7 : Tommorow never Knows


 夢を見た。
 闇はどこを探したって見つけることができない。
 普通の人が普通に見るような、甘い霧に包まれた儚い夢。
 日暮れ時に私と碇君が並んで歩いていた。二人とも時折、笑顔を見せ合いながら学校からの帰り道を歩いていく。
 私は軟らかい表情で碇君の話に相づちをうちながら、時々くすくすと笑いを漏らす。
 その後ろから惣流さんが面白くなさそうな顔でついてくる。
 しばらくつかず離れずの距離を置いていた彼女も、しびれを切らして走り出す。そのまま追い抜く瞬間にバチンと碇君の背中を思いっきり引っぱたいた。
 碇君が不意打ちに息を詰まらせてよろめく。でも惣流さんは数メートル先で振り返り、
「シンジのバカヤロー!」
 と叫んで走り去ってしまう。少しだけ泣いているようで、それでも彼女は笑っていた。
 私と碇君は互いに苦笑し合いながら、また歩き出す。
 やがて来る終わりの時。
 丘の上で私たちは挨拶をして互いの道を歩き始める。
 彼が背中を見せた瞬間にヒュっと風が短く鳴り、世界から音が消えた。間をおかずに世界も全てが吹き飛ぶ。でも周りに広がっていたのは、闇の存在も感じられない本当の虚無。
「これはあなたの思い描いた幻の世界。願いや祈りが作り上げた虚構の未来」
 小さな私が後ろに立っていた。私は振り返って向き合う。
「私は夢を見ているのね」
「わかるの?」
「もう二人とも私の側にはいないわ」
「遠ざけたの? 他人が怖くて仕方ないの?」
 そうじゃない。
「怖くても、逃げてるだけじゃだめだから。私はもう歩いてきた道をまっすぐ進むつもりはない」
「幸せは見つけられた?」
 わからないわ、と答えてから首を振った。
「でも幸せって何か、すこしだけわかったような気がする」
「そう。だけどそれを自ら捨てたのはあなた自身」
「…………」
「一度でも幸せの切れ端が見えたなら、もう大丈夫。だってほら」
 そう言って小さな私が背後を指さした。
「もう、氷は溶けてるじゃない」
「え?」
 戸惑いながら振り返る。
 色とりどりの美しい塊が一面に転がっていた。
「ほら、太陽はあなたの中にあったでしょう?」
「…………」
「全部集めるのは大変だけど、それは今まで捨て続けてきたあなたの責任」
「そう、ね」
 そう言いながら、地平まで続く色彩の平原を見ていた。
「さよなら。もうここへは来ちゃダメだよ」
 彼女はそう言って虚空に消えていった。
 不意に世界が幻の世界へと巻き戻る。
 再び蘇る、遠くの風が吠える声。傾いた太陽の眩しさ。伸びる影たち。
 背を向けた碇君が私からゆっくりと離れていく。
 ぼやけていく世界の中で、私の頬を一筋の雫が伝っていた。



 冷静に振り返ってみると、始まりから終わりまで一週間にも満たない短い時間だったのだ。
 目の前に積み重なる小さな出来事を片付けているうちに、時は容赦なく過ぎてしまったけど、振り返れば死者を悼む暇すら持てなかったんだなってことは、ずっと前から気が付いていた。
 自分で意識的に忙しく動き回ることで、頭を空っぽにしていたかった部分もあったけど、心身共に落ち着いて考えられるようになってくると、彼らを思い出すよりも早く時間が過ぎ去っていたことにも気付いてしまう。
 時の流れはやっぱりこうやって奔流のように流れていくのだ。
 あれから過ぎてしまった時間をぼんやりと思い出す。
 今は片手で数えられる過ぎてしまった日も、やがては何人集めたって数えられなくなるくらい過去の出来事になってしまう。時計の針は右にしか回らず、それでいて誰にも平等だ。
 惣流さんの死は世間に大きな衝撃を与えた。トップアイドルの影響力を物語るような後追い自殺が何人も出て、ただでさえ突然の訃報で混乱している私たちの周りは、火に油が注がれたような大騒ぎになり、おかげでマスコミがいつでもどこにでも気がつけばこっちを見ているような状況がしばらく続いている。
 おかげで私は一気に世間に知られ、日本一有名な紅目の女の子になってしまったけど、冷たく接していたおかげでマスコミも今は遠巻きに私を見るか撮るだけになっていた。
 そんな騒ぎの陰に碇君の死は隠れた形になったので、甘んじて現状を受け入れることにしていた。
 結局、碇君は惣流さんを連れて行ってしまったけど、惣流さんは一人どころか大勢を引き連れて行ってしまったわけだ。
 迷惑な人だな、と思うと少しおかしかった。
 後追いを生んだ彼女を責めることはできないし、そのつもりもない。
 芸能の関係者には疲労で数日休むと連絡した矢先の出来事だったので、彼女の自殺は過労の蓄積によるストレスというのが一般的に広まった理由となっていた。
 プチッと頭の冷静なところが数本まとめて切れちゃったんじゃないかな、とインタビューを受けた別の街の高校生らしい女の子がテレビで喋っていたの見たことがある。同じように考えている子は大勢いるんだろうな、と思って見ていた。
 確かに疲労もあっただろうし、ストレスもあっただろう。しかしそれは仕事のせいではない。かといって彼女と親しかった人間は本当の理由を世間に流布するつもりもないので、これが終わりの形としては一番いいのだろうという気がする。
 碇君のことは当然ながら一部のマスコミに知られるところとなった。しかし大きな騒ぎにはならなかった。彼と惣流さんの仲を知る人間は誰一人として口を頑なに閉ざし、誰も一言すら喋らなかったからだ。様々な噂は噂のまま流れていったけど、数日のうちに立ち消えになってしまった。
 一年後、どれだけの人が惣流さんのことを覚えているだろう。ほとんどの人は忘れ、話題に上らない限り思い出せもしなくなってゆくのだろう。
 死んでしまった人たちが必死に生きていたことを知る人間は、少なくなっていくだけで増えることはない。
 それでもいいと思う。
 それが人間という生き物なのだから。
 だけど私は忘れない。惣流さんが残した最後の電話の言葉達は、私に向けた遺言であると同時に課した十字架でもある。
「綾波さん」
 振り返ると洞木さんが早足でこちらに向かっているところだった。彼女は私の手元に目を落とすと、
「二人のところ?」
 と言った。小さく頷くと、
「そう。なんの花?」
 名前を教えると、なんでそれなの? と彼女は不思議がった。
「花言葉で選んだから」
「ああ、なるほど。意味は?」
「永遠」
「いいんじゃないかな。アスカも喜ぶよ」
 洞木さんは少し俯きながら言った。
「でも綾波さんは強いね」
「え?」
「私なんてまだ心の整理ができないから、行こうって気にもならないの。ダメよね、時間は過ぎてるのに一人だけ後ろ向きでうじうじ湿っぽくて」
 彼女は私と惣流さんの間になにがあったのか正確には知らない。しかし洞木さんは洞木さんで抱え込んでしまった負担はきっとたくさんあるのだろう。笑おうとして泣きそうな顔になる彼女の横顔を見ながら、私は目を細めて言った。
「私も強くない」
 人の死なんて前なら心に響きもしなかった。今は心が悲鳴を上げようとも、肩の上にどっかりとのしかかる重荷を背負ってでも前に進まなければ、という義務感に突き動かされているだけだ。
 強くなったわけじゃない。強いフリをして自分も他人もだましているだけ。
 言えずにいると、洞木さんは軽く笑った。
「アスカたちによろしくね。私もきっといつか行くからって伝えておいてくれる?」
「いいわ」
「ありがとう。それじゃまた」
 彼女はさっきと同じように早足で、私の目的地とは違う方向へ歩き去っていった。
 たしかに義務感でも突き動かされている間はマシなのかもしれない。
 動けなくなってから重みに耐えかねて潰れてしまうよりは全然いいことなのだと思う。
 こんなとき、碇君なら私にどんなことを言ってくれただろう。
「さあ、僕に聞かれても困っちゃうなぁ」
 頭に浮かぶのは、苦笑いしながら頭をかく彼の姿だ。困っているのか面白がっているのかよくわからない、なのに憎めない柔和な顔。そしてその隣に惣流さんがいて、私に勝ち誇った顔を向けている。
 彼女は碇君の腕に絡みつきながら、今まで見たどんな時よりも輝きながら笑っていた。
 それでいいんだと思う。
 惣流さんが残した声は最後に私が受け取ったのだから。碇君が残してくれた私への想いは心にしっかりと残っているのだから。
 彼らは共に眠っている。惣流さんの最後の願いは、碇君と一緒に、だった。
 私は人気のない墓地で二人が一緒に葬られた霊前に立つと、そっと麦わら菊の黄色い花をそっと手向けて手を合わせた。
 惣流さん、幸せなんでしょう?
 当たり前よ、と元気な声が今にも聞こえてきそうだった。碇君の名前と、惣流さんの名前が書かれた婚姻届を棺に入れたのは彼女の母親だ。
 私にそれを見せながら、
「構わないわよね?」
 と静かに訊ねた、彼女の母親の見せた表情を今でも忘れられない。本当はあの子達が結ばれるようなことがあったら、私が使おうと思ってたんだけどね、と彼女はいいながら惣流さんの白く冷たい頬をそっと撫で、紙を顔のすぐ横へ置いた。
 でも碇君の気持ちはどうするつもり?
「バカね、力ずくで私を振り向かせるに決まってんじゃない」
 すぐ近くでフフンと彼女がふんぞり返っているような気がする。
 私はもう一度、手を合わせて洞木さんの言葉を伝えてから立ち上がる。
 また来なさいよね、と彼女の声が聞こえる。
「あなた達が残したものが私をどう変えていくのか、そこで見守っていて。自分でわかるくらいに変わることができたら、きっとその時に会いに来るわ」
 太陽の下、きらきらと輝く二人の名が刻まれた御影石が私の声を聞いていた。



 葬儀の日、死者を送る列に並んでいたとき、ずっと頭ではベッドに横たわる碇君と、血まみれで微笑んでいた惣流さんの最後の姿がぐるぐると回っていた。
 涙は出てこない。
 表情を消して、二度と感じることはないというほどの胸の痛みを隠しながら彼らを見送った。人はこれほど哀しくなれたんだと自分で自分に驚くほど、底辺に突き落とされたような気分に陥っていた。
 でも他人には黙って突っ立っているようにしか見えなかっただろう。幼い頃からの私のあるべき姿と何一つ変わっていなかったのだから。
 あの冷徹女は人が死んでも顔色一つ変えないのか、とあからさまに非難する声もあった。なんであいつがここにいるんだよ、と思っていた人はきっと多かったに違いない。
 それを私の隣で聞いていた鈴原君がキレかかっていたのをなだめていたのは相田君。
 事情も知らないくせに、と思っていたのは相田君も一緒だった。
「お前がキレたら俺は怒ることもできないじゃないか。俺までプッツンきたら誰がお前を押さえてくれるんだよ」
 鈴原君は憤然としながらも「すまん」と彼に言って、私にも「堪忍してや」と小声で謝った。
 ありがとう。
 私も小声で返した。
 二人とも碇君だけでなく惣流さんまで向こう岸に行ってしまったことで、言葉に出しては言わないけど大きなショックを受けているのは明らかだった。出棺を三人で見送りながら、相田君が、
「どうして惣流まで死ななきゃならなかったんだろうな」
 と呟いたのを聞いていた。
 私が言わなくても彼らは理由を知っている。それでも口に出して言わなければならないほど、心の中にたまってしまったものは大きく深いということだ。
「好きで好きでしゃーなかったんやろ」
「そうね」
 私も鈴原君に頷く。人の言葉を聞くことで、受け入れることで埋まる隙間もある。
「あーあ、俺もまだまだだな」
 相田君が藪から棒にそう言って両手を突き上げ伸びをした。
「なんや急に」
「俺、惣流が好きだったんだよ」
「マジか」
「マジ。でも惣流がシンジの後を追ったって知ったときさ、悲しいというよりすげえなって思ったんだよな。俺は惣流が好きだったけど、命を投げ出すなんて考えられないもんな」
 ただ後追いはもちろん褒められたことじゃないぞ、と相田君は念を押す。
「そこまで人は人を好きになれるんだ、ってわかったよ。俺なんかまだまだ、好きっていうより憧れてたんだなって気付いて別の意味でもショックだった。惣流は尊敬できるくらいすげーヤツだったと思う」
 私も鈴原君も黙って頷いていた。
 そういう相手に出会えたことも彼女にとっては幸せだったのかもしれない。
「まあ、シンジも惣流の気持ちは全部わかってたんだろうとは思うよ」
 そう言って相田君は私を見た。
「それでもなお、シンジは綾波を選んだわけだ。シンジもすごいヤツだったってことだよな」
「二人とも生きとったら今頃、ドロドロの昼ドラみたくなっとったかもなぁ」
 相田君がスパーンと鈴原君の頭を叩いた。
「何すんのや!」
「場所を考えて言えよ」
 そう言いながらも相田君の目は笑っている。
 彼らは大丈夫だ。乗り越えていける。
 突然、心の底からそう思えた。
「そうだ、綾波。前にあげたディスクはある?」
「今は持ってない」
「いや、捨ててないかどうかだけ。あればいいんだ」
 トウジ、と相田君は一人になってしまった残った親友の名を呼んだ。
「ちょっと綾波に話があるんだけど、外してもらっていいか?」
「そないなときは、向こうにいけドアホ! でええんや」
「誰が言うんだよ、そんなの」
「うちの妹や。酷いやろ」
 笑いながら、ほなお先に、と鈴原君は祭場の外へ出て行く。
 相田君は彼の後ろ姿を見つめながら、
「あいつの妹さん、二年前に死んでるんだ」
 と呟いた。
 不意に思い出す。タクシーのなかで彼は妹の存在を過去形として語っていたのを。
「あの時もあいつ、かなり参ってたけどね。今回は俺の番だな」
「大丈夫?」
「たぶん」
 苦笑いを浮かべながら、トウジは強くなったよ、と相田君は言った。
「で、さっきの続き。あのディスクさ、実は学校の端末で再生すると隠しトラックが見えるようにしてあるんだ」
「え?」
「綾波はまだ普通のプレーヤーでしか見てないだろ?」
 確かに私が使ったのは父親の残したテレビと備え付けのデッキ。
 私が頷くと、相田君は私の目を見て続ける。
「パスワードがかかってるんだけど、学校の端末じゃないとパスワード入力の画面すらもでないようにしてある。その様子だとまだ見てないよな」
「ええ」
「俺は実はそこはまったく触れてないブラックボックスの部分なんだ。シンジが直接作った部分で、パスワードもわからない」
「碇君が?」
「ああ。最初からあれは綾波に見てもらいたくて、シンジに頼まれて俺が編集したやつなんだよ。言葉で説明するより、ビデオ見て貰ったほうが早そうだから、ってシンジがね」
「でもパスワードは碇君しか知らないんでしょう?」
「まあね。でもヒントは俺も知ってる」
 相田君はニヤリと笑った。いつか見た、あの時と同じ顔だった。
「ヒントはシンジの大切な人さ。いやー、さすがに誘惑が強くて良心との葛藤は、それはもうスペクタクルロマンになりそうなくらい激しい戦いだったよ。でも綾波に渡せたときはホッとした。やった、俺はついに自分との戦いに勝利したぞ、なーんてね」
「…………」
「本当はシンジが自分の手で渡したがってたものだから、その時にネタばらしは自分でするつもりだったか、自分でパスワードを打ち込むつもりだったんじゃないかな。綾波に渡したのはコピー。マスターはシンジが持って行ったから永遠に闇の中。あいつんちの家捜しでもすれば見つかるかもしれないけど、まあ、そういうわけさ」
 相田君は最後に真面目な顔をして言った。
「あんなに自分を好いてる惣流を振り切ってまで、綾波を本気で想ってたバカの覚悟も、たまには思い出して欲しいんだ」
 手を振りながら、外で待つ鈴原君の元へ歩いていく彼の背中を黙って見送った。
 碇君は親友を間違わなかったわけだ。遠ざかっていく二人を見ながら、そんなことを感じていた。



 相田君のくれたディスクを学校用の端末のドライブにセットしてみると、確かに一部の映像ファイルからはプロテクトがかかっているという文字が画面で点滅していた。
 パスワードのウィンドウで、少しだけ迷ってから、『ASUKA』と打ち込んだ。
 エラー表示。
 軽く躊躇いながら『REI』と打ち込む。プロテクトはあっさりと全解除され、画面いっぱいに碇君の顔が映し出された。
 たったそれだけなのにぎゅっと胸が締め付けられたみたいな気持ちになる。
 たまらないくらい嬉しかった。同じくらい辛かった。
 ビデオを止め、端末をテレビにつなぐ。
 大写しになった碇君の顔が、もう既に懐かしいとさえ感じられてしまう。
 哀愁を感じるのはまだ早い、そう自分に言い聞かせながら映像を再開させた。
「えーと、これを綾波が見ているってことは、きっと僕がネタばらしをしたあとだと思います。ていうか、それ以外に見てるわけがないよね。未来の僕は、綾波の隣にいる? ははは、いるわけないか。だって僕だし。見るの恥ずかしいって言ってたぶん逃げてるかな?」
 碇君は自分でセットしたカメラに向かって喋っているらしく、顔が画面の中心から少しずれていた。それはそれで彼らしい気もした。
「えーと、とにかく僕は君に告白したあとだと思います。で、これを見てくれてるってことは悪い返事じゃなかったんだろうね。未来のことだからどうなってるのかよくわかりませんが、とりあえず長々と喋ってもしかたがないので、僕の編集した映像を見てください。僕が上手く言えないこと、気持ちの部分をなるべく切り取ったつもりです。それじゃあ、未来の僕によろしく」
 彼がそう言ってカメラに手を伸ばしたところで画面が切り替わった。
 一年生のときの教室が映っていた。席順から、季節は夏頃だということもわかる。
 碇君が画面の中心にいた。プロテクトされていない同じディスクの映像と何かが違うようには思えない。前と同じ、彼の一部分を切り取って残してある映像のように思える。
 なにが違うのだろう?
 考えているうちに次のシーンに切り替わった。
 クラスマッチだろうか。女子のバレーボールを撮影しているようだったけど、誰かをピックアップしているわけでもなさそうだった。そしてすぐにカメラは碇君にフォーカスする。
 まただ。これも一緒じゃないのだろうか。
 確かに見たことがない映像だけど、と頭を捻る。
 すぐに次のシーン。
 これも同じように碇君が映っていた。
 何だろう?
 次のシーン。
「あっ」
 すぐに最初から巻き戻してみる。気付いた部分は些細なことだったけど、間違いなさそうだった。
 同じクラスなのだから当たり前だと思って見飛ばしていた。でも、注意してみていると必ずどのシーンにも私が映っていた。ときには風景を撮影しながら教室へと戻ってくる映像。ときには教室を半周ほど撮って碇君の顔にズームする映像。そんな些細な一部分に、私がつまらなそうな顔で画面に映っている。
 最後の最後、碇君がぼーっと私の横顔を眺めて惚けているシーンが映し出された。その間抜けな顔に思わず笑ってしまいそうになった。
 シンジ、と鈴原君が何度か呼びかけ、碇君は慌てて返事をするまで私の横顔に見とれていた。相田君は定点的に碇君をファインダー越しに記録し続け、そこで碇君の心の中まで見てしまったのだと思う。
 ――カメラっていうのは時に残酷なんだ。
 そう言った彼の言葉が脳裏をよぎる。
 相田君はカメラを通して碇君の気持ちを知ってしまったとき、どんなことを考えたのだろう。
 そして自分が憧れていた女の子の気持ちも、同じようにファインダーを通していつか知ってしまったに違いない。
 きっと相田君は鈴原君はおろか、碇君本人にも言わなかっただろう。すべてを自分の胸にしまい込んで。
 誰にも言わず、今日まで黙り通してきた彼の意志の強さに自然と頭が下がる思いだった。
 惣流さんは本気で碇君を愛していた。
 シンジは同じくらい綾波レイっていう女の子が好きだったんだよ、と相田君は言いたかったのかもしれない。
 プロテクトの部分が終わり、画面が切り替わって笑顔の碇君が映し出された。ディスクの最初に戻ったのだ。
 何かが変だった。
 碇君の笑顔ってこんなにゆがんでいたかな、と思った。
 その時、暖かい雫が頬を伝う。
 ああ、そうか、ゆがんでいるのは画面ではなく私の見ている世界だ。
 どうして今なのだろう。
 もっと碇君の笑顔を見ていたかったのに、涙が次から次へとあふれ出して止まらなかった。
 だめ、もっと今は碇君を見ていたい。
 困惑する気持ちとは裏腹に流れる涙は世界をぐにゃぐにゃにしてしまう。
 息をするたびに呼吸と声が混じる。
 だめ、だめ、碇君。
 流れ出しているのは涙だけじゃない。困惑や疑問さえ、全てを洗い流そうとしているかのように、何もかもをきれいにしてしまおうとしているかのように、熱い気持ちが頬を伝い続けた。
「……いか…り…くん……」
 思いが途切れ途切れの言葉になる。
 いつしか声は嗚咽に変わっていた。自分の泣き叫ぶ声が誰もいない部屋に響いていく。
 碇君、どうして私を助けたの?
 なんで私の隣にいてくれないの?
 言葉にならない想いがとめどなくあふれていた。
 惣流さんはきっとこんな気持ちだったんだ。
 心が悲鳴をあげる。
 もう心の中に氷の塊なんてどこにもなかった。闇も深さも、小さな私の面影も、欠片一つ残っていない。
 残っていたのは小さな彼の面影。
 痛々しいほどに柔らかく、手に触れるとみるみるうちに解けていった。
 そして意識が遠のき、穏やかな夢を見る。
 甘い幻想の夢。碇君が私の隣を歩きながら、二人とも笑い合っている夢。
 惣流さんは最初から私のことなんて見透かしていた。だから死を選んでまで碇君を取り戻すと言ったのだ。
 彼女の幸せを祈るだけの私には、もう夢を見ることも叶わない。ただ、あの日、言えなかった言葉の続きだけは伝えたかった。
 ――受け止めてと贅沢は言いません。だから届いて、お願い。
 両手で顔を押さえながら何度もなんども彼の名を呼び続けた。
 もう彼の声も、暖かさも、何一つ戻っては来ない。
 子供のように泣きじゃくる私の、少しずつ遠ざかる意識の中で、あの時の夢の続きがぼんやりと蘇ってくる。碇君がゆっくりと遠ざかっていこうとしていた。私は必死に彼の名前を呼ぶ。
 分かれ道の手前で彼は気付いて振り返る。そして、ぶんぶんと大きく手を振る。
「綾波!」
 泣き顔のまま、私も小さく頷く。

 涙で歪んだ視界の中で、碇君がくすぐったそうに笑っていた。





 fin








// postscript //