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■ 介護の話 ■



 介護関係・介護場面で生まれるフレーズに
 こだわってみます。


  by K.T
誰か私と話してくれる人はいないのか ▼箸がない!! ▼今日は帰るのか? ▼やっぱり嫉妬はある▼自分と別れたい▼地球儀がほしい▼コトバはわたしのオモチャ▼ユリが好き▼Tがこわい〜▼ブルガリアからようこそ▼ごっくんの会▼「呪われた黄色い家」のひとり暮らし▼「たらい回し」の効果抜群!!▼電気喉頭と詩人

運河をつくるということ 2011.1.18
Nとともに2011年を厳粛に迎えた(笑)。友人が営む屋号のら屋のお節を、訪れる人もいない黄色の家でひとりでいただく。Nはミキサー食にしていたが、すでに飽きたらしく、しかし詰まるのが怖くてなかなか手が出ない。柔らかくしてもなぜか同じようなことが起きるときは起きる。わたしとNは「わたしたちは家族・身内に縁がないところだけが似ている」ことに共鳴しながら、少しだけ日本酒をいただいた。

元旦は、白島でシャリバリ地下大学(読書会とフードジョッキー)の新年会である。会社同僚でも家族でもない人々が、元旦 に集まる。わたしが盆・正月が嫌いなその理由は「家族」にあったが、しかしこうして脱家族する人が、三々五々、15人もいるなんて、ちょっとばかり驚きだった。例の鍋と持ち寄り一品、「あわい」を楽しむ人々とのひとときは、終列車の揺れを心地よくした。

わたしがその新年会に出かけようとしたとき、Nはいつもなのだが多少妬み顔でこう言った。「あなたは、運河をつくってきたんだね」と。わたしは一瞬、えっと聞き返した。シャリバリ地下大学の人たちとの出会い、月刊家族発行から本の出版にシフトしたわたしの仕事をそばで見ながら、「あなたは川をつくることはできないが、路地を縫うように細い運河をつくってきたし、これからもつくるんだね」と。わたしへお年玉だった。とてもうれしい元旦だった。

そう言えば、先ほどの海農食酒のら屋も今月いっぱいで閉店する。家族社と同じ年に開店しているからまる25年、ほぼ一人でまかなってきた店主、原清子さん。有機野菜を中心にした料理と玄米ごはんのおいしさを教えていただいた。彼女も「運河をつくってきた」一人だと思う。次の仕事への道が今の仕事の延長として「乞われる」形で開かれていたのだから。

長く続けることと変容し続けることは、たぶん矛盾しない。その双方向の中で、細いけど強い「運河」がつくられていくのだ。人との関係も同じなのかもしれない。とりあえず同じ船に乗って運河を行き交う同行者として、今年もよろしくお願いします。

行ってきまーす!!

電気喉頭と詩人 2010.9.22
「電気喉頭と詩人」、ふと今朝出かける前にNとおしゃべりをしていて浮かんだのである。
電気喉頭とは声を喪った人が使う声の代理グッズで、小型マイクのような形はしているが、最大の難点はロボット音。声という質量感が出ないので、波長がずっと一緒の平坦な音声として届いてくる。しかも金属音的で、長く聞いていると、疲れてくるし、老人には聞こえにくい波長を発している。

Nがその電気喉頭を使い始めて約20年。最初はめずらしくもあり、新し物好きのNは面白がっていたのだが、こうした繊細な医療グッズは、落としたりしたらたちまち具合悪くなって、音が出にくくなる。充電も欠かせないし、「伝達用」だけを想定して作られているのか、Nのように立て続けにしゃべり続けると電池がすぐなくなり、弱くなった二、三個の電気喉頭を入れ替わり使うことになるので、忙しいし、力も入る。たぶん電気喉頭による疲れは大変なものだろうと思う。

わたしは、時々、どうしてそこまでNは一生懸命、力を入れて、からだを揺らして、人を追いつめるかのような言い方をするのだろうかと、不思議に思うことがある。Nの言葉遊びに「○と○はどう違うのか」をおしゃべり相手に質問するというのがあるのだが、たとえば「乞食とホームレスはどう違うか」というもの。「食を乞う人」というのと「家のない人」では違うよね、ぶつくさぶつくさ……と言っていると、待ってましたとばかりNの持論を展開し始め、だんだん熱がこもってきて、ついには電気喉頭がかまびすしく動くことになり、それに連れてNのからだも揺らいでくる。

Nは時々「私はしゃべれないでしょ!」と言う。わたしは否定する「しゃべっているじゃない!」と。でも「しゃべれない」と折に触れ言うのだ。わたしはその意味を図りかねていた。「声のない人以上にしゃべっているじゃない」と。どうしてそんなことをいうのだろう、電気喉頭がびっくりするぐらい使いこなしているじゃないかと。

先日、Nはこう切り出した。「私は相手を追いつめようとしたことなんかないのに、人はなぜ私から問いつめられているように聞こえると言うんだろう」と。あっ、気がついていたのかNは。たまに訪れる人からわたしはそっと聞くことでもあったし、わたし自身も感じていたことではある。

ふと、その意味がわかりかけた。つまり、この電気喉頭ではNの論ではなく、詩人としての感性が伝わっていると思えないことに苛立っているのではないかと。抑揚のない金属音は、Nの詩魂を伝えない。つい、からだ全体で伝えようとするから力がこもり、ぐんぐん相手に迫っていくようになる。それほどNは、「声のある言葉」というおもちゃが好きで、イメージがどんどん膨らんでいき、自分では制御できなくなるらしい。だからこそ、あの電気喉頭という代物がまどろこしくてなって、刀を振り回すように、相手に迫っていく。

Nの「ことば」は長さ10cm、直径3cmの電気喉頭の許容量をはるかに超えて、からだごとわたしに、あなたに向かってくる。それはとても重たくもあるが、しかし、一度電気喉頭を通過してきたNの「ことば」と出会うとき、Nが詩人であることを受けとめるときでもある。

孫効果も抜群!! 2010.8.08
還暦+1になったわたしと今年八十歳になるNは、いわば「老いの同行者」ということになるだろう。わたしの前にいつもNはいる。このように老いたいと思うときもあれば、絶対ここのようにだけは老いたくない、と思うこともある。その繰り返しの中で、わたし自身の「老いのイメージ」が少しずつ明瞭になっていく。

朝一〜二時間、夕方一時間のヘルパー訪問、わたしの九時出勤、十九時帰宅がほぼ定着し、ミキサー食で食道閉鎖もなくなってくると、ここ三ヶ月の日々は怖いぐらい穏やかに過ぎていった。すると関係性も穏やかになってくる。どんなに酷暑であろうとも、「事件」は起きないのだから。だから、つっこみどころ満載のテレビに向かって、ひたすら二人は吠えている。穏やかさはどこかでその抜け道も必要なのかもしれない。

そこにNの孫・Kさんがやってきた。すでに三週間になる。Nは宮島出身で、家をそのままにして七年前、佐方にやってきた。わたしが島に通うのは渡航時間10分とはいえ、経済的にも物理的にも負担になるのが目に見えたから。なのでこの間、ある人に貸していたが、今は空き家。ふたたびその家を別荘として使えるようにしようと、Kさんはばあちゃんちに久しぶりにやってきた。

二人とヘルパーさんという日常に、若い女性がやってくると、にわかに微妙に風景が変わってくることに気づく。もうひとりNについて気を配る人が増えるということだから、Nはとても幸せそうなのだ。穏やかな日常がさらに穏やかになる。Kさんはおばあちゃんにとても優しい。本当に優しい。わたしにはこのように優しい孫に介護されることはないだろうという嫉妬さえ感じるほどに。

でもそれは長くは続かないということをお互い知っているからかもしれない。「孤独であることを共有できる人が友人である」とNは広告裏に書いてわたしに見せたことがある。わたしは深くうなずいた。わたしがNのそばにいて本当に良かったと思う一瞬だ。だがそれもまた長くは続かないのだが…(笑)。

長くはないけど、そういう複数の優しい眼差しがあれば、老いをつないでいけると思ったことである。

「たらい回し」の効果抜群!! 2010.5.08
Nが「Tに病院をたらい回しにされ」、ようやく自宅に帰りついたのは、5月連休明けの7日。長い長い旅の後、ようやく我家にたどり着いたNは「自由」を満喫している。1ヶ月半で病院3ヵ所というのは、やはりたらい回しか。

最初に入院した広島大学病院は、20年前、下咽頭がん手術のため、「声を喪う」という、Nの人生の大きな節目となった病院である。吐血のためヘモグロビンが極度に低下していたため、かろうじて入院させていただいたNは、ある程度回復してくると、医師に「もう私たちがやるべきことはないので、転院か退院を。がん患者がたくさん待っているのです。Nさんは胃がんもありませんし」と、きっぱり言われた。「でも自宅で過ごすにはまだ体力が回復していませんから、転院先を紹介しましょう」というわけで、K病院に移った。

K病院は、広島中心街のさらにど真ん中。便利なような不便なような。それに建て増しをしながらの入り組んだ病院建物は、なにかおもぐるしい。だが、わたしはNに病院にいてもらいたい理由が、Nの体力回復以外にもあった。3/26-30、わたし自身が入院する前から申し込んでいた済州島スタディーツアーが迫っていたからだ。わたし自身もまだ体力的に懸念されるところだったが、どうしても行きたかった。Nにお願いした。お見舞いに来られていたNの娘さんも、説得に当たってくれた。その結果、Nは二軒目の入院となった。

K病院は、リハビリ的発想がまったくない病院で、もちろん体力回復のための入院だから治療もないし、ひたすらベッドに据え置かれていた。ツアーから帰って病院に行くと、Nはいつも通りテレビをつけっぱなしで、ぼーっとしている。Nの場合、かなりのイマジネーション力があるのでそれでも頭は活性化しているのかもしれないが、どうも足腰が入院前以上に弱ってきているのが、自分でもわかるらしい、というより、怖くなったらしく、退院したい、と言い始めた。

ある日、わたしの友人で医師のSさんがお見舞いに行ってくれた。ちょうど夕食時だった。すべてが潰瘍食のどろどろメニューを「美味しい、美味しい」と啜るNや病院の様子を見て、「うちの病院はもっと美味しいペースト食事がでますよ。それに寝かせきりにされて不安を持つより、リハビリしませんか」とさりげなく提案したら、Nはすぐに同調したという(わたしは不在)。Nはリハビリなどという努力をする必要があることには見向きもしない人だったが、よっぽど危機感を感じたのだろう。またしても転院することとなった。

3軒目のH病院。「黄色い家」からも近く、宮島が眺望できる丘の上の病院。病名は「廃用症候群」。医学用語は残酷である。心筋梗塞や脳梗塞で機能不全になったわけではない人、つまりNのように諸事情(!?)で動けなくなった、動かなくなった人のことを指すらしい。どこか「怠け病」と言われているようでもある。

Nにとってはこれまでにない生活。リハビリテーションを専門とする病院は、Nの気まぐれなど容赦せず、翌日からリハビリと風呂のスケジュールが組まれた。「Nさんは人の管理の下に動けるのは2時間でしょう」というSさんの配慮で、一般的には3時間だが特別2時間訓練にしてもらった。こんなにけなげな姿を見ることなんてないと思っていたが…。

案の定3日目から、「もうリハビリのコツは覚えた。家に帰って生活しながら訓練した方がいい」と退院希望をほのめかす。Nの言い分もわからないでもないが、わたしは聞こえない、わからない振りをして、しばらく様子をみることにした。こんなときに都合がいいのは、Nは決して直裁に自分の希望を述べない癖があることである。まわりくどく、遠回りの言い方をするのである。ときどきそれがめんどくさい場合もあるが、こんなときにこそ活用しよう! というわけ。

その一方で、わたしにはNに何とかテレビをみるだけではなく、本を読んでほしいという思いが強くあり、ある日、私がよく利用する公共図書館に大活字本があることを思い出し、とりあえず借りて病院に持って行った。するとどうだろう。昔取った杵柄、というわけか、せっせと読み始めたのだ。島尾敏雄、遠藤周作、永井荷風、中野重治、大庭みな子……毎回5冊ずつ借りれるのだが、追いつかないぐらいだ。

理学療法士が「Nさんはいつも本を読んでいますね。リハビリになりませんよ」と言ったらしい。「本は頭のリハビリ。頭のリハビリがカラダのリハビリにもなる」とNがやんわりと言い返したのは言うまでもない。あー、これでリハビリ入院は終わりだなあと、そのときわたしはなぜか思った。Sさんに相談し、退院に向けて動いてもらうことにした。そして連休明け、4軒目の自宅というリハビリホームに帰ってきた。

入院前と後とで違うこと。車椅子を使わないで伝え歩きをすること、お酒を飲まないこと、本を読むこと、固形物は口にしないこと。言ってみればこれだけのことだが、この違いはわたしにとっては目を見張るばかりである。「たらい回し」の効果抜群!! 「たらい回し」もして見るものだ。

N自身が身をもって危機感を感じた、そのことが大きな変化をNにもたらした。それぞれが入院当事者になるというダイナミックな(!?)経験をする中で、日常の澱みをいったん自分のものとして引き受けたことはよかったのではないか、昨夜、そういう感慨で眠れなかった。人は死ぬまで変化する。死が最大の変化かも。

「呪われた黄色い家」のひとり暮らし 2010.3.24
2/1、市内のとある場所でわたしは交通事故に遭った。横腹にドスンと突っ込まれたのだ。そのときはお互い怪我はなく、物損処理で済ましたのだが、その一週間後に私の身体が変調をきたした。腰の鈍痛と同時に食欲不振、胃の違和感が始まったのだ。翌日外科に行き、腰のレントゲン。軽い捻挫ですね、ということで鎮痛剤と胃薬をもらい、帰宅した。

それからが大変だった。耳の裏あたりからぴぴっと電流が走るように痛みが走る。それがだんだんひどくなり、最初は左だけだったが、右にも同じような痛みが拡がった。また、外科へ。首のレントゲンIをとった。これも軽い捻挫ですね、といわれ、ボルタレン50(座薬、かなり強い鎮痛剤らしい)をもらい、帰宅。ひたすらベッドにもぐり、一日一個といわれていたボルタレンだが、多めに使わなければどうしようもないほど痛みが続く。そこでまた外科へ。他病院でMRIをとることになった。その結果を聞きに行くと、軽いし、老化もある、などと言われた。

最初に腰の鈍痛を自覚してから2週間、ようやく鈍痛や頭痛から解放されたのだが、どうにも食欲がまったく戻らないし、胃の違和感は増すばかり。私が余りに食欲不振と胃の違和感を訴えるので、ようやく内科を紹介してくれた。そして、受診、胃カメラを飲んだその直後に「これは入院ですよ」と言い渡され、そのまま病室に運ばれた。病名は、「急性出血性十二指腸潰瘍と多発性胃潰瘍」とあった。ただいま、私のこの病気が交通事故のせいかどうかで、保険会社ともめているのだが…。

胃カメラを飲む日、わたしはまさか入院になるなどとは思っていなかったので、Nに「昼過ぎに帰ると思うから、心配しないように」と言い置いて出かけた。だが、そのままわたしはNのもとから消えたのだ。2週間、一つ屋根の下に病人が二人いるというのは、おもぐるしい。お互い何もできないというおもぐるしさ。わたしは入院できて、どこかほっとしている自分も発見した。これでトンネルから抜けることができる、という希望。大げさではなく、入院は私の希望になった。

18日間の入院だった。わたしはNの反応を楽しみに帰宅した。なんだか風景が違う。まったくお酒がないのだ。「どうしたの」と聞くと、「お酒飲んだら、気分が悪くなるから飲んでいない」という。どうもほんとうらしい。食卓にはウィダーだらけ。それしか入らないという。
3日目に例の逆流性胃炎が始まった。とても痛いらしい。でもいつもは数時間耐えると落ち着くので、わたしもいつものように構えていたが、今回はどうも違う。吐き出された吐物に血がかなり含まれているのが素人目にもわかる。「病院に行く?」と聞くと、いつもはノーというNも、今回はイエスと頷く。それから大学病院に電話して無理やり受け付けてもらい、介護タクシーを呼んでかけつけた。時間はちょうど0時だった。

わたしの退院と入れ違いに、Nは入院した。まあ、吐血するほどわたしはひどくなかったということだが、似たような病気で入院なんて、2人で笑うしかない。「呪われた黄色の家」(外壁が黄色!)だ。しかし、どちらにとってもよかったかもしれないと、今では思う。「介護する側」の体調と「介護される側」の体調は、やはりそれぞれ「水域」があるのだから。Nがひとりで過ごしたように、わたしはいま、Nの退院を待って、ひとりで過ごしている。

ごっくんの会 2010.2.3
結局ティガルチョは元の飼い主に戻した。約一ヵ月の同居だったが、途中からの「参加」がいかに難しいことか。11歳という年月は、やはり長い。

まず、トイレ。お風呂でするからとは言われていたのだが、そのお風呂をどう認識するのか。最初におしっこ・ウンチをした我家の図書室はその後大きなトイレと化してしまった。それからテロとの同居。テロは今までわがまま放題だったのが、ティガルチョの出現によって、そうはいかなくなった。お食事は邪魔されるし、邪魔されるどころか横緒から食べられてしまう。ティガルチョは大食いなのだ。だからしっこもウンチもすごい量。テロはだんだん食欲を失っていき痩せていく。ティガルチョもそれなりにストレスで痩せていく。

もうひとつは、Nとの同居。最近も食道の開閉が頻繁に起き、体力的に衰退しているところに、人馴れしたティガルチョがすぐに飛び乗ってくる。車いすに座っていても、ベッドに横たわっていても、ひょいと飛び乗ってくる。大食いのティガルチョはまた重たいのである。Nは悲鳴をあげる。たぶん30数キロしかないNの体力は、いくら猫好きでも拒否してしまうのだろう。猫をすでに風景の中で愛するようになったということか。喉が詰まるということの影響は大きい。そこで、ティガルチョには退場していただくことになったのだが、やはり安請け合いは良くない、と反省した。

そんなある日、Nは「ごっくんの会」をつくろう!と提案した。駒尺喜美さんがずっと一緒に暮らした小西綾さんは、若い女性たちと新聞を読んだり時事談議をする中で「あっ、わかった」ということがたびたびあり、そこでそのグループを「わかったの会」と名づけたという。

Nはそれをヒントに「ごっくんの会」を提案したわけだ。酒もつまみも鍋もサラダも、みんなでおいしく「ごっくん」したい! あー20年来のNの望み。そばにいて痛いようにわかる。先日も詰まって3日間ベッドにいた。しかしその間、ずっと冷たい水やアイスクリームを口に入れては出し、口に入れては出しを繰り返し、ようやく3日目に一筋の水が通ったとき、生きた心地がしたと、それはそれはこれまで以上に喜んでいた。一筋の水が一筋の光なのだ。

しかしNの「ごっくんの会」は入会資格も料金もいらないのだが、まだ入会希望者はいない。わたしは準会員ぐらいで「ごっくん」を意識してみる日々。


ブルガリアからようこそ! 2010.1.8
N邸にブルガリアからティガルチョがやってきた。ティガルとは「虎」、チョは「さん・くん」という意味で、あの「寅さん」ではなく、「虎ちゃん」という名の猫である。ほんとに飛行機に乗って、やってきたのだ。一年前。そしてN邸にやってきたのは一日前。今年は寅年であることに気づいたNとわたしは、これもなかなかのタイミング、というわけで大歓迎なのである。

広島在住のブルガリア人Rさんのお母さんは娘と孫を2人訪ねて日本に来る事になった。だがティガルチョの面倒を見てくれる人が見つからない。お母さんは仕方なく、高さ1センチぐらいのペーパー(この目で見た!)を用意し、入管で無事入国許可が下り、広島にやってきたというわけだ。3カ月滞在した後、帰国されたのだが、なぜティガルチョを残して帰られたのか聞きそびれたまま。まあ、言葉のせいにしておこう。

半年ぐらいして、3人の体調が悪くなった。アレルギーが出てきたのだ。あちこちの病院をまわった結果、「猫アレルギー」であることがわかった。数値表も見せてもらったが、数十ある項目のなかで、「猫」が突出して数値が高いのである。医者はすぐさま「お気の毒ですが…」といい、3人はうなだれ、そしてとうとうN邸に来る事になったというわけだ。

しかし、歓迎できない事情をもつヤツがいた。生まれて一カ月めからN邸に居つく「テロ」という名の猫である。これまでわがまま放題、出入り激しく、野生とペットを行ったり来たりしてきたテロは、ティガルチョが来てからなんだか様子が違ってきたことにすぐに気づいた。ティガルチョは世界のすべてが自分の居場所、といわんばかりに泰然としているのである。ほんとにテロリストになるのではないかと、Nと心配するくらいだ。あー、この日を予感していたわけではないのだが。

これまでテロは昼間はずっとNと過ごし、夜は、Nのベッドで寝ている。私にも懐いていないわけではないのだが、寝るときは必ずNのベッドに行き、足元で丸くなっている。決して私の寝室には来ないし、ましてやベッドには来ない。そのことを自慢げにしていたNだが、最近はテロが重いから、どうでもいい、と言い出したところだった。うっとうしいらしい。テロは大きくなるし、Nは小さくなるからか。はたまた5歳の若者の動きについていけないのか。

しかし、猫と赤ちゃんには好かれない、というのが私の自慢だったのだが、このティガルチョは早速昨夜から私のベッドに上がって、私と枕を並べたがるのである。えっ、どうしたの? 朝は、足でコンコンと顔を叩いて起こす。こんな日が私にも来るなんて…。Nも同い年ぐらいのゆったりと落ち着きはらったティガルチョが気に入ったようだ。

かくして、 11歳のおじいさんティガルチョと若者テロのにらみ合いは当分続きそうだ。まるでNとわたしの「にらみ合い」のように。Wな関係でちょっとN邸にも風が吹くのが嬉しい。

ショートステイに行ってみよーか 200910.02
もうすぐ79歳になるNだが、人工食道もはや20年経つからか、細くなってきているし具合がよくない。この20年間嚥下障害との苦闘に明け暮れてきたのだが、最近は痰の粘りが強く、つばを飲み込むと細い食道に幕を張ったりする。必然的に点滴の機会が多くなり、不器用なわたしもだいぶ針を抜くのが上手になった。これはヘルパーさんがやってはいけないらしい。

今朝、やはり点滴を二本したのだが、私はその間に急いで飼い猫・千代を病院に連れて行った。10日ぐらい前から餌をだべようとすると甲高い鳴き声を出して暴れていた。わたしとNは、魚の骨が喉に刺さっているのではないだろうかと見立てたのだが、しばらく落ち着いていたように見えたのでそのままにしていたが、今日は黄色い家の治療の日とすることにして、千代を大きな洗濯アミ袋に入れて病院に。果たして獣医の見立ては違っていた。口軟炎だった。こちらは注射2本。

そんな日々のある日、「あれはデイサービス?なに? ずっと介護してくれるところ」とのたまう。「ショートステイのこと?」というと、「それ、それ。そこに行ってみようか」とのたまう。わたしは耳を疑った。まさか、Nが本気で言っているとも思えない。「何で急にそんなこと?」と聞くと、「あんまりにも変化がない!」と自分も意外な自分を発見したように言う。そして、二人で笑ってしまった。

そうですか。そんなにもてあましていたのか--。そう言えば去年の初め頃病院に行った記憶があるだけで、それ以降、まったく家から出ていないのではないかということに気づいた。JR山陽本線沿いで多少うるさいが、木々がこんもりと、いや鬱蒼とNの部屋を守っているので、四季の変化は感知できるのだが。ベッドとリビング3mの往復だけでは、さすが妄想力抜群のNにして、ちょっとうんざりしたらしい。

なにせNの条件は大変厳しい。個室であること、テレビは24時間つけっぱなしでもいいこと、アルコールを嗜んでもいいこと、リクレーションには出なくていいこと…うーん、かなりハードルは高い!!だろう。特に、アルコール。

いつも来てもらっているヘルパー事業所が所属する特養には個室のショートステイはないとのこと。そこにあれば顔なじみのヘルパーさんにも覗いてもらえるから、Nもわたしも安心なのだがなあ。「ない」というよりは「では作りましょう」という返事がほしかったのだが…。

デイサービスと個室ショートステイだけの事業所を紹介してもらって資料を取り寄せてみた。見学にも参考に行ってみようと思っているが、はてさて、アルコール容認度は、いかがなりや。

Tがこわい〜 2009.07.16
Tとは、わたくしのことである。Nはわたしが「恐い」というのである。えーっ、そのままお返ししたい、と言いたいところだが、若干心当たりもある(笑)。わたしは常々、人から馴染まれないし、よく「恐い人」とも言われるし、声が低くてぶっきらぼうだし、口下手だし、表現力に乏しいし、という自覚を持っているのだが、そういうことではなくて、どうも「Nにとっての聞き上手」でないということらしい。

「Nにとっての聞き上手」というところがミソなのである。わたしはミニコミながら、ずっと「聞き取り」「インタビュー」をすることを仕事としてきたので、うまいとはいわないが、それなりにできると思っている(せっかちなのは認めるが)。だが、それは自分に興味があることだからであって、興味がないとどうしても上の空になるのは仕方ない。月刊家族はわたしのテーマだったから、関心なく人の話を聞くという経験はないといっていい。

しつこいようだが、Nは妄想力で生き抜いている。夕方の帰宅、朝の起床直後からその妄想力の延長でいろいろ語りかけてくるNに、正直ついていけないことが多い。たぶん、電気喉頭という器械音のせいもあるだろう。長時間きいていると、頭がボーっとしてきて、集中できなくなる。

Nには、声が出ないがゆえに、「声」「音」「コトバ」「うた」「語り」に対する狂おしいほどに希望がある。わたしは20年間そばにいて、そのことを理解しているつもりではある。が、「つもり」がまた曲者である。「つもり」だから「徹底」していないのだ。わたしの応答はつっけんどんだったり、上の空だったり、だから!…と語気が強かったりする。Tは「あんたがこわいからもう口はきくまいと思うのに…」と言いながら、またしゃべり出す(笑)。

わたしは「妄想力」ではなく「現実力」が問われる中でまだ生きている。家にいる人と外で生きる人とのこうした距離は、わたしとNだけではないだろう。その中間に、ひょっとしたらヘルパーさんの存在はあるのかもしれないと思う今日この頃である。

ユリが好き 2009.03.23
唐突に、Nは「わたしはユリが好きなんだ」と言う。そうか、そうでしたか。知らなかった。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、のあの百合の花。

Nは姿勢がいい。というか、お行儀がいい。寺の娘だから? かも知れないが、寝そべるとか、だらしないとかしない。身を崩さないのだ。ベッドで寝ているときの姿勢もいい。ぴっとまっすぐ伸びてきれいに横たわっている。あまりに動じないので、時々、わたしは息をしているのか不安になり、確かめてみる。情けないことに60になるわたしの就寝中のお行儀のよさは見せらたものではないから、余計にNの寝姿が美しく見える。つまり白くくっきりと空中にたたずむ百合の花は、N と重ね合わせてもいいぐらいだ。ちょっとほめすぎ!

「わたしはユリが好きなんだ」とNが言うとき、それはそれだけを意味しない。「わたしはユリが好きなんだから、わたしはいつもユリが見たいので、ユリがあるような環境にしてほしい」までを意味しているのだ。わたしはNと付き合い始めて30年。介護という日常を共にするようになって10年。ようやくそのことを認識したのだ。この癖がつかめなかった長い時間の葛藤よ、である。

わたしは「自立・自律」の条件の一つは、「人に手助けを頼むことが上手であること」だと思っている。その点からしたら、Nは「自立していない」としか言いようがない。はっきりとこうしてほしい、とは言わないのだ。そういうことは「はしたない」とでも思っているのか!? しかし「好きだ」「〜がない」「あるはずだ」という文脈の中にしっかり込められている。

わたしは近所の園芸店に飛んで行ってユリの球根を探す。鉄砲百合とすかし百合があった。さっそくNがベッドからでも眺められる位置に植えた。ついでにレンギョウも植えた。もうこれで「百合が好き」ということは言わないだろう。そういえば、地球儀もそうだったな。手に入ると、もう関心がなくなる。これって、駄々をこねてオモチャをほしがるコドモに似ているな。次はいったいなんだろう。

わたしはNの「〜してほしい」という「願い」をいつまでも待っている。そういえば、最近一つだけNからの希望があった。「暖かくなったら瑠璃光寺に行きたい」。察するのではなく、伝わってきた気持ちをカタチにすることは、傍にいるものとして嬉しい。
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コトバはわたしのオモチャ 2008/12/23
Nは詩から出発し、ミニコミ・新聞記者、評論、ノンフィクション、短歌と、コトバとともに生きてきた。長いのは苦手らしく、わたしも彼女の叙情的美短調文が好きである。詩人として生きていたら…と思うことがあるが、本人曰く『飽きっぽい』のだそうだ。どのような表現形式だろうが、コトバを操り、コトバと遊ぶのが好きだという。それも多くは独り遊びではなく、仲間とともに。だからサロン文化が好きである。

「家」から出なくなってほぼ10年。サロン好きのNの「遊び」は満たされない。仕方ないから身近にいるわたしに「遊びましょ」とちょっかいを出すのだが、わたしは現実的人間なので、なかなかNのイマジネーションについていけない。というか、ついていかない。すると必ずNは、いつも『あんたは面白くない人間だ』「あんたとはコミュニケーションができない」と苛立つ。でもそう言われて、わたしは別に反論はない。そう思うところもあるから(笑)。

わたしがNの“オモチャ”と一緒に遊ばないのは、小さいときから、わたしはおもちゃで無心に遊ぶとか、漫画を読みふけるとかしない、無粋なお子様だったことにも関係あるだろう。じゃあ、何していたのと問われると、俯いて、遠くを見るしかない。Nからしたら無粋極まりない人間である。

一緒に遊んでくれないお友だちは、そこにいなくていい。Nにとって必要なのは、「介護人」ではなく、どこまでも自分と一緒に遊んでくれる「遊び人」なのだ。「非日常」なのだといってもいい。わたしとNの間のささくれは、どうもそこらへんにあるような気もする。「共時間」への欲望の方向が違うのだ。わたしにしたら、「介護」をいかにわたしの「日常」にするかということとの闘いでもあるからだ。お互いがいっぱいいっぱいの日々ということか。

かといって、介護保険制度では一番どうにもならないことである。ヘルパーさんもときどき「あなたは面白くない人だ」とNから言われて、苦笑いしながら、さっさと玄関を去っていく。「わたしがほしいのは介護保険ではなくお友だちなんだ」というNの叫びは、やっぱり届かない。そして、一人言葉遊びが始まる。そうして積み上げられた広告は、いまやダンボール二箱になる。

さて、「コトバ遊び」ってどんな遊び? と思われた方、是非遊びに来てください。大歓迎です。
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地球儀がほしい 2008/11/07
もうベッドから起き上がらなくなって丸3日経つ。自己診断では「うつ病」だというが、確かに顔色はよくないし、電気喉頭など忘れたかのように、沈黙している。元気なときは点滴を天敵のようにいうNなのに、西条柿の熟々を吸い込んだだけではさすが心もとなく、わたしの提案に頷く。

年に2回ぐらい大学病院に出かける以外は、全く外出しない。家のすぐそばを通る山陽本線の汽車、1日朝夕のヘルパー訪問、じっとしていない猫の出入り、窓から見えるご近所の動き、そして、流れ続けるテレビの音。自分が動かないのだから、「動くもの」があるとうれしいのだという。

ベッドや車いすの限られた空間にいるとき、人はどうもより遠くを考えるらしい。Nはときどき、とんでもない質問をしてくる。マーシャル諸島はどこにあるのか、アラスカはアメリカだがカナダとの位置はどうなっているのか、グルジアはどこにあるのか…果てしなく続く。

前からNは地球儀がほしいと言っていたし、わたしもNの質問にいち早くこたえるには、地球儀だと思っていたのだが、いままで機を逃していた。今回、わたしがメキシコに行くことになり、キューバにも行くことになり、で、とうとうネットの通信販売で購入した。

大げさなようだが、地球儀は「家」という空間を一挙に広げてくれたように思う。直径25センチの小さな地球儀が、ベッドを越え、広島を超え、日本を超え、メキシコに導いてくれた。家から出かけられなくなったら、地球儀だ。わたしも地球儀と遊べるよう、鍛えておかなくては。

Nは明かりのつく地球儀に安心したのか、それ以来、その手の質問が少なくなった。なにせ地球儀と遊べる想像力においては、Nは誰にも負けないのだ。
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自分と別れたい 2008/09/30
「自分を変えたい」のではなく、「自分と別れたい」という表現、Nらしいなあと思う。歩けなくなり、字が読めなくなり、字がかけなくなり、本が読めなくなり、文章が書けなくなる。わたしはしゃべれないでしょ。それにわたしはなーんもできなくなった。わたしの友だちはだーれもいなくなった。みんなあっちにいってしまった、わたしにはだーれもいないと、嘆く。

わたしはそんなとき、反論したくなる。歩けないのではなくて、歩かないから、歩けないんじゃないの。目が見えないのなら、白内障が進んだのかもしれないから手術して直せば世界が変わるよ。目が見えるようになると、本も読めるし、字もかけるよ。

わたしから見たら電気喉頭だけどおしゃべりも攻撃も、休みなくよどみなくちゃんとコトバとして聞こえている。しゃべれないってどういうこと?  なーんもできなくなったのではなくて、する気がなくなっただけじゃない?  もともと時間を惜しんで働くタイプでもないじゃない。

友だち、みーんなあっちに言ったというけど、いった人もいれば生きている人もいて、ときどき手紙も来るじゃない。返事を出さないから途切れるんでしょ。目が見えないからはがきも書けないのなら、やっぱり目医者に行くしかないよ。

一通りまわると、「目医者」に行けば大部分が解決するようにわたしには思えるので、なんとかその気になってほしいと思うのだが、Nはわたしが望む「ちょっとの努力」に耳を貸さない。「変える努力」より、「そういう自分と別れる」ほうがずっといいと、現在の境遇を嘆く。

わたしはつい「ちょっとした努力」を強いてしまうし、「ちょっした努力」をしないことにうんざりしてしまうのだが、やはり「老いていく人」にはむごい望みなのだろうか。わからない、わからない。
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やっぱり嫉妬はある 2008/09/02
わたしとNは月刊家族を発行するためにつくった「家族社」の設立メンバーであり、20歳違うけれども“脱家族”という共通意識を持っていた。いや、少なくともわたしはそう思ってきた。“家族”の枠にとらわれない人間関係を、仕事でもプライベートでも楽しみたいと思ったし、家族社時代の20年間は、そんなこんなの暗中模索だった。

月刊家族を発行し、女性学講座を企画し、書籍出版をし、ブックス家族を開店し、と、振り返ってみればたくさんのことを一緒にやってきたなあと、感慨深いものはある。ただ、わたしは過去を振り返っているわけには行かない、まだまだ現役を生きる59歳。Nが下咽頭癌で大手術をした60歳が目の前だが、老境に生きるという心境でもない。

完全に一人になった1年前、東琢磨さん(文化評論/『ヒロシマ独立論』著書多数)と知り合い、彼が仲間とやっている読書会(読んで語って食べて飲んで)に参加するうちに、当ビルを使っての合評会やシンポジウム、映画会などもするようになり、わたしの身辺は少しだけ動き始めた。

メーリングでの大議論も面白いし、お互いの関係性のとり方も面白いし、なにより、彼らはフェミニズムを議論の遡上に挙げる。わたしにとっては嬉しいかぎりだ。昨日は「広島で性暴力を考える-責められるべきは誰なのか」を3階スペースで夜中3時まで。わたしはシンポジストの一人として「岩国米軍兵士の性暴力事件の問題点」と「広島の女性運動はなぜ弱いか」について、私見を述べた。

そんなこんなで「自分のコトバを紡ぐ」ことに忙しいわたしは、Nの元に帰っても結構パソコンの前に座っているし、家から出なくなり自らの想像力のなかだけて生きている(これはNの才能)かのようなNは、わたしの動きが、つまり夜遅く帰ったり、土・日なく出かけたり、そして楽しそうにしていることが、ときどき憎らしく思えるらしい。たとえば「男ができた?」(笑)とか、「あんたとはコミュニケーションができない」とか、「わたしが足手まといだろう」とか、意地悪くなったりひがんでみたりする。

でもわたしはNの本音は「やっぱり嫉妬はある」と言った、そのことだろうと思う。1960年代から女性にはめずらしい新聞記者として生きたNの「わが身への思い」。華やかに快楽的に生きたからこそ「嫉妬」は深い。しかし、わたしはそのことがNの証であると思うし、わたしは率直にその「嫉妬」を受けとめたいと思う。
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今日は帰るのか? 2008/07/16
私とNが完全同居を始めて約1年半になる。その前は隔日お泊りということにしていた。しかし、Nはアルコールやら不安やらで、私が出かけようとすると、いつも「今日は帰るのか?」と聞いてきた。「今日は息子のとこ、明日帰ってくる」あるいはその反対を言う。

隔日お泊りしていることをいつまでたっても覚えようとしないNに、わたしは少し苛立つ。でも一方で、やはりひとり暮らしは不安が強いのだろうとも思う。Nは下咽頭癌で声帯をとっていて「声が出ない」。足元もおぼつかない。そして、ひとり暮らしをしたことがない。ないない尽くしを訴えるNの不安な表情に、わたしは完全同居を実行することにしたのだ。

それでも今朝も「今日は帰るのか?」と、出かけようとするわたしの背中に声をかける。わたしはおもむろに振り返って「帰るよ。」という。毎日帰っているではないか!というわたしの苛立ちを抑えて。でもわたしはなぜこんなことに苛立つんだろうといつも思う。そういえば、友だちにNと完全同居をしていると何回言っても「今日はどっちに帰るの?」と聞かれるのはなぜ(笑)?

あるヘルパーさんはわたしとN、つまり友人同士の「老いらく同居」をとてもうらやましいという。ヘルパー歴10年の彼女は、このような「友人同居」にであったことはない。自分もできれば気の合う友だちと…。最近、日曜日以外は朝と夕にヘルパーさんに来てもらうようにしたので、わたしはとても気分は楽になった。夕方からのわたしの行動をあまり制限しなくてすむし(気分的な問題でもあるが)、長期の留守も可能になる。わたしは正直、とても嬉しい。

しかしこの体制は、わたしがNの「家族」「身内」ではないから可能なのだそうだ。わたしがいても、介護保険制度の中では彼女は「ひとり暮らし」なのだ。なるほど。そういえば2週間入院していた女友だちが退院すると、さっそく介護事業所からヘルパー派遣撤退が提案されたと、怒っていたなあ。

介護保険制度上は、わたしは「いない」存在だ。だけどわたしはN家に「いる」。この複雑なありように気付いたわけではないだろうが(Nは制度がどっちに向こうが余り関心はない。生き心地がよければいいのである)、わたしが毎日N家に帰っていることを認識しようとはしない。そして相変わらず「今日は帰ってくるのか?」と不安顔でいう。

Nにとって、現実わたしが家に帰ってくるのかどうかが問題ではないのかもしれない。「ほんとうにあなたはこの家に帰って、わたしと向き合っているのか」と言いたいのかもしれない。たぶんそうだろう。「ひとり暮らし」にとって他者というのは、「まさしく自分と向き合う人」のことだろう。

そういわれると、わたしは自信がない。ときどき「向き合う」のがしんどくなるのだ。Nだからということでもないような気がする。それが「介護という日常」なのではないだろうか。
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箸がない!!  2008/07/05

ある日、嚥下障害と日々格闘するNにとっては食べやすい小鰯の刺身を、Nは手で食べていた。わたしはそのことを知りつつ、時々料理したものをお皿に移さないで直接鍋から食べていたりするNなので、見逃すことにした。いちいち言うのはお互い煩わしいから…と思っていたら、Nが突然怒りだした。

わたしは猫じゃない! 箸がないということは、手でつまめないものだったら、舐めろというのか! わたしはカチンと来た。箸立てにはいつも箸とスプーン大小が入れてあるのだが、そのとき、箸が切れていた。「そんなこという必要はないではないか。箸がないよと言えばそれですむでしょ」と苛立つ私は言い、それに対してNはこう言った。「『普通』の人なら、いつも気配りしていることじゃろ!」。

なんだって!  わたしはますますカッカきた。その言い方はないでしょう。「気配り、心遣い」を強いるなんて、どういうことよ。「箸がないよ」って、なんでストレートに「普通」に言えないのよ。お互い一日口を利かなかった。二人がたまたま虫の居所が悪かっただけなのだろうか。「箸がないよ」といえばいいことだったんだろうか。逆に、ハイハイ、箸がないことに気がつかなくてごめんね、といえば済むことだったのだろうか。

共通の「普通」という言葉を使って、相手を非難する「介護という現場」とは、いったいどういう空間なのだろうか。冷静になって考えてみると、こう思えてくる。その「介護という現場」を自分が生きる現場に組み替えるためのせめてものお互いの抵抗なのだと。自分の「普通」に組み替えるためのある種の闘い。しかし闘うことは疲れるので、できれば折り合いをつけたいのだが、想像以上、現実未満にそれは難しい。

そういえばあるケア専門職の友人にこういわれたことがある。「あなたたち、最悪の組み合わせよ」と。専門職にお墨付きをいただいている私とNだが、それでも生き延びる手を伸ばし続けている。

介護する側・される側と一口に言うけど、「舐めろというのか」と「箸がないと言えばすむ」の間には、「される側」と「する側」の生きている世界というか、生きている視線の違いを垣間見せてくれるとともに、そのあいだを彷徨う旅の途中であることを教えてくれる。

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 誰か私と話してくれる人はいないのか  2008/5/25

わたしの介護体験といえば、認知症10年を生きた母親(8年前に逝去)だが、それも老人ホームを拠点にしたものである。そして今、わたしから見れば「ほとんど家から出なくなった」、本人曰く「出れなくなった」N(78歳・家族社主宰者)と完全同居を始めて1年になる。

父は前立腺がんで病院で亡くなったし、独身の兄は交通事故であっという間に逝ってしまったし、自律的でシングルであった友人はホスピス病棟に入り、死ぬまで彼女流に生きたし…。「介護」で悩むことはなかった。

母は、おしゃべりは好きだけど聞くのが好きという「受身」な楽しみ方をしていた(と勝手に思っている)ので、一人になったとき、和裁で細々と生計を立てている近くのお友だちの所に行っては、おしゃべりの頷き屋になって日々を過ごしていたようだ。聞き上手だったかどうかは知らないが、そういう人がいる限り、受身型母の一日は、過ぎていくようだった。そのお友だちも、子どもに引き取られて東京に引っ越された。

認知症になって、近所から「火」についての苦情が出てきて、老人ホーム2ヵ所が住処となっていくわけだが、母はますます自らしゃべることはなくなり、話しかけても、さほど反応があるわけではない。たぶん多くの人がそうなのかもしれない。スタッフの仕事の一つとして「声かけ」が強調されるのは、一方で胡散臭くも思っていたが、「母」のような人への刺激としてあるのもわかるような気がする。

わたしが母を老人ホームにと思った理由の一つに、この母の「受身型」という傾向があったように思う。一つ目の老人ホームは、高齢者アパートから始まり、認知症が深まり歩行困難にもなって二つ目の老人ホーム。母にその心地を聞く程のわたしの余裕もなく、「わたしの母(つまり、身内・血縁)である」ことだけによりどころを見出して、老人ホーム入所を決行した。「受身の母」であることに、せめての「救い」を求めて。強権発動と変わりないのだが。

もし母が「能動型」人間だったら、どうしていただろう。「わたしは家で死ぬまで暮らしたい! 老人ホームはいやだ! 家で楽しくおしゃべりして暮らしたい!」と強く主張したら、わたしはどうしたのだろうか。

と振り返るようになったのは、「誰か私と話してくれる人はいないのか」という、同居者Nの搾り出すように電気喉頭から発せられた言葉を受け取り、やりすごせないでいたからである。

ひとり暮らしでなくても、昼間をほとんど一人で過ごすことになる晩年期の叫びが、そのコトバに凝縮して、いまだ居間に居座っている。

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