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■ これってウツ!? ジシンソーシツの日々 ■ by かばた さとし |
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| ▼うつ病克服記ではなく・・・(4/25)▼初めての精神科クリニック(5/20)▼自分で決めるということ(6/20) ▼罪の意識(7/23)▼逃避行(8/23)▼休職の始まり(9/24)▼母と妻のこと(10/24)▼薬とハングル(11/26) ▼職場に戻るまで(12/26) ▼働き始める(2009/1/26) ▼妻の就職と夕飯作り(2/26) ▼スポーツの効用(3/24)▼仕事と自信(4/24)▼一日一日を丁寧に生きていくこと(5/27) |
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| 一日一日を丁寧に生きていくこと |
2009.05.27 | ||||||||||||||||||||||||
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2006年11月25日を最後に私は精神科クリニックに行かなくなった。上司にもそのことを伝え、2007年4月からは病院勤務となった。その頃から、私は親しい友人にメールや電話で、3年以上連絡を取らなかったことを詫び、その間の自分のことを話すようになった。 |
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| 仕事と自信 | 2009.04.24 | ||||||||||||||||||||||||
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私生活で楽しめることは増えていった。しかし、仕事には自信が持てなかった。同僚に対するうしろめたさや劣等感は根深く、担当患者とは話ができても同僚とはうまく話ができなかった。 |
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| スポーツの効用 | 2009.03.24 | ||||||||||||||||||||||||
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「スポーツをしたらって、先生に言われない?」自らウツの体験を持つ上司は私に訊いた。20代後半、東京でボロボロになり九州の地元に帰った彼は、高校時代の友人に誘われてテニスをし始め、それをきっかけにリハビリの世界に出会ったのだという。 |
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| 妻の就職と夕飯作り | 2009.02.26 | ||||||||||||||||||||||||
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職場に復帰してから約1年経った2005年の3月、自宅で働いていた妻がハローワークで新しい仕事を見つけてきた。自宅から車で1時間かかる所にある小さな産業翻訳会社。「すぐに来て欲しい」ということだった。通信講座で翻訳の勉強をしていた彼女にとって悪くない話だとは思ったものの、突然の話に正直戸惑った。 |
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| 働き始める | 2009.01.26 | ||||||||||||||||||||||||
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1週間の半日勤務期間中、定年や転職のために職場を去っていく人たちが挨拶に回ってきた。500を超える職員の中の10人近くがその年も職場を離れていった。「私もあの中にいるはずだったのに」仕事に復帰できた喜びよりも、辞めることのできなった自分の不甲斐なさの方が、私には大きかった。 |
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| 職場に戻るまで | 2008.12.26 | ||||||||||||||||||||||||
| 職場にはうつ病の診断書が届けられているため、病欠扱いとなっていた。病欠であれば3ヶ月間は給料が支払われる。2004年の1月19日から休み始めていたので、3月中には職場復帰したい。新年度には職場の配置転換がある。やっぱり3月中がいいと私は思った。 自信が取り戻せたわけではない。休み続けても事態は変わりそうもない。ただ復帰のタイミングを失うだけだ。妻の状態も気にかかった。一週間だけ離れたあと私の実家に戻ってきていたが、毎日が辛そうだった。限界に達しているように私には見えた。 妻に頼んで上司に連絡を取り、妻に付き添われて3月15日に職場に挨拶に行った。これ以上ないほどに緊張したが、上司も同僚も柔らかく私を迎え入れてくれた。休職中に手紙をくれた同僚に返事を書けなかったことを詫びると、涙が滲んできた。私はただ謝ることしかできなかった。 精神科医とも相談し、3月24日から当面午前中だけ働かせてもらうことにした。午前だけの勤務は前例がないとのことだったが、上司が話をつけてくれた。母に職場復帰のことを話すと「まだもう少し元気が足りないようだけど」と心配された。私は自分の心情をメモ用紙に書いて渡した。何枚ものメモを書きながら、私は自分の気持ちを整理していた。 「戻ってもすぐには普通の仕事はさせてもらえないだろうけど、あせらずに少しずつ信頼を取り戻していかないとね」母の言葉は、その時の私には意外なものだった。「突然職場放棄しておいて、今更どの面下げて」という恥の意識は強かったが、「ケアマネジャーの仕事以外ならどうにかなるだろう」と高をくくっていたのだ。 3月23日、妻とともに職員宿舎に戻り、夜8時過ぎ一人で職場のスタッフルームを訪ねてみた。何人もの同僚がまだ仕事をしていた。「もう良くなったの?」「この間来た時より元気そう」同僚の言葉はどれも面はゆかったが、彼らの笑顔に私も笑顔になった。 |
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| 薬とハングル | 2008.11.26 | ||||||||||||||||||||||||
| 休職して1ヶ月過ぎた頃には「こんな人間は潔く職を辞すべきだ」という考えは「やはり元の職場に戻るしかない」というものに変わっていた。しかし、そのための一歩が踏み出せないでいた。 「なかなか薬が効かないようですね。もう少し強い薬にしてみましょう」医者は私の顔色をうかがいながら話した。抗うつ剤は定石通り、副作用の少ない新しく開発されたものから古いタイプのものへ変えられた。 妻がインターネットで調べてくれた薬の説明文。その中の副作用について書かれた項目を読んでしばらくすると、私の身体は変調をきたした。手足や口の中がしびれ、頭が割れるようにズキズキした。 「薬を変えて欲しい」と医者に頼み、新しく処方された薬を飲むと、さらに頭痛は激しくなった。脳の血管が破裂するのではないかと本気で思った。妻が医者に電話をすると「しばらく様子を見てください」と言われ、不安を抱えながら床についた。次の朝、目が覚めると頭痛はやわらいでいた。口の中のしびれはその後も続いたが、その日から私は薬に大きな期待もせず副作用の心配もしないよう心に命じた。 休職中、毎食後と就寝前の薬のほかに、毎日続けていたことがひとつある。ハングルで日記をつけることだ。休み始めのまだ元気のある頃に「この機会に何か少しでも成長できることはないか」と考えて始めたことだ。2002年からNHKのテレビハングル講座を欠かさず見るようにしていたが、自分で文章を作ったことはなかった。毎日ほんの数行、辞書を引き引き変わらない日常の出来事をノートに書き留める、それが唯一の私の仕事だった。 休職から1ヶ月半後、草g剛主演の韓国語映画「ホテルビーナス」の公開を知り、妻と二人で映画館に出かけた。 市村正親演じるビーナスがオーナーのホテルに集まるワケありの人々。香川照之演じるアルコール中毒のドクターは、ビーナスの手術に失敗して医者としての自信をなくす。つれあいの中谷美紀演じるワイフの稼ぎで暮らしている彼は「ひも」だ。酔って気が大きくなった時にはワイフと殴り合いもする彼は、しらふの時には自分を責めて閉じこもっている。周りから立ち直りの機会を何度も与えられながら、ことごとく裏切ってしまう彼。何も動き出せない自分が彼に重なり、涙が出て止まらなかった。 休職から2ヶ月が過ぎようとした受診日。医者は私に「まだ休もうと思っているのですか」と強い口調で問いかけた。 |
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| 母と妻のこと | 2008.10.24 | ||||||||||||||||||||||||
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母は私が再婚した94年から1人で暮らしていた。最初は少しは寂しいこともあったろうが10年も続けば慣れてくる。気ままな一人暮らしに飛び込んできた突然の居候2人。私が転職を悩んでいることは伝えていたが、精神科クリニックにかかっていることまでは知らせていなかった。 息子夫婦との同居はストレス続きだったに違いない。特に息子の妻との距離の取り方には気をつかったことだろう。世に言う「嫁と姑」。間に入るはずの息子は「うつ病」の診断を受けて休職中で、全く当てにはならなかった。 妻にとっても私の実家の居心地がいいはずがない。妻の友人が私の実家での生活が始まったのを聞いて、最も心配したのは、誰が食事の準備をするのかということだった。3人での生活が始まって、すぐに母は炊事をしなくなった。「台所を握ったのは大きいね」と妻の友人は語ったという。しかし、それも長く続けば負担になる。
在宅でアンケート集計などの仕事をしていた妻は、私の実家でも仕事を続けることができた。パソコンとインターネットで仕事をこなす妻。「うつ病」についての体験談や薬の副作用など、あらゆる情報を検索サイトを使って即座に目の前に示してくれる妻に、私も母も全幅の信頼を寄せていた。 |
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| 休職の始まり | 2008.9.24 | ||||||||||||||||||||||||
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「こんな自分でもまだ仕事はできる」「突然休むなんて職場放棄だ」私は叫んだ。妻は私が勝手に仕事に出ないように、車のキーを隠していたという。最初は威勢の良かった私も次第に現実を受け入れるようになった。転職を悩んでいる時にあれだけ心配していた仕事の引き継ぎも、何もしていないのに代わりの人間で職場はどうにか回っていた。 |
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| 逃避行 | 2008.8.23 | ||||||||||||||||||||||||
| 3度目のクリニック。診察室の私は「ここじゃなくて、老健に行かなくちゃ」と叫んでいた。「今日はお休みですよ」となだめるように医者は告げる。「罪を犯したんです」私は尚も叫び続けた。「点滴をしましょう」医者は私を引きずるように別室に連れて行き、注射を打った。精神安定剤が入っていたのだろう、ほどなく眠りに落ちた。 目が覚めると、暗い部屋の中、ベッドから少し離れた椅子に妻が座っていた。どのくらい眠ったんだろう、ぼんやりとした頭で考えていると、突然胸騒ぎがしてきた。「まさか診断書をもらったんじゃないだろうな」問い詰める私に妻は辛そうに口を開いた。「一ヶ月休みなさいって」 「ダメだよ、休んじゃ。そんなことしたら二度と仕事に戻れない」「休んでもいいって、言ってもらったのよ」前日の午後、私が他施設へのリハビリ協力に出ている間に、妻は上司に呼び出され、話をしていたのだ。 「休んでどうすんだよ。どこで暮らすんだよ」「お義母さんの所へ行こう」職場のすぐそばの宿舎住まいでは休みにならない。80キロほど離れた私の実家で過ごそうというのだ。私は一瞬言葉を失い、それでも強く否定した。「無理だよ。私にはできない。休んだ後で仕事に戻れるような、そんな人間じゃないんだ」 私の大きな声を聞きつけたのか、医者が部屋に入ってきた。「休みなさい。医者と妻がそう言っているんです。今のあなたが職場に行ったら、迷惑です」 妻は私を宿舎に連れて帰り、一人職場に向かった。午後8時は過ぎていただろう。上司との話を終えて帰ってくると、簡単な荷物をまとめ、夜の高速道路に車を走らせた。ほとんど事情を知らない母に「今からそちらに向かいます」という電話一本して。 |
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| 罪の意識 | 2008.7.23 | ||||||||||||||||||||||||
| その後も私は処方された睡眠剤を飲みながら仕事を続けた。次の受診は2週間後、1月24日土曜の午後に予約を入れた。しかし、それまでは持たなかった。 私は1月10日二度目の受診の午前に言われた、ケアマネのケースKさんの言葉が耳について離れなくなっていた。頚髄損傷、四肢不全麻痺の70代の男性。妻と2人暮らしだが、冬の間3ヶ月は介護老人保健施設に入所するという生活を始めて2年目になっていた。年末に入所が決まり落ち着いたと思われた彼から発せられたのは「私がなんで要介護4なんじゃろう。あの人が要介護5なのに」という言葉だった。 最初はあまり気にとめなかった。Kさんは介護サービスをそれほど利用していなかった。要介護4でも限度額には充分余裕があったからだ。しかし「本当に要介護5ではないのか」ということが気になり始めた。訪問調査は11月か12月に私が行ったはずだが、正確な日付は覚えていなかった。週が明け職場で関連書類に目を通した。調査の日Kさんは「調子が悪い」と訴え、私は確認すべき動作の一部しか彼に要求していなかった。訪問リハビリの担当でもあった私は、日頃の彼の状態を訪問調査に記録して提出していた。私は間違いを犯していた。 失敗は続いた。訪問の車をバックでこすった私は車庫入れもできないほどに混乱し、事故の始末書も一人で書けなかった。翌日、午前の忙しい時間帯に認知症病棟からリハビリセンターに来ていた利用者がいつまにか外に出てしまい、他部署の職員に保護された。いつもはすぐに立ってくれる頭部外傷の利用者が何度促しても立ち上がってくれず、ジャージを力任せに引っ張るとゴムの切れる音がした。ちょうど実習に来ていた看護学生たちがみんな私を見ている気がした。 控え室に戻るとリハビリ科のドクターがいた。「すみませんでした」私は頭を深々と下げ、叫ぶように謝った。転職に関わる一連のことで迷惑をかけたと謝ったつもりでいた。それを見ていた上司は私を別室に呼んだ。「もうクレームが届いているかもしれませんが、私を解雇してください。私は危険です」そう言い残すと、午後からの他施設へのリハビリ協力に飛び出した。夜眠れない時には何度もうつらうつらしていた1時間半の道のりを運転しながら、私は自分の犯した間違いを悔いていた。「悪いのは私だ」「このまま消えてしまいたい」 夕方職場に戻ると、午前中一人で外に出た利用者の件について、今後の対策の話し合いが行われていた。しばらく黙って話を聞いていた私は、絞るような声で「私が全部悪いんです」と言った。もう自分を責めることしかできなくなっていた。 夜、帰宅した私は「自分の犯したことをすべて話して、判断を仰ぎたい」と妻に話した。「じゃあ話を聞いてもらいましょう」と妻は言った。同じ職員宿舎に住む上司宅に電話をし、まだ職場にいるはずだと告げられ2人で職場に向かった。自分の「罪」をあらいざらい話す私。しかし上司はそれを「罪」とは認めてくれなかった。Kさんについては「奥さんの方が話しやすいのなら、奥さんともう一度ゆっくり話をしてみなさい」と言ってくれた。 翌日1月17日は仕事のない土曜日。私は寝床から出られなかった。食事も寝床で取った。昼までに老健に行けば見舞いに来ているKさんの妻に会えるはずだ。しかし、それができなかった。我慢の限界になってトイレに立った私を妻は急き立てるように車に押し込んだ。妻が向かったのは精神科クリニックだった。 |
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| 自分で決めるということ | 2008.6.20 | ||||||||||||||||||||||||
| 2004年の仕事始めは1月5日。私はこの日を決断を告げる最終期限に決めていた。処方された睡眠剤で私は眠れるようになった。3月いっぱいで退職する。次の仕事も決まっている。そうしよう。何度も自分に言い聞かせた。それなのに不安は次から次へと湧き上がってきた。 年が明け42才を迎えた1月4日の夜、私は妻と「どうにかなるから新しい仕事を選ぼう」と話をしていた。そして新しい職場で自分の落ち度から入所者が死んでしまうことを想像していた。また新たな不安を口にする私。疲れ果てた妻は話を止めた。 翌日、私は上司の前で泣き崩れていた。「すみません。決められませんでした」「妻とは別れるかもしれません」私は妻の信頼を完全に失った。こんな私が新しい職場でやっていけるわけがない、そう思われていると。上司は「仕事は断りなさい。そして夫婦で精神科に行き、しっかり治療してもらいなさい」と告げた。離婚を口にすることで上司に残留の言葉を半ば強制してしまった、そう思うと全身の力が抜けた。 2日後、内定を取り消してもらう電話をかけた。これ以上ないほどに緊張し、文字通り震え上がっていた。しかし、施設長も転職に際し世話になった知人も、私の裏切りをただの一言も責めることがなかった。 二度目のクリニックは1月10日、年末年始の休診が明けて初めての土曜日だった。自宅から通える範囲内で、仕事のない土曜の午後も診療を行っている精神科クリニックを妻がインターネットで探してくれていたのだ。 「どうなりましたか」と尋ねられ「仕事は断りました」と答える私。医者が少し安心したように私には見えた。「でも自分では決められませんでした」自分で決められなかったこと、それが悔しく恥ずかしかった。 |
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| 初めての精神科クリニック | 2008.5.20 | ||||||||||||||||||||||||
| 初めて精神科クリニックを訪れたのは、2003年12月28日のことだった。年末最終日の仕事を2時間早く切り上げ、夕方から行われる職場の忘年会を欠席して、妻と2人受付終了間際のクリニックにたどり着いた。私は妻から勧められる精神科受診を拒み続けていた。 私は転職のことで悩んでいた。悩みは誰もが抱えているものだ。そしてそれは自分で解決すべきものだ。誰かに頼ることがあるにしても、精神科に相談するなんて絶対におかしい。 職員宿舎に朝刊を届ける2つのバイクの音を寝床で聞くようになったのは、その年の5月頃からだったと思う。毎朝4時半と6時の2回、おそらくは中国新聞と朝日新聞。目は閉じているのだが、頭の中だけはどんどん冴えていく。4月から担当し始めた介護支援専門員(ケアマネ)のケース、こなさなければならない事務処理、設定しなければならないカンファレンスのことが私の頭の中をめぐり続けた。 「仕事を辞めたい」私は妻に打ち明けた。「次年度の欠員補給も考えると辞職の半年前には相談してほしい」との言葉に促され、9月には上司にも「辞める」と告げた。ただ次の仕事は決まっていなかった。「仕事が決まってからの方がいいよ」「じゃあ、 いつまでに?」「今年のうちの職員採用試験は10月になったから…」10月は11月に、結局延びに延びて、次の仕事を決められたのは12月の中旬だった。特別養護老人ホームでのリハビリを中心とした仕事。正直、自分の望んだ仕事とは言えなかった。 「やっと決まったか」と上司に言われたのもつかの間、一週間後には「もう少しだけ待ってもらえませんか」と口走ってしまう。次の職場で求められる仕事内容に対する不安、今の職場での引き継ぎに関わる不安。決断の下せない私はもう何ヶ月もの間、妻と上司を翻弄し続けていた。そして私は一睡もできない夜まで過ごすようになった。 「そうだ、眠れないことを話そう」クリニックに向かう車の中、精神科にかかる理由を見つけた私は少しだけ安心した。医者との面談の後、いったん待合室でうつ病診断用のアンケートに答えを記入する私には、まだ幾分余裕のようなものがあったように記憶している。私はわけもなく落ち込んでしまったわけではない。転職というはっきりした理由があって悩んでいるのだ。私が決めればいいのだ。このまま次の仕事に変わるのか。もう一度頼んで今の仕事を続けさせてもらうのか。 「自分で決められますか」「はい、決めます。決められると思います」初めてのクリニック、診療室の椅子に座り、心配そうに見守る妻を横に精一杯の声で私は答えた。自分にもまだそれぐらいのことはできる、そう信じたかった。 |
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| うつ病克服記ではなく・・・ | 2008.4.25 | ||||||||||||||||||||||||
| 2004年1月中旬から約2ヵ月半、私は「うつ病」という診断名で職場を休んだ。仕事復帰から4年が過ぎ、私は同じ職場でグチをこぼしながらも理学療法士という今の仕事を「なかなか面白いな」と感じながら毎日を過ごしている。 仕事復帰後も約2年半精神科クリニックに通った私は、端から見ると「うつ病を克服した」ということになるのかもしれないが、当事者としてはそんな実感はない。「うつ病」だったというはっきりとした自覚が持てないのだ。 巷には「うつ病」という言葉があふれている。治療法について書かれた本や身内の「うつ病」を綴った本、インターネットを覗けば著名人の「うつ病」体験記や患者どうしの情報交換サイトなどなど。そこで語られている「うつ病」は各人各様、本当に様々だ。 私がこれからここで語ろうとしていることを「うつ病克服記」とするのはどうにも気が引ける。自らの体験を、あの状況を、「うつ病」と言い切る自信がないからだ。「自信がない」そう、あの時私は自信がなかった。何に対しても自信が持てなかった。それまでに全く経験したことがない、極度に自信のない状況だったのだ。 |
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