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ヤング・パイレートの時代 2009.12.8

最近友人と雑談を交わす中で、スウェーデンのパイレート・パーティ(海賊党)が話題になった。EU議会に一議席獲得し、いまや海賊党はヨーロッパ各国の若者を中心に席巻しているという。現代ではパイレート(「海賊」行為)はストレートに著作権・特許権侵害そのもの。国家支配の掟をはみ出したいわば反逆者にもなる。逆手にとったキャッチーなネーミングに思わずうなってしまった。

スウェーデンはバブル崩壊後の不況をIT産業で克服したというので知られている。その反動なのか、情報の独占に対する異議申し立てが基軸。少し乱暴だけれども、これ1本で社会の多様な問題にコミットするという。三本の柱があり、「文化の共有」「知識の無料・自由化」「適切なプライバシー」。具体的には、商業目的の著作権保護期間の短縮、プライベート使用によるファイル共有、特許システムの廃止。

スラヴィオ・ジジェク曰く「知的財産は、私的財産の扱いに逆らう点で本質的には共産主義的だ。市場的(経済的)価値を評価できないから市場では心臓発作のような変動を示す」んだそうだ。確かに海賊党の政策はソフトの共産主義だ。けれども、ハードの資本主義は容認だから体制内反乱のようなものだ。それはそれとして、私が目をつけたのはそんなことよりも、自ら政党を作り政治の場に斬り込み、時代を翔ける若者たちのパワフルな姿勢。

その原動力はどこにあるのか。どうやら参加型民主主義というスウェーデンの下地、とりわけ選挙のあり方にあるようだ。投票率は80〜90%。政策中心の比例代表制で現場主義。政党は男女比、年齢、職業、移民等均等になるよう名簿にのせるという。だからあらゆる現場から顔ぶれが揃う。政治家の主役は40代で、候補者が中学・高校にやってきて生徒たちと公開政策討論会を行うとか、模擬選挙を実施したりなど選挙が生きた教材になっているそうだ。若者たちの間では「政治は大切なもの。住み良い社会をつくるには、政治参加が必要」がコンセンサス。

スウェーデンを美化するつもりはサラサラない。けれど、権力にしがみつき、託すべきことと、その時をわきまえない年長者支配があらゆる現場から若者を排除している国とはまるで異なる時間が流れているようだ。おっとどっこい、そんな閉塞感をぶっ飛ばす若者の流れに、昨今ここ広島で、それも結構身近なところでその気骨に触れるようになったことを忘れてはいけない。ヒロシマ平和映画祭などで、しぶとく国際平和文化都市ヒロシマの日常性や性暴力に噛みつく、アナーキーでスリリングなヤングパイレーツの存在にワクワクしているアラカンのわたしですぅ。

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刑事司法と性暴力犯罪被害者 2009.11.26

透明性の持つ価値は大きく、情報公開・批判を経て矯正を可能にするがリスクもある。それは一時期凶器にもなり弱い立場に向かうこともあれば反対に武器にもなる。それが性暴力を裁く裁判員裁判において、それも被害者にむけて如実に現れた。性暴力犯罪の裁判員裁判第1号事件はそれを世間に突きつけ、裁判員裁判制度に対する不信が一気に高まった。告発したのは性暴力の被害者たちとフェミニスト。この制度は始まったばかり、自分たちがどうしたいのかで制度の良し悪しが決まる。目が離せない毎日がつづく。

だが、この裁判により性暴力被害の実相と被害者が刑事司法手続きの過程でプライバシー侵害、二次被害という過酷な無権利・無保護状況に置かれていることにやっとメディアから光があてられ、少しは考えられるようになった。

法廷での被害者の生の証言は、今まで「強かん神話」や「暴行」「乱暴」という言葉で不可視にされていた性暴力が肉体的にも精神的にも深い傷を残すというリアリティを突きつけた。年齢、性別を問わずだれでも日常的に性暴力被害と隣り合わせのところにいる。だからこそ、法廷を傍聴した小林美佳さん(「性犯罪にあうということ」の著者)の「性はセンシティブで一番プライベートな部分、それが第三者に知れるのは不安」「性犯罪の被害者を裁判員制度の犠牲にしないでほしい」「裁判員裁判から外すべきだ」という声は計り知れないほど重い。

裁判員候補選任手続における被害者のプライバシー保護については、性暴力の被害者やその支援者たちによる最高裁への抗議・要請等のアクションにより、既に条文に盛られていた保護規定が援用され(あくまで裁量!)辛うじてクリアーした。また、被害者のプライバシー(被害者特定情報)保護規定は法廷以外では拘束力はない。辛うじてメディアの自粛によって保たれている。おおむね慎重に配慮されていたようにうかがえるものの、被害者にとっては理不尽なものであることには違いない。性暴力犯罪を裁判員裁判から除外するかどうかも含め、今後刑事司法手続の全過程で性暴力犯罪被害者の地位と権利をカバーできる立法整備・拡張が緊急課題として残った。

裁判員裁判から性暴力犯罪事件を除外することについては、単純に言ってしまうことの危険を踏まえながら敢えて言うならば、基本的には市民参加の流れを逆流させることがあってはならないと考えている。正直言って、自分が被害者だったら外してほしいと訴えただろうと何度も自己矛盾を自問自答した。しかし、従来の裁判だろうが裁判員裁判だろうが、被害者の法的地位・権利保護が立法化されていなければ、裁判官は基本的には保護しない。閉鎖的な法廷で裁判官の訴訟指揮に頼る危険性の方が怖い場合だってあり得る。このように裁判システムだけの単純な問題にとどまらない。性暴力犯罪に対する泣き寝入りや苦渋の告発を封殺してしまう社会と現司法の厚い壁の背後には膨大な数の被害者や被害がいることを思うと、気が遠くなるほどの隔たりがあるのは否めない。その一角に一本の横槍をいれるのが裁判員裁判ではないかと考えている。

否認事件や量刑判断で死刑選択かどうかという場面で裁判員裁判の機能がどれだけ働くか判らないものの、引き続き被害者に寄り添い厳しくモニタリング、支援していくことで、総論的な方向性としては極端にぶれることはないと思う。確かに欠陥だらけのシステムだけれども、被害の回復と性暴力に対する社会的啓発の可能性という視点から捉えると、市民参加という権力の透明性を裁判に持ち込んだのは閉鎖的な職権主義を見直すというだけでなく、今回の裁判のように裁判員の当事者性獲得の契機となり、刑事司法システムの問題点を市民の目に照らし、司法分野の改革へ向けた立法整備のフィードバックにもなるだろうから。

ではどんな問題があるのだろうか。今まで述べたように、見逃せないのが現行の刑事司法制度の落とし穴とでも言おうか、基本的には犯罪被害者の権利保護の視点を持たないという重大な欠陥。それは、裁判員裁判においても例外ではない。例えば暴力団関係者の重大事件の場合、裁判員のプライバシーと安全のため裁判員裁判から外すことができるが、性暴力被害者の安全とプライバシーはほとんど法律の視野に入っていない。

近年犯罪被害者対策がクローズアップされてきたとはいえ、単純に一般犯罪被害者対策の延長線上にあるわけではない。疑わしきは罰せずという「推定無罪」の原則は、人が人を裁く矛盾・過ちから被疑者・被告人の人権を如何に護るかを追求するあまり被害者とは対立関係が残る。公判維持(立証)のためには捜査段階から被疑者・被告人以上に被害者は証言拒否防止規定という厳しい義務を負わされる。こうした検察官の起訴便宜主義とも相まって避けて通れない手続がある。それが性暴力犯罪被害者にとっては過酷な二次被害犠牲につながる。「(被害に遭い揺れている)被害者の供述が曖昧だ」として公判を維持することが出来ないので広島地方検察庁が不起訴処分とした2年前の岩国基地海兵隊による集団強かん事件にほぞを噛んだことを想起してほしい。

刑法と刑法の運用も時代錯誤がはなはだしい。性暴力犯罪の社会的メカニズムを考慮しない法解釈がまかり通っており、世間の強かん神話を後押ししている。昨今の痴漢犯罪の無罪化の流れ(冤罪防止とはいうけれど)にも危惧を覚える。

強かんは精神の殺人とも言われる。殺人の場合、当然被害者の証言なしで有罪にもっていく証拠が収集される。であるならば殺人に匹敵する重罪であるという社会の認識形成のためにも殺人罪と同等の被害者の証言に頼らない捜査・訴追があってよいということではないか。事実、日本政府は国連の自由権規約委員会から法と法の運用に関し次のように指摘、勧告されている。強かん罪定義の範囲拡大(ジェンダーのニュートラル化)、性暴力が重大な犯罪であることから職権で起訴すること、被害者側の抵抗度合いの立証責任を回避させ、併せてこうした犯罪に対処するための特別のジェンダートレーニングを司法関係者に対し実施するよう求めている。これが世界のスタンダード!

いずれにしてもこれからは、被疑者・被告人と被害者の権利が相互に抵触しない刑事司法がどういうイメージかを個別具体的に検討していく必要があるだろう。それは専門家にゆずるとして、裁判員裁判導入にあたり刑事訴訟法が改正され、被疑者・被告人には人権と適正手続の権利保障の観点から、勾留された時点から被疑者国選弁護人を選任できる権利・保護制度が採用され、一段と手厚く保護されるようになった。同じ観点から以下に挙げるように被害者にも権利・保護制度が設けられたが、犯罪被害者向けのガス抜きを意図したような内容で被疑者・被告人との不均衡は否めない。起訴(後)の段階から犯罪被害者参加制度が盛り込まれ被害者の意見陳述ができるようになり、被害者本人または被害者の代理人として弁護士が法廷に臨むことが可能になった。被害者国選弁護人制度もスタートしている。

また裁判員裁判では、被告の有罪が決まれば同じ法廷で民事の損害賠償請求事件を扱うことが出るようになった。だが、被告人の有罪認定前に被害者が参加するというこの被害者参加人制度は被告人の公正な裁判を受ける権利を侵害するおそれがある。それはひとまず置いておくとして、既に2年半後に向けて裁判員裁判制度見直しの検討が始まっている。この制度で性暴力犯罪を裁くためにも、先に述べた国連自由権規約委員会からの勧告内容に加え、弁護士が早い段階(起訴前)から電話一本で出動し、被害届・告訴、被害者取調の付き添いを可能にする被害者国選弁護人制度の活動拡大化、刑事司法のあらゆる過程における被害者のプライバシー保護の罰則付き守秘義務化、レイプ・シールド法等の立法整備は緊急課題だろう。

政府は女性への暴力が「重大な社会的・構造的問題」であるという観点から3年ごとに「男女間の暴力に関する調査」を実施し、警察での認知件数が氷山の一角であることを認識している。にもかかわらずほとんど有効的な対策は講じられていない。ひとえに女性だけに限らずセクシュアル・マイノリティや男性に対する性暴力による人権侵害の野放し状態であることを意味している。早急に犯罪の捜査・訴追過程における被害者の地位と権利の保護、包括的性暴力禁止法および性暴力犯罪被害の回復と包括的保護支援施策など社会のあらゆる分野から現実を見据えた取り組みをすべきではないだろうか。これは社会におけるあらゆる事件の犯罪被害に通底するイシューでもある。

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裁判員裁判制度   2009.10.1

この制度は法曹三者の妥協の産物と言われている。だからだろうか、この新しい制度については当然のことだがどれも無視できない憶測・批判が飛び交っている。決して理想的な裁判制度とは思えない。だが、司法に市民が参加するというのは透明性を高め、多様な価値観による判断を追求すること。司法における国民主権は当然のことである。アメリカでは陪審は国民の権利であり義務である。被告人にとっても陪審を選ぶかどうかは権利である。19世紀フランスの政治学者トクヴィルがジャクソンニアン・デモクラシー時代のアメリカの陪審裁判を視察して、その民主的な制度に感嘆したという。多様な民族による移民国家では裁判にも市民参加による透明性の確保と多様な価値観の反映が必要であった。200年の歴史を経て今も尚模索され続けている。日本では、残念ながら陪審制度復活はならなかったが、ようやくその端緒にたどり着いた。市民がアリバイ的なお飾りであってはいけないし、させてはならない。

司法制度改革の一環であるこの裁判制度により、末期的症状だった刑事司法の根幹部分が次々とドラスティックに塗り替えられている。ではその内容とはどういうものなのか。制度運営上の問題点は多岐にわたり、それに付随して改革は様々なところに波及し、当初の予想をはるかに超えたものになっている。主だったものをあげると、長年にわたる課題であり人質司法といわれ冤罪の温床だった取り調べの可視化(現段階では警察の反対で限定的だが、自白強要をしていないことを検察側が立証するためには全面可視化は必然で時間の問題)、調書裁判から直接主義・口頭主義へ、職権主義から当事者主義へ、検察側が独占していた取り調べ調書(証拠)の公判前手続の段階で開示、推定無罪の原則(立証率は現行の60%から98%ぐらいになり、疑わしきは被告人の利益になるので無罪率※が高くなるといわれている)の徹底化、被疑者段階からの国選弁護人選任など一点突破全面展開の様相を呈している。ただ、まだまだ目を離すわけにはいかない。人民裁判的危険性がある被害者参加のあり方や裁判員による量刑評議、評議内容の罰則付き守秘義務、代用監獄等矛盾・欠陥・棚上げにされた問題も多い。しかし、この制度は3年ごとに発展的という限定で見直しもされるという。

50年〜100年かかるとも言われ、今まで頑として動かなかった刑事司法改革という山が市民参加でいっきに動いた。その過程で死刑制度への関心も高まり、個別事件例えば殺人事件などの細分類化や終身刑などの検討も俎上に上ってきている。最終的には刑事訴訟法だけでなく刑法本体も変えていかないと裁判を維持できないだろうといわれるほどで、パラダイム・チェンジに等しい。これは裁判のプロ独裁から民主化へ向かう第一歩である。先ずはこの制度のスタートを評価したい。但し、良くも悪くもするのは私たち次第。ここまで言うとまわし者みたいですが(笑)

戦前に実施されていた陪審の実績では16.7%、この間全国で実施された模擬裁判のアンケートでも無罪率は現行より高い。   

(この文章は昨年書きっぱなしにしていたものです。当時私は気炎の上がる反対派の勢いに呑まれそうでビビッていたのかも(-_-;)?!今でも賞味期限有効かなと思いアップしてもらいました。というか、本当はかくにも長い不更新をこれで誤魔化そうと・・・いうコンタンです。)

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第4次下着革命はメンズから?   2009.02.16
カー・ラジオから何やらメンズ・ブラジャーの話題が流れていた。結構凝っていて、パットつきのプレミアムが隠れた売れ筋とか。客層はサラリーマン・自由業など多岐にわたり、普通の男たち。かたや新聞では、ふんどしを愛用する女性読者の声が載っていた。「女ふん」は開放感がある、通気性があり気持ちいい、重要な商談があるときは赤いふんどしで気を引き締めて出かけるとか。これにはなるほどと頷けるが、メン・ブラはいまいちよくわからない。下着のジェンダー歴史を塗り替えるのかどうか。

マッチョな男がパットを入れ胸の筋肉を盛り上げるのかと思いきや、愛用者の着用感は意外にも「身が引き締まる」「気持ちいい」「心が落ち着く」「安心できる」「優しい気持ちになる」など様々な精神的効用を挙げている。中には「女性の気持ちが分かるようになった」という声もあった。さすがにレース使いのメンズ・バタフライも販売され売れているという話は聞かない。

だから単なる倒錯でもなさそう。男が女によって身体像を与えられることは考えられないとしたら、今まで女モノと考えられていたブラを敢えて身体的自由を犠牲にしてまで締め付ける下着(というより「グッズ」的なモノとして)を求める心理はどう捉えればよいのだろう。メンズ・ブラジャー着用感の響きは、どことなく仄かに「母性」という匂いが漂ってくる。柔らかい母の胸に優しく抱かれたいという願望を満たす男の癒しツールなのかもしれない。もっと突っ込んだ声を聞いてみたいものだ。

ちなみに、大手下着メーカーのサイトを覗いてみた。思わず唸ってしまった。新製品の思わせぶりなプロモーションビデオまで見せてくれるんだもの。パンティという下着からセクシュアリティを掘りさげた上野千鶴子著「スカートの下の劇場」が少しも色褪せてはいないことに。おヒマなら是非どうぞ。「どこみてんのよぉ〜」とは吼えないから。
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裁判員裁判から死刑廃止を考える    2008.9.26

広島の拘置所には「刑場」があって死刑確定者が収監されているというのは、知る人ぞ知る。最近、死刑執行があったのは一昨年のクリスマスの日。死刑場が敷地内のどの辺りにあるのかは窺いしれないが、近くの合同庁舎4号館の食堂から望むと、おそらくロの字型に建てられている監房の内側なのだろう。

この建物は市内の中心部に近い広島城の北東、上八
丁堀に所在する。被疑・告人の送迎に便利なように裁判所・検察庁のすぐ傍に位置している。時折、高級車が何台も道路を占領する暴力団関係者の派手なお迎え(保釈)の時以外は、知らない人にとっては塀の高さに首をかしげる位で、見過ごされるほど普段はひっそりとしている。 

私が広島拘置所に死刑執行の刑場があることを聞かされたのは中学生の頃だっただろ
うか。その時からここの風景は私の中で止まったままで、前を通るときだけ胸をチクチクさせるやっかいな建物である。ちなみに、ここの高い壁にはそんなことを想像させないように江戸時代の広島城下の生活・風景画が描かれており、驚くことなかれ、観光スポットになっているという。広島城築400年を記念して国際平和文化都市ヒロシマ市(?)が企画したものだ。

裁判員制度批判の流れでクローズアップされた観がある「死刑制度」はこのところ廃止へと機運が高まっている。現在、死刑判決は裁判官に、死刑執行は拘置所の刑務官にとそれぞれプロにおまかせしている。しかし、来年の5月から重大事件を扱う裁判員裁判がスタートすれば、裁判員に選ばれた市民は事件によっては自分の意思に反し多数決で「死刑」判決を下さなければならなくなるかもしれない。

だから裁判員制度を凍結したらどうかという一部メディ
アの論調があるが、死刑制度も裁判員制度もお上が決めたものではない。一応国民的合意で手続を経て法律で決められたものである。どちらも「立法手続」の問題だ。市民がプロ(国家権力)に殺人の教唆をしているに等しいという自覚をどれ程の人が持っているのだろうか。

裁判員制度が凍結されたからといって死刑制度が自動的に廃止されるものでもない。問題は死刑制度で、間接的関与か直接的関与かの違いである。過去2回死刑制度廃止法案が国会に提出されたことがある。その時、執行現場から贖罪への感情が生じている死刑囚をあえて殺すことへの意見が強く出されたという。いまだに自分の手を汚さずに他者に殺人を押しつけている人権感覚の方がむしろ異常といえやしないだろうか。

日本で最も情報公開が遅れているもののひとつが死刑制度といわれている。廃止へ進まなかった理由の一つでもある。それを可能にするのが司法の市民参加ではないだろうか。フランスでは参審制(市民が量刑判断に参加)を採っているが、ミッテランが大統領選で死刑廃止を公約して当選後廃止された。今では参審制を採っている国はほとんど死刑制度を廃止している。

市民の参加する陪審制や参審制が何故世界の潮流になっているのか。その大き
な理由は市民参加による司法の透明性と説明責任、市民の側の当事者性にある。その過程で当然死刑廃止の議論が深まり廃止へ向かったという。

「相手が遠く離れると残酷な行為も平気になる」という心理学者ミリグラムの距離と服従の実験結果がある。支配と服従の関係に限らず、加害・被害の関係に置き換えても然り。この命題の裏を返せば、自分の身体でその痛みを実感することで初めて自分の問題として受け止められる可能性を意味している。裁判員制度批判の賛否を問わず、法廷で被告人を前にこの人を殺して良いものかどうかというギリギリの判断を迫られるのは確かに重く激しい葛藤を伴う苦しい作業である。

厳罰化を求める社会状況は予断を許さないが、裁判員裁判で市民が死刑制度の壁に挑むことによって、死刑判決を切実に迫ってくる自分自身の問題として主体的に受け止め、一人ひとりの身体感覚を市民的合意形成につなげ、再び立法手続で死刑廃止へ向かうひとつのバネ(選択肢)と考えたらどうだろうか。個人的には市民が量刑判断することには疑問を抱いているが、逆転の発想でピンチをチャンスへと塗り替えていける試練と考えたい。

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精神的貧困の病理    2008.7.14

金持ちG8サミットが終わった。例によって、的はずれな議論に終始していた。反面、G8に無関心で能天気な中間層意識の人々が未だたくさん存在するのも事実。G8の決定がじわじわと生活破壊を進行させていることに鈍感な人たち。新自由主義グローバル経済は、アフリカやアマゾンの奥地に暮らす人々にまで影響を与え、その排除性には国境を越え、途上国・先進国を問わず格差による深刻な貧困と暴力がべったり張り付いている。

弱肉強食世界観の最大のウィークポイントは、貧富の格差によって差別・偏見、分業などの諸矛盾を生む構造的な支配被支配関係である。その結果、社会不安を呼び起こすことぐらいお金持ちは織りこみ済み。だからこそ、「冷戦」の次に発明したのが「テロとの闘い」であり、「環境破壊との闘い」。それでも不安なのか宇宙戦争まで企んでいる。「安心・安全」はお金持緊急且つ深刻な政治課題というわけ。

そんな中で、日本の怒れる非正規労働者の若者たち(プレカリアート)の反乱は、不可視化されていた豊かな国(格差社会)の貧困を一挙に可視化し、本人の怠惰・努力不足だとする自己責任論を喝破してみせた。つまり、(相対的)貧困は所得水準(絶対貧困)だけではなく基本的人権(自由権、社会・文化権等)が保障されていない状態をいうのであり、「生存権」生活権」を脅かす「人権の剥奪・侵害」であることを。彼/彼女らの主体的な連帯運動は法改正の動きに繋り、「無気力な若者」という差別発言を繰り返すオヤジ政治家へひと泡吹かせた。

収奪(貧困)と暴力で自分たちの富と安全・安心を手に入れるG8お金持ち症候群。そういう矛盾を孕んだ精神的貧困という深淵な病理は他人事ではない。ジェンダー規範からみた影響力も大きい。私たちの日常に様々な形で存在する病巣でもある。事実、秋葉原事件加害者と同じ年頃の息子や娘を持つ親世代として、秋葉原事件の加害者をあそこまで追い詰め、そのツケを負わせてしまった責任は計り知れない。情況としては、親世代も紙ひとえ。「貧しくとも心豊かな社会」をめざすなら精神的貧困の社会病理に眼をそらすことなく、「貧困」への想像力を磨くことから始めるしかないかな、と思うのであります。
最後にナイジェリアのシンガー・ソングライター、Asaの歌“Fire on the mountain”から、あなたには恋人がいて愛しているって言う/だからダイヤを買うのね/でもその石ために/だれかが死んでいるって/間違ってない?

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世界が望むコンビ   2008.6.13

あたかも用意したシナリオが存在していたかのように、多様な移民社会のダイナミズムが産みだした稀にみる2人。オバマとヒラリーのライバル物語が終わった。アメリカ社会のもっとも強い束縛はジェンダーであるといわれている。そこで、本人たちの意思を無視して勝手に人種の壁を超えるのが先か、いやジェンダーの壁かと悩ませもした。そんな中で政治性を考えるとヒラリーが女性大統領候補として切り開いた地平は確かに大きい。

が、若さと謙虚、清虚なイメージで未熟さをカバーしたオバマも満更でもない。ある時ネガティブ・キャンペーン(レイシズムに対するダブルスタンダードや誤解)に対し毅然と対応しているのをTVで観た。カラーであるが故の本音と痛みを、聴衆に向け切々と訴えかける彼の演説力にしびれてしまった。人種差別は致命傷という社会的合意が働いたにせよ、ハートに響く言葉はそれだけで人を動かす力を持つ。

一方老練なパワー・エリート・ウーマンのヒラリーはどうだろうか。政策通の彼女はその合理性を武器にした。だからこそ人種偏見・女性差別の強いプアー・ホワイトや白人男性労働者は彼女の方を味方したのだろう。メディアはそういったねじれや一部男たちのヒラリーに対する揶揄的な性差別発言を半ば黙認した。差別発言に対して非公式に抗議はしたものの、男性たちに対し公式の場での論戦をヒラリーは避けていた。リベラルな立場から中道・保守取り込みを意識するあまりジェンダー・イシューを棚上げする戦略をとったのか。後半ネガティブ・キャンペーンにも手を染めた。結果、禁じ手の「強い女」というワナに嵌ってしまい、ヒラリーは歪んだ強さを反対に見せつけた恰好になったのではないだろうか。「強い女」はアメリカの主流フェミニズムの記号「おんなにも兵士になる権利がある」に通ずる。世界に君臨する米軍の最高司令官たるもの、例え女でもマッチョを要求され、同時に女らしさもと二律背反を求められる。彼女ならひるまずそれを見事に演じてみせただろう。有能で、芯が強くあきらめない、まるでサイボーグのようにたくましい。ビルの不倫を許し、非の打ち所のない良妻賢美でもある。作られたイメージは首を傾げたくなるように一人歩きをしていく。底辺でDVなどの性暴力や貧困に喘ぐカラーの女性たちや退役下級軍人の妻たちはどう受け止めているのだろうか。

 世の中を変えていこうとする政治家には、感情と合理性(理性)が不可欠。2人はどちらも兼ね備え遜色ない。しかし、イメージからいえば「感情のオバマ」「合理性のヒラリー」だろう。「一つのアメリカ」という理念を掲げるオバマであるなら、その寛容の精神をまずヒラリーに対して発揮してほしい。副大統領はヒラリーで決まりと。人種とジェンダー、戦争と貧困で病めるのはアメリカばかりではない。世界がこのコンビを待っている。日本のオバ(サ)マからのお願いです。

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気になる消えた憲法第24条改悪   2007.6.23

現憲法を擁護する立場にとっては、憲法の大きな欠陥は第1条といわれる。では、改憲派にとっては何条だろう?

大日本帝国憲法の天皇を頂点とする家父長制原理から、戦後民主国家(主権在民)に生まれ変わる転換の機軸となったのが日本国憲法第9条と24条といわれる。自民党や民主党(必ずしも一枚岩とはいえないが)はそういう憲法の全面改定をめざしている。しかし、新憲法草案からその一方の24条改定が消えた。果たして今後改悪の危惧はないのだろうか。

改憲派にとっての24条

改憲派は1950年代半ばから一貫して9条と24条も焦点にしてきている。当時も今も、露骨には言えない家制度の思想が、いつしか「公共」というオブラードに包んだ形で耳立つようになった。確かに、新憲法草案では現条文がそのまま残った。しかし、タイトルを「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」から「婚姻および家族に関する基本原則」へとシフトし、しっかり改悪の布石が打たれている。2004年6月に発表された自民党の憲法改正プロジェクトチームの論点整理案では、第四「国民の権利及び義務」の条項の4に、24条を家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきであるとしている。そのねらいと改憲派の人脈は、この間の性教育バッシング、ジェンダー・フリー・バッシング等バックラッシュの内容と一致しており、実態の方がはるかに進んでいる。以前、自民党の鳩山邦夫議員曰く「24条は憲法の最大の欠陥である」。言い得て妙ではないか。

護憲派にとっての24条

反対に、「護憲運動」では、24条が9条のように光をあてられることは稀だった。9条に熱心な男でも、こと24条になると、割を食った女の問題としてどこか他人ごと。男も「俺は君のためにこそ死ににゆく」と精神的に動員されていくのが24条なのに。 また、戦争という公的暴力が私的暴力であるDV、セクハラ、レイプなどの性暴力と構造的に通底していることなど知る由もない。憲法は本来国家権力の暴力を縛るもので、下位の法律で扱うべき私的人間関係(家族)の問題へ介入する24条は憲法に馴染まない、法律であるべき24条が憲法に規定されていることにより憲法改正の口実を与えてしまう、24条を問題にすると天皇制を見えなくさせる、と否定的な論調も結構ある。それやこれやに対して若尾典子さんは著書「ジェンダーの憲法学」の中で24条をジェンダー・センシティブに斬りこみを入れ、多様な価値観をもつ条項として考察しておられる。是非手に取ってみて欲しい。

なぜ24条が憲法に要請されたのか

若尾さんは著書「ジェンダーの憲法学」でこう述べている。フランス革命以降「自由で平等な個人」という基本原理をもつ近代憲法であるはずの大日本帝国憲法が、欧米とは違う独自性をもっていた。つまり、天皇制の根拠である男系の万世一系維持のために前近代的な妻妾制という女性差別を憲法の基本原理としていた。これを近代国家における天皇制支配原理の欠陥として捉え、この問題克服を避けて通ることはできなかった。そのために14条と24条で両性の平等の規定が要請された。しかし、戦後改正されたはずの下位の法律になった皇室典範にはこの男系の万世一系思想が世襲という姿形を変えて再び「男子絶対主義」として残されたままであることを指摘されている。また、一系思想が女にとって現代性をもつジェンダー・イシューであることも。

なぜ24条がねらわれるのか

個人主義や男女平等では国を守る男も、そうした男を支え慰安する女も育たない。軍事化には男女不平等な公共(家)の構築が不可欠な条件ということになる。

どんな国であれ、軍事化へ向かう社会は必ず家父長制が頭をもたげてくる。それは総力戦を強いられる国民国家の宿命でもある。身分差別では総力戦は戦えない。その為に近代社会はジェンダーという巧妙な支配原理を再発見したという。 実際に国民を総動員するためには「男らしさ」「女らしさ」で象徴される男女役割分業(国防義務と家族扶助義務)による「家族」基盤の充実政策がメルクマールとなる。軍事化により生じる社会の諸矛盾の解決は家族、とりわけ女の肩にかかってくる。

軍事化が家父長制や戦争と結びつくだけではない。資本主義経済のグローバリセーションにも深く関係してくる。基本的には経済界の要請でもあることを念頭に置いておきたい。それは本国のみならず、安い労働力を求めて生産拠点となった発展途上の国々にも輸出される。シンシア・エンローは、そのことを著書「策略―女性を軍事化する国際政治」で、自分が履いているスニーカーをモチーフにして展開している。進出企業と政権の癒着が必然的に軍事化を強化し、それに呼応する形で家父長制も再生産されていく。その過程を通した性差の経済・社会関係、権力関係を分析している。

まだまだ目が離せない24条

9条が自由・平等・福祉を基盤とし、24条を保障しているのが14条(公的男女平等)と25条(福祉)であることを考えれば、参院選の目玉になっている年金を始めとする現在進行形の福祉切り捨て・格差社会はまさに9条と24条の先取り改悪を浮彫にする。とどまるところを知らない性教育バッシング、ジェンダー・バッシング等のバックラシュも然り。まともに日常生活を脅かすのは9条とて変わりはない。ところが、ひたひたと迫る「アメリカと一緒に戦争をするふつうの国」の生活実感が沖縄や基地の周辺に住まない私たちにはいまひとつ届かない。遠い海の向こうの出来事として無関心な国民をよいことに既成事実を積み上げ改悪を先取りされてきた9条。しかし、憲法から男女平等を消すとなれば、改憲派にとってはパンドラの箱を開けるようなもの。ここはひとつ、9条を先に片付けてからゆっくり24条を、というのが胸裡の戦略だろう。まだまだ24条から目が離せない。

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されど年金  ―誰のための年金か―

2007.6.26

年金問題はエンドレスの様相を呈してきている。これまで政府・与党は年金制度を福祉政策というより他の政策の隠れ蓑として都合よく利用してきた。あるときは家族政策に、労働施策に、人口施策に、女性施策にと。だから欠陥を聖域化し、アドホック的なメスしか入れてこなかった。今回も政府・与党はこのどさくさに紛れて、年金記録の入力ミスをなくするためと称して、年金、医療保険、介護保険などの社会保障番号と住基ネットを連携させた個人情報の一元管理を検討しているという。ことは年金にとどまらず、国民の管理・監視への方向へ変節してきている。虎視眈々と「国民カード」を狙っていた政府・与党にとっては怪我の功名みたいなもの。

本来「年金不払い」問題を「年金記録漏れ」という表現にシフトし、ずさんなお役所仕事という印象を与えることで世論をかわし、あわよくばという意図が透けて見える。

徴収保険料の帳尻すら合っていないことはとっくの昔に判っていた。しかし、強制加入なので年金制度が破綻することはないが、将来支給開始年齢が70才になる可能性もあると聞き、正直驚いた。一体いくら不足するのか。3月末現在、国の借金は834兆円、赤ちゃんを含む国民1人あたり653万円にのぼる火の車財政。年金だけでも60兆円もの無駄遣い。本当かどうか知らないが、財源確保は保険料と消費税大幅値上げしかないといわれている。これって籠抜け詐欺じゃ!弱者切り捨てじゃ!姥捨て山じゃ!怒りがおさまらないのは当然。時効を適用せず、最後の一人まで救済すると安倍首相はその場しのぎ的な宣言をした。そりゃそうだろう、そのツケは国民に廻すのだから自分の腹はちっとも痛まない。

終戦も近い満州で新婚生活を送っていたという私の母は、世情の不安を感じ取り、浅はかにも生活を切り詰め、父の安月給の大半を貯金や保険に注いでいた。それが敗戦で紙切れになったのを経験した母は生前「国は信用できん」とよく話していた。そんな母がある日、私に小さな一冊の膨らんだノートを差し出した。そのノートには、ブランクの期間中、私に内緒で掛けてくれていた国民年金保険料数年分の領収書がぎっしり貼られていた。平和な時代を確信しながらもしたたかさを失わなかった母のおかげで数年前、運良く統合を済ませることができた。が、このまま行けば母の想いとは裏腹に、老後の支給年齢前に私は飢え死にするかも。

たかが年金されど年金。私たちがどんな社会をめざし、社会がどういう方向に向かっているのかを座標軸に年金問題を考えると、グローバルな市場競争に勝ちたい大企業と小さい政府(軍事大国)をめざす政府・与党の本音は正規雇用の削減、年金廃止(福祉の削減)だろう。意外とこの騒動は想定内かもしれない。そうだとすれば抜本的解決は望むべくもない。参議院議員選を前に、年金記録狂騒曲に踊らされない先見の明を持ったクールな候補者は誰かを見極めたい。

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一番喜んでいるのは誰だ! 2007.6.6

「カネと政治」と「年金」で安倍首相の支持率が一挙に30%に下落とか。今に始まったことではないのに何でこんなに騒ぐの?わたしは大手メディアの世論調査を信用していない。特に選挙前の世論調査の怖さは、各政党が集票のために重要な課題を別の問題へ「すりかえ」たり「はぐらかし」をして世論を誘導してしまうことだ。国民投票法案が可決してしまった今、参議院選を前に最重要課題であるべき「憲法改正」が、「年金」という選挙目当ての政争の道具に吹っ飛ばされてしまった。

結局、真相はいつもうやむやにされ、どの政党でも変わらないからと「自民党」へ投票してしまう現象を考えると、ほくそ笑んでいる場合ではない。自民党参議院選マニフェストによると、予定どおり2010年の国会で憲法改正発議を目標にしている。「年金」で優先順位が替わるなんて考えられない。ましてや遅滞などありえない。ということは、手続を尽くす時間をどこかで端折るということだ。裏で改悪は粛々と進行している。
 
安倍首相は松岡元大臣をかばい殺しをした。目的のためには手段を選ばない人なのか、ただ洞察・分析力がないだけなのか、もしくはブレーンが悪いのか。ブレーンのメンバーは知る人ぞ知る。その一人、岡崎久彦元駐タイ大使が日本軍性奴隷問題について、最近こんなことを語っていた。

首相のアメリカ訪問前に以下のことを助言したと。「20世紀は人権侵害の時代。中国では何千万人、スターリンも何百万人殺している。米国も原爆や空爆をやっている。日本の慰安婦なんか問題にならない」。訪米時に首相はそれを一部引用して「20世紀は人権があらゆる地域で侵害された時代」として語っていた。そういえば責任を他人事としてしか捉えていなかったなぁ。

 う〜ん。でも、やっぱり、油断は禁物。
      

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日・仏ジェンダー差  2007.5.11

フランス大統領の決選投票の結果、サルコジ候補がロワイヤル候補に「差を付けて勝利」という。投票率85%で、ロワイヤル47%、サルコジ53%。敗因もいろいろ取り沙汰されているが、それはそれでおまかせするとして。ジェンダー的視点からみると、次なる一歩へ繋がる可能性を充分抱かせるスリリングな選挙であった。

年齢別投票率でみると、興味深いのは、あるデーターの18才〜24才までの投票率。ロワイヤル58%サルコジ42%。一方、日本では選挙前までは日本のルペンと称され、ミソジニーを振りまいていた石原知事に投票した無党派若者層のことを考えると、ロワイヤルへ投票したフランスの、それも若い世代の賢明な選択にこれからもエールを送りつづけたい。

他のどのデーターも25才〜60才までは男女ともロワイヤル・サルコジ間に大きな差はなかった。ところが、65才以上になると男女ともサルコジへの投票率がおおむね60〜75%と、大きく水をあけられていた。これは、東京の若者のジェンダー差が石原を当選させ、フランスの高齢者のジェンダー差はロワイヤルを落選させた、といえるかもしれない。

1999年、法律婚以外のカップルを認めるPACS法が施行され、今では「パクスする」が日常語になっているフランス。それ以前から身をもって体現していたロワイヤルは、今回の選挙では一歩進んで、「婚姻を同性カップルにも認めることは、平等、可視性、尊重の名において必要なこと」としたうえで同性婚法案や、同性カップルによる養子縁組にも賛成の立場を明らかにした。ジェンダー、トランス−ジェンダー・センシティブな視点はぶれていなかった。

そんな彼女がフランス国立行政学院出身の超エリートであることを差し引いたとしても、4人の婚外子をもつ事実婚の女が大統領選候補になり、決戦投票でけっこう善戦した。これは、ジェンダー・バッシングをはじめとするバックラッシュの嵐が荒れ狂う日本ではまず想像できない現象である。日本のマスメディアは、もっぱら二人の政治政策を公平に括りながらも、彼女のジェンダーセンシティブな政策を無視し、しっかりジェンダー的な扱いをしていた。TVニュースはどのチャンネルも、フランスでの2人のTV討論を冷静沈着なサルコジ(男)と感情的で場当たり的なロワイヤル(女)というイメージで殊更対比させ、だから女は大統領の器ではないといわんばかりのニュアンスで、同じ映像を繰り返し流していた。 

しかし、私たちは見逃さない。フランス人の約半分(これをネガティブに捉える人もいるが)は彼女のフェミニスト的生き方そのものを問題にしていないというか、少なくとも嫌悪感は抱いていないという事実を物語り、それが大きな政治的争点にはならない社会であることを。      

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ミスチル 2007.4.21

気分を明るくする歌もいいが、最近は傷つき悩める人の心模様に寄り添った泥臭いやつもいいなと思えるようになった。たとえ元気にならなくても勇気づけられなくても、あるがままでいいと思える力を与えてくれるから。それに気づかせてくれたのが時折傍でそんな歌を唄っている夫であったり、はたから見ると滑稽なほど調子外れだけど(ちゃんとソルフェエージュしたのになぁ)ノドちんこがちぎれるほど声を嗄らしてミスチルを唄う息子だ。(自慢じゃないが私の方が音痴だけど・・・)

人からどんなジャンルとか、誰が好きかとよく聞かれる。飽きっぽい私はいつも、そうねぇ、今は・・・と応える。そして今は、小さな声で「ミスター・チルドレン」と。おばさんがミスチルかよ、なんて言わないで欲しい。

大学生の息子が昨秋から引きこもり、不眠から情緒不安定になっていた。そのときミスチル浸けで過ごしたと、春休み帰省した彼がポツリポツリ語ってくれた。それが愛おしく、思い切り抱きしめてやりたい気持ちを抑え、息子の苦悩の片鱗を知りたい想いでその晩からさりげなく家族と猫でミスチルと付き合うことになった。

息子の共鳴とは別に、ミスチルの歌に、期せずして、歳月経ても相変わらず不器用なおのれがあぶりだされ、やるせなさをかみしめることにもなった。ミスチルは、なにげない日常の心の情景を切り取り、それにちょっぴり味付けした社会的背景を重ねて青春の漂泊する不安定さを映し出す。眩くもぶざまな心のひだを素朴な詩で紡いでく。それは世代を超えてそこはかとない情感を私によみがえらせた。息子がいなければ、そんなの振り返ることもしなかっただろう。

息子が帰京してちょうど2ヶ月経つ。ミスチルの声は私の心を揺さぶりつづけている。時折口ずさみながら、まだ神経過敏というか過剰反応から抜け出せない息子を遠くから見守るしかない切なさに涙がこぼれ落ちるときもある。そんなある日、息子から「教科書を買う金がない」というメールが入った。トンネルの出口がみえてきたのかなと、少し安堵しつつ今日も新曲「彩り」をハモっている。

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神様のツール    

2007.4.20

こぶしに似てはいるが、それをもっと複雑にしたメリスマ(古代ギリシャ語で歌という意味)という装飾的な歌唱法がある。一音節に装飾音符を付け、高音域をいくつもくぐらせるやり方で、楽器の装飾音演奏とは異なり歌手泣かせの技法とか。

あたかも陶酔感をもたらすので宗教的祭儀と結びついている。古代から連綿と受け継がれ様々なジャンルに派生し、オペラは勿論、現代ではロックやポップスにもみられる唱法だという。ジョン・レノン、マライア・キャリーとか、私が時々聴くセリーヌ・ディオンも採用しているとか。ゴスペル出身の歌手が多いのもうなずける。今話題の、甘く切ない揺れる心を歌うYUNA ITOもそれっぽい。

イスラム教のアザーンやアラブ歌謡曲にも脈打っているというので、昔モロッコで買ったテープを久しぶりに聞いてみた。確かに吸い込まれるような感じだ。いつか、離婚した友人が教会でゴスペルを唱うと、神の魂に触れ感泣するという話を半信半疑で聞いていた。しばらくして洗礼を受けたというたよりが届いた。理論家で通っていた彼女が、と驚いたことがある。

実際にグレゴリオ聖歌を聴く機会があり、やっぱり熱いものが頬をつたわり、ある種カタルシスにゾクッとしたことがある。自分は絶対ひっかからないとおもっていたのだが抵抗出来なかった。でも、神から見放されている私。そんな「私のためのとっておきの歌」がある。病気を治してくれるでもなく、愛の葛藤をほぐしてくれるでもないが、痛烈な傷でなければつかの間だけど「まぁ、いいか」という気持ちにさせてくれる。結局は、涙を流しとりあえず飲み込むだけの身も蓋もない話になるが。その曲も気づくとメリスマ歌唱法だった。秘密を知ってしまうと興醒めだけど御利益だけはしっかり戴いておこう。

神の啓示に便利なツールが教会に行かなくても、俗人でもおこづかいで買えるようになった。このツールがこれからどう進化していくのか判らないが、なみだで洗い流すこころの薬として売れ筋には違いない。

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ドラムと「お経」の関係          

2007.4.19

ローソクの炎、虫の音や風のそよぎ、川のせせらぎなど自然界の不規則性が心地よさを刺激してくれる。これは生体のリズムと同じで、「1/fのゆらぎ」といわれている。鉄筋コンクリート作りより年輪の不規則性を物語る木の家を心地よいと感ずるのもこのゆらぎとか。メカニズムのすべてが解明されているわけではないが、この世にあるすべてのものに存在するもので、人間そのものも常にゆらいでいることになる。その反応は、一人ひとり微妙にあるいは全く違う。欧米人と日本人ではその感覚が正反対というデーターもある。例えば、欧米人にはこおろぎの鳴き声は雑音に聞こえるそうだ。

誰にも通じるものがあるとしたらそれは音楽で、モーツアルトの音楽を聴くとα波が出てくる話は有名だ。頭がよくなるというと「にせ科学」になるけど。音楽の振動数のゆらぎが生体のリズムのゆらぎと同じなのでおのずとそのようにコンポーズされる。生命体が宇宙(自然)であるなら自らが「1/fのゆらぎ」の楽器となり、その揺らぎを醸し、身をゆだねる心地よさを奏でることができるということだ。それをドラムではグルーヴ(groove)感、または「こぶし」といわれ、常に要求される。「うねり」とかある種の高揚感とも共通する。

ドラムのレッスンで足と手のコンビネーション・パターンを繰り返す中で、今日やっとこさ、このグルーヴの境地を瞬間的につかむことができた。ノリに乗って、先生が合いのてを入れてくる。無我の境地というか、体とドラムが一体となり、手足や口までが勝手に動き脳みそまでがホファンファン?してたまらない。こちらがエンヤ・トットでいくと相手は別のこぶしで応えてくる。それをまた切り返す・・・。音符が自在変化していく感じでもある。アドレナリン全開って感じ。ルールがあるようでないのもいい。

ドラムの先生曰く、「お経」はグルーヴだと。ドラムの真骨頂は、聴く人を如何に心地よく眠らせることができるか。それに尽きると。確かに唱えるお坊さんは高揚感を覚え、信者を心地よい眠りに誘う。何とも逆説的であるが、グルーヴをつかんで腑に落ちた。

未だに曲練を一切せず、パターン訓練に明け暮れているが全然苦にならない。お坊さんの般若心経とジャム・セッションしてみたいものだ。いつかきっと眠らせてみせるぜ。あ〜、グルーヴに身をまかせる人生も悪くないなぁ。仏門に入ろうかな〜(笑)

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国の会計制度は家計簿とおなじ!

2007.4.22

最近、国や地方自治体の会計制度を現金主義から発生主義に改革しようとする動きがある。

税金の流れをどういう帳簿につけるか。私たちの生活とは無縁の話で、話題性に欠ける。しかし、これは国民の血税をどう使うかという問題と無関係ではない。国の夕張化や税金の無駄使いの可視化を阻んでいる要素のひとつが公会計制度でもあるから。

4月20日付けの朝日新聞によると、国の予算編成を官僚主導から官邸主導に切り替えるために自民党が発生主義で使用する複式簿記の公会計ソフトの導入を検討しているという。そもそも国や地方自治体の会計が、おこずかい帳とか家計簿とさして変わらないことには驚く。福祉、教育、防衛も含むインフラは、企業のように利潤を追求するわけではないので発生主義は必要ないという見地から採用されているとか。

雪だるま式に増えていく国の借金、債務超過は283兆円を軽く超える赤字財政、アメリカの双子の赤字に迫るものがある。民間であればとうの昔に破綻している。当然そのツケは次のそのまた次の世代に先送りされる。会計制度からも見直しは当然の帰結だろう。

なぜなら、単式簿記の家計簿やおこずかい帳だと現金の収支結果しか把握出来ない。現金以外の資産や資本、負債情報を計上しないので、例えば家計で必要なものがあるときや使いすぎた場合どう手当てするか、総合的に分析できない。この会計制度の財政だと増税や国債を発行して通貨を増発(借金)するなどして比較的容易に予算を組めるという。庶民だと便利なサラ金に走るようなものだ。
サラリーマンの源泉徴収制度が使途への無関心の原因ともいわれ、納税制度の改革や納税者の意識改革も必要とされている。 

一方、企業が採用している会計はバランスシート(貸借対照表)や損益計算書などの財務諸表のデーターをリアルタイムで財政全体を透明化し管理しやすいのが特徴だ。だから細部にわたる問題の所在や次の手を分析することができる。

公の会計制度として長短、問題点があるとすればどこなのか、詳細が分からないので一概にはいえないが、複式簿記の公会計ソフト導入は必要な気がする。ただ国民にもわかりやすい情報公開を原則としてほしいものだ。政権交代により、あの構造改革が実はグローバル経済を支える小さな政府作りだったということのないように、弱者切り捨て予算編成の便利な道具にはしてほしくないから。

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政治的な忖度(そんたく)

2007.2.2
安倍バックラッシュ内閣の少子・高齢化対策の本音(女の性は道具)というか、女に人権は無いに等しいことをバラしてしまった元官僚の柳沢さん。再チャレンジで、安倍さんから厚生労働大臣に指名された彼は、勝手に軽率な「忖度」(推察)をして先走ってしまった。何で謝罪しなければならないのかその理由が分かっていない二人の深謝はなんとも滑稽である。「不快」感だけで片付ける自民党女性議員はもっと情けない。これは皇室の世継ぎ対策の本音でもある。雅子さんに男子を期待する安倍、中川(昭)両氏も同じ穴のムジナであることがはっきりした。

奇しくも、29日にはNHK番組「女性国際戦犯法廷」改編事件裁判の控訴審判決の言い渡しがあり、VAWWネットの主張がほぼ認められた。この事件のキーパーソンが同じ安倍、中川両氏である。NHKの期待権(信頼利益の侵害)、説明義務違反を不法行為と認めるかどうか、その上で二人の政治介入がどう判断されるかが争点だった。判決では、政治介入は認められなかった。しかし、彼らの「中立・公平に」という発言をNHKが政治的圧力と「忖度した」と認めている。この「忖度」にはNHK側の勝手な推察(過剰な自己規制)という意味合いが見て取れる便利な言葉である。

新聞には書かれていなかったが、実際には当時、彼らは歴史教育を考える若手議員の会や日本会議国会議員の会で、日本軍性奴隷制を否定していた。NHKにその持論を伝えたうえで、中立・公平に報道すべきと一般的なコメントを付け加えたという。当時の背景を勘案すれば、たとえ番組に対して、具体的な話や示唆をしたとまではいえなくとも間接的介入になったのは誰の目にも明らかである。夫曰く玉虫色の「政治的判決」。権力のトップに矢を射るのだけは避けたかったということか。

「よきに計らえ」は圧力を忖度させる権力行使である。政治家や官僚の打ち出の小槌である。細かい指示は一切必要ない。裁判では、この具体的な指示の事実が在ったかどうかが争点になる。今回も「よきに計らえ」の「忖度」に、してやられた。

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核平和利用のパラドックス

12.11

自民党議員たちの核兵器保有発言がうやむやになり、政府は議論すれば矛盾が露呈してくるからだろうか、相変わらず核三原則に変わりはなく、議論する必要はないと無言のまま沈殿を狙っている。

またしてもいつの間にか肝心な「核のカタストロフィー」という問題が曖昧になっていく可能性が高い。残ったのは外からの脅威論だけ。脅威の正体の論調はいつもワンパターンでやってくる。今回も、拉致事件の首謀者、何をしでかすかわからない独裁者金正日像、隠し撮りで垣間見る飢餓、貧困、人権侵害等の映像、はては体制転覆のシナリオ等を一方的に垂れ流すメディア。こうした悪意に満ち一方的な蔑視と恐怖でねじれた「北朝鮮観」が核武装の脅威を必要以上に増幅させる。なぜ核実験をしたのか、南北コリア側の歴史・国際関係等背景も考慮した客観的な情報が的確に伝わってこない。 かたや自民党議員たちの発言の意図は過去の文脈からして「憲法は戦争を否定しているが、核保有は禁止していない」の延長線上にあるのは目に見えている。

だからといって反核・平和運動の一部にある、よい核(平和利用)と悪い核といった二項対立的な「核兵器廃絶」論にも与せない。何故なら、「原発」を避けて「核兵器廃絶」を語るということは、たとえ原発・核燃再処理の危険性には言及していたとしても問題の核心をはぐらかし、解決に向けた模索を放棄したに等しいからだ。我が国のエネルギー政策(平和利用)が、いつでも核兵器保有に転用可能な「原発・プルトニウム体制」であり、それが国策であるという視座は登場してこない。本来私たちが立ち向かうべき問題の所在はそこにあると思う。

平和利用に潜むパラドックス

わたしの偏った拙い判断であるかもしれないが、その危険性を瞭察し「憲法9条の下で着々と核武装化は進んでいる」と、警鐘を鳴らし続けている運動家や科学者がいることに注目したい。

それを裏付けるかのように「1993年イギリスの国防省は『日本はプルトニウムを組み込むだけで完成する核弾頭を生産した』という報告を内閣に出している」(槌田淳「食品と暮らしの安全」No.211) また、世界の核物理学者は「核の平和利用と軍事利用の技術は同じで、それを支える基盤は、同じ核物理学、科学技術研究、化学工業、経済的資金、そして事実上同じ組織で同じ政府機関に属している(『核拡散と原発』大庭里美)」と警告をしている。

たしかに世界の核事情をみると、どの国も核保有の近道・迂回路ともエネルギー・ルート(平和利用)をたどってきている。日本の場合も転用は数ヶ月から一年以内で可能とか。つまり平和利用のみを目的にしていることを宣誓しさえすればあとはフリー・ハンドになり、核武装するかどうかという決定は、全面的に国家の指導者に握られることになる、とインドの核物理学者ガディガー博士が、著書「エネルギーから兵器への道」で鋭く展開していると大庭里美は指摘している。もはやCTBTもNPTもIAEAも核の歯止めにはならない(南アフリカが秘密で核実験をしたとき IAEAの150人の査察官はだれひとり気づかなかったそうだ)。国際社会は核の無法地帯でもある。北コリアも例外ではない。しかし、今回の実験で使用されたプルトニウムは「純度が低く、爆発装置が巨大になり巨大ミサイルをしても運べない不完全なものとか。

一方日本は、結論からいうと、プルトニウム計画は必要エネルギー規模を超えている。「高速炉『常陽』『もんじゅ』から生産されたプルトニウム239は純度98%で兵器級のもので核弾頭30発以上に相当する量を保有している。」(槌田淳「食品と暮らしの安全」No.211)。さらにイギリスとフランスの再処理工場で委託処理した使用済み核燃料から抽出された日本のプルトニウムは計40トン以上も余っている(11月1日付朝日新聞)。原発がある限りこれからも増えていく。

核処理は死のチェーン

天然には存在しないプルトニウムの猛毒性については周知のとおり人知ではコントロールできないといわれている。わかりやすく言うと、角砂糖一個分のプルトニウムで日本全土の人が殺せるという。

例えば、原発から出た使用済み核燃料を処理する六ヶ所村再処理工場から排出される一日分の放射能物質量は原発1基の年間排出量(年間47,000人の経口致死量になることは日本原燃は認めている)に相当するといわれている。その放射能物質は、基準や法律がないということで工場から太平洋に向かって伸びている長いパイプを通り海に垂れ流す構造になっている(映画「六ヶ所村ラプソディ」)。海が希釈してくれないことは英・仏再処理工場近辺の海が汚染され、住民や環境に被害が出ているのを見ればわかる。危険性、経済性から英・仏では再処理工場の閉鎖が予定され、核燃再処理撤退は世界の潮流となっている。再処理だけではない、今の核処理技術ではどの過程でも高レベルの放射能廃棄物排出は免れない死のチェーンと呼ばれている。(大庭里美著「核拡散と原発」)

原発災害はブラック・ボックス

現在日本の原発依存度(供給量)は36%といわれ、活断層だらけ!の国土に54基が稼動、4基が建設中。もはや原発エネルギーは私たちの生活に必要不可欠なものになっているかのようにみえる。北コリアの実験後、電気事業連合会はタイミングよく朝日新聞一面に大きな広告を掲載していた。「85年後にはウランもなくなる」と電力資源インフレと核再処理推進を暗示し、原発の電気はCO2を排出しない「クリーンで安全なエネルギー」と原子力エネルギーの平和利用を高らかに謳っていた。そういえば最近、夜間料金(電気は貯めておくことはできない)を適用したオール電化生活はガスより安く、安全できれいだと消費を促す宣伝が新聞やTVでよく流されている。その為か、新築・リホームでオール電化システムを導入する家庭が増えていると聞く。

しかし、こうした安全神話の一方で、東海地震で活断層のすぐ傍にある浜岡原発は暴発するだろうと予測されている。スリーマイルやチェルノブイリの被害を考えるとミサイル攻撃されると同じぐらい怖い話ではないか。それに加え、昨今の電力会社の事故隠しを考えると生きた心地がしない。

そもそも私たちは原発や核処理事故によってどのような災害が起こるのか、どのように対処すればよいのか何も知らされていない。原発については、「国や電力会社は大事故を否定できないからこそ過疎地に建設し、万一に備えて原子力損害賠償法で電力会社は300億円を保険で準備することになっている。それを超える被害は国が対処する旨が定められている。その上、事故の原因が巨大な天災地変または社会的動乱の場合は電力会社の責任は問われない」(瀬尾健著「原発事故」)

脱原発社会の実現可能性

例えば、この原発を全部廃止したら私たちの生活はどうなるのだろうか。京大原子力実験所原子力安全研究グループの専門家のシミュレーションがあり、なんと90年代始め頃の生活レベルにしか戻らないそうだ。化石燃料「可採年数推定値」はむしろ年代毎に更新され増えており、石炭や天然ガスにいたっては1000年分の消費量をまかなえると推定されている。但し、脱浪費が前提。むしろ原子力の資源であるウランの方が石油や石炭に比べ少ないそうだ。

発電設備量から見ると原発は全体の18%で、原発の稼働率を上げるために、火力発電所のほとんどを停止している状態。つまり発電所の半分以上を停止せねばならないほど余っている。既存の火力・水力の合計発電量で今までピーク時の電力需要量がまかなえなかったことは一度もないという。これらの試算は「脱原発社会」がユートピアでないことを証明している。むしろ持続可能な社会をめざそうとするならば願ったり叶ったりの選択でもある。実際、欧米諸国は次々撤退・凍結・代替エネルギーなどへ見直しをしていると聞く(但し、最近ブッシュとブレアの国では再び原発推進の方向へ転換しようとしているが・・・・・)。

すべての核を廃絶へ

こうした核平和利用のパラドックスの上に成り立つ「原発・プルトニウム体制」は憲法9条、核三原則の空洞化危機に等しいと考えざるを得ない。そもそも原子力政策という重大な問題については国民投票という方法で決めてもらいたいもんだ。

エントロピー論研究家の槌田淳氏は、突如国民の前に核武装の事実が示される公算が大きい、反核・反原発運動のタブーを乗り越え、今こそ国民全体で議論しなくてはと警告している。「脱原発社会」を提言していた市民科学者故高木仁三郎さん、昨年2月志し半ばで急逝された「反プルトニュウム・アクション・ヒロシマ」の代表大庭里美さんも同じ思いであったろうことをその著書から深く首肯した。また、孤立無援をものともせず、「すべての核を廃絶へ」というたぎる思いを詰め込んだ「ヒロシマの理念」をここ広島から世界へ果敢に発信し続けていた大庭里美さん。そのアピールが地元よりもむしろ世界の反核・反戦運動で評価され活かされていることも。

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女性への暴力追放が「国策」に
きのうの朝日新聞朝刊は久しぶりに私を元気にしてくれた。その記事とは、フランス社会党大統領候補に指名されたフェミニストであるロワイヤルの演説要旨。オランプ・ド・グージュの言葉も引用している。

オランプ・ド・グージュはフランス革命の2年後、「人権宣言」は人間=男市民だと批判し、女にも人権をと提起。そして革命の側の男たちからだけでなく女からも嘲笑され無視され反革命の罪で断頭台の露と消えた。

それから200年後、フランスではフェミニズムが魔女の論理ではなくなり、やっと女性への暴力を国民的議論の中心に据えることが可能になった。バック・ラッシュの嵐がとどまるところを知らない日本が如何に世界の潮流から遅れているかを思い知らされた。

とはいえ私たちのエスポワールを膨らませてくれたことは間違いない。当選したらまず女性への暴力追放に関する法案を議会に提出することを公約し、「ある社会が正しいか不正かは女性の地位と相関関係にある」と述べるロワイヤルは、男たちからガラスの天井を突き破ったといわれるサッチャーやライスやメルケルのような男以上に男社会を体現する女とは思えないから。
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議論は義務 11.23
非核三原則「議論」、つまり核武装「議論」について、反対派は反対、賛成派は賛成。いつも結果は見えている。賛成派は既成事実を作るため。反対派はそれをやられたらおしまいと考えているからだろう。いずれにせよ戦略的には悩ましいことではある。

先日朝日新聞のインタビューで、辻元清美(わたしは彼女のファンなのだが)が核保有について次のように発言(一部)していた。「非核三原則は日本の国是であり、政策を法案で変えたり国会で議論するような話ではない」「核保有論議は机上の空論」と。確かにそうだけれど、むしろ「非核三原則」の方が机上の空論に変貌してきている。だから議論無用論の方が危険ではないか?

私は、たとえ自明のことであっても、国民的な議論の過程が必要ではないかと考えている。議論論争で漁夫の利を得るのは安倍首相。だから議論する必要はないとほくそ笑んでいるのではないだろうか。清美さん、やっぱりここはぎりぎりまで議論が必要だよ。ここで議論を止めたら日本の核が平和利用から軍事利用へ明日にでも転用可能段階にあるという危機感は伝わってこなくなってしまうではないか。もっと原発・プルトニウム体制の警鐘を鳴らしてほしい。国民に届くのはいつも脅威論と黒塗りか真っ白に塗りつぶされた安全情報ばかりなんだから。

たとえ多数決民主主義が限界の面を持っているとしても、それをきちんと機能させていく条件は、やはり時間をかけ議論を尽くすことだと思う。民主主義(自分のことは自分で決める)はおまかせでは機能していかない。私たちは議論するという相応の負担(義務)を負う。手間・ひま・金がかかるもんだ。なぜなら、多様で比較不能な価値観とどう折り合うかが決め手の制度だから。多様な価値観がある社会ではどうしたって不利益をこうむる人が出るのはある意味仕方ないことでもある。そうした時、丁寧な議論を経ることにより人は様々な形で過程の結果として受け止め、民主主義が少しずつ根付いていくのではないかと思う。この過程を共有できなかった時間だけ時代は後戻りしていくのかもしれない。
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おが登場! 8.3
「こだわりにこだわる」番外編
加納さんはプロの大学教員である。知らない人はこだわって当然と思うであろう。しかし、世間的にはそろそろ引退してもいい時期の65才。今も次々と問題点を引き出しては徹底追及の手を決して緩めない。何がそんなに面白いのか。それがフェミニスト的好奇心からくるものであることが理解できたのは自分の体験からであった。

私は以前、「男」で失敗した。一時期フェミニストであることにこだわることの無力感すら感じたこともあった。フェミ自覚歴たかだか5年、知識も認識もなかった「遅れてきた中年フェミニスト」の私。闘うリベラリスト、チョムスキーも言っているではないか「戦後確実に世の中を変えてきたのはフェミニズムだ」と。私はこの言葉を信じていた。しかし、本来楽しみでもあるはずの知的好奇心が、どうやら焦りとなり、なかば理論武装のためだけの知にいつしかすり替わり、もがいていることに気付いたのだ。方向性を見失ってしまったのだ。

誰を仮想敵にしたかったのだろう。どんな女でも身体性から解きほぐすと少しは理解する。しかし、確信犯的に途轍もなく厚い壁として私の前に立ちはだかるリベラリストを自称する男たちの論理は私の力ではどうにもならない。そのうち2人は頑張れ、と応援してくれた。どの男も我が家で奴隷を抱えながら「奴隷解放」を称えるリンカーンのような男たち。もう一人の確信犯の男を支えているのが同じ自称フェミニストの仲間であることも知った。

この人たちはダブル・スタンダードの世界に生きていることを自覚しようともしていない。そりゃそうだ、男性同盟は男同士にとってもダブル・スタンダードが自明の世界だ。女は当然コミットしようものなら、たとえ男同士でも自分の首を絞めるような不様な姿を晒す世界だ。そこを認識しない無謀なフェミニスト(女)は無意識に男に媚びを売り、ますます男性化し男の権威を内在化していく。男のチア・ガールになり、男達に女たちの首をじわじわと締め上げさせる。糸の絡み具合はあるにせよ、その構図が教科書どおりというか、単純明解なことが何とも面白かった。

上野千鶴子や辛淑玉がオヤジ達に「そこどいてよ!うちらがやるから!」と言う意味がよくわかった。どんな女も男性同盟の同心円の外にいることも。シスターフッドが男を真ん中に挟まないことも。男、とりわけリベラル思考の男の応援ほど「女」を骨抜きにすることも。これらの分析はフェミニスト的好奇心が導いてくれた。

フェミニスト的好奇心の対象はどこまでいっても「男」がつきまとう。
フェミニスト的好奇心は性から国際政治、軍事問題までカバーする。

わたしは特定の男を卒業しただけのことである。私はこれからも自分なりに加納さんやタカオさんの「こだわりにこだわる」にあやかりたい。彼女らのあしもとには到底及ばないが。

後記:先日ミニ・ライブでお知り合いになった真女織さんの名前もアルファベットにすれば私の名前と同じ「YORIKO」。ヨーロッパでは真女織ではなく「YORIKO」で活躍されています。世界中に響きわたれ「YORIKO」の世界!ひろしまRAAホット・ラインが終わったらデオデオにCD買いに行きます。「f」で流しますね。みなさんお茶飲みに寄ってらしてね〜。
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