも広がるようになって、捉え方も変わってきました。
酒が入るとコントロールをなくし自分の力では止められなくなる。そういう病気として考えられるようになり、名前も「アル中」から「アルコール依存症」に変わりました。(ぼくは「アル中」という言い方が好きです。)
 この病気のやっかいなのは、本人の身体・社会的立場など破壊していくだけでなく、家族も巻き込んで、人間関係の病気も作ってしまうことです。たとえば、自分は昨夜また酔っぱらってしまい何を言ったかしたか覚えてない。家族は白い眼で見ているような気がする。聞いてみるのも怖いし恥ずかしい… 「よし、今夜は飲むまい!」としばらくは思っているが、夕方ともなると不安な気持ちを忘れるために、また飲んでしまう。そして前後不覚。眼が覚めると口から血が出ていた。今度は何をしたんだろう!
こうなると、どんどん深みにはまっていきます。
 本人は、飲酒->失敗->不安・自責->忘れるために飲酒->
 家族は、責める気持ちと許したい気持ちの狭間で葛藤します。本人の飲酒がひどくいなるほどに葛藤の振幅も大きくなり、なによりも生活のリズムが完全にくるってしまいます。
ついには、なんのために飲むのかも分からず飲み続けて、酒が生活すべてを支配するようになります。

  回復への道

 
酒を止めれば済むことなのです。ところがこれが並大抵のことではない。ぼく自身、おかしい飲み方をし始めてから止めるまで、試行錯誤してずいぶんかかりました。
「飲んで死んだら本望だ」「自分はまだ止めなければならないほどひどくはない」
なんの病気でもそうですが、アルコール依存症は特に本人が認めたがりません。おそらく、多くの場合、人間は自分の意志よりも状況により仕方なく変化していくものでしょう。その人の価値観により喪失の限度も違うでしょう。あるひとは、「これ以上飲むと離婚」で気がつく。あるひとは、「これ以上飲むとクビ」…。またあるひとは、「これ以上飲むと死ぬ」…。そこまでいっても止められない場合もある。止めようと思っても止められないからこそ病気なのです。
 ぼく自身も、あれだけ飲まずにいられなかった酒をどうして止められたか不思議です。ただ、人生の「どん底体験」があってそれをきっかけに流れが変わったようです。ぼくの場合は、酔って知らぬ間に人を傷つけはしまいかという恐怖が極限に達したときでした。もう自分が何をするか全く信じられなくなったとき、初めて「ああ、酒のない穏やかな生活をしてみたい」と言う気持ちが、心の底にかすかに芽生えました。

  断酒会

 
さて、酒を止めると言うことは「飲まない習慣をつける」ことであり、「止め続けること」です。酒のない国ならいざ知らず、100円玉二つで簡単に酒が手に入いり、集まりに酒がつきもののこの国で、飲みたい誘惑を断ち切って生き続けることは至難の技にも思えます。一杯飲んだらもとに、あるいはそれ以上にひどくなるのです。このことは忘れられがちです。「これだけ止めてたからもう大丈夫だろう」、知らない人はそう言うし、ふと自分でもそんな気がする。でも、止めねばならなくなった過去を思い出してみる。そんな甘い飲み方じゃなかったはず。実は、あの「どん底体験」が止め続けていく糧になるのです。
その過去の体験を自然な形で思い出させてくれるのが、断酒会という自助グループです。会によって若干の違いはあるでしょうが、基本的には「酒を止めて生きたい」という人たちの集まりです。そこでは、ただ自分の体験を語り人の体験を聞く、その繰り返しです。自分一人ではつい忘れがちな過去の忌まわしい出来事も、人の体験を聞いているうちに如実に蘇ってきます。
 一人で止め続けることが不可能とは言いませんが、片意地張ってひとりで頑張る必要もないでしょう。また、飲みたい誘惑と戦うことから来るストレスを、自分一人で抱え込んでいくことは精神衛生上危険でもあります。
そして、断酒会は単にミーティングの時間だけのことではなく、時間をやりくりし少し体調が悪くても参加しようとして家や会社を出る、そのときから始まっています。なによりも優先して通うことが、断酒し続ける最も確実な方法です。かつて、飲むことを最優先した生活をしていましたから、それと反対のことをして「飲まない習慣」を、理屈よりもからだで身につけることが大切です。

 断酒会以外にもAAという集まりもあります。詳しくはリンクをご参考ください。
断酒会もAAも全国各地にあります。公共機関では保健所か精神衛生センターで把握しているはずです。下のリンク集からでも調べることができます。ぼく自身は、ARCという断酒会に参加してます。
 ARC (Alcohlics Recoverer's Circle)>
 毎週土曜日 PM6:00〜7:30 広島市西区三篠公民館で例会

  
*酒の科学

 酒はC・H・Oにより構成されるアルコールからできています。地球上に人間が誕生する遥か以前に、バクテリアの生命活動の副産物として作られてました。果実や穀物の発酵物を、偶然に口にした動物は多くいることでしょう。人間もそのひとつです。ただ、人間が他の動物と違うのは、酒を食物としてでなく「酔うために飲む」ということ。弱肉強食の野生動物の世界では、酔いつぶれることは、食われる=死を意味します。そういう意味では、アルコール依存は人間固有の病気であるといえますが、人間の場合も酒による失敗を繰り返すことで社会的信用を失い、ゆるやかに社会的な死に向かいます。
 体内に入った酒のほとんどは、アセトアルデヒド(このままでは猛毒・悪酔いの素)を経て、さらに水と二酸化炭素に分解されて体外に排泄されます。この間の分解・解毒作用を行う肝臓の負担は激甚なもので、二日酔いするほど飲んだ翌朝には体力は衰弱しきってます。「二日酔いで酒が残っている」と漠然とした言い方で言っていますが、衰弱しきったからだが頭痛・むかつきなどの症状を通して伝える、飲み過ぎに対する警告のメッセージと受けとめるべきでしょう。二日酔いがあるからこそ、たとえ一時期にせよ飲酒は止まります。

 ところで、人間の脳には「脳関門」という異物・毒物が脳内に進入するのを防ぐ関所があります。人間の脳は、入れすぎれば脳自身も麻痺させるアルコールを通過させてしまいます。俗に言う「酒は百薬の長」「酒は悪魔の水」という酒の2面性は、この脳の自己矛盾に由来します。よしと思って向かい入れた薬が、いつにまにか自分自身をも破壊するほどの毒になる。脳に入ったアルコールは、その量に比例して前頭葉・側頭葉・海馬(記憶中枢)・小脳(平衡感覚)・脳幹(本能)と浸透し、それに対応して感情の昂揚・記憶喪失・千鳥足・嘔吐・昏睡という現象が現れます。やっかいなのは、飲む前に決めた酒量の判断機能が酔うほどに変化することです。特に、アルコール依存者の酒量判断は全く当てになりません。「どうして適量で止められないの」、よく言われます。アルコール依存者も飲む前はそう思っています。でも、一杯入れたらもう方向は変わってます。
 ぼくも、なんであんな飲み方しかできないのか、もっとうまく飲めないのかと悩んだこともありましたが、今は、自分の頭の中にはアルコールが通る軌道ができあがっていて、それは「生涯消えない変更不可能の泥酔への道」であると思ってます。だから、何年止めていても1滴のアルコールでこの軌道が活性化されてしまうのです。 
 分子レベルで見れば
バクテリアによる酒の生成=>人間の飲酒=>体内での分解排泄=>…
という、C・H・O分子のサイクルのなかでは、人間の酒の悲喜劇は一つの章に過ぎませんが、そのなかで自分を破壊するまで飲み続けるアルコール依存者は「餓鬼」であり、周囲を巻き込んでの悲劇はまさに「地獄絵」そのものです。

アセトアルデヒド:アルコールが水と二酸化炭素に分解される前の化合物。日本人を含むモンゴロイドの何割かは、アセトアルデヒドを分解する酵素の働きが遺伝的に弱くて、酒を体質的に受け付けません。アセトアルデヒドは毛細血管の壁を傷つけ、これが赤みとなった皮膚に現れます。

なお、「酒の科学」のコーナーは、1997年2月11日にテレビ放映された「たけしの万物創世記-酒」の内容の一部をまとめたものです。記憶違い・勘違いがありましたらご指摘ください。

  *アルコール問題に関するリンク集