こうして無為に時間が過ぎてゆくのだ、と、遠い昔に誰かが言った。
 言葉はメディアという活字や音となって人の間を漂い、消費されては消えてゆく。一部の人には強く残り、大多数の人たちにとっては空気と同じくらい身近にあってどうでもよいものになる。
 どこかで読んだのか見たのか忘れながらも、頭の片隅に引っかかるようにして残っていながら、言葉の意味を深く考えるでもなく実感があるわけでもなく、ダラダラと年齢を重ねていく自分がここにいる。
 無為というよりも、時の流れは私を無視しているように、昨日も今日も、そして明日も淀みなく流れていくだろう。それは大河の一滴にも満たない私の存在を押し流す潮流となりながら。
 だけど、流されるがままになっているからといって必ずしも無駄な時間を過ごしているとは思わない。与えられた時間の全てを有意義に使い切ったという断言もできない。
 目に映る人々はそうやって流されている。ランドセルを背負った小学生も、背中が曲がったおばあさんも、色あせた背広を着たサラリーマンも、パワーショベルを運転する作業員も、みんなみんなそうやって生きている。
 どことなく宙ぶらりんで、足がついていないのに何となく前を見て、誰も見ようとしないから自分も後ろを振り向かない。そんな右へならえの教養で染められた私たちに、踏みしめるべき大地なんてあるわけなかった。
 いつも中途半端で、だけどそこから抜け出せなくて、みんな感じているのにそのままでいいやと投げ出してしまう。
 投げ出してもどこにも行けず、そうやってひとはあきらめを覚えて、もがくのをやめていく。
 だけど……、と思う。
 そんな人たちがある日突然、もう一度あがき始めたら?
 そして私もその一人だったら?
 私のなにかが変わるのだろうか。
 そんなこと、明日になってみないとわかるわけがない。
 だけど、たとえ次の日が来ても、私にとってはいつまでもやってこない未来のままなのだろう。私の明日はあっというまに昨日に変わってしまう。
 黒というの否定の色さえ存在しない狭い世界に小さな希望があるのだとしたら、私の手に触れるまで私は腕を伸ばし続けるだろう。
「動けない今」という絶望の縁に立ち、先の見えない暗闇をにらみつける。
 届かないものに手を伸ばし、たとえ空を藻掻いていても、暗闇の深さに視界を奪われても、届くと信じ続ければきっといつか願いは叶うはずなのだから。



















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