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 ■ わたしとヒロシマ 覚書 ■
    by
高雄きくえ
                 
わたしにとってのヒロシマを少しずつ書いていきます。


「根こそぎ感」にとらわれて

 

「一発の原爆で広島は廃墟の町になった」という表現に何度出会ったことだろう。それを裏付けるように、産業奨励館(現原爆ドーム)だけを残して焼け野原になった写真を、幾度も目にした。戦後生まれの多くの人にとって、ヒロシマへの入り口は被爆者の証言とその一枚の写真から、といってもいいだろう。かろうじて戦後生まれのわたしは、「廣島・ヒロシマ・広島」の時間をその写真から紡ごうとしたが、まさか、実際、その写真の中に入り込むことになるとは思ってもいなかった。

広島から約1500q、遠いといえば遠いその地に、311日を境に地震と津波による「瓦礫の地」になってしまった東北はあるのだが、しかし連日のテレビ報道は、一枚の写真が私を「ヒロシマ」に導いたように、わたしを導いていったような気がする。四角い画面はいつも歪んで見えていた。旅好きなわたしだがまだ行ったことがない、知った人が誰もいない「トウホク」。だからこそ、ちゃんとこの目に焼き付けなければ、となぜか強く思った。

さらに、福島原発事故。安全神話の流布の中で推進された原発。地震と津波は見事にその神話を崩し、放射能という目に見えない恐怖は、四カ月たったいまも収束しないまま人々の暮らしを「根こそぎ」奪っている。

東海村、郡山、南相馬、仙台、気仙沼、南三陸町、女川町、飯館村……ただ車窓から眺めるだけのふがいないわたしを捉えたのは、そう「根こそぎ」という、日常を超えた言葉だった。あれから「根こそぎの街」が頭から消えない。

 一週間の東北行から帰広した翌日、姉の義母が95歳で亡くなり、お葬式に参列した。姉は44年間義母と同居。2年前から老人ホームに入居していたが、肺炎で亡くなったという。

わたしは白菊に囲まれた祭壇の写真を見つめながら、病死であるという“おだやかな死”と、いまだ消息不明のたくさんの被災者の方たちの“無惨な死”の同時性にたじろぐしかなかった。“個としての死”と“数としての死”のあまりの落差。

遺体に薄く塗られた口紅、棺を取り巻く家族たち…そうした一つひとつは、これまでなら葬儀場ではあまりに見慣れた光景として通り過ぎるところだが、「根こそぎ」の街から帰ったばかりのわたしには、それこそが非日常のようにも思われ、混乱させるものでもあった。そしていまだその混乱と「根こそぎ」感から自由になってはいない。

 いつも瓦礫の風景に包まれた日常とはどのようなものだろうか。本当にわたしたちは「根こそぎ」という風景とは無縁に生きているのだろうか。わたしたちに“根こそぎ”という記憶はないのだろうか。

「根こそぎ」をweb辞書で引いてみた。「根まで抜き取ること」とある。そしてすぐ隣に突然のごとく「根こそぎ動員」という項目があり、「第二次世界大戦末期に本土に近付く連合軍に対抗するべく、日本軍が兵力を補うために行った動員の通称である。おもに本土における根こそぎ動員と満州地域における根こそぎ動員があった。その他沖縄県などの南西諸島でも、鉄血勤皇隊など、沖縄戦前後に15歳未満から65歳以上まで戦闘員として徴用されたことを言うが、義勇兵役法成立以前の防衛召集によるものである。また、同様の民間人動員が、ナチス・ドイツでも行われた」とある。

そうか、戦争の記憶として「根こそぎ」はあったのだ。というより戦争と親和性のある言葉として、わたしたちは「根こそぎ」を体験していたのだ。だからこそヒロシマにつながり、「フクシマ」につながり、そしてわたしにとっては「女」につながる…と言えば、あまりの飛躍だろうか。

福島は、地震・津波という天災と原発事故という人災の二重被害にある。不覚にも最近知ったことだが、広島も順序は逆だが、二重被害に遭っている。

原爆が落とされた86日の約1ヵ月半後の917日、広島に枕崎台風が上陸し、原爆で焼け野原になったところを暴風雨がおそった。枕崎台風は、室戸(昭和9) 、伊勢湾(昭和34)と並ぶ「昭和の三大台風」の一つで、各地で激しい雨を降らせ、広島県を中心に洪水や山崩れなどで死者・行方不明者約2,000人を出すほどの大きな被害が出たという。

「中心部の幟町付近でも深さ50cmを超える浸水で、全市が水浸しになった。このため、被爆で損傷しながらも残っていた橋が流失し、復旧しはじめていた鉄道路線や一般道路、焼け残った社屋で業務を再開した企業なども浸水し、復興への人々の努力が水の泡となった。 この水害のおかげで、防空壕や仮設住宅に細々と住んでいた人々は寝る場所を追い出され、なけなしの手持品も流されてしまった。このころ、ぼつぼつ疎開先や避難先から帰りはじめた人々の中にも、焼け跡に住むことを諦めて、再び疎開先へ引き上げる者もあった。そのような困難の中、市内中心部に帰ってくる者が比較的多くなりはじめたのは、被爆後1年もたってからだった。」(広島平和資料館webサイトより)  

驚くべきことは更にある。

17-18日、「昭和の三大台風」の一つ、枕崎台風が吹き荒れるその18日、広島県には連合国軍進駐対策本部が設置された。「慰安施設に関する事項」は警察部長が担当することになり、「慰安所」設置に動いている。原爆や空襲で広島も呉も壊滅的な状態でありながら、警察が資金を立て替え(50万円)、女性を集める(750)という条件で、業者は921 広島県特殊慰安協会を結成。107  日、慰安施設5ヵ所(広2ヵ所、吉浦、船越、宮島)で開業。性病が蔓延したために3ヵ月で閉鎖されているとはいえ、なんと、早い動きではないか。

東北では、4カ月経つ今でも仮設住宅建設がはかどらないため避難所生活を強いられている人が7〜8万人もいるという。広島においてもそれほど変わりはなかったのではないだろうか。

そうすると、「性の防波堤」としての「慰安所」がこんなに早く作られていくことの意味をわたしたちは今一度考える必要がある。「性の防波堤」とは、女の生と性を「根こそぎ」奪うものであり、先の「根こそぎ動員」と変わらないのではないか。果たして「占領下という時代だから」と特殊化してしまっていいのかと。なぜなら、国内「慰安婦」は戦争中ではなく「戦後」に「動員」されたのだから。

戦争の記憶として、女の記憶として、「根こそぎ」感はあながち遠いものではない。その感覚がわたしをヒロシマとフクシマにさらに近づけた。では、その「根こそぎ感」を記憶したわたし(たち=女)は、浮遊した身体感覚をどこに着地させたらいいのだろうか。いや、着地ではなくそのまま飛翔し続けたらいいのだろうか。さらにその着地と飛翔、二つは果して矛盾することなのだろうか。

たとえば、ドメスティック・バイオレンス(以後DV)について考えてみたい。長年DVの中で耐えてきた女性が、「家を出よう、逃げよう」と決意するのはいつなのか。それは当事者として「底つき(・・・)を持ったときだと言われている。わたしもDV被害者のためのシェルターを6年間運営していた経験から、そのことを実感している。

だが「底つき感」という言葉は辞書にはない。DV被害者や支援してきた人々の造語であるが、「底つき感」と「根こそぎ感」、どこか似ていないだろうか、いや、つながってはいないだろうか。つまり「生存の危機」が迫ったとき、生き延びることができないという自覚が生の底に溜り、だが「メルトダウン=死」をさけるためにその底から飛び立つ。その感覚は「根こそぎ」さえも希望に変えるようなものと言ってもいい。そして自分の生を奪おうとするものへの眼差しを獲得し、自分の生きていくポジションを見つける。そのような過程が一瞬だが被害者の身体を貫き、「耐える」から「逃げる」という行為へ移行するのではないか。「とどまる」のではなく「移動する」ことそのものが生きられていくというべきか。

しかし、強いられた「根づき」が人に「根こそぎ」感をもたらすように、強いられた「移動」は対極の「絶望」であり、注意深く「移動」を視ていかなければならないが。

roots()ではなく、routes(道・路) (ジェームズ・クリフォード『ルーツ 20世紀後期の旅と翻訳』人文書院/2002)として考えることはわたしに強烈な示唆をもたらした。この“routes”の一つがフェミニズムではないかと改めて考えてみることを可能した。

このたびの東北行が私にもたらしたものは、「根」と「移動」とその実景。今のわたしには手に負えないが、routesとフェミニズムがその手掛かりになるような気がしている。

423日に続いて611日、反原発集会とデモに参加した。その集会で、福島から広島へ避難して来ている人たちの発言があった。それぞれの体験は、福島につながろうとする熱い思いとともに、原爆ドームを包んだ。

わたしもひとりひとりの言葉を受け止めようと耳を澄ました。何人目だったろう、えっと思ってしっかと発言者の顔を見た。彼女はこう言った。「他県に来て初めて、福島に原発をつくらせてしまった私は、被害者であるとともに加害者だということを痛感しました。ごめんなさい。」と。そして深々と頭を下げた。

謝らなければいけないのは一体誰なんだろう。わたしはこれまでにない感情がふつふつとわいてくるのを禁じ得なかった。それは「彼女」にではなく、彼女にそう言わしめた「何か」に。変な言い方だが、いま・ここでは、十分に「被害者」でいていいのではないかということだったように思う。

「ヒロシマに生きるわたし(たち)」と、広島に避難してきたが「フクシマに生きるあなた」を出会わせた「何か」、そこに“routes”を読み取ろうとすることは、1990年前後に広島市内のスーパーマーケットでフィリッピン人女性に出会ったときに持った問い、「なぜフィリッピンではなくこの広島で〈彼女たち〉に出会うことになったのか」に似ている。「向こうの道」はすべてつながっている。

 そして問いは、いつも連続している。

 
 
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パフォーマンス・アーティスト 
DVD「イトー・ターリin 原爆ドーム2009.12.3」に寄せて

パフォーマンス「ひとつの応答」に<わたし>はどう応答するのか


1) イトー・ターリとヒロシマの出会い
2007年10月14日未明に起きた岩国米軍基地兵士4人による集団レイプ事件は「供述があいまい」として広島地検は不起訴にした。2010年6月8日、3人の日本人男性による集団女性暴行事件は「被害者の抵抗をあきらめさせるほどの暴行や脅迫が認められない」として広島地検は不起訴にした。

広島で起きた出来事である。広島地検は集団レイプあるいは被害届を出しているにもかかわらず不起訴にし、「女性への暴力」を主要な課題にする日本女性会議2007ひろしま開催中の藤田元県知事の二次加害発言、及びその一連の出来事が会議報告書に一切掲載されなかったし、それどころか藤田発言を擁護する市民の声が多数あった。被害者は、法律からも女性からも市民からも「二次加害を受けた上、居ないものとされて」しまったのである。

第3回ヒロシマ平和映画祭2009のテーマの一つに「性暴力」を取り上げた背景には、「国際平和文化都市」広島において、こうした「性暴力の不可視化」をたくらむ力が意識的、無意識に存在していることへの怒りがあった。<わたし>はこのような社会に生きていることをどのように受けとめ、何を発信していったらいいのだろうか、と。

セクシャル・マイノリティであることをカミングアウトしているイトー・ターリは、パフォーマンス・アーティストであり続けることをこう言う。「人権意識の希薄な日本の文化の存在に自覚的であり続けるため、居るのに居ないものとして扱われてきた存在として自覚的であり続けるため、そして、『居ないものとする』権力・暴力と闘い続けるため」(『IMAGE & GENDER』vol.10)、と。

ヒロシマとイトー・ターリは出会うべくして出会ったのではないか。あたかも広島において「核兵器廃絶」のみが平和もたらすという幻想が人々を誘惑し、「被爆者」あるいは「性暴力被害者」を見えなくさせてしまう力が働いているという意味で。しかし、広島にも、権力によって「居ないものにされる」ことと「闘い続ける」人々がいるという意味において。

2) イトー・ターリとは誰なのか。

イトー・ターリとは誰なのか、と問うとき、わたしは「イトー・ターリとは<わたし>である」と応答する。それは田中美津が「永田洋子は<わたし>だ」といったことと重なる。1970年代ウーマン・リブの「女ってだれ?わたしってだれ?」という問いかけに真摯に向き合おうとしたものとしての<わたし>である。イトー・ターリもわたしも同時代を生き、そして今も<わたし>にこだわり続けている。イトー・ターリは「わたし」と「社会」の境界を「皮膚」に象徴させ、その変容をたくらむことでわたしたちの既視観/感を揺るがす。

 下記は、イトー・ターリの20年間のパフォーマンスのタイトルである。一貫して「権力・暴力」の中に置かれた「わたし、身体」「あなた、あなたの身体」を映し出す表現として、パフォーマンスに取り組んでいるのがわかる。皮膚、身体、肉体、顔、セクシャリティ、異性愛社会、家父長制社会、性暴力、そしてその中に構造化された権力・暴力。

そしてヒロシマでのパフォーマンス『ひとつの応答』へ。1996年、セクシャル・マイノリティとしての「自画像」を描ききったイトー・ターリは、その自画像を持って、不可視化されたマイノリティ―日本軍「慰安婦」、そして性暴力被害者―に応答しようとする。つながろうとする。

1989  「表皮の記憶」      
1991  「わたしはここにいる」
1992  「フェイス」       
1995  「ディスタントスキンシップ」     
1996  「自画像」        
1998  「わたしを生きること」
2001  「恐れはどこにある」   
2003  「狂った身体」
2004  「恐れはどこにある 反戦編 vol.1−2/「虹色の人々」
2005  「Meditating Body」      
2006  「あなたを忘れない」         
2008  「ひとつの応答」シリーズ          

見えない呪縛に抗する<わたし>、そしてその<わたし>さえ見えなくさせようとする「ある力」。どちらの<わたし>も手放さないで闘いつづけるイトー・ターリという現場をともにした<わたし(たち)>は、イトー・ターリとパフォーマンスにどのように応答することができるだろうか。そしてそれはどのような希望をもたらすのだろうか。

3) ヒロシマの豊穣なる交差点

ところで、イトー・ターリは「ひとつの応答」と題するパフォーマンスによって、ヒロシマに何をメッセージしようとしたのだろうか。原爆ドームと元安川を前にして。

イトー・ターリのパフォーマンスは三部に分かれる。一部は原爆ドーム横、元安川河畔での「日本軍『慰安婦』」、三部は原爆ドーム前での「沖縄駐留米兵による『性暴力事件』」。そしてその二つをつなぐ観劇者との「沈黙の握手」。

前半、元安川河畔の石畳、水上劇のごとくそれは始まる。変幻自在な皮膚は、しかし、<わたし>が息を吹き込むことによって膨らんだりしぼんだり、破れたりする。そうした<わたし>を抱く<わたし>に日本軍「慰安婦」金順徳さんと絵画の映像が映し出されていく。台所の片隅。玉ねぎが10個ぐらい篭にある。ひたすら玉ねぎの皮をむく。再び「慰安婦」と絵画のスクリーンが重なる。倒れる。起き上がる。そしてその行為を繰り返す。また、玉ねぎの皮を剥く。ついにイトー・ターリと「慰安婦」は重なり合う。水面の光がその出会いを温かく照らす。

 原爆ドームへ移動する。観劇する者と静かに強く握手しながら階段を昇り移動する。何かを共有したことを確かめ合うように。

 後半、原爆ドーム前。ドームはライトで照らされている。釘をちりばめたラミテックスゴム製ジャケットと手袋のイトー・ターリ。釘の入った箱を揺さぶりながら地面に釘を撒き始める。そして磁石で釘を集める。沖縄の風の音、デモの音、街の音が流れる。おとな、子ども用のたくさんのキャミソールを地面に置く。沖縄の性暴力事件が書かれているマスキングテープで貼り付けていく。そして読み上げる。米軍の飛行機の爆音が流れる。

イトー・ターリは初めてドームに向き合う。樹木にテープを巻きつけていく。ドームを囲う勢い。読み上げることはヒロシマに呼びかけることとしてある。先の「ヒロシマ事件」の被害者への呼びかけが凛として響く。

2009.12.3は、沖縄、ソウル、ヒロシマが重なる記念すべき日となった。性暴力被害者同士が、戦争という暴力に苦しんだ者たち同士が、原爆死者が横たわるまさにその地で重なった。出会えていなかったものたちの出会いがそこにはあった。そしてそれは、わたしにとって初めて「ヒロシマが拓かれた」という経験であり、これが鄭暎恵がいう「交差するヒロシマ」(「歴史の交差点で“マイノリティ”たちが出会う―記憶を交換し合う−」『<民が代>斉唱』2003)ではないのか。そう思える一瞬でもあった。

 イトー・ターリは、多量の釘や磁石は「権力や暴力にコントロールされてしまうことの表象」であり、マスキングテープでキャミソールを地面に貼る行為は、敗戦後、沖縄で起
きた(1945.4-2008.10)336件の性犯罪の視覚化を目論んだという。原爆ドームに背を向けて「権力」に抵抗するイトー・ターリはしだいに原爆ドームを抱くようにマスキングしていく。それは一瞬の「交差することの豊穣」を感じさせた。

 広島に、ヒロシマに「豊穣なる交差点」をいくつもつくること――イトー・ターリのメッセージとして<わたし>は確かに受けとめた。




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「日本女性会議2007ひろしま」報告書への
性暴力事件<不/非>掲載についての“遺憾”表明書
  
                                                        2010.7.9

20071019-20日に開催された「日本女性会議2007ひろしま」に尽力された皆様に、わたしは当初より敬意を抱いておりました。様々な問題が二日間にわたって討議され、参加者が交流されたことは、翌春に発行されました報告書でも伝わってまいります。報告書は、記録であり、記憶であり、メッセージであり、とても重要なものです。だからこそ、その意味におきまして、わたくしは一つだけ、大変残念なことを発見いたしました。

「日本女性会議2007ひろしま」の一週間前に岩国米軍基地海兵隊兵士4人による集団レイプ事件が起きました。会議中に、藤田元県知事の二次加害発言があり、貴会による抗議声明決議があり、全体会での問題提起があり、そしてそれに対する新聞報道がありながら、その一連の出来事がまったく報告書に掲載されていないということです。なぜなのでしょうか。とても素朴に、不思議でした。

日本女性会議は「男女共同参画社会実現に向けて、発展的に議論し力を出し合い行動する」ことだとあります。その中でも「女性への暴力」は重要課題というのはすでに共通認識になっています。そのときに「性暴力事件」が起こったわけです。まさしく広島の女たちの「女性への暴力」「性暴力と性暴力被害者」への応答が問われていたといえます。

「報告書に掲載されない」ということは、大変重要なことを意味します。報告書が報告書になっていないということはもちろん、「性暴力」に対する意識を反映しているということ、「性暴力被害者」に「あなたは悪くない」と伝えられないということ、あったことがないことになってしまい事実を歪曲してしまうということ、掲載されないことが誰の利益になるのかということ、などを考えますと、改めて残念だといわざるを得ません。「女の経験」が共有できない広島。いつからこんな冷たい街になったのでしょうか。

わたしたちはもっと現実を直視することから始めなければならないのではないか、そう思います。その一つとして、以下のような連続講座を企画いたしました。これから内容をつめていきますが、上記のことを含めて、大いに議論する場にできたらと思います。皆様のご参加を期待しております。

●「性暴力について考える基礎講座」(場所、時間未定)
@109日  性暴力被害にあうということ。
        
小林 美佳さん(『性犯罪被害にあうということ』著者)
A1016日 性暴力をうむ社会構造
       …なぜ私たちは「性暴力」を受けとめられない のか。
    
        周藤由美子さん(ウィメンズカウンセリング京都・フェミニストカ        ウンセラー)
B1023日 日本で性暴力事件はどのように裁かれてきたのか。
             谷田川知恵さん(大学非常勤講師/刑法・ジェンダー法)
C113日  性暴力禁止法をつくろうネットワーク全国キャラバンin広島
             鄭 暎恵さん(大妻女子大学教員/社会学・ジェンダー学)

20107.9
ひろしま女性学研究所 高雄きくえ



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広島湾軍事三角地帯―広島・呉・岩国           
2010.6.1

T.記録されない“広島事件”
2007年10月14日広島で岩国米軍基地海兵隊員4人によるレイプ事件=広島事件が起き、その一週間後、19-20日は“一人ひとり響きあって いま そして未来へ”を大会テーマにした「日本女性会議2007ひろしま」が開催された。シンボルマークは「原爆ドーム」がモチーフ。20日、藤田県知事(当時)はあいさつで「朝の3時頃まで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うんでありますけれども、…」と発言し、引き続き行われた全大会でで被害者に非があるかの藤田発言を追及する発言もあったと聞く。事件は20日に初めて報道されたが、翌21日には、共同実行委員長が藤田発言に遺憾の意を表し、事件に対するアピールが採択されたことも報道され、より強く印象付けられる事件となった。

だか、翌年春に刊行された同報告書には、この一連の“事件”が一切報告されていない。それは一体なぜなのだろうか。冒頭の大会宣言の一つとして「私たちは初めて被爆地・広島に集い、平和を希求する『ヒロシマの心』を共有しながら熱く語り合いました」とある。ならば、世界的な「女性への暴力」根絶という流れの中で、かつ究極の暴力である原爆の被爆地・広島という足元で起きたこのレイプ事件とその後について、「平和を希求する『ヒロシマの心』」はきちんと受けとめなければならないのではないか。そして記録されなければならないのではないか。そうでなければ「女性史」は、女たちは何を記憶し、共有していけばいいのだろうか。

そもそも「ヒロシマの心」とはどんな「心」なのだろうか。レイプ事件が起きても「核兵器廃絶」さへ実現すればいいとする「心」なのだろうか。「ヒロシマの心」には、米軍再編計画に晒される岩国、“平和を、つくる”海上自衛隊がある呉、軍都廣島・被爆・国際平和文化都市広島、そしてとそれらを結ぶ広島湾の歴史は、どう映っているのだろうか。まさに、底辺を米軍と自衛隊に置く二等辺三角形の頂点にある「ヒロシマの心」とは何か、と問うべきであろう。「ヒロシマの心」は、足元で起きる具体的な出来事を直視する力を失わせている。

U.<広島・呉・岩国>軍事三角地帯の私的発見

上記のように、広島・呉・岩国を同時的に捉える考え方は、新しいものではない。一つは、山代巴著パンフレット「基地とパンパンの広島湾」(1952)、もう一つは“平和都市・広島の足元から核や基地をなくそう”と反戦活動をするグループ「ピースリンク広島・呉・岩国」(1989〜)がある。

山代巴はその中で、岩国を視野に入れた「呉・江田島を中心とする広島湾全体が米軍の基地化されて」いて、「基地化のために亡び行く所からパンパンへの道を開いている」と指摘している。また湾岸沿いだけではなく内陸部(原村)にも基地はあり、山代は、サンフランシスコ講和による「日本独立」に怒りにも似た疑問を呈している。山代は「ヒロシマ・広島」を視野に入れているわけではないが、広島湾を地理的・政治的に捉えようとする視点は、今一度学ぶべきところである。

 活動歴20年になる「ピースリンク」は、また「軍事リンク」を意味している。「軍事的」であるがゆえに「平和的」なつながりを持とうとするのだから。この「軍事リンク」という捉え方をしたとき、「ヒロシマの顔」は一挙に変わってくることに気づく。「ヒロシマの心」は何の上に成り立っているのかということに。

 軍事リンクは、広島と呉の間により強固にある。広島と呉を結ぶ道路の沿線に、船越町と海田町がある。海田町は呉線と山陽本線の分岐点であり、陸上自衛隊駐屯地があることで知られているが、船越町を知る人はほとんどいない。だが、戦争中は軍都廣島の衛星都市として重要な任務をもった町であり、1920年に開業した民間最大の兵器工場・日本製鋼所広島製作所は日本の軍事的拡大とともに大きくなり、急速に発展した町である。今でも日本製鋼所はわが国唯一の砲メーカーであり、防衛費とともに安定・拡大しているというのだから、その役割は戦前から何も変わっていない。また、船越町と隣接する海田町に駐屯した占領軍のための「慰安所」があった街でもある。船越町と海田町は、まさしく広島−呉という中間地帯にあり、軍事ラインを明瞭に描いている。だがこうした側面は、「軍事リンク・地帯」という捉え方なしには浮上してこない。

V.日常としてのヒロシマを取り戻す

広島という国際平和文化都市は、岩国・呉によって支えられている軍事三角形の頂点である。頂点であるために、日常的には軍事的な現実を突きつけられるわけではなく、核兵器廃絶を願う国際平和文化都市という美しい「平和物語」だけを再生産し続けてきた。

先の船越町は実は私の出身地である。船越町は戦争前後、道路建設や日本製鋼所への徴用でたくさんの朝鮮人が働いており、その家族も含めて一時は町の人口の1割を占めたという。にもかかわらず、船越町史には記録されていない。私自身も記憶はあるが、記録はしていない。いずれ朝鮮人部落とその歴史はなかったこととなるだろう。しかし“広島事件”も“朝鮮人部落”も忘れてはならない。

「ヒロシマの心」という、より抽象化されたスローガンは、「地域、階級、人種など女性の多様性を越えるが、同時に日常から目をそらす役割も果たす」(上野千鶴子)。

岩国米軍基地、呉海上自衛隊、海田陸上自衛隊、兵器工場という「戦争をする組織」が足元にありながら、これらを「問題にしない」「視野に入れない」ことで「平和」を語ってきた広島。こうしたなかで生まれたのが、「記録しない」という「レイプ被害者への冷たい視線」ではないのだろうか。少なくともこの構造から抜け出る必要がある。




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 「わたしの歴史」との邂逅-軍都広島と軍港呉のあいだ
  2009.07.20


後に“広島事件”と名づけられた「岩国基地米兵による集団強かん事件」(2007.10.14)から、ブックレット『広島で性暴力を考える』(2009.2/東琢磨編/ひろしま女性学研究所)発行の過程で、わたしはようやく自分が「ヒロシマ」という地と時のどこにいるのかが少しわかった気がしていた。つまり広島は、呉と岩国という軍事基地を二等辺三角形の底辺とし、その頂点に存在するということ。このことはこれまで指摘されてきたことではあるが、わたしは遅ればせながらこの事件からそのリアリティに目覚めた。だが、その目覚めが、わたしが生まれ育った「広島県安芸郡船越町」にまでわたしを導くものになるとは思ってもいなかった。

1975年に広島市と合併し、安芸区に編成された「船越町」。そこでわたしは20歳まで暮らしたのだが、わたしはもっと早くその地を出奔していたような気がする。東洋工業と日本製鋼所の従業員が暮らす何の変哲もない町、夕方になると海田湾からの海風に乗って豚小屋の饐えた臭いに悩まされる家、貧乏で雨漏りのする子だくさんの陽の当らない家。わたしはそこから逃げ出したかった。

船越小学校から地元の中学には行かず、広島市内の女子中・高進学校に進んだわたしは、学校への行き帰り、あの豚小屋を足早に通り抜けたり、いかに豚小屋を通り過ぎるまで息を吸わないでいるかを試してみたりした、ことをうっすらと思い出す。

豚小屋があるところは、小さな朝鮮人部落だった。なぜそこに朝鮮人部落があるのか。小学校時代、タケダ君という在日の同級生がしょっちゅう教室から逃げ出しているそばで、なぜわたしは中学受験のための『算数5000題』を睨んでいることができたのか。わたしは全くそのことを考えることなしに、ひたすらその町から逃げ出すことばかりを考えていたようだ。しかし、一方で少しずつ「女であること」をつかもうとあがき始めていたようにも思う。

船越町史を紐解いてみると、「軍都広島と軍港呉の間に位置する東洋唯一の兵器工場を有する町」とある。「東洋唯一の兵器工場」とは、父が勤務していた日本製鋼所のことである。父は優秀な旋盤工で、わたしは父が50歳のときの子どもなので、日本製鋼所を退職後は70歳半ばまで町工場に請われたのもあって働いていた。父は戦争には行かなかったが、皮肉にもきっと優秀な兵器職人であったのだろう。

戦争中は軍都広島の衛星都市として重要な任務をもった町であり、1920年に開業した民間最大の兵器工場・日本製鋼所広島製作所は日本の軍事的拡大とともに大きくなり、そして日本製鋼所と深く結びつきながら急速に発展した町、それが船越町だった。今でも日本製鋼所はわが国唯一の砲メーカーであり、防衛費とともに安定・拡大しているというのだから、まさしく、広島−呉の中間地帯にあり、それだけではなく、その一辺をより強固にしている町だとも言えるだろう。その役割は戦前から何も変わっていないようだ。

日本製鋼所が開業するまでは、ハワイやブラジルへの移民を多く出していたという船越町。町内にあった2つの朝鮮人部落は、同じように町内に東洋最大の兵器工場があったことと関係しているのだろうか。いつ頃部落はでき、いつ頃消えて公園になったのだろうか。GHQ占領当初に作られた占領軍「慰安所」は、海田町と船越町の境界あたりにあったのだが、その実態はどのようなものだったのだろうか。疑問が次から次に湧いてくる。だが、「船越町史」には何の記述もなく、1975年の広島市との合併で終わっている。オフィシャル・ストーリーとパーソナル・ストーリーをつなぐ片鱗さえもない。

社会学者・鄭暎恵は「歴史の交差点で“マイノリティ”たちが出会う―記憶を交換し合う―必要がある」(『<民が代>斉唱』2003)という。わたしが「女であること」を意識し始め、こだわり続けてきたことと、自分の足元が交差したこの機を今度は逃げ出さずにやっていこう。今は公園になっていることで初めて、豚小屋のあった朝鮮人部落が案外広かったことに驚きながら、当時そこに暮らししていた人との邂逅を求めている自分がいる。わたしは「わたしの歴史」に足を踏み入れることができるだろうか。


(呉YWCA通信2009.7.8月号掲載)



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