MY LITTLE LOVER
(Real Version)


- First part -







 あのさ、不思議だと思わない? 
 人間て、体温が一度や二度そこら上がっただけで苦しくなっちゃうんだから。いろんなことをしたり、たくさんの理由で熱が出てきちゃうしね。例えば、風邪をひいた時、骨を折ってしまった時、薬の副作用などなど。
 そしてもう一つ「恋の病」も入れておかないといけないんじゃないかな?




 今まで僕は冷めていた。
 ちょっと普通の奴とは違う、周りに同調しようとしない、そんな感じのガキだったと思う。だけど、僕自身はそうは思ってなかったし、今もそんなふうじゃなかったと思っている。
 ただ、周りの奴等がうざったかった。一緒にバカ騒ぎするのが面白いとは思うんだけど、周りに合わせる方が余計に疲れてしまう。だから僕はそんなに友達を作らなかったし、好き好んで近づいてくる奴もいなかった。女子にいたっては見向きもされないから、僕も彼女たちを避けてた節があるね、今思うと。でも、これって一五歳の中坊が言うせりふじゃないって気がする。
 そんな僕にも好きな人ができた。
 いや、できたっていうのが自然な言い方じゃないかもしれないけど、とにかく「この子がいいなあ」って思える子が一五歳になってようやく一人現れた。
 それが今、僕の目の前でベッドに寝ている彼女だ。
 口元からは規則正しい吐息が静かにもれている。そっとほっぺたを擦ってあげると、気持ちよさそうに微笑んだ。そんな彼女の表情は、小猫をあやしているような感覚を思い出させてくれて、少しこそばゆい気分になってしまう。
 僕は手を彼女の顔から放して、ベッドの隣の机の上にあるナイフを取った。
 来る途中に買ってきた、彼女の大好物のリンゴを鞄の中からゴソゴソと取り出して剥きはじめた。普段からこういう事をやっているわけじゃなかったけど、三ヶ月くらい前からこの病院に通うようになってからというもの、自然と上手くなってしまったのだ。
 いつも彼女がねだってくるせいで。
 そのまなざしで見られると、僕はどうしても「はいはい、わかりました」って感じで剥いてあげるようになってしまう。最初の頃は不格好な形にしか切れないから、大小大きさや形がバラバラの切り分けを見る度に、彼女は怒ったり笑ったりしていた。けど、そのうち僕も慣れてしまったから、キレイな形にむけるようになった。それが彼女には「面白くない」って理由で、また怒ってしまう原因になったんだけど。
 手を動かしながら他のものを見るって作業も、すっかりへっちゃらになってしまった。時計に目を移すくらいなんでもない。
 今四時二十分だ。
 いつもみたいに五時になればおばさんがやってきて、六時になればおじさんが仕事帰りに立ち寄っていくだろう。
 時々こんなふうに寝顔を隣にしていると、何時までも彼女は瞼を閉じ続けてしまうのではないかと思ってしまうことがある。そんなときは、いつも頭を左右に振って忘れるようにしている。
 今回も考えた後でドキリとして、彼女の顔を確かめた。そして、安心して胸をなで下ろすのだ。
 僕はまたリンゴに目を戻して、シャリシャリと作業を続けた。
 全部の皮を剥いた所でシーツがこすれた音がしたので、「起こしちゃったかな?」と思ったけど、彼女の顔を見たら、規則正しく胸を上下させているのを確認してホッとした。迂闊に起こしてしまうと、後々が怖い。あまり寝起きの機嫌がいいとは言えないのだ、彼女は。ただ、なんとなく顔が笑っているような気がする。それがちょっと気になった。
 裸のリンゴを八つ切りにして皿に載せた。剥いだ皮とかを捨てたごみ箱を元のベッドの下に戻して、冷蔵庫を開けようとしたら彼女が急に起きあがって、ニュッと腕をリンゴに伸ばした。
 僕にとっては突然だけど彼女にしてみればきっとそれは狙ったタイミングだったのだろう。
 一口頬ばって、ニヤッと笑った。僕の反応を見てケラケラと笑うが、僕は呆然としたままポカンと口を開けていたままだった。
 彼女は曰くありげな表情のまま、残りのリンゴが残った皿を僕の前に差し出した。
 理由は単純だ。
 僕に食べさせてもらいたいからだ。
「あれ、来てたんだね」
 よくもまあ、ぬけぬけと……。僕が入ってきたことは最初から気がついてたくせに、まったくもってよく言えたもんだ。多分たぬき寝入りしてたんだろう。あきれるを通り超して、感心するほどの演技力と図々しさだ。
 やっぱり、さっきの起きたような気がした時の気配は当たっていたらしい。
「あ、うん。リンゴまだ食べる? 冷蔵庫に入れておこうと思ったけど、目が覚めてるんなら食べた方がいいし、色変わっちゃうからさ」
「食べる食べる! さっすが、よく私の性格わかってんじゃない。誉めてつかわす」
「はいはいはい。どうせその後甘えた声で言うんだろ? 『食べさせて〜』って」
「ご名答」
 ハァ……。とても一五歳とは思えないな、この性格は。ちょっと無邪気すぎるんじゃないか? 
「ね、体起こすの手伝って」
 そう言って彼女はもぞもぞと体を動かしはじめた。僕も彼女の背中に手を当てて、体を起こすのを手伝ってあげた。右足がない上に寝たきりがこうも長く続くと、自分自身の力で半身を起こすのも一苦労なのだ。他人の手を借りないと、すんなりとは出来ない。
「はい、どーぞ。お姫様」
 爪楊枝でプスッと一切れ突き刺して彼女の口まで持っていった。パクッと口の中に全部頬ばって食べる。
「もう一個ちょうだ〜い」
「はいはいはい……」
「『はい』は一回よ。小学生のとき習わなかったの?」
 もう彼女の事を同い年と思うのはやめようかな? そう思いながら、またもう一切れ突き刺して彼女の口元に運んだ。
「あ〜ん」
 僕がそう言ったら、彼女も嬉しそうな顔で、
「あ〜ん」
 と、大口を開けた。
 彼女の口の中に収まる瞬間、僕はその一切れを自分の口の中に放り込んだ。
「ああ! ひっどーい!」
「何がだよ。自分の小遣いで買ってきたんだから、僕だって半分食べる権利くらいあるだろ?」
「もう! イジワル!」
「それは平生往生。お互い様だって」
 僕が糾弾に全然平気な顔をしているので、ツンっと彼女はつむじを曲げてしまった。
 それはそれで、彼女はかわいかった。病気が長くて、頬が削げ落ちたようになっていたとしても、だ。
 彼女の怒った顔を横目で見ていて、一時の優越に浸った。だが、僕はすぐに後悔した。
 どうやって彼女の機嫌を直そうか? その答えがまったく思いつかなかったのだ。良いアイデアが思いつかず、青い顔をしてただただ平謝りし続けても何をしても、どうしてもだめだった。
 結局、その日はおばさんが来るまで許してくれなかった。




 僕はさっきも言ったように人当たりが良くない。むしろ最悪の部類だと思う。でも、普段の生活で困ってなかったし、困ったらその時はどうにかなると思っていたから、人間関係なんてどうでもいいと思っていた。
 そんな周りの事に無関心な僕が変わったのは、三年に進級した直後だった。
 新学期が始まって二週間くらい経った頃、彼女がクラスにやってきた。
 今思えば当然なんだけど、あの時は「東京のお嬢様が、なんでこんな変哲もない田舎学校へ転校してきたんだろう」と思った。『東京育ち=お嬢様』というのは、もちろん安っぽい田舎ものの偏見だ。聞けば父親の転勤というわけでもなく、お父さんだけ珍しい逆単身赴任で東京に残っているのだという。変な話だ。少し前から、お父さんもこっちに移ってきている。娘がどうしても心配だから、新幹線で東京に通勤しているらしい。
 それはともかく、何で僕が彼女に関心を持ったのか。 
 それは簡単だ。彼女の席が最初僕の隣になったからだ。当時、僕は一番後ろの窓側の席だった。そして彼女はその隣の席が最初に割り当てられたのだ。実に単純明解で、逆に簡単過ぎやしないかと不安になるくらいだった。
 朝のHRで彼女が担任から紹介されて、彼女自身もちょっとした自己紹介をした。その時確か、お父さんがどうのこうのという話をしていた気がする。その辺は後になってもう一度聞いたので、この時耳に飛び込んできたことはよく覚えていない。
 先生が僕の隣の席って言った時、大半の男どもの顔が僕の方を一斉に向いたので、僕は視線に気がついて一瞬たじろいだ。それまでは机の下の文庫本に目をやっていたので、まったく気が付かなかったのだが、転校生が僕の隣に立った瞬間にみんなの視線の意味が分かった気がした。いや、はっきりと分かっていたような気もするが、その辺は曖昧なので説明しにくい。それはともかく、僕は驚いてしまった。
 彼女は飛びぬけてキレイな子だったからだ。
 無粋な野郎どもの目は、羨望の視線を僕に投げつけてきていた。しかし、彼女の顔を見ているとそんな事は、僕の視界と思考の両方から消し飛んだ。ただただ、この辺の田舎娘どもにはありえない、都会派の印象としか言いようのない雰囲気が、その時僕を圧倒していたんだと思う。
「よろしくね」
 ニコッと彼女は僕に笑いかけて席についた。
 その笑顔からだったのか良く分からない。けど、きっとそうなのだろう。
『一目ぼれ』ではなかったけど、確実に僕の心は彼女に引き付けられたのだ。




 午後五時。
 いつも通りおばさんがやって来た。
「こんにちは。お邪魔してます」
「いらっしゃい。毎日ありがとね」
 これまた取り留めのない、いつも通りの会話。
 もう慣れてしまったから、意味も味気もあんまりない。でもお礼を言ってもらっているのだから、悪い気はしない。おばさんのことを嫌いだったら、そんなふうには思えないんだろうけど。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。おばさんも来たことだし」
 僕が立ち上がりながら言うと、いかにも名残惜しそうに彼女が「もう?」と言った。だから、ちょっと躊躇ってしまう。でも、言い出したからにはさっさと帰るべきだと思った。それに今日はあんまり長居をしたくない気分だったというのもある。
「また、明日ね」
 僕が名残を吹き払うように笑った。
「ん……じゃ、また明日」
 僕は彼女の顔をろくに見もせずに、そう言ってさっさと扉を開けた。
 僕の背中には、彼女の寂しさとも哀しさとも言えないような視線が、熱っぽく投影されているのは分かっていた。けど、僕は黙ったまま何も言わなかった。
 たとえおばさんがその場にいても、そういう表情をするのはすごいと思う。
 それを振り払うように、僕は開けた時と同じようにして、音を立てないように扉を閉めた。
 最後に振り向くと、ちらっと目と目があった。
 その時も、やっぱり彼女の目は寂しそうだった。
 廊下には誰も行き交う人はいなくて、差し込んだ夕焼けの赤さだけが影と一緒に伸びていた。僕はそのまま扉にもたれかかった。なんだか僅かの時間で、ものすごくくたびれてしまったようだった。以前は、こんな事はなかったのに、今ではこの部屋に入るたびに、まるで「生気を吸い取られてます」とでも言ってるかのような疲労がある。僕もここに来るようになってしばらくだけど、疲れているんだろうか。
「ふぅ……」
 意味もなくため息がでる。神経を緊張をさせた後の証拠だ。
 そんな時、またリンゴを剥いていた時に考えていたことが頭の中に思い浮かんだ。

『彼女は死ぬんだろうか?』

 そのフレーズを振り払うために頭をブンブンと振って歩き出した。病院の廊下を歩きながら、何度も同じ動作をして追い払おうとした。
 今回は部屋の中とは違って、なかなかしぶとい。いつまでたっても消えなかった。
 病院の出入り口にたどり着くまで鮮明に頭に残っていて、それがとても不気味で怖かった。まるで今日はいつもとは違うといわんばかりに、瞼を閉じても耳を塞いでも頭の中をぐるぐると回り続ける。それは暗示だったのかもしれない。
 彼女の寂しそうな目が目に焼き付いて、この日に限って消えてくれなかった。
 僕は不審に見られているだろうとは思いつつ、しばらくは首を左右に降り続けざるをえなかった。




 転校してきた日、隣に座った時から本当によく喋る子だった。口に潤滑油でもつけてるんじゃないのかと思ったくらいだ。
 聞かれもしない事をぺらぺらと僕に向かってか、はたまた周りの奴等に聞かせるためかは知らないけど、とにかく喋りまくった。自分は「生まれつき体があちこち壊れてるのよ」って、とんでもない事を笑いながら言うし、微熱も私に取れば平熱なの、とか自分の不幸を面白おかしく、実に巧みな話術で聞かせてくる。
 あっという間に彼女の席のまわりには人だかりができ、次の日にはクラスで確固たる地位を築くにいたっていた。性格的には、まさに僕とは対極にいる、手の届かない遥か彼方の女、まさに「カノジョ」なのだと思った。
 隣の席だという事で、授業中は暇つぶしのような感じで僕に話しかけてきたが、僕は知っての通りこのような人当たりのよくない性格だ。相当面白くない事を喋っていたか、もしくはただ聞き手に撤していただけだったように憶えているが、何度も言うようにあの頃の記憶はあんまり確かじゃない。
 その頃の僕には「かわいい女の子が転校してきて、たまたま、席が僕の隣になっただけ」に過ぎなかったのだ。気にかかりはしたものの、僕の中に占める比率は大きくなかった。「その時は、まだ」という言葉が頭につきはするが。
 相変わらず冷めていた。そうでなくとも、あの時はそう思っていたのだ。僕は明らかに普通の奴等と精神年齢が違うんだと感じていた。周りの人間が、幼稚に見えて仕方なかった。
 五月になると月一の席替えがあって、もちろん僕と彼女の席はバラバラとなってしまった。それからというもの、僕は初めて病院に行く日まで彼女と口を利く事もなかったし、表面的には意識すらしなかった。引き付けられたといっても所詮、最初はその程度だったのだ。




『親友』
 そう呼べる人は僕には一人としていないだろう。
 一緒に街に遊びに行くような仲間みたいなのはもちろんいる。カラオケに行くし、ゲーセンだってたまには行く。買い物をする日もあれば、ぶらぶらと街を歩くだけの時もある。一緒にいて、全てを投げ出してもいいくらいに居心地がいいって訳じゃないけど、一応、人並の付き合いは最低限してるつもりだ。
 でも、それだけだ。
 本当に僕を理解しようとするやつはいない。そこまで踏み込んでくる人間がいないからだ。
 だから僕だってそんなふうに、人の心で未知の部分にまで、自分から好きこのんで第一歩を踏み出そうとなんか思わない。思うわけもない。
 そんなことをすれば自分が疲れてしまうし、常に日ごろからまわりに対して遠慮と気配りを払わなくてはならなくなる。そんな事は、僕にとって耐えられそうもない苦痛になるだけだった。




 転校以来、彼女の姿が何となく目に映る日が増えてきていた。
 平静を装っているが、やっぱり心のどこかで意識はしてるんだろう。でも、ちらっと見てすぐ視線を戻す。しばらくは他の事に気が向いている。そして、またふっと思い出したように彼女の姿を探している。そういう事の繰り返しだった。
 嫌な言い方だが、そうやって半分ストーカーっぽい行動をとっていると、何となく分かってきたのだけど、彼女もまた親友と呼べるような友達をつくっていなかった。周りの子達が仲良くなろうとしてきているのだが、彼女自身が一線をひいてそこから中には立ち入らせてない、そんな感じだった。
 僕は少し混乱した。
 不思議に思わない方がおかしい。だってそうだろう? 彼女くらいの垢抜けた性格で人当たりのよい子がなぜんそんな行動をとるのか。普通は考えられない事だから、僕は全然彼女の行動の意味が分からなかった。普通、あんな感じの女の子って親友をつくりたがる物なのに、心の深い部分までは立ち入らせないのだ。
 その見えない線に気が付いていたのは、どうやら僕だけのようだ。それくらい、彼女は人との付き合いを巧くやっていたし、他の人たちにはその線の片鱗すら見せなかった。
 その事に気が付いた時ちょっとだけ、また心が動いた。あの子、僕と似ているのかもしれない。僕と似ている所がある人なんて始めてだったから、戸惑いと、驚きと、そして喜びが入り交じって結構複雑な心境だったが、確実に親近感を感じさせてくれた。




 病院から帰宅すると、まあ当然の事だが、誰もいなかった。
 親父は会社か愛人の所だろう。もう公然化して誰も驚かなかったし、本人も開き直っている。
 離婚は時間の問題だった。していない今の状態の方が奇妙だとすら思える。母親はずいぶん前に愛想を尽かせて実家に帰省中。もう帰ってはこないだろうが、とりあえず療養で帰省中なんだとみんなには言ってある。
 そう言わないとあまりにも示しがつかない為だ。高校生にもなっていないガキに、そんな親の恥の尻拭いはさせないで欲しい。姉が一人いるが、その方面ではまったく役にたちゃしないので、僕が対応せざるを得ないのだ。ヤになってくる。
 玄関に靴を脱ぎ捨てると、キッチンまで制服のシャツのボタンを外しながら歩いた。風呂場の洗濯機の前でそのシャツを脱ぎ捨てると、キッチンまで行って冷蔵庫を開ける。食材は大した物がないから、今日も晩御飯はカップヌードルだろう。姉貴が帰ってくれば、もうちょっとはマシなものにはなるんだろうけど、花のジョシダイセーは家庭家族よりもコンパとかの方が大切らしい。最近は毎晩おそい。親父の性格にそっくりだから、酒に酔った勢いで男の部屋に連れ込まれてレイプされてるかもしれない。去年までの田舎娘は、今年から大学で生まれ変わったそうだ。笑っちゃうよ。そんなに人より遅れているのが気になるのか? ヤるならヤってこい。梅毒でもエイズでもいいから、とにかく変な病気でももらってくればいいんだ。痛い目にあわないとわからないだろうし。
 ヤカンに水を入れて火にかけながら、棚からラーメンを取り出した。
 壁にもたれて腕を組む。こういう時、捻くれている奴とか格好をつけたい奴、そういう奴は一服したい所だろう。そういうシチュエーションだ。そういう人間を自称している人には悪いが、僕は吸わない。吸おうと思った事もないし、これから一生吸う事もないだろう。一匹狼みたいな人間は誰でも吸いたがると思っている人がいるなら、それは御生憎様だね。僕みたいな、ひねくれにもう一段輪をかけたような変な奴もいるってこと。そう言ってやりたい。まあ、別に言ってやりたい敵みたいな人がいるわけじゃないから、口に出して人前で叫んだりはしない。
 僕はこういう時は物思いにふける事が多い。だから、小学生の手悪さみたいなタバコなんてほしくない。以前ならただボーッとしてるだけだったが、最近は病院での会話とか彼女の健康状態とかをよく考えるようになった。考えて彼女の症状がよくなるなら、僕は白髪になったって構わない。それこそ髪が全部抜け落ちるまで考え続けるだろうが、実際はそんな事したって意味はない。だから、ただ思うだけだ。良くなって欲しいと。
 ヤカンが甲高い音を鳴らしはじめた。考え事を中断されるのが面倒なので火を消した。
 なんだか火は消したけど、その次の作業を進める気分になぜかなれなかった。だからキッチンの物をそのままにしておいて、僕は自分の部屋に駆け込むとすぐに布団にくるまった。
 眠たくはなかったけど、病院でいつも麻酔をかけられて眠っている彼女と同じ時を過ごしたかったから眠りたかった。だから、脳が覚醒していようがいまいが関係なく、ただ純粋に、睡魔よ訪れてくれ、と祈っていた。




 五月も終る頃、彼女は突然学校に来なくなった。正しくは来れなくなった。
 もちろん登校拒否ではない。当時の僕を含めてみんながみんな理由を知らないんで、さまざまな憶測がクラスの中を飛び交っていた。が、僕には相変わらずどこ吹く風状態。担任の教師が数日経ったあとで「病気で入院した」と、短く伝えるまでうわさ話は絶えなかった。
「ふ〜ん、あいつ入院したのか」
 そう思ったが、その頃は親父と母親の戦争が激化していたので、僕にはこっちの事の方が他人の入院より大きな出来事だった。お見舞いに行くとか電報を打つとか、そういう類いの発想はその時に生まれてこなかった。
 やっぱり、そのころは他人事だったのだ。
 六月に入って梅雨に入った頃になると、噂で手術したとか何とかそういう話が流れてきた。
 その話はもちろんあっという間に、クラスはおろか学年中に広まっていった。それに伴ってか、お節介で自称『親切な友達思いの女子』どもがお見舞いに行こうと話し合っていたのを、僕は冷静に見ていた。この目で見たわけではないが、その女子達は実際すぐに行ったらしい。他にも下心丸見えの男子とかも病院を訪ねてきたと、後日病室で彼女自身の口から聞いた。
 彼女の状態をまったく知らない僕は、それからのクラスの雰囲気が奇妙そのものに感じられた。
 どうしてかは皆目見当が付かないが、その頃から彼女の話題がタブー化したように見えたのだ。というよりも、誰一人、彼女の話題を持ち出そうとしなかったし、興味を示さないようにしているようだった。
 そしていつの間にか、僕以外クラスの全員は病院に一度は行ったらしい。だから僕以外の所で奇妙な連帯感が生まれていた。別に僕を白眼視していたのではないのだが、僕だけが取り残されたような雰囲気は、確かに存在していた。
 集団でぞろぞろとお見舞いに行こうとかいう、小学生のガキンチョでも思いつくような計画を、僕は一笑に付して断った。行くわけあるか、と意味もなく胸を反らしてふんぞり返っていた。バカだった。
 けど、心の方は世間体と比べてずっと正直だった。
 その心に動かされるように、いつの間にか彼女のいた空間を目で追っているのだから。
 毎日、空いた席を見詰める僕がいた。
 時々頭の中を彼女の言葉がよぎっていく。
 何かが引っかかっていた。僕の頭の中で、何かが喉に刺さった魚の骨みたいに、チクチクと痛みを広げていた。

「生まれつき体が弱いのよ」
「壊れてるの、私」
「微熱なんて言葉、しばらく聞いたことがなかったな」
「転校してきたのは空気がキレイな所に住みたかったからなのかも」

 いろんなシーンと共に、彼女の表情と言葉がよみがえっていく。
 そして、頭に引っかかっていた言葉が思い出せた時、初めて僕は彼女の病院に行ってみようという気になった。
 意地を張ってる場合じゃないと、ようやく気がついたのだ。彼女の笑った顔が見たくて仕方なかった。それに気がついただけで、少し切なかった。
 彼女は、一度だけ遠い目をして寂しそうに笑いながら言った。僕だけがそれを聞いていた。

「私、きっと長生きできないんだろうなぁ……」




 トルゥルゥ…トルゥルゥ…トルゥルゥ…
 無粋な奴だよ、あんた。
 電話の向こうの人間に、そう罵ってやりたかった。
 コール音はせっかくの睡眠を邪魔してくれて、僕は病院を出たとき以上に嫌な気分になった。
 時計を見ると午後九時半を示していた。
 どうせ親父から今晩遅くなるとか、そういった内容の電話だと頭から決め付けていた。最近はこの時間に決まってかかってくるからだ。しかもご丁寧に愛人宅の近くの電話ボックスから、律儀に電話してくるのだ。涙が出るくらい馬鹿だと思う。よくそんなんで不倫できるよ、って言ってやりたい。そんな事をしなくても、もうわかりきっているのに。もう、僕ら家族は修復できない溝が出来てるって事を、親父だけが目を反らしているんじゃないだろうか。
 女好きのくせに、変なところで頑固だ。しかも生活面と世間では真面目な堅物ときているから始末が悪い。でも、そんな所がいかにも親父らしい所だと思う。母親がまだ家にいたころからずっと、帰宅前に電話を入れるようにしているのだ。
「姉貴〜。電話でてェ」
「……………」
 しかし、階下からは音一つ聞こえてこない。
 やれやれ。まだ夜遊びの真っ只中なのか。飽きずによくやるよと、彼女の部屋のドアに向かって呟いた。下げてある黒猫のプレートを指で弾くと、それは左右にプラプラと揺れた。
 仕方なく、僕は眠気の残ったおぼつかない足取りで階段を降りて、緩慢な動作で電話にでた。姉貴の変わり身に、心の中で悪態を吐きながら電話に出ると、
「もしもし」
 と、見知った声が聞こえてきた。
「どうも、市立総合病院のものですが……」
「え、先生?」
 意外にも電話は病院の先生からだった。毎日のように通っていたから、最近はすっかり看護婦や先生とすらも顔見知りで、よく挨拶とか取り止めのない会話をするようになっていた。彼女の影響からかは知らないが、最近の僕は人当たりがかなりマシになったようで、人と話す事を苦に感じないようになっている。彼女の体の状態も、先生から聞くことが多い。彼女自身が知らないこともオフレコでちらほら聞いたことがあった。
 先生の声は、普段はのんびりとしている。今の受話器の向こうでも普段と変わらない喋り方なのだが、なんとなく語気がちょっとだけ強いみたいだ。これは焦っている証拠だと、僕は彼との対して長くないつきあいの中で知っていた。
「どうしたんですか?」
「大変だ。彼女が急に危篤状態になったんだ。理由はまだよく分からないが今から検査する。もし、検査の結果が悪いようなら再手術になるかもしれない。夕方くらいから具合が悪くなりだして、さっきは昏睡状態にまで陥った」
「わ、分かりました。すぐに行きます」
 先生がすぐに来いと言ってくれているのが分かったので、返事もまたず電話を切った。僕らの関係を応援してくれてる先生の心使いに感謝しながら、大急ぎで財布と定期をポケットに詰め込んで、書き置きを殴り書きで残した。
「今晩は病院にいます。何かあったらそっちに連絡してください」
 どうせ明日の朝まで誰も読まないに違いないのだが、これも身内に対する最低限の礼儀だろう。汚い字で読みにくいのは無視して、すぐさま僕は家を飛び出した。病院で感じた、あの嫌な予感は当たってしまったのかもしれない。だが、僕が彼女を手にかけるといういつか見た、悪夢のようなやつだけは二度と見たくないと思った。
 僕は、夢の中で苦しむ彼女を何度か殺めていたのだ。苦しまないで欲しいと思うあまり、僕が彼女の生を終わらせてから僕は苦悩する。その悩みと罪悪感の深さは底知れず、夢とは思えないリアルさに怖くなって僕はいつも飛び起きるしか、逃げる方法はない。目が覚めてようやく一息つけるはずが、全身から吹き出た汗の気持ち悪さで追い打ちをかけられる。
 やっぱり、僕は疲れていたのかもしれなかった。
 現実になってほしくないと思うし、そんなことはやるわけがない。けど、彼女がいなくなってしまえば、やっぱり僕は、いままでの僕に逆戻りしてしまうんじゃないだろうか。冷めていて、人生どこか投げやりの僕に。それを変えてくれたのは彼女の存在なのだ。
 そんな彼女が目の前から消えてしまう。
 それは、彼女をこの手にかけることと同じくらいの恐怖だった。




 六月の終わり頃、平年通りに梅雨がやってきた。二、三日に一度恵みの雨を降らせては、アジサイを思い思いの色で染めて行く。だが、僕の周りでそんなことを気にかけたりする人なんていないだろう。
 だが、僕がふっと見舞いに行こうと思い立ったあの日、そして親父とお袋が決定的に決裂したあの日、涙が出そうなくらい透き通った青空が一面を被ってよく晴れた日に、僕は家を飛び出して青空と滴をためたアジサイを眺めていた。
 こんな天気のいい日は梅雨の期間では本当に珍しいなって思った。八月まで一気にジャンプしたかのような錯覚を起こさせて、少し心が軽くなったような気がした。でもすぐに、それも錯覚だということに気がつくと、人生皆どうでもいいように思えてきた。
 その日、僕は親のケンカにいたばさみになった少年のパターン通りに学校をサボった。別に行ってもよかったのだが、親父達のあまりにバカバカしいやり取りを見てると、僕にもバカバカしい病が移ったようで、学校に行くのが面倒くさい以上にバカバカしく感じられた。学校に行くのがバカバカしいから家にいたのかといえば、そういうわけでもない。
 家にいる方がもっと惨めな気持ちになるから、という理由で僕は普段行けないような所に行く事にした。大体、何度もバカバカしいを連発している自分がもっとバカみたいだ。
 まず、歩いていて目に入った映画館に行った。別に日曜日とか休日とかでもいいけど、平日の映画館は周りから見ても雰囲気が違うので、一度は行ってみたかったのだ。劇場内に入ると、観客は予想通り十人くらいしかいない。もっとも、作品自体が人気がないのも手伝っているのだろう。三百人くらいが満席となるこのシアターも今は形無しだった。僕は映画の中身には興味がなかったが、空いているガラガラの席を楽しめただけで十分満足できた。中段に陣取った。自分の目の前に誰も座ってないのは、実にいい気分だ。たまにはこういうのもいい。映画の方も、内容は期待していなかった分、そこそこ面白く感じれた。
 千五百円分の価値はあったと思う。
 昼を少しまわった頃、本屋で文庫本を二冊買って街の中央のデカイ公園に行った。やっぱり平日だから、近くの団地のベビーカーを押した若いお母さん連中が笑いながら、己のプライドをぶつけ合ってしのぎを削っている現場があちこちにあった。子供の塾とか進学させるなら小学校から私立だとか、幼稚園に入るまでにいくらの金を使ったかで将来が決まるとか、僕にしてみればそら恐ろしい会話を、笑顔で平然としていた彼女たちは、まるでエイリアンだと思った。
 砂場で無邪気に遊んでいる小さな子供たちの行く末を、ただただ呆れると言うべきか気の毒に思うと言うべきか……。とにかく、幼児たちの将来を大人達が今から決めてしまうのは、全然いい気分がしなかった。むしろ不快だ。なすがままになって出来上がるのは、マニュアル思考のロボットだと分かって教育してるんだろうか?
 ロボットをつくっているという自覚があるんなら、僕はあれこれと文句を言う気はない。
 だが、どうせあの親たちはベビーブームの時に生まれ、受験戦争の一番激しかった頃を生きてきた世代なのだ。親に薦められるまま高校に入り、大学に行き、就職し、親の気に入った相手と結婚したんだろう。旦那連中はしがないサラリーマンが関の山で、中年にさしかかる頃から背中が煤けているのが目に浮かぶ。彼らこそロボットだと、気がついていないのだ。人間だと信じ込んでいる、哀れなブリキ人形たち。
 子供たちの心を本当に理解できる、そういう環境で育ってない親達だ。この小さな未来達は将来はどんな親になるんだろうか? 家の親みたいに、端から見れば落後者に見えるような人たちの方が、ホントはいい親なのかもしれない。まあ、うちは結局離婚同然でとんでもない、とても誉められない人間だけど、物事の考え方は間違っていないと、今でも思っている。
 お互いをジャブで牽制し合うような話をしているママさん達の側で、悠々と文庫を広げて寝転がるような剛毅さを持ち合わせてはいなかった。そんなことをして、それを見たオバサン達に「あら、あの子、学校にも行かずに……。さあ、何々ちゃん、あんなお兄ちゃんみたいになっちゃいけませんよ」なんて言われるのは嫌だった。だからすぐさま木陰の人目に付きにくい、他の場所のベンチを見つける事にした。条件通りに見つかるか、少し自信がなかったが、思ったよりたくさんその辺にゴロゴロしていた。三つ目あたりの条件の良い場所で、僕は妥協して芝生の上に寝ころんだ。ベンチはないけど気にしないことにした。
 初夏の日差しは結構つよい。陽(ひなた)では汗ばんでしまうので、とてもじゃないが五分とじっとしていられない。木陰の下で地べたの方がよっぽど気持ちよかった。風も程良く木々の葉を揺らす。
 今更ながらだが、お巡りさんに捕まって補導の憂き目に遭うのは嫌だから、なるべく周りから気が付かれないようにと、樹の裏に隠れるようにしてまわりを確認した。人目がほとんどないのを見届けてから、買ってきた本をようやく広げることができた。しばらくしたら、そういえば昼ご飯を食べてないお腹がグウグウ言って不満の声を上げはじめていた。一食抜いたくらいで死にやしないさと、自分の食欲と胃の両方を宥め透かして落ち着かせてやると、不思議とすんなりおとなしくなった。こんな時に、人間思い込みって結構利くもんだとつくづく痛感できる。病は気からと、昔の人はよく言ったものだ。
 僕は「普通の人より読書量は多い」と自負している。これは自慢できるのだが、何故かしら読むスピードは人並、もしくはそれ以下しかない。人が二冊目に取りかかっても、僕は三分の二に到達していれば早い方だろう。それくらい遅いのだ。こればっかりはどうしても直らない。
 だから気長に二冊目を読み終わる頃には太陽もかなり傾いていた。耳をすましてみれば、遠くの方では学生達の声も聞こえる。もう学校もとっくに終っていて、帰宅部のやつらが部活動をしている時間になっていた。
 僕は「うう〜ん……」と伸びをして立ち上がり、パンパンとジーンズに付いていた芝生を払い落とした。結構、気が紛れていた。
 頃合いもいいしそろそろ帰ろう。
 そう思って、来た時とは違う所から公園を出た。別に理由はないが、何となくさっきのオバサン達のいた風景を見ていたくなかったのだ。
 思えば、公園のこっち側に来るのは始めてだった。この辺の地理は結構知っているようでも、改めて見慣れない光景を目にすると、風景がまったく別世界のように違って見える。大きなデパートの裏地とか、スーパーマーケットの駐車場とか、あんまり見ない物がやたらと目に付く。ただ、それは僕が普段はこういうところに縁が無いためだとは思う。さっきの公園で見たママさん達はこういう所を普段利用してるんだろう。あの人たちはこっちの世界の方が主観であって、原宿とか渋谷みたいな造りの街にはあまり足を踏み入れない。逆に、僕らの世代はそちらにしか足を運ばない。
 住む世界が違うんだと感じた。
 世界が違えば、考え方が個人でも世代でも違ってくるのは当たり前で、うちの親父達みたいにお互いを最後まで理解し合えず別れてしまうのも、ある意味当然の事なのかもしれない。もし、僕が誰かと結婚するにしても、そんなふうに分かり合えず、最終的には決別してしまう。そう思えてならないのだ。それは、同世代間でも言える。とにかく、人と人の価値観は一様であり得ないのだから。
 結婚とかよりも、人と分かり合えること自体が難しいと思う。
 ましてや、好きになることなんて、奇跡みたいなものじゃないだろうか。
 僕が誰かを好きになるなんて、つい最近までは想像したこともなかった。
 若気の至りか、どうしてもそう考えると彼女の笑顔しか頭に浮かばない。彼女以外の人なんて考えられなかった。結婚云々の前に、僕は彼女の映像が頭にずっと残っていて、それに目を向けていなかっただけなのだ。
「こりゃ、重症かもね……ハハ、ハハハハハハ!」
 そう、僕はすっかり自分で気が付かないうちに彼女の笑顔で病気になってしまっていたのだ。
 空席を見詰める僕。
 女の子達の噂話に聞き耳を立ててしまう僕。
 そういった事の一つ一つがバカバカしく感じられないでいた。そういえば、今は今朝からあった胸の中の「バカバカしい」がすっかり消えさっていた。彼女は、僕の混沌の原因でもありつつ特効薬でもあるらしい。まどろっこしい言い方をやめれば、僕は彼女に片思いをしている。
 僕は目尻に涙を浮かべるぐらい、自分の滑稽さを笑った。
 一通り笑ってしまえば、なんてことはないんだな、って思えた。
 好きになりさえすれば、別に心の奥底まで分かりあわなくたって構わない。そんなふうに思えた。
 その晩は、母親が家からいなくなっていた。けど、僕は清々しさすら感じつつ、久方ぶりの安眠を味わった。
 次の日も晴れるのかと思ったが、夜半過ぎてから雨雲が太平洋上空より広がってきていた。太陽が昇る頃には、一昨日までと同じ鬱陶しい雨を降らせはじめ、僕が朝起きた頃にはすっかりどしゃ降りりになっていて、止んでくれる様子がまったくと言っていいほど無かった。
 やってらんないな……。
 せっかくの決意も無駄足になりそうだ、と思った。
 昨晩、散々迷った挙げ句、今日も学校をサボって病院に行ってみようと思ったのだ。学校になぜ行かないかと言うと、そんな事はないだろうとは思うが、学校帰りで万が一、同じ学校のヤツと出会ったりすると、今まで僕が学校で取ってきた態度の都合上、格好がつかなくなってしまう。何だあいつは、と思われたくはない。
 それはさすがにマズイ。
 というわけで、僕は何事もなかったかのように学校に顔を出した。結局は、天気を理由にした後込みだった。
 だが、どういう訳か、僕は次の日彼女の病室のドアをノックしていた。人間、思い立ったが吉日という。決意は曲げない方がいいのだ、やはり。一日ずれてはいるが、そんなもんだろう。それに今日は大安だから、まあいいか。と、少々強引に自分の逃げた理由を納得させようとした。まあ、完全には成功しなかったが、心の平生を保つのには無いよりはマシ、といったところだろう。
 外来で病院に来ることはあっても、入院したことは今までなかったので、病室の前に立つと少し緊張した。病院は独特の雰囲気があって、健康な人を拒むような雰囲気がある。消毒薬の匂いに満ちた独特の廊下とか、休憩室で談笑しているのは決まっておじいさんおばあさんだったとか、そういった普段僕には縁のない物や人が、あちこちに目に付くので居心地がよくなかった。こればっかりは、この病院が新しい古いの問題ではない。
 ナースステーションで病室はあらかじめ聞いていたし、名札もかけてあったのですぐに分かった。二人部屋だが使っているのは彼女だけらしく、1人分の名札しか掛かっていなかった。
 コンコン。
 ノックすると「は〜い」と声がした。声から判断して彼女のお母さんみたいだった。
 ドアに手をかけようとして僕はハッとしてしまった。
『どんな顔して入ったらいいんだろう?』
 ここまで来るまでに自己答弁ばかりしていて、その辺のことを雀の涙ほども考えてなかったのだ。
 ここに来た理由って何だろうか? 
 いきなり『僕は好きな人が入院しているからお見舞いに来ました』とでも言えばいいのか? 
 そんな馬鹿でアホな話聞いたことも無い。いや、全くないわけじゃないが、自分がやる立場になることなど想像の範囲外だ。
 しかし扉の前で迷っていても不審がられるだけだし、八方ふさがりの状況には変化はない。
 ええい、ままよ! そんな気分で扉を開けた。
「へぇ〜、珍しい人が来たわね。いらっしゃい。座りなよ。何か食べない? 暇だったのよ、ここにずっと寝てるから。何か面白い話してよ。あるんでしょ? お見舞いに来るんだから、そのくらいの用意はしてあるわよね。なかったらぶっ飛ばすぞぉー! ……ハハ、冗談よ。ジョーダン。お母さんてば、そんな目で睨まないでよ」
 へ? 
 僕ははっきり言って拍子抜けしてしまった。
 何か、彼女はさも当然のようにいつもの機関銃のような喋りでそう言ったからだ。僕のさっきまでの変な緊張は何だったんだ? 脇の下もなんだか気持ち悪い汗をかいているというのに、彼女は今までと同じ笑顔で僕を見ている。僕だけが空回りしていた。そんな気分だった。
「あ…、ああよかった、意外と元気そうじゃないか」
 気を取り直した僕はそう言った。
「お知り合いの方?」
 おばさんだけがにこにこしながらそう言って、リンゴを剥いていた。

 始めて彼女を見舞った時は格好良さの欠片もなくて、結構僕はおどおどしていたみたいだ。
 それが彼女の笑いを誘っていたようでもある。
 あんまり長居しちゃ悪いと思ったからその時は早く引けた。大した話ができなかったけど、たった二十分の間で、僕の心にハレルヤが聞こえているような状態になっていた。
 なにせ「また来て」なんて言われた日には、平静を保っていられないってものだ。でも、僕は努めて冷静な外見を崩さずに「近いうちにね」なんてキザなセリフを残して立ち去ってしまった。今思うと顔面から火を噴き出しそうなくらい恥ずかしい。平生を装いつつ、しどろもどろで喋りながら、挙げ句の果てにはキザなセリフだ。すっかりピエロだ。
 いつもとは違う出来事があると、僕の心もいつもとは違う働きを、そして感じ方をするのだろうか? 冷めていた心が、ちょっとづつだけど、甘いようなすっぱいような、胸の奥の熱さで解けていっているように思えた。それは、確実な感覚として僕の中で残り続けた。
 人が変わるのって、こういう情けないきっかけのお陰かもしれない。
 凄く意識する訳ではないし、四六時中彼女の事が頭から離れなくて他の事が手につかない、という訳じゃなかった。
 話題に出たり彼女が目の前にいたりすると上がってしまうのではなく、ただ純粋に「この娘が好きなんだな」と、思えるのだ。
 場数を踏みさえすれば僕は慣れてしまい、オロオロするなんてこともなくなるんだろう。大勢の前に立たされたって逆上(のぼ)せない、常に何があっても冷静である、それが僕が感じている自分自身の印象だった。それに、きっと近づいていくだろう。




 僕が病院に駆けつけた時、中では手術が行われている真っ最中だった。
 手術室の前には、彼女の両親と、それを慰めるように付き添っている顔なじみの看護婦さんが待機していた。薄暗い廊下の長椅子に彼女の両親が抱き合うようにして座っているのが、僕はとても奇妙に思われた。彼らの側で、看護婦さんも悲痛な顔をして立っていたのも気にかかった。
 なんて言えばいいのか、もう諦めているとでもいうような、とでも言い表せばよいだろうか。目の前にある部屋は手術室ではなくて霊安室。その一帯の空気はそんな感じだったのだ。確かに彼女はもう以前に四回も手術を受けていたし、ここのところ目に見えて衰弱も激しかった。前回の手術から二週間も経っていない。
 だけど、それがいったいなんだと言うんだろう? 
 すでに居なくなったみたいに泣くなよ。そう言いたい。しかし、僕はここでは未だに恋人未満の友達でしかない。でしゃばって行って「泣くんじゃない!」なんて、元気づける為に親御さんに怒鳴れはしないのだ。その立場にすら到達していない。所詮、僕は高校生にもなっていない青二才に過ぎない。
 彼らから数メートル離れたところで突っ立て居る僕を、最初に見つけたのはおじさんだった。
 彼がこちらを向いたので、僕はペコッと頭を下げた。泣き崩れそうなおばさんを一生懸命慰めているという顔をしていて、目の下の隈なんかから、すごく疲れがたまっていることが端から見ても痛々しいくらいわかる。もっとも僕自身が青い顔をしていただろうから、人から見れば僕の方が不健康に見えないこともないだろう。とにかく、僕らは共通の疲労を感じて心を痛めていた。
 僕が頭を下げたのを見て、彼もペコッと同じように頭を下げた。無理して微笑もうとしていた。それが余計に痛々しかった。
 おばさんは、僕がここに居る事が分からないくらい取り乱しているのか、または気がついているけど挨拶する元気すらない、そんなふうな顔をして俯いていた。
 とりあえず、僕は一番落ち着きがありそうな看護婦さんに彼女の経過を聞いてみた。
「夕方はあんなに元気だったじゃないですか。いったい何があったんですか?」
 言っていて気がついたけど、五時間前までは笑顔がいつまでたっても見られるような、そんな雰囲気だったのに、今ではこういった別次元の暗い世界になってしまっている。この差はいったい何なのだろうか? 別に僕だけが混乱している訳ではないだろうが、納得はいかない。この状況を理性で受け入れろと注文する方が無茶なのだ。
「先生の話だと転移していた細胞のせいだって。もう、肺だけじゃなく肝臓とか小腸にまで転移してるって……きっと、体の抵抗力が限界なんだろうっておっしゃってたわ」
 金槌で頭を殴られた、という気分はこういった時にこういう話を聞いた時のことを言っているのだろう。ある程度は、彼女の病状を聞かされてから分かっているはずだった。しかし、ここまで深刻な状況を目の当たりにして、改めて事実を再認識させられてしまった。やっぱりショックは大きいかった。予想以上に事実は重たくて、僕はクラクラと立ちくらみしそうだった。
 僕は『手術中』の表示を、感情のこもっていない顔で見上げた。
 こういった時こそ人は、驚くほど冷静になれるのかもしれない。そうでなかったら、哀しいとか苦しいとか、そういった感情を感じないはずがない。しかし、今の僕には感じられないだけかもしれないが。
 赤く光るランプが血の色と同じだと思うと、少しだけ嫌な気がした。ずっと前に見た悪夢を思い出させるからだ。僕はため息を吐くと、おじさんの隣にドサッと座り込んだ。
 赤い光が、道路を走る車の走り去っていく後ろ姿を思い出させた。そのぼんやりと目に映る手術中の赤いランプと白い文字が、テールランプのようにぼやけて見えた。
 死って身近にあるものなのかもしれないな……。
 はっきりしない頭でそんな事を考えていたために、そんなふうに見えたのかもしれない。




 僕の周りにある情報源はうわさ話のみで、それ以外のところからの情報は何一つ流れてはこなかった。彼女の容態を逐一知ることなど夢のまた夢といった立場に置かれていたせいか、人の会話の中で登場する彼女の名前に対して過敏に反応するようになっていた。
 だから、彼女が手術をしたというのはデマだということを皆よりもやや遅れて知った。それは一番最初の頃のたわいのないうわさ話であり、手術は結局行われたのだが、本当に手術を行った日は僕がお見舞いに行った日の次の日だったのだ。
 そう考えると彼女の話題がクラス中で薄れ消えていった事も分かる。
 御見舞いにいった連中は、彼女があまりにも元気なので僕と同じように拍子抜けしてしまったのだと思う。だから、もう一度いかなくてもすぐに退院して戻ってくるから、話題にするほどの事じゃない。そんなふうに思ったとしても不思議じゃなかった。病室の中では、どっちが病人かわからないほど彼女は喋りまくるし元気だった。それはともかく、彼女がすぐに帰ってくると思われたのが原因でないのならば、彼女がやんわりとクラスの奴等と会うのを避けていたからだろう。僕はなんだか特別気にいられたらしく、何度か頻繁でない程度に彼女の病室を見舞ったが、クラスの連中は日常の中に彼女が戻ってくるのを普通に待っていた。
 僕はまわりから彼女の話題が消えていくことに、一抹の寂しさを感じていたのも確かだった。
 しかし、だ。
 あっさり。
 その言葉がぴったりなくらい、本当に簡単なくらいの早さで彼女は教室へ戻ってきた。前日僕が見舞ったときには何も言わなかったくせに、次の日には僕より早く学校に来ていて、教室に入って彼女の顔を見たときの驚きは言い表しようがないくらいだ。そんな僕を、彼女はニヤニヤと笑って楽しそうに眺めていた。
 戻ってきたのはいいのだが、転校当初長くつやのあった黒髪は入院生活で短くなっていた。だが、短く肩口とどかないほどになった枝毛の髪の毛は、ボーイッシュなイメージを彼女に与えて、以前よりより一層活発な感じを僕に感じさせた。僕らは教室で口を聞いたりすることはなかったから、その事を彼女に言ったりはしなかったが、周りの女子達からも僕の考えと同じようなことを言われているのを偶然聞いたことがある。
 皆が病室や教室で何度も病名を聞いたらしいけど、彼女は笑ってうまく誤魔化していた。言いたくはないって言っているようなものだったので、みんなの方も踏み込んでまで聞き出そうとはしなかった。彼女も、聞かれるのを嫌っていた節もある。
 好奇心で人を傷付けるような無粋なアホアホ君は、僕らの学校には奇跡的に存在していなかった。お節介を焼く女子はいても、人を傷付けるような秘密を探り出すことに執念を燃やす酷い人間は、この田舎的な土地柄も手伝ってか、のんびりした人間の多いこの街では出現していなかったのだ。これは誇るべき事だと思うけど、それを鼻にかけて意識していないからこそ、みんなそういった態度が人に対してとれるんだなと思った。それを考えると、周りの人たちは僕より幼稚に見えたとしても、人に優しくできる才能があるいい人間ではないだろうか。みんなが、意識しないでも、彼女の存在をなんとなく大切に思っていたのだ。彼女の儚さが、それに追い打ちをかけていた。
 彼女の元気さは以前とほとんど変わり無かった。しかし頬が削げ落ちた跡のようなものが見えたり、時折見せる人生の疲れみたいなため息なんかが、彼女が命を削っていた事の証なんだと、今思うとよくわかる気がする。彼女は生まれてからずっと、呼吸するたびに命を僅かずつ消費していたのだから。
 体育は大抵休んだ。先生も病み上がりだったので無理はさせなかった。軽いストレッチなどは皆と混じってやっていたが、飛んだり跳ねたりはやらなかった。縫合したばかりの傷口にも気を使っていたのだろう。
 昼の弁当もほとんど食べていなかった。酷い日にはカロリーメイトですませてしまう日もあったくらいだ。これには僕だけでなくみんなが驚いていたようで、ポカ〜ンと口を半開きにしていた男子もいた程だ。食事内容もどうやら病院から指定されているらしく、家で口にするのは健康食品ばかりらしい。それに対するささやかな抵抗がカロリーメイトという訳だ。彼女に言わせれば「一日三食のうち、一食分のエネルギーはキチンと摂ってます」と言うことになるらしい。僕から見ればヘリクツだが、後になってもつっこんだりはしなかった。
 一週間二週間と秋が過ぎて行くにしたがって、気温と共に彼女の命の光も小さく低くか細くなって行くようだった。だけど、その時の僕は「やつれているんだなァ」としか思っていなかったのだ。気丈にもクラスではずっと元気な女の子を演じていた彼女を、その時の僕はまだ気がついていない。
 僕には彼女に対する同情はなかったと思う。いや、あったのかもしれない。あの時の彼女はどうしても人にそういう風に取られてしまうような状態だったから。彼女がいくらそれを嫌がったとしても、その姿を見ていれば自分たちの方が胸がいっぱいになってくる。何とかしてあげたいって、思わない方がおかしいのだ。
 でも、そんな事云々は関係なく、僕は彼女が気になって仕方なかった。そういった人をいたわる気持ちが、僕のような荒んだ人間でもちゃんと存在するんだなと、自分自身に感心してしまった。
 どちらかと言うと、自分の恋人を見守るような感じではなく、大切な兄弟を心配するような感じだったんじゃないかと思う。
 十月に差しかかって受験勉強を皆が本気で取り掛かりはじめる頃、彼女は再び休みがちになった。休まない日でも病院へ一度行ってから学校へくる日も多く、一時間目から彼女の姿を二学期になってから見ていない気がする。
 その頃から、少しずつ僕は学校内で彼女と口を聞けるようになった。とは言え、実のところは朝挨拶をするとか、消しゴムを忘れたから貸してくれとか、そういった大した事無い事ばかりだったが、僕にとっては大した前進に思えていた。でも、そんな些細な幸せな時間も、時が経つに連れて減っていったのも事実だった。
 彼女には病魔の影が忍び寄ってきていた。いくら彼女が苦しもうと、僕には指をくわえて見ている事しかできない。午後から空席になる机や、主なき椅子、上履きが一つだけ入っているロッカー。それらを見るたびに痛々しいのだ。彼女の顔を見れない痛み、苦しみ。生まれつきのハンデを背負っている人間の半身になれない切なさ。
 大袈裟な例えかもしれないが、高村光太郎が妻を死ぬまで愛したように、僕も彼女をずっと好きでいられるのかな? と思う。そうであれば素晴らしいことだ。
 あれは十一月の終わりだろう。
 この頃から僕は、彼女と死と恋愛感情をごちゃ混ぜにしてしまっていたのだ。それらのイメージが有機的に結びつき、彼女の顔を思い出すと死神の姿も一緒に見えるが、恋心に気がつきもするという、なかなか複雑な心理状態に置かれていた。クラス中のみんなも何も言わなかったが、大抵の奴等は僕と同じように思っていたに違いない。その場合は、もちろん恋愛感情は省かれる。
 その頃のクラスでの噂はこうだった。転校してきた頃の噂で最初の頃のはまだよかったが、この頃になるとほとんどの連中があきらめ気分で、
『アイツ、後一年の命って宣告されたから、静かな街に行きたい、とかでここに越してきたんだぜ』
 と言っていたのをよく耳にした。
 根も葉もない噂であったとしても、それが真実であったとしても、その言葉と話題がどこかであがる度に僕は一層、周りの人間との距離を置くようになった。近くに感じ始めていたクラスメイト達との距離が、以前よりも遠くなったようにも思えた。「そんなふうに考えたくない」という逃避と、「こいつらは馬鹿だ。子供だ。何も分かっちゃいないんだ」と思う気持ちの二つが働いた結果がそれだったのだ。彼女の悪口を聞きたくなかったというのもあると思う。だけどそれ以前に、完全に否定しきれないと認める僕自身が歯ぎしりしそうなくらい悔しかった。




「……ん……?」
 頑張って起きているつもりだったが、いつのまにか眠ってしまってたみたいだ。気がつくと椅子に座ったまま眠った僕に、誰かが毛布をかけていてくれた。暖房が効いている病院内も、夜の一時になると当然のように明かりは最小限まで落とされている。手術室の前のこの廊下も、蛍光燈は消え、サブの小さなライトが点いているだけだった。その場所がかもしだす冷たさ、そういった物が目に見えずも、確かにそこにあった。知らず知らずのうちに、震えが体を走っていた。それを増長するかのように、赤いランプだけが明々と「手術中」の二文字を浮かび上がらせていた。
 隣りには同じようにおじさんが眠っていた。おばさんはいなかったので、毛布をかけてくれたのはおばさんか看護婦の誰かだろう。もっとも、僕が駆けつけてきたときのことを思い出してみれば、おばさんにそんな心の余裕があったとも思えないが。
 僕たち男二人だけがそこにいた寒々しい空間。あまりいい気分ではなかった。赤い『手術中』のランプはまだ消えないまま。僕たちが眠ってしまっていた間にも、中では医者と看護婦たちと、そして彼女がギリギリの所で命をかけて戦っている。そう考えてもピンと来るものは今の所ない。いつか、ゆっくり思い出すとじわじわと広がるように何かを感じるかもしれない。だが今現在、僕の頭の中には何もない空っぽの状態だった。
 頭が働いていないのかもしれない。僕は漠然とそう思った。事実、頭の中が靄(もや)でもかかったようになっていてすっきりしていなかった。深夜に目が突然覚めてしまった時というのは、普通そんな物だろう。それに、事実と想像の落差に、僕の精神が追いつけないでいるのかもしれなかった。
 足音が廊下の奥から聞こえてきたので、顔を向けると明かりがこっちに向かって近づいて来るのが見えた。
「起こしちゃった?」
 逆光で顔は側にきてくれるまで分からなかったが、その声はあの親しい看護婦さんのものだった。多分、毛布をかけてくれたのも彼女だろう。
「……はい、まだ頭がちょっとぼやけてますけど……」
「まだ寝ていてもいいわ。さっき聞いたら手術は今夜いっぱいかかるそうよ。終る前に私が起こしてあげるから今はゆっくり寝ておきなさい。多分、明日の方が大変でしょうし」
「そうですか……じゃあ、折角だからそうします」
「ええ。ずっとここでいい? 仮眠室もあるわよ」
 きっと、ここにいないおばさんはそこにいるのだろう。だけど、僕は彼女と一緒にいると気が滅入ってしまいそうな気がしたので、首を左右に振った。
「わかったわ。私はまだ仕事が残ってるから、行くわね。なにかあったらナースステーションまでいらっしゃい。私は夜勤だから起きてるわ。こんな日に夜勤も何もあった物じゃないけどね」
 そう言って看護婦さんは苦笑し、来た道を引き返していった。
 その前に、僕はとっさに彼女の背中に向かって独り言のように小さな声で聞いてみた。
「助かりますよね……?」
 彼女の足が一度止まったが、顔だけこっちを向きかけ、だが、何かを言いたくても言えないような表情を僕に見せた後、彼女は曲がり角へと消えていった。
 何だろう? 今の看護婦さんの態度は。
 彼女に付きっきりの看護婦でさえ、もう諦めているんだろうか? だいたい看護婦という人たちは病院という性質上、死と近いところにいるから慣れているのかもしれない。だけど、それではあまりにも今頑張っている彼女に惨い仕打ちではないだろうか。誰も信じていないなんて酷すぎる。先ほどの様子では親御さん達も、彼女の生還を絶望視している。誰も生きて、再びあの笑顔を見たいと誰もが心で思っているはずなのに、現実の壁がそれを防ぎきってしまっているんだろうか。そうだとしても、僕一人は絶対に諦めない。僕の目の前から何時かはいなくなるにしても、僕にとっては今すぐがその時期だとは思えないから。だから、諦めたくなかった。
 遠くから、まさしく歌にある『おじいさんの大時計』の中に出てくるような、この病院の象徴、主ともいうべき大時計が深夜二時を二つの鐘のボーンボーンという音で報せてくれた。それを殆どまどろんだ状態で僕は聞いていた。

 “大ぉーきなノッポの古時計、おじいさんの時計ィ。おじいさんの生まれた朝に、やってきた時ぉ計ーさァー。今は、もう、動かない、おじいさんの時計ィ。大ーきなノッポの古時計、おじいさんの時計ィー”

 この時計は、歌と違って彼女が死んでも時を刻み続けるに違いない。
 チクタクチクタク……、と。
 人より長生きする時計は、どう思うんだろう? 大好きな人が先に死んだりしたら……。











// Latter part //