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 ■ これってウツ!?
     
ジシンソーシツの日々 ■

   by かばた さとし

うつ病克服記ではなく・・・(4/25)▼初めての精神科クリニック(5/20)▼自分で決めるということ(6/20)
罪の意識(7/23)
逃避行(8/23)▼休職の始まり(9/24)▼母と妻のこと(10/24)薬とハングル(11/26)
職場に戻るまで(12/26)働き始める(2009/1/26)妻の就職と夕飯作り(2/26) 
スポーツの効用(3/24)▼仕事と自信(4/24)▼一日一日を丁寧に生きていくこと(5/27)

一日一日を丁寧に生きていくこと
  
2009.05.27

2006年11月25日を最後に私は精神科クリニックに行かなくなった。上司にもそのことを伝え、2007年4月からは病院勤務となった。その頃から、私は親しい友人にメールや電話で、3年以上連絡を取らなかったことを詫び、その間の自分のことを話すようになった。

作業療法士の友人は、料理を始めたことが自信回復のきっかけになったことをとらえて「やっぱりIADLは偉大だね」と言った。リハビリの世界では日常的に語られる「IADL(Instrumenntal Activities of Daily Living:手段的日常生活活動)」、私は改めてその大切さを胸に刻んだ。

この連載コラムの最初に書いたように、私は自分が「うつ病だった」と言い切ることができない。私は極度に自信を喪失していたのだ。仕事が嫌になり転職を考えた自分が「病気」だったとは思っていないし、精神科クリニックで処方された薬が自信回復につながったとも思っていない。小川宏氏は、薬を飲むことは特別なことではないという意味で「抗うつ薬は私のビタミン剤だ」と語っていたが、私にとって薬はビタミン剤のように気休め程度のものだった。

精神科医はポイントポイントで的確な助言を与えてくれた。二度目に受診した時の「私はここに来て何をしてもらうのでしょう」という問いに「あなたが自殺しないようにすることです」と答えてくれたのを強く記憶している。仕事に復帰し、帰宅するといつも長々と自分の不甲斐なさを嘆く私に、ある日妻は「私は限界だから、そういった話はお医者さんにして」と告げた。医師はまさに聞き役であり危機管理役であった。それでも「治療」を受けていると感じたことは全くなかった。

公的医療機関である私の職場は、私の「病気」に多大な理解を示してくれたと思う。辞職したり解雇されていたら、今の自分はなかっただろう。3ヶ月弱の休職期間は、罪の意識をやわらげ自殺念慮を取り払うのには役立ってくれたものの、自信までは与えてくれなかった。職場復帰から半年経った頃、患者さんと話をするのが怖くて午後の診療を前に職場を逃げ出したことがある。突然の帰宅に驚いた妻は私を精神科クリニックに連れて行き、医師は病欠のための診断書を書いてくれたが、私は休まなかった。休んでも何も変わらないことが身にしみていたからだ。

「うつに効く」と言われる薬やカウンセリングや休養。しかし、何よりも私に自信を取り戻させてくれた最大のこと、それは生活を自分の手に引き寄せ、一日一日を丁寧に生きていくことだったように思う。

家族や友人、そして患者さんと普通に話ができる今を、とても幸せに感じている。

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仕事と自信    2009.04.24

私生活で楽しめることは増えていった。しかし、仕事には自信が持てなかった。同僚に対するうしろめたさや劣等感は根深く、担当患者とは話ができても同僚とはうまく話ができなかった。

月2回の抄読会。輪番で専門誌の内容を紹介する機会が近づくと、私はパニックに陥った。いくつかの雑誌や書籍に目を通したが、どれも発表するほど内容のあるものには思えなかった。いつまでも迷い続ける私を見かねて、発表日直前上司は私の順番を飛ばすことにした。

職場復帰後1年程した頃、精神科クリニックの医者は「あなたは勉強していない」と声を荒げた。いつもとは違う厳しい態度に緊張したが、医者はすぐにいつもの柔らかい表情に戻った。私は「何を勉強していいのかわからないんです」とうつむきながら答えた。

私は職場で持て余す時間を本を読むことに費やすようになった。ある日手にした介護保険開始直後に出版された竹内孝仁氏の著作の中で「今ある介護関係の本や雑誌をわかってもわからなくても、とにかくたくさん読んでください」という言葉に出会った。それから私は意識して、いろんなジャンルの本を読むようになった。

「自信がない」精神科クリニックで私は何度もこの言葉を口にした。「自信って何でしょうねえ」医者はそう言い「自信のありすぎる人も困ったものでしょ」と付け加えた。

私には同僚たちが皆自信に満ちあふれているように映った。「自信満々で働いている人なんていないんじゃない」と同期で入職した友人に言われたが、その自信の程度には遥かな差があるように思えてならなかった。

担当患者が転倒し骨折することを私は最も恐れていた。実際、脳卒中片麻痺の担当患者が私の目の前で転倒したことがあった。私は足がすくみ応急の処置もまともにできなかった。しかし、同僚の担当患者もリハビリ中に幾度も転倒し、中には骨折するケースもあったのだ。同僚たちはその後も淡々と仕事をこなしていた。私ならば「自分のせいで」と取り乱すに違いないケースでさえも。

どれだけ気をつけても事故は起こるし、誰でも失敗はする。そのことを身にしみて受けとめられるのに2年半を要した。そんな中で、私は職場の同僚ともテレビの話題や趣味の話など日常会話ができるようになっていった。

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スポーツの効用  2009.03.24

「スポーツをしたらって、先生に言われない?」自らウツの体験を持つ上司は私に訊いた。20代後半、東京でボロボロになり九州の地元に帰った彼は、高校時代の友人に誘われてテニスをし始め、それをきっかけにリハビリの世界に出会ったのだという。

精神科の医師は傾聴するという基本に忠実で、助言めいたことはほとんど言わなかった。淡々と私の話を聞き、それをカルテに細かく書き留めていた。ただ、わたしの言うことが一面的だったり、極端になると、それをたしなめるように修正してくれた。

「私からは運動することを勧めさせてもらうよ。幸い、ここにはいろんなマシーンもあるしね」上司の言葉に促され、私は仕事の合間や勤務時間後にマシーンを使ってみた。NHKの趣味講座の「カンフー・フィットネス」のテキストを購入したりもした。身体を柔らかくしようと無理なストレッチングをして、左肩を痛めた。肩が上がらなくなり、痛みは半年以上続いた。いわゆる五十肩になっていたのだろう。

妻は休みの日に、私を温泉施設併設のテニスコートに誘った。二人でテニスをしたあと温泉で汗を流し、食事をして帰宅する。それが職場復帰当初の数少ない私達のレジャーだった。

2005年の1月には妻と二人でスキーに行った。雪の中をゴーグルをして斜面を駆け抜けると、思いの外爽快だった。職場でも家でも笑うことのない私。そんな私でも楽しいと思えることが不思議だった。ただ、このことを職場の同僚に知られるのは、まだ恥ずかしいと思っていた。

2005年の10月、2年間休部していたフィギュアスケートのサークルに夫婦で復帰した。ちょうどその頃、プロの講師によるアイスダンス教室が始まり、仲間に誘われるまま、そちらにも参加することにした。スケートは一人でも続けられる趣味として、20代後半に始めたことだが、全くの我流でちゃんと教えてもらったことはそれまでなかった。基礎から習い、課題を与えられ、一つ一つクリアしていく課程に心躍った。

2005年の暮れにはアイスダンスの初級のテストを受けることになった。試験当日、突然のハプニングで急遽ペアを組むことになった私達夫婦はテスト中に転倒し、私は右膝を強打し骨折した。3週間の右足荷重禁止、そして休職。「職場に迷惑をかけるなあ。また振り出しに逆戻りかあ」2006年の正月はどこに出掛けることもなく、自宅でひっそりと過ごした。

3週間過ぎると整形外科の医師に「足はついていいけど、もう1〜2週間は休んだ方がいいでしょう」と言われた。職場にそのことを報告すると同じ診療所担当の理学療法士のリーダーは「電話番でもいいから、出てきてくれるとこっちは助かるんだけど」と言った。「私なんかいてもいなくても一緒だ」と思っていた私は、なんだかほっとして足を引きずりながら仕事に出ることにした。

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妻の就職と夕飯作り 2009.02.26

職場に復帰してから約1年経った2005年の3月、自宅で働いていた妻がハローワークで新しい仕事を見つけてきた。自宅から車で1時間かかる所にある小さな産業翻訳会社。「すぐに来て欲しい」ということだった。通信講座で翻訳の勉強をしていた彼女にとって悪くない話だとは思ったものの、突然の話に正直戸惑った。

「自分が就職していたら、夫は次の仕事が決まっていなくても仕事を辞められていたのかもしれない」妻はそう思っていたようだ。職員宿舎に住んでいた私達にとって、私の失職は同時に住む場所を失うことでもあったからだ。

1週間後の勤務開始に向けて、淀んでいた私達の生活は急に慌ただしくなった。早速、妻の通勤のために、近所の中古車屋で30万円の軽自動車を購入した。すべて妻任せだった家事の役割分担もすることになった。夕飯の準備は半々にしようと二人で話した。

妻の仕事が始まった。締め切りに追われる仕事。終わりがない。妻の帰りは9時、10時。時には12時を回ることもあった。一方の私は職場にいても仕事はなく、6時には家に帰ってくる。当然、平日の夕飯はすべて自分で用意することになった。

妻が以前に勤めに出ていた頃にも、夕飯はそれなりに作っていた。ただ数年のブランクがあった。仕事帰りにスーパーに寄り、食材を買い調理する。献立に役立てようと料理本にも目を通した。しかし、うまくいかない。初めて作るメニューはことごとく失敗した。どうにか形になったものさえ、段取りが悪く、食べる時にはすっかりまずくなっていた。

毎日毎日の料理。何度も何度も失敗を繰り返し、少しずつ失敗の数が減っていった。「職場では何もしていない。ただ、仕事をする妻のために夕飯作りだけはしている」時を経て、そう思えるようになった。

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 働き始める  2009.01.26

1週間の半日勤務期間中、定年や転職のために職場を去っていく人たちが挨拶に回ってきた。500を超える職員の中の10人近くがその年も職場を離れていった。「私もあの中にいるはずだったのに」仕事に復帰できた喜びよりも、辞めることのできなった自分の不甲斐なさの方が、私には大きかった。

新しく配置された部署は、それまで理学療法士が2人で担当していた19床の診療所でのリハビリだった。私は3人目の理学療法士で、4人の入院患者と数人の外来患者を受け持つことになった。慣らし運転。そのうち慣れてくれば一人前に扱ってもらえるだろう、そう思っていた。

しかし、予想に反して私は最初からつまずいた。担当患者の些細なことが気にかかり、あらゆることで不安になった。リハビリの内容、退院先、自宅での生活。新しい患者を受け持つ度に、最悪のシナリオを描いてパニックに陥った。当然、受け持ちの患者数を増やされることはなく、私は明らかに職場のお荷物だった。

上司は「職場に来ることが今のあなたの仕事だよ」と言ってくれた。ただ、能力のない私に仕事はない。職場の雑用を見つけては動き回ってみるが、どうしても時間を持て余してしまう。そんな時はトイレに閉じこもり、時間が過ぎるのを待った。「給料ドロボー」「死ねばいいのに」そう、つぶやきながら。

職場では同僚と言葉を交わすこともなく、自宅に帰ると膝から崩れ落ち、泣いた。そんな私を励まし続けていた妻も、周期的に落ち込み、朝起き上がれない日も多くなった。始業時間ギリギリに寝床を抜け出し、車で5分の職場にたどり着く。そんな毎日が続いた。

クリニックには毎週土曜の午後に通っていたが、夏頃から一人で車を運転して行けるようになったこと以外、変化はなかった。薬の副作用なのか、口の中がしびれ、食べ物の味を感じない。元気だった頃には70キロあった体重が、2004年の末頃には60キロを切った。頬がこけ、あばらの浮いた鏡の中の自分の姿に、私は急速な「老い」を見ていた。

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 職場に戻るまで  2008.12.26
職場にはうつ病の診断書が届けられているため、病欠扱いとなっていた。病欠であれば3ヶ月間は給料が支払われる。2004年の1月19日から休み始めていたので、3月中には職場復帰したい。新年度には職場の配置転換がある。やっぱり3月中がいいと私は思った。

自信が取り戻せたわけではない。休み続けても事態は変わりそうもない。ただ復帰のタイミングを失うだけだ。妻の状態も気にかかった。一週間だけ離れたあと私の実家に戻ってきていたが、毎日が辛そうだった。限界に達しているように私には見えた。

妻に頼んで上司に連絡を取り、妻に付き添われて3月15日に職場に挨拶に行った。これ以上ないほどに緊張したが、上司も同僚も柔らかく私を迎え入れてくれた。休職中に手紙をくれた同僚に返事を書けなかったことを詫びると、涙が滲んできた。私はただ謝ることしかできなかった。

精神科医とも相談し、3月24日から当面午前中だけ働かせてもらうことにした。午前だけの勤務は前例がないとのことだったが、上司が話をつけてくれた。母に職場復帰のことを話すと「まだもう少し元気が足りないようだけど」と心配された。私は自分の心情をメモ用紙に書いて渡した。何枚ものメモを書きながら、私は自分の気持ちを整理していた。

「戻ってもすぐには普通の仕事はさせてもらえないだろうけど、あせらずに少しずつ信頼を取り戻していかないとね」母の言葉は、その時の私には意外なものだった。「突然職場放棄しておいて、今更どの面下げて」という恥の意識は強かったが、「ケアマネジャーの仕事以外ならどうにかなるだろう」と高をくくっていたのだ。

3月23日、妻とともに職員宿舎に戻り、夜8時過ぎ一人で職場のスタッフルームを訪ねてみた。何人もの同僚がまだ仕事をしていた。「もう良くなったの?」「この間来た時より元気そう」同僚の言葉はどれも面はゆかったが、彼らの笑顔に私も笑顔になった。
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 薬とハングル  2008.11.26
休職して1ヶ月過ぎた頃には「こんな人間は潔く職を辞すべきだ」という考えは「やはり元の職場に戻るしかない」というものに変わっていた。しかし、そのための一歩が踏み出せないでいた。

「なかなか薬が効かないようですね。もう少し強い薬にしてみましょう」医者は私の顔色をうかがいながら話した。抗うつ剤は定石通り、副作用の少ない新しく開発されたものから古いタイプのものへ変えられた。

妻がインターネットで調べてくれた薬の説明文。その中の副作用について書かれた項目を読んでしばらくすると、私の身体は変調をきたした。手足や口の中がしびれ、頭が割れるようにズキズキした。

「薬を変えて欲しい」と医者に頼み、新しく処方された薬を飲むと、さらに頭痛は激しくなった。脳の血管が破裂するのではないかと本気で思った。妻が医者に電話をすると「しばらく様子を見てください」と言われ、不安を抱えながら床についた。次の朝、目が覚めると頭痛はやわらいでいた。口の中のしびれはその後も続いたが、その日から私は薬に大きな期待もせず副作用の心配もしないよう心に命じた。

休職中、毎食後と就寝前の薬のほかに、毎日続けていたことがひとつある。ハングルで日記をつけることだ。休み始めのまだ元気のある頃に「この機会に何か少しでも成長できることはないか」と考えて始めたことだ。2002年からNHKのテレビハングル講座を欠かさず見るようにしていたが、自分で文章を作ったことはなかった。毎日ほんの数行、辞書を引き引き変わらない日常の出来事をノートに書き留める、それが唯一の私の仕事だった。

休職から1ヶ月半後、草g剛主演の韓国語映画「ホテルビーナス」の公開を知り、妻と二人で映画館に出かけた。

市村正親演じるビーナスがオーナーのホテルに集まるワケありの人々。香川照之演じるアルコール中毒のドクターは、ビーナスの手術に失敗して医者としての自信をなくす。つれあいの中谷美紀演じるワイフの稼ぎで暮らしている彼は「ひも」だ。酔って気が大きくなった時にはワイフと殴り合いもする彼は、しらふの時には自分を責めて閉じこもっている。周りから立ち直りの機会を何度も与えられながら、ことごとく裏切ってしまう彼。何も動き出せない自分が彼に重なり、涙が出て止まらなかった。

休職から2ヶ月が過ぎようとした受診日。医者は私に「まだ休もうと思っているのですか」と強い口調で問いかけた。
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母と妻のこと  2008.10.24

母は私が再婚した94年から1人で暮らしていた。最初は少しは寂しいこともあったろうが10年も続けば慣れてくる。気ままな一人暮らしに飛び込んできた突然の居候2人。私が転職を悩んでいることは伝えていたが、精神科クリニックにかかっていることまでは知らせていなかった。

息子夫婦との同居はストレス続きだったに違いない。特に息子の妻との距離の取り方には気をつかったことだろう。世に言う「嫁と姑」。間に入るはずの息子は「うつ病」の診断を受けて休職中で、全く当てにはならなかった。

妻にとっても私の実家の居心地がいいはずがない。妻の友人が私の実家での生活が始まったのを聞いて、最も心配したのは、誰が食事の準備をするのかということだった。3人での生活が始まって、すぐに母は炊事をしなくなった。「台所を握ったのは大きいね」と妻の友人は語ったという。しかし、それも長く続けば負担になる。

在宅でアンケート集計などの仕事をしていた妻は、私の実家でも仕事を続けることができた。パソコンとインターネットで仕事をこなす妻。「うつ病」についての体験談や薬の副作用など、あらゆる情報を検索サイトを使って即座に目の前に示してくれる妻に、私も母も全幅の信頼を寄せていた。

そんなもたれかかりがしんどくなったのだろう。同居を始めて1ヶ月と少し経ったある日、疲れがピークに達した妻は1人で自宅に戻った。妻のいない1週間、母は私とどんな風に接していいものか計りかねていたようだ。「早く戻ってきてやってください」というファックスを母は妻に送っていた。

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休職の始まり 2008.9.24

「こんな自分でもまだ仕事はできる」「突然休むなんて職場放棄だ」私は叫んだ。妻は私が勝手に仕事に出ないように、車のキーを隠していたという。最初は威勢の良かった私も次第に現実を受け入れるようになった。転職を悩んでいる時にあれだけ心配していた仕事の引き継ぎも、何もしていないのに代わりの人間で職場はどうにか回っていた。

「あなたは病気なんだから、休むことが薬なのよ」「ゆっくり休養すればそのうち元気になれるから」そんな言葉を信じていたわけではない。ただ最初の一週間はほとんどフトンの中で過ごした。処方された安定剤が効きすぎていたのかもしれない。「私はうつ病なんかじゃない。ただ自分の犯した罪を隠して逃げているだけだ」「なくなってしまいたい」そうは思っても自ら命を絶つ勇気もなく、時が過ぎるのをひたすら待った。

一週間後の土曜日、妻の運転で一時間半かけて精神科クリニックへ向かった。休職の間の私の受診は週一回になっていた。「私は精神科医ですからね。薬も充分出しますよ。内科の先生は薬を少しずつしか使わないから、なかなか良くならないけどね」私を安心させるように医者は言った。

次の週、手持ちぶさたな私は台所周りの掃除や荷物の整理に励んだ。毎日していれば一週間ですることはなくなる。私はほとんど家の中でテレビを見たりレンタルビデオを見て過ごすようになった。たまに外に出ると周りの視線が恐ろしく、突然不安に襲われると胸のざわつきが止められなくて逃げるように実家に戻った。

一ヶ月が過ぎた。「まだ無理ですね。もう一ヶ月休みましょう」と医者は言った。妻が職場に報告に行く。上司が「心の風邪だよ。来年度が始まるくらいまでゆっくり休んだ方がいいだろう」と話していたことが伝えられた。私の中に安心感とともに休職の最終期限が設定された。

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 逃避行 2008.8.23
3度目のクリニック。診察室の私は「ここじゃなくて、老健に行かなくちゃ」と叫んでいた。「今日はお休みですよ」となだめるように医者は告げる。「罪を犯したんです」私は尚も叫び続けた。「点滴をしましょう」医者は私を引きずるように別室に連れて行き、注射を打った。精神安定剤が入っていたのだろう、ほどなく眠りに落ちた。

目が覚めると、暗い部屋の中、ベッドから少し離れた椅子に妻が座っていた。どのくらい眠ったんだろう、ぼんやりとした頭で考えていると、突然胸騒ぎがしてきた。「まさか診断書をもらったんじゃないだろうな」問い詰める私に妻は辛そうに口を開いた。「一ヶ月休みなさいって」

「ダメだよ、休んじゃ。そんなことしたら二度と仕事に戻れない」「休んでもいいって、言ってもらったのよ」前日の午後、私が他施設へのリハビリ協力に出ている間に、妻は上司に呼び出され、話をしていたのだ。

「休んでどうすんだよ。どこで暮らすんだよ」「お義母さんの所へ行こう」職場のすぐそばの宿舎住まいでは休みにならない。80キロほど離れた私の実家で過ごそうというのだ。私は一瞬言葉を失い、それでも強く否定した。「無理だよ。私にはできない。休んだ後で仕事に戻れるような、そんな人間じゃないんだ」

私の大きな声を聞きつけたのか、医者が部屋に入ってきた。「休みなさい。医者と妻がそう言っているんです。今のあなたが職場に行ったら、迷惑です」

妻は私を宿舎に連れて帰り、一人職場に向かった。午後8時は過ぎていただろう。上司との話を終えて帰ってくると、簡単な荷物をまとめ、夜の高速道路に車を走らせた。ほとんど事情を知らない母に「今からそちらに向かいます」という電話一本して。
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 罪の意識 2008.7.23
その後も私は処方された睡眠剤を飲みながら仕事を続けた。次の受診は2週間後、1月24日土曜の午後に予約を入れた。しかし、それまでは持たなかった。

私は1月10日二度目の受診の午前に言われた、ケアマネのケースKさんの言葉が耳について離れなくなっていた。頚髄損傷、四肢不全麻痺の70代の男性。妻と2人暮らしだが、冬の間3ヶ月は介護老人保健施設に入所するという生活を始めて2年目になっていた。年末に入所が決まり落ち着いたと思われた彼から発せられたのは「私がなんで要介護4なんじゃろう。あの人が要介護5なのに」という言葉だった。

最初はあまり気にとめなかった。Kさんは介護サービスをそれほど利用していなかった。要介護4でも限度額には充分余裕があったからだ。しかし「本当に要介護5ではないのか」ということが気になり始めた。訪問調査は11月か12月に私が行ったはずだが、正確な日付は覚えていなかった。週が明け職場で関連書類に目を通した。調査の日Kさんは「調子が悪い」と訴え、私は確認すべき動作の一部しか彼に要求していなかった。訪問リハビリの担当でもあった私は、日頃の彼の状態を訪問調査に記録して提出していた。私は間違いを犯していた。

失敗は続いた。訪問の車をバックでこすった私は車庫入れもできないほどに混乱し、事故の始末書も一人で書けなかった。翌日、午前の忙しい時間帯に認知症病棟からリハビリセンターに来ていた利用者がいつまにか外に出てしまい、他部署の職員に保護された。いつもはすぐに立ってくれる頭部外傷の利用者が何度促しても立ち上がってくれず、ジャージを力任せに引っ張るとゴムの切れる音がした。ちょうど実習に来ていた看護学生たちがみんな私を見ている気がした。

控え室に戻るとリハビリ科のドクターがいた。「すみませんでした」私は頭を深々と下げ、叫ぶように謝った。転職に関わる一連のことで迷惑をかけたと謝ったつもりでいた。それを見ていた上司は私を別室に呼んだ。「もうクレームが届いているかもしれませんが、私を解雇してください。私は危険です」そう言い残すと、午後からの他施設へのリハビリ協力に飛び出した。夜眠れない時には何度もうつらうつらしていた1時間半の道のりを運転しながら、私は自分の犯した間違いを悔いていた。「悪いのは私だ」「このまま消えてしまいたい」

夕方職場に戻ると、午前中一人で外に出た利用者の件について、今後の対策の話し合いが行われていた。しばらく黙って話を聞いていた私は、絞るような声で「私が全部悪いんです」と言った。もう自分を責めることしかできなくなっていた。

夜、帰宅した私は「自分の犯したことをすべて話して、判断を仰ぎたい」と妻に話した。「じゃあ話を聞いてもらいましょう」と妻は言った。同じ職員宿舎に住む上司宅に電話をし、まだ職場にいるはずだと告げられ2人で職場に向かった。自分の「罪」をあらいざらい話す私。しかし上司はそれを「罪」とは認めてくれなかった。Kさんについては「奥さんの方が話しやすいのなら、奥さんともう一度ゆっくり話をしてみなさい」と言ってくれた。

翌日1月17日は仕事のない土曜日。私は寝床から出られなかった。食事も寝床で取った。昼までに老健に行けば見舞いに来ているKさんの妻に会えるはずだ。しかし、それができなかった。我慢の限界になってトイレに立った私を妻は急き立てるように車に押し込んだ。妻が向かったのは精神科クリニックだった。
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自分で決めるということ  2008.6.20
2004年の仕事始めは1月5日。私はこの日を決断を告げる最終期限に決めていた。処方された睡眠剤で私は眠れるようになった。3月いっぱいで退職する。次の仕事も決まっている。そうしよう。何度も自分に言い聞かせた。それなのに不安は次から次へと湧き上がってきた。

年が明け42才を迎えた1月4日の夜、私は妻と「どうにかなるから新しい仕事を選ぼう」と話をしていた。そして新しい職場で自分の落ち度から入所者が死んでしまうことを想像していた。また新たな不安を口にする私。疲れ果てた妻は話を止めた。

翌日、私は上司の前で泣き崩れていた。「すみません。決められませんでした」「妻とは別れるかもしれません」私は妻の信頼を完全に失った。こんな私が新しい職場でやっていけるわけがない、そう思われていると。上司は「仕事は断りなさい。そして夫婦で精神科に行き、しっかり治療してもらいなさい」と告げた。離婚を口にすることで上司に残留の言葉を半ば強制してしまった、そう思うと全身の力が抜けた。

2日後、内定を取り消してもらう電話をかけた。これ以上ないほどに緊張し、文字通り震え上がっていた。しかし、施設長も転職に際し世話になった知人も、私の裏切りをただの一言も責めることがなかった。

二度目のクリニックは1月10日、年末年始の休診が明けて初めての土曜日だった。自宅から通える範囲内で、仕事のない土曜の午後も診療を行っている精神科クリニックを妻がインターネットで探してくれていたのだ。

「どうなりましたか」と尋ねられ「仕事は断りました」と答える私。医者が少し安心したように私には見えた。「でも自分では決められませんでした」自分で決められなかったこと、それが悔しく恥ずかしかった。
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 初めての精神科クリニック   2008.5.20
初めて精神科クリニックを訪れたのは、2003年12月28日のことだった。年末最終日の仕事を2時間早く切り上げ、夕方から行われる職場の忘年会を欠席して、妻と2人受付終了間際のクリニックにたどり着いた。私は妻から勧められる精神科受診を拒み続けていた。

私は転職のことで悩んでいた。悩みは誰もが抱えているものだ。そしてそれは自分で解決すべきものだ。誰かに頼ることがあるにしても、精神科に相談するなんて絶対におかしい。

職員宿舎に朝刊を届ける2つのバイクの音を寝床で聞くようになったのは、その年の5月頃からだったと思う。毎朝4時半と6時の2回、おそらくは中国新聞と朝日新聞。目は閉じているのだが、頭の中だけはどんどん冴えていく。4月から担当し始めた介護支援専門員(ケアマネ)のケース、こなさなければならない事務処理、設定しなければならないカンファレンスのことが私の頭の中をめぐり続けた。

「仕事を辞めたい」私は妻に打ち明けた。「次年度の欠員補給も考えると辞職の半年前には相談してほしい」との言葉に促され、9月には上司にも「辞める」と告げた。ただ次の仕事は決まっていなかった。「仕事が決まってからの方がいいよ」「じゃあ、 いつまでに?」「今年のうちの職員採用試験は10月になったから…」10月は11月に、結局延びに延びて、次の仕事を決められたのは12月の中旬だった。特別養護老人ホームでのリハビリを中心とした仕事。正直、自分の望んだ仕事とは言えなかった。

「やっと決まったか」と上司に言われたのもつかの間、一週間後には「もう少しだけ待ってもらえませんか」と口走ってしまう。次の職場で求められる仕事内容に対する不安、今の職場での引き継ぎに関わる不安。決断の下せない私はもう何ヶ月もの間、妻と上司を翻弄し続けていた。そして私は一睡もできない夜まで過ごすようになった。

「そうだ、眠れないことを話そう」クリニックに向かう車の中、精神科にかかる理由を見つけた私は少しだけ安心した。医者との面談の後、いったん待合室でうつ病診断用のアンケートに答えを記入する私には、まだ幾分余裕のようなものがあったように記憶している。私はわけもなく落ち込んでしまったわけではない。転職というはっきりした理由があって悩んでいるのだ。私が決めればいいのだ。このまま次の仕事に変わるのか。もう一度頼んで今の仕事を続けさせてもらうのか。

「自分で決められますか」「はい、決めます。決められると思います」初めてのクリニック、診療室の椅子に座り、心配そうに見守る妻を横に精一杯の声で私は答えた。自分にもまだそれぐらいのことはできる、そう信じたかった。
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 うつ病克服記ではなく・・・   2008.4.25
2004年1月中旬から約2ヵ月半、私は「うつ病」という診断名で職場を休んだ。仕事復帰から4年が過ぎ、私は同じ職場でグチをこぼしながらも理学療法士という今の仕事を「なかなか面白いな」と感じながら毎日を過ごしている。

仕事復帰後も約2年半精神科クリニックに通った私は、端から見ると「うつ病を克服した」ということになるのかもしれないが、当事者としてはそんな実感はない。「うつ病」だったというはっきりとした自覚が持てないのだ。

巷には「うつ病」という言葉があふれている。治療法について書かれた本や身内の「うつ病」を綴った本、インターネットを覗けば著名人の「うつ病」体験記や患者どうしの情報交換サイトなどなど。そこで語られている「うつ病」は各人各様、本当に様々だ。

私がこれからここで語ろうとしていることを「うつ病克服記」とするのはどうにも気が引ける。自らの体験を、あの状況を、「うつ病」と言い切る自信がないからだ。「自信がない」そう、あの時私は自信がなかった。何に対しても自信が持てなかった。それまでに全く経験したことがない、極度に自信のない状況だったのだ。
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