死刑廃止条約採択10周年記念企画
 免田栄さん連続講演会のようす

 11月19日(金)横田町(あくしゅの会主催)、20日(土)松江市(松江グループ主催)、21日(日)鳥取市(鳥取グループ主催)、22日(月)大田市(戦争犠牲者を心にきざむ会主催)、
23日(火)石見町(浄土宗宝光寺主催)で開催されました。
 免田栄さんは1925年熊本県生まれ、1948年に熊本県人吉市でおきた強盗殺人事 件の犯人として逮捕、起訴されました。一貫して無罪を主張しますが、1952年に死刑 判決が確定します。その後再審請求をおこない何度も却下されますが、1980年に死刑 囚としては初めて再審開始が決定され、1983年に無罪が確定、34年ぶりに解放され ました。現在福岡県大牟田市に住んでおられます。
 免田栄さんは自分の体験をもとに、現在の警察・司法制度を批判し、死刑廃止を訴えつ づけておられます。裁判と人権、死刑廃止の問題などを考える上で、とても大切な生き証 人です。
 「私は34年間かけて自分の人権をまもった」という言葉に重みがありました。話 の中で特に印象に残ったのは
・暴行、脅迫によってうその自白をさせ、証人、証拠を でっちあげた警察官たちがその後きちんと出世して、免田さんの無実があきらかに なったあとでもだれも責任を問われていない。いままで数多くの冤 罪事件で処罰された警察・司法関係者は一人もいない。
・一審で死刑判決 を言い渡した裁判長は、免田さんが無実となって出所したときに、ひとこと「ごくろ うさん」といっただけただった。この裁判官は後に弁護士となり、自 分が担当した被告が有罪になったときに「被告が無罪を主張していたのに、裁判所は 弁護側の主張をきちんと聞いていない」と言い、それを新聞で読んだ免 田さんは「それこそ自分がいいたかったことだ」と思ったという。
・死刑囚とし て牢獄にいるあいだは年金の掛け金をはらっていなかったため、現在免田さんは年金 をもらっていない、そこで「国家のまちがいによって牢獄につながれていたのだか ら、年金をもらう権利があるはずだ」と裁判に訴えたが、その主張は認められ なかった。
・第一に国家は国家としてのあやまりを認めておらず、国家 賠償も支払っていない。いままでの数多くの冤罪事件で、国家賠償が認められたこ とは一度もない。


紛争下の子どものためのウォーカソンのようす
11月20日(土)11:30から1時間
参加者 7人
11月20日は国連総会で「子どもの権利条約」が採択されてからちょうど10周 年にあたります。アムネスティインターナショナル松江グループではこれを記念して 「紛争下の子どものためのウォーカソン」を開催しました。これは事前に寄付者をつの り、参加者の人数とあるいた距離にあわせて寄付をあつめるという催しです。「紛争に子どもをまきこまないで」ということをうったえながら、松江の島根県民会館から塩見縄手付近を歩きました。


 東ティモールに自由を!スピーキングツアー
緊急難民支援 松江集会のようす

 11月 3日(水) 午後2時〜4時半 松江市総合文化センター(プラバホール2階大会議室)
 ゲスト ミカ・バレトさん
 参加者 約40人

 前半にノーベル平和賞を受賞したラモス・ホルタ氏とベロ司祭についてのビデオを上映し、後半、ミカ・バレトさんに最近の状況を話していただきました。
 東ティモールでは1975年以来、インドネシアの武力占領が続き、多くの住民の人権が侵害されてきました。今年9月末の住民投票で独立賛成が圧倒的多数をしめた直後には、インドネシア軍や警察、そして軍隊や警察の支援をうけた独立反対派の民兵を中心にした暴力行為がおこり、多数の人が殺されたり、難民となっています。
 日本政府は長い間インドネシアの最大の援助国でした。そして国連でインドネシアの東チモール武力占領を非難する決議がされるたびに反対し続けてきました。今回の事態についても、自衛隊の派遣を検討する一方で、国連が人権侵害の実態を調査するための調査団を派遣する決議には棄権しました。
 ミカ・バレトさんは1972年東ティモール生まれで27歳。 インドネシア占領下のディリの高校を卒業したあと、ジャワのスマラン市にあるカトリック・スギヤプラタ大学卒。1992年から「東ティモール学生抵抗運動」に参加し、今回の「住民投票」にあたって東ティモール内外で活動し、投票後はディリから命からがら脱出したそうです。話の中で、投票日4日前に軍隊に殺されたという友人の写真をかがげながら話をされたのが、特に印象にのこりました。

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