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雨季はいいきっかけだ
しあわせはここらでおわりにしよう
朝から人疲れが始まったようだ
大きな鳥になった羽虫が
鳥かごを探している
この雨季からは
もう私については話すまい。
私を見つめるのはよそう。
廃船の白い輝きに釘付けされながら
ウミネコの帰るあたりを見ていよう。
ただ描写をしたに過ぎなかった
ただ数えたに過ぎなかったページは
まだ残っているけれど。 |
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旅に出るように本を読む。
果てしない山河を風が渡り、鳥が行く。
五線譜の中の句読点。
夜明けのまどろみ。
あと幾日のセンチメンタルジャーニーか。
惜しみながらページをめくる。
スカンジナビア半島のかもめたちが
モスクワの芝居小屋でライムライトをあびていた
−少し落ち目の評判記、
垂れ幕のかげから私を見ている−
枕もとの人影みたいだ。 |
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娘たちよ ましらのごとくあれ
秋が来たら
きみはひときわ老獪に美しくなり
私をしりへに見据えて
とりこむしぐさをするだろう
それもいつしか風見鶏の風車小屋
ひと袋の内臓の中に赤い草の実をつめこんで
スバルめざしてとんでいくのか
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けさの花よ
咲き残りたいか
散りたいか
いまさら青空があらわれたとしても
なにほどのことがあるだろうか
花が首をおとして空を見ている
うつむくしぐさをしている
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老いの後
老いの後には何があるのだろうか。
老いる前の私は老いを知らなかった。
そして老いたら、
今では老いの後に来るものに憧れている。
かくも命は美化されてやまないのだろうか。
死者と遊ぶ日さえも私は待っている。
北上する台風九号の分度器の中に、
私の風も吹いているはずだ。
そして、老いてこそぜいたくな秋が深まる。 |
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いつものような
辺境の昼さがりに
いつものような花を探し
咲かないふりして咲く花を
むりやりに見つけようとして
私は旅人のように疲れてしまう
山羊の仮面をまぶかにかぶって
積乱雲が踊っている秋
病気の猫が花粉をつけて帰ってきた。
影になって。 |
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言葉が逃げる 風より速く
あと追いするな ふり向くな
かえってこなくてもいいではないか
たとえわたしが生んだにしても
いつもひとり歩きして
わたしの前を立ち廻る
セリフのない夢の中では
声のないプロンプターだ
言葉はわたしから逃げながら
どこまでもわたしにつきまとう
そしてわたしと死ぬのだろう |
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リハビリテーションへの道
赤玉ポートワインの牛乳割りを飲んで
いると、赤い目をしたアンゴラ兎がやってきた。
かれは三つくちのくせに無くちなのだ。
そのメランコリーな明るさ。
ハビットという名のラビットがいた。
かれは昭和10年ごろ、
小倉市伊到津動物園で生まれた。
風の吹く夜、オリから逃げて
まだ帰ってこない。
ハビットの棲む村はハビタントになったのだ。 |
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初雪の朝の光に猫といる
殺人ニュースの届かぬ距離で |
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ホームアローンはETに似ている。
ピーターパンもクリストファーロビンもファックルベリフィンもジェーンエアも孤児だった。
孤児であることの自由は原初から生物にあり、魂や精霊や昆虫や花粉になって、空間の中にいた。
墓地は魂のコロニーかもしれない。コロニーは魂にしかつくれない「場」だ。
マザー・テレサの「死を待つ人の家」は施設ではない。「楢山」の浄土を見せているホスピタリティではあるまいか。 |
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入院よりも在宅がいいのはなぜだろうか。不便という不自由さを我慢してでも、
ぜったい的わがままができる唯一の
居場所だからではないだろうか。
死に場所は誰にも選べない。
生まれ場所も選べないように。
それでも「きょうは死ぬのにいい日だ」と
思える日があるのではないか。
とはいっても自殺願望ではありたくない。
わがままでない赤ん坊はいない。
遊ばないネこの仔はいない。
在宅というホスピスは、人権としてのわがままがあるところではないか。 |
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酔芙蓉の色の変化は
白百合の変化と似ている。
日暮れの色の薄くれないは
あかつきどきの茜と似ているようで、
異界のようだ。
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竹林の岳は群生の中
孤独をみつめあって
立っているのだろうか。
風も邪魔をしない。
光も美しい影をつくり、
蜘蛛は糸をはる。
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死者はもうどこへも行かない
わたしの中から旅立つことはない
あなたの帰りを待つことも
訪れを待つこともない
わたしが不在のときあなたはやってきて
カスバのタバコをくわえている
過去形でも未来形でもなく語る言葉が現在形
絶対言語
エピクロスとロゴスの朝ごはん
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無幾への憧れ
記憶と思い出について
寂しさと恨み、怒りについて…
やはり最後に人を狂気づけるのは
嫉妬ではないか。
アラン島に
私はあした行きます。
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希望とは予定があること。
たばこをくわえるのは
火をつける仕事があるからだ。
段取りを持つこと。
命は連鎖の中にある。
今日のマーボー豆腐の卵は双卵だった
「何か嬉しいですね」と彼女が言う。
「無精卵でも双子はできるの?」とわたしは言いながら
何の当てもないのに希望の時間があった。 |
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白化したサンゴの林の中で
母たちは目覚める
命は毎日やり直せる
だめでもあの世がある |
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石よりも木がいい
アスファルトよりあぜ道がいい
大理石のテーブルはしみがつかない
思い出すものがない
思い出は削ってはいけない
拭きこんでこそ思い出 |
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海の民は海のものを
山の民は山のものを食べてきた
わたしは「心」でつくられている |
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わたしが読書遍歴70年のなかで、最後に思い出す本は、
モーパッサンの『真珠の首飾り』とオー・ヘンリーの『最後の一葉』である。
どちらもテーマは「嘘」のかなしみである。
絵でいえば、ダリの「だまし絵」の美しさか。被爆地ヒロシマが生んだサダコの折鶴神話がある。
千羽折ったら病気が治るというのはどこから来たのか。
薬を包んだ四角の紙を手遊びに鶴を折りながら、
千服飲むころには病気が治るかもしれないと、昔の人は思い続けたのだろう。
しかし、サダコの話が嘘の悲しみの旋律をもたず まことしやかな美談になったのは罪深いことである。
真実のない嘘は美しくない。「詩」と「真実」のない「嘘」は語るな。ましてや涙を流すな。
そこから平和は生まれない。
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気まぐれな天気予報士がいたら
もしかすると異常気象と気があって
ぴたりと当ったりするかもしれない。
近頃見なくなったもの--
テルテル坊主と一本足の案山子。
そしてわたしの存在。
変調のはげしさに
自分で自分についていけない。
ガダルカナルの生き物たちは
浜辺の砂に食べ物を埋めておく。
わたしは食べ残りを毎日腐らせてしまう。
ムダなことばかりさせて…
もうほかに、
ムダなことはありませんか。 |
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希望はささやくが
絶望はつぶやくことしかできない。
でも甘いささやきに眠らされるよりも
絶望に耳をすませよう。
暗い朝にも目覚めはある。
思い込みの強さは
根拠の弱さと逆比例する。
とりあえず息を吸い込もう。 |
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わたしは声が出ないことに
不便を感じたことはない。
コトバが補ってくれるから。
無音のコトバはとても好きだ。
他者のことを気にしなくてもいいからだ。
語ることの楽しさは声をなくして深まった。
声はいったいなんだったのか。
音であることはたしかだ。
笑い袋の声。無機質な音。雑音。
魂の音がコトダマだったのだ。
だから音をなくして耳を傾ける。
コトバが聞こえてくる。
虫の声、鳥の声のように。 |
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人は死ぬと鬼神になるという。
とてもやさしくておどけているのが鬼である。
人はふと街角や旅先で
そんな鬼に出会って慰められる。
鬼神の哭く夕暮れは淋しいか?
あかごたちは泣きながら眠ってきた。
仮面の下でいつも泣いている鬼のように。
風が吹くと鬼は風に吹かれるふりをする。
さも軽々と命をもて遊ぶ
終わらない夕暮れのコマ回し。
だからわたしも隠れ続ける。
祭りのように淋しい神かくし。 |
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人は死んだあと価値がわかる
一丈四方の住居は茶室のように
清められた空間であっただろう。
そこは宇宙船のコックピットのように
星空のさなかにあり
流れる星の音さえ聞こえていた。
何を考えてもいいし、
何を考えなくてもいいし、
考える人間の胡散臭さをひとり
引き受けることも自由だった。
こんな自由を手に入れるためには
「方丈」の人にならなければならない。
身の丈いっぱいのいほりのなかで
身の丈いっぱいのしぐさをしながら
身のほど知らずに思考する自由を
盗みとる。 |
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