長江の水(倉橋清方−呉市立美術館長−,中国新聞夕刊2000.9.11掲載)

この夏,日本ではまだなじみの薄い九寨溝という絶景の地を訪ねた。中国四川省の北辺,岷江水系と嘉陵江水系の分水嶺付近にある辺境の地である。どちらの水系も大河・長江の支流に属する。標高は3,000m以上。ここへは省都の成都市から岷江の渓谷沿いに400キロ,バスに揺られて10時間以上はかかる。

世界遺産というだけあって,「筆舌に尽くしがたい」ほどのみごとな景観であった。水は夏にもかかわらず身を切るように冷たく清冽で,湖底の倒木がエメラルドグリーンに透けて見えた。映画「スター・ウォーズ」の中のヨーダがひょっこり現れるかと錯覚するような,神々しいばかりの秘境であった。

このあたりの住民はチベット族が主体で,羊を追い,馬を飼い,ヤクを放牧しながら先祖代々暮らしてきた。彼らの生活用水は,カルキ臭い水に慣らされたわれわれにとってはうらやましい限りだが,彼らにとってはありふれた,単なる生活水にちがいがないと思った。

所は変わるが,数年前,蘇州にいったときのこと。運河巡りの遊覧船に乗った。水は生活排水などが入り交じってトロリと混濁していた。船が川幅の広い場所にさしかかると,船頭は,やおらに首に巻いたタオルをその水に浸し,絞って顔をぬぐい頭をふいた。これを目撃した同乗の数人は思わず顔を見合わせた。ややあって,ここ長江下流域の人びとにとって,運河の水は幼いときからごく当たり前に存在する生活用水にちがいないことに思い至った。

九寨溝のほとばしる清流に,ふと長江水系の対照的な水のことを思い起こしたのだった。