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後に“広島事件”と名づけられた「岩国基地米兵による集団強かん事件」(2007.10.14)から、ブックレット『広島で性暴力を考える』(2009.2/東琢磨編/ひろしま女性学研究所)発行の過程で、わたしはようやく自分が「ヒロシマ」という地と時のどこにいるのかが少しわかった気がしていた。つまり広島は、呉と岩国という軍事基地を二等辺三角形の底辺とし、その頂点に存在するということ。このことはこれまで指摘されてきたことではあるが、わたしは遅ればせながらこの事件からそのリアリティに目覚めた。だが、その目覚めが、わたしが生まれ育った「広島県安芸郡船越町」にまでわたしを導くものになるとは思ってもいなかった。
1975年に広島市と合併し、安芸区に編成された「船越町」。そこでわたしは20歳まで暮らしたのだが、わたしはもっと早くその地を出奔していたような気がする。東洋工業と日本製鋼所の従業員が暮らす何の変哲もない町、夕方になると海田湾からの海風に乗って豚小屋の饐えた臭いに悩まされる家、貧乏で雨漏りのする子だくさんの陽の当らない家。わたしはそこから逃げ出したかった。
船越小学校から地元の中学には行かず、広島市内の女子中・高進学校に進んだわたしは、学校への行き帰り、あの豚小屋を足早に通り抜けたり、いかに豚小屋を通り過ぎるまで息を吸わないでいるかを試してみたりした、ことをうっすらと思い出す。
豚小屋があるところは、小さな朝鮮人部落だった。なぜそこに朝鮮人部落があるのか。小学校時代、タケダ君という在日の同級生がしょっちゅう教室から逃げ出しているそばで、なぜわたしは中学受験のための『算数5000題』を睨んでいることができたのか。わたしは全くそのことを考えることなしに、ひたすらその町から逃げ出すことばかりを考えていたようだ。しかし、一方で少しずつ「女であること」をつかもうとあがき始めていたようにも思う。
船越町史を紐解いてみると、「軍都広島と軍港呉の間に位置する東洋唯一の兵器工場を有する町」とある。「東洋唯一の兵器工場」とは、父が勤務していた日本製鋼所のことである。父は優秀な旋盤工で、わたしは父が50歳のときの子どもなので、日本製鋼所を退職後は70歳半ばまで町工場に請われたのもあって働いていた。父は戦争には行かなかったが、皮肉にもきっと優秀な兵器職人であったのだろう。
戦争中は軍都広島の衛星都市として重要な任務をもった町であり、1920年に開業した民間最大の兵器工場・日本製鋼所広島製作所は日本の軍事的拡大とともに大きくなり、そして日本製鋼所と深く結びつきながら急速に発展した町、それが船越町だった。今でも日本製鋼所はわが国唯一の砲メーカーであり、防衛費とともに安定・拡大しているというのだから、まさしく、広島−呉の中間地帯にあり、それだけではなく、その一辺をより強固にしている町だとも言えるだろう。その役割は戦前から何も変わっていないようだ。
日本製鋼所が開業するまでは、ハワイやブラジルへの移民を多く出していたという船越町。町内にあった2つの朝鮮人部落は、同じように町内に東洋最大の兵器工場があったことと関係しているのだろうか。いつ頃部落はでき、いつ頃消えて公園になったのだろうか。GHQ占領当初に作られた占領軍「慰安所」は、海田町と船越町の境界あたりにあったのだが、その実態はどのようなものだったのだろうか。疑問が次から次に湧いてくる。だが、「船越町史」には何の記述もなく、1975年の広島市との合併で終わっている。オフィシャル・ストーリーとパーソナル・ストーリーをつなぐ片鱗さえもない。
社会学者・鄭暎恵は「歴史の交差点で“マイノリティ”たちが出会う―記憶を交換し合う―必要がある」(『<民が代>斉唱』2003)という。わたしが「女であること」を意識し始め、こだわり続けてきたことと、自分の足元が交差したこの機を今度は逃げ出さずにやっていこう。今は公園になっていることで初めて、豚小屋のあった朝鮮人部落が案外広かったことに驚きながら、当時そこに暮らししていた人との邂逅を求めている自分がいる。わたしは「わたしの歴史」に足を踏み入れることができるだろうか。
(呉YWCA通信2009.7.8月号掲載)
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