32歳の頃…
「都落ち」の後、しばらく郷里に身を寄せていたが偶然に現在の居住地(広島)に塾教師の職を見つけ移った。これと言って手に職があるわけではなく、「学歴」を利用して手っ取り早く稼げるからという安易な考えからだった。ぼく自身が経験し楽しくもなかった受験勉強を、子供たちに押しつけることには疑問を抱いていた。「教育産業の顧客は子供でなくその親」と割り切ろうとしたが、気持ちは悶々としていた。それでも、仕事が終わって飲む酒が唯一の「安らぎ」の場所だった。坂の上にあるアパートから自転車で通っていたが、自転車をこぎながら紙パック入りの焼酎をストローで飲むものだから、部屋につく頃には、すっかりできあがっていて、勢いついてまた自転車で坂を降り、市内の繁華街まで出かけていった。翌朝、気がつくと自転車がない、どこに乗り捨てたか覚えていない。混乱した記憶を便りに探し歩いて、コンビニの前で発見する… そんなこともよくあった。
 ひどい二日酔いの時は、酒の臭いを隠すため、口臭消去剤を飲み、できるだけ生徒の方を向かないようにしゃべった。黒板にチョークで書こうとすると、手が少し震えた。ひどいときは、プリントをさせてごまかした。後から聞いたところによると、「M先生はいつも酒臭かった」そうである。
 やはり二日酔いの朝、まだ酒が残っていて酔っていた。午後から始まる仕事であるが、何を思ったか朝早く職場に行ってテストの採点をしていた。冷蔵庫を開けると、ビールが入っているのを見つけ飲んでしまった。しばらく飲みながら仕事していたが、体がだるいのと仕事が嫌になって帰ることにした。階段で、事務の女の子と出会った。「それじゃ」と言ってすれ違った。例によって、その日は仕事を休み、次の日も… いつものパターンである。しばらくして辞めてしまった。

わずかの蓄えも飲んで、すぐに無くなってしまった。
仕事に行かず、ひとりで部屋にいるととても不安になった。自責の念にも苛まれた。「どうしておれはこんな惨めな人生しか送れないんだろうか。」その日暮らしには慣れているとはいえ、もう疲れ切っていた。また、仕事探しても同じことになりそうだし、もう外に出るのも嫌になった。外に出ると自分の惨めな姿を誰かに見られているようで、白日の下に身をさらすのが怖かった。食事もとらず、暗い部屋で過ごした。酒も飲まなかった。飲む金もなかった。ああ、このまま消え入るように自分の存在を消せたら… 死ぬのはとても怖かったから、「死」とは別の方法で自分を消したかった。1週間くらいたった頃、どうにも空腹に耐えかねて夜の街に出た。所持金はなく、食事をすることもできないままうろうろしていたが、街角の小さな祠に備えてある小銭が目にとまった。手を合わせる振りをして、何100円かをポケットに入れた。それをもってコンビニに行き、食パンを買った。たしかにおいしかったが、それよりも、こんなことして生きている自分が本当に情けなかった。
 それからの記憶が切れている。どこかで酒にありついたらしい。気がついたら、翌日の夕方、自分の部屋の前で、なかから持ち出したふすまを壊して火をつけて燃やし、呆然と見ていた。しばらくして、アパートの大家さんから郷里に連絡が入り、母が駆けつけてきた。ぼくは、自分がどうなるか・何をしでかすか怖くなっていた。
「病院に入れてくれ」母に泣いて頼んだ。小学校に入学して以来、母には見せたことのなかった涙を流した。母も、慣れない土地の「医療事情」を知るわけもなく、電話帳で精神病院を探し、面会に行きやすいという交通事情から選び、ある病院に入院することになった。

[追記]
このとき入院したのは、アルコール専門ではなかったが、月一回、断酒会の人が来られていた。そこではじめて、「自助グループ」なるものを知った。