3歳の頃、生母を亡くしたぼくは、小学校に入るまでは、手に負えない泣き虫だった。保育園からは、泣いて帰ったし、夕食の茶碗を投げ捨てては、よく家を飛び出した。人一倍、他人の思いを感じる子だった。周囲の大人の押し殺された思いが、幼い子供が耐えるには重かったのだと思う。

そのぼくが、小学校に入ると急におとなしくなった。子供の成長期には、こういう変化が起きることがある。ぼくは、おとなしくなったのではなかった。泣いても泣いても受け止められないものがあることに気づいたのだった。
記憶力のよかったぼくは、暗記力主体の教育体制の中では、「できる子」になった。周囲の大人たちは、喜んだ。それを見てぼくは多少はうれしかったが、実のところ、「優等生」の役割を演じるぼくのこころは重苦しかった。 学年が上がるに連れて、重苦しさは、成績が下がることへの「落下の恐怖」にまで腫れあがった。ただ、一度作られた枠組みを飛び出すことができず、ひたすら知識と空想の世界に逃げ込んだ。

そんな幼年期でも、暖かい記憶がある。小学2年生の頃、同級生の女の子を好きになった。そして、家路をたどる道すがら、 「この思いは、言葉にできない。人に告げることもできない。世界で自分だけが抱く思いだ」みたいなことを感じた。夕日がきれいだったことを覚えている。
当時は、優等生はどちらかというと、孤立しいじめられる側だった。そのなかでも、いつも一緒に登校し遊んだ幼なじみのA君がいた。自転車をこいで競争し、隣町まで冒険した。大人になってしばらくぶりに見ると、自分の生まれ育った町もこんなに小さかったのかと思うが、子供の頃には、隣町も「ここ」と違う世界で、十分冒険心を満たしてくれた。


…いつしか、ぼくは、進学のために、他県の高校に進学していた。そして、受験を控えた3年生の夏休み、家の近くでA君にばったり会った。なにも、話すことができなかった。それが、A君を見た最後になった。 翌年(1970年)、ぼくは、運良く志望校の理数系に入学した。A君は受験に失敗し、浪人した。そして、初夏のある夜、池に溺れて死んでしまった。後に、「酒に酔っていた」と聞いたが、本当の死因は分からない。
A君の死を知らされたのは、ぼくが夏休みで帰省したときだった。すでに、死から2ヶ月過ぎていた。どうして、知らせてくれなかったのかと親たちを責めた。そして、A君の実家に行き、仏前の写真を見ると、涙があふれて止まらなかった。小学に上がって以来、どんなことがあっても泣いたことがなかったぼくが泣いた。頑なに閉ざしていたこころが、唯一とも言える幼なじみの死によって動き始めた。
「ぼくだけここのまま、競争社会の階段を駆け上がって行ってのいいのか」
自分の生き方に対する、根本的な懐疑と迷いが始まった。大学に帰った秋には、歓迎コンパで飲み過ぎ吐いて「あんなまずいもの」と思っていた「酒」を自分から求めるようになった。1年後には、授業の後にバーテンのアルバイトを始めた。いつしか、学校の数学や物理の勉強にも意欲がなくなり、酒に溺れる「暗い青春」が始まった。当時心酔していた、フランスの詩人「アルチュール・ランボー」をもじり、「アル中で乱暴」と冗談を言っていたが、当時の行動をテストにかけてみると、すでにアルコール依存症になっていたのは明確だ。


大学は結局、1年留年して卒業した。事務所に卒業証書をもらいに行き、すぐに実家の両親に郵送した。これまで仕送りをしてくれた両親の期待に背いたことをわびる気持ちだった。一人きりのさびしい卒業式。入学当時に芽生えた人生の迷いは依然続いていた。就職活動もしていないので、当面アルバイトをして食いつなぐことにした。
そんな暮らしが半年続き、ようやく偶然に福祉関係の仕事にありついた。例によって、二日酔いの朝、もうろうとしながら近くの福祉事務所に立ち寄り、「何か仕事はないか」と聞いたら、職員は「ここは職安じゃないよ」とあきれていたが、それでも、近々オープンする特別養護老人ホームのパンフレットを渡してくれた。
その、新しい職場で働くうちに、先輩から紹介された方法があった。その方法を一言で説明するのは難しいが
「自分の病気を自分で治す」
と言えばいいだろうか。ぼくは、自分が病気だと思っていなかったが、興味があって習うことにした。そのなかで、多くの病気は自分の意識が作り出すもの、そして自分の意識はどのようにして形成されたか、多くは幼年期の体験に影響されること、また、こころとは何でどこにあるか、自分とはなにか、自分は死んだらどうなるのか…
など、多くのことを学んだ。そして、直感的に本当だと思った。幼い頃、生母を亡くし「優しく美しい母親」の幻想を断ち切れないでいたぼくには、死後の母の実体を知ったことは衝撃的だった。死因となった心臓の苦しみをそのまま抱えて苦しんでいた。また、生前も優しい母ではなかった。
その後、ぼくは、酒で苦しみ何度か自分を消したいと思ったが、このときの経験で、
「死んでも何も終わらない」
と思っていたから、自殺だけは免れた。ぼくに苦痛ばかりを残して他界したと思っていた生母が、ぼくに身をもって教えた唯一の真実だとも言える。

ただ、頭でっかちだったぼくは、この方法の大切さに気づかず、知識主導で学び、生身の人生に生かそうとしなかった。酒癖の悪さ・失敗も相変わらずで、自分がアルコール依存症という「病気」だとは、思っても見なかったから、なんど失敗しても、酒を止めようとは思わなかった。
二日酔いで出会った仕事も、5年間努めて、結局酒が原因で止めることになった。今、思うと、仕事もあり、ぼくを愛する妻もあり、子供もできて、自分の努力で磨けば光り輝く宝にあんなに囲まれていたのに、なぜ気づかなかったのかと不思議に思う。でも、そのときは、夕方の帰り道、1杯酒を引っかけることが、何にもまして「生き甲斐」になっていたし、1杯引っかけると最後、1杯で終わった試しはなかった。
改めて、アルコール依存症がどんなにひどい病気であるかを知る。


この方法を自力で発見された「その方」は、頼りない父親しか知らなかったぼくには、始めて出会った「男」であった。そして、そのときのぼくには大きすぎる気高い人であったが、こころから尊敬していた。自分もいつかそのようになりたいと思える人だった。
ただ、自分が結婚して「男」を意識したとき、ぼくは悪魔の声に負けた。「その方」の前では、ぼくは、生き方を確立できないで迷っている自分の「男」としての劣等感に強烈にさいなまれた。何はさておき通い続けた講習会にも、自分から遠ざかってしまった。
妻との離婚が決まった後の、ある日。その頃、「その方」はぼくの住まいと同じ町におられたが、偶然に、道で出会った。妻にも見放され仕事もなく、最低の気分で、出会った時も、ぼくは飲んでいた。二人で喫茶店に入った。自分が何を言ったか覚えていないが、悲しそうにぼくを見ていた。
そして、それが「その方」と会う最後になった。
かつての「教え子」が、酒に溺れ自己破壊してしまう姿を見つめる「先生」の気持ちはぼくには想像できないが、そのときを思い出すと、いたたまれない。

ぼくは、18歳ででエリートコースを「Drop Out」した。そのことを、内心誇りに英雄気取りでもいた。しかし、人生の本当の「Drop Out」は、そのとき始まった。自分を救う道を教わりながら、その道を踏み外したそのときから。
「思えばここは地獄だ」
ランボーの言葉通りだった。地獄は、あの世にあるのではない。自分の意識と行いがつくりだす、この世の世界だ。
その後、ぼくは「酒」の地獄を這いずり回ることになった。

[追記]
最近、とても苦しい「愛」を体験した。その課程で、自分の中から噴出するこころの叫びに耐えかねて、その方法を自分なりに真剣に実践する日々となった。自分の人生を洗い直した。ぼくは、はじめて、自分からその方法に出会い、その方法の確かさを身をもって知った。