文章はわかりやすくなきゃ意味ないよ
                           (1998年12月)

 1 世界はわかりやすい文章を求めている
 
 たとえば中学校の社会科のテスト問題で「国会の機能についての次の説明文を読み、下 線部の語句に誤りがあるものを3つ選び、それぞれ適切な語句を下の括弧の中から選択し て訂正せよ」などという問題を出したとします。
 ところが中学生の中には「機能」「説明文」「下線部」「語句」「誤り」「適切」「括 弧」「選択」「訂正」など、むずかしい漢字が読めない、意味がわからない人がたくさん います。問題を出す教師や、中学生むきのテストをつくっている会社の人たちも、そうし た生徒たちの実態はよく知っているはずです(生徒の学力も知らずにテストをつくるなん て考えられませんよね)。それなのに、なぜこんなむずかしい問題(むずかしいのはテス トのなかみではなくて、問題の文章)を出すのでしょうか。
 「問題を読むこともテストのうちだ」「中学生にもなってこれくらいの漢字が読めなく てどうする」という考え方もあるでしょう。しかしこれは国語のテストではなく社会科の テストです。社会科のテストは、国語の力よりも社会科の力をためす問題にするべきなの ではないでしょうか。
 最近の中学校では、授業のあとで生徒に授業のやりかたを評価してもらう、アンケート をとることもあります。そのアンケート用紙に「本時の授業の内容はおおむね理解できた か」「板書は見やすかったか」「発問は適切だったか」などという質問を書く教師がけっ こういるようです。「本時」「板書」「発問」などのことばは、教師ならほとんどの人が 理解できる「業界用語」ですが、生徒たちが理解すべきふつうの日本語ではありません。 なぜもっとふつうの日本語を使わないのでしょうか。「今日の授業の内容がよくわかりま したか」「黒板の使いかたはどうでしたか」「質問のしかたはよかったですか」と書けば いいではありませんか。

 もっと相手のことを考えて、できるだけわかりやすい文章を書くべきです。
 習字も名人級になると一般人にはまったく読めません。もちろんこれはすばらしい芸術 であり、専門家の人々ならば、その表現していることを充分に理解できるでしょう。しか し大多数の人々にとっては、そこにどんなにすばらしい内容が書かれていても、内容が理 解できない以上、少なくとも文字としての意味はありません。
 文章も同じことです。
 小説や詩、俳句など、文章そのものが芸術として意味がある場合には、いくらむずかし くてもわかる人にわかりさえすればいいのですからかまいません。芸術としての文章は、 いくらでも好きなように書いてください。
 しかしそれ以外の文章は、読む人にその内容を理解してもらいたいからこそ書くはずで す。わかりやすく書けば書くほど、その内容はよりたくさんの人に理解してもらえるので すから、わかりやすく書くことはとても大切なことです。いくらすばらしい内容が書いて あっても、読む人に理解してもらえなくては意味がありません。
 ところが、世の中にはわかりやすい文章はとてもすくないように思うのです。
 国民の生活を左右する法律や、裁判の判決文、契約書など、どうしてあんなにむずかし いのでしょうか。「言葉の意味を厳密に定義しないと、あとで解釈をめぐって論争がおき るから」などという話も聞きますが、本当とは思えません。かえってわかりにくく書いて あるからこそ、解釈をめぐっての論争が起きるのではないでしょうか(日本国憲法第9条 の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、又は武力の行使は、国際紛争を解決する手 段としては、永久にこれを放棄する」なんていうのは、その典型ですね)。
 学校で使う教科書なども、最初からわからない人にわかってもらうための本なのに、け っこうわかりにくく書いてあったりします。
 コンピューター関係のマニュアルなんかその典型ですね。「コンピューター用語は日常 語とちがうから、わかりにくくてもしょうがない」などというのは言い訳でしょう。本気 でわかりやすい文章にしようと思ったら、改善点はものすごくたくさんあるはずです。
 一般むけの文章でも、とてもむずかしく書く人がたくさんいます。もちろん書いている 本人はその内容がわかっているのでしょうが、何回読んでも理解できないような文章もた くさんあります。そしてまた、そうしたむずかしい文章が理解できることをジマンにして いる人もたくさんいるようです。
 むずかしい文章を、その方がカッコよさそうだからといって、よくわからないままにあ りがたがっているなんて、バカバカしい話です。それでも、むずかしい文章が理解できる 人はまだジマンできますが、むずかしい文章を書く人はなんのジマンにもなりません。そ ういう人はただ“文章がヘタだ”というだけです。

 明治時代、日本では「言文一致運動」というのがおきました。それまでの「○○でそう ろう」などという格式ばった文章をやめて、ふだん話している言葉を使って書こう、とい うのです。この運動が大成功したから、今の日本語があるのです。
 今、私は第二の「言文一致運動」が必要だと思います。文章はわかりやすく書きましょ う。みんながそう心がければ、たぶんできます。無理してむずかしい文章を書き、それを また無理して読んでいるなんて、とんでもない損失です。

2 わかりやすい文章を書くために

 (1)専門用語は使わない
 専門家の間でならいくら専門用語を使ってもいいでしょうが、専門家以外の人にも読ん でもらおうと思うのなら、専門用語は使うべきではないでしょう。どんな専門家だって最 初は初心者だったのですから、専門用語がわからなくて苦労した経験があるはずです。専 門家だからこそ、専門家以外の人にもわかりやすく説明してほしいものですし、それがで きる人こそ本当の専門家といえるのではないでしょうか。

 (2)外来語は(できるだけ)使わない
 どうしても日本語では言えない微妙な内容を伝える時に、外来語を使うのはもちろん必 要だと思いますし、テレビのことを「電波映像受像機」なんてわざわざ言うのは、よけい にわかりにくくするだけですが、それにしても、日本語でふつうに言った方がわかりやす そうなことを、どうしてあんなに外国語を使って書こうとするんでしょうか。これも「自 分は外来語がわかるんだぞ」ということをジマンしたいだけなんじゃないですか。

 (3)文章はできるだけ短く
 長々と書いてある文章は、それだけで分かりにくいし読む気力もおこりません。

 (4)いらぬジマンをしない
 ときどき「現代では○○ということはもはや常識となっているのだが・・・」「××と いうことはだれの目にも明らかになっているのだが・・・」などという書き方をする人が いますが、やめてもらいたいものです。その人にとっての「常識」が読者である私にとっ ても「常識」かどうかはわからないではありませんか。自分の「常識」を私にも「常識」 として押しつけるなんて「常識」がなさすぎます。その人の目には「明らか」でも、私の 目には「明らか」ではないことだってたくさんあるでしょう。それなのに「明らかだ」と 決めつけられてしまうと、「こんなに明らかなのにお前にはわからないのか」とバカにさ れているようで腹がたちます。
 なかにはわざわざ、「よほどのバカではないかぎり、今や△△などと考える人はいない だろう」なんて書く人もいます。しかしこういう文章の場合、実際には△△と考える人が 多くいて、それをバカにしようと思って書いていることが多いようです。読者をバカにし ておいて、なおかつ自分の言い分を読んでもらおうなんて、それこそバカみたいじゃあり ませんか。

 さて、今まで述べたような考えをもとに、以前の私が書いた文章をよく読んでみると、 やはり私も読む人のことをあまり考えず、ひとりよがりの文章を書いていたように思いま す。今回はできるだけ読む人にわかりやすい文章を書こうと、努力してみました。もちろ んまだまだ不充分だとは思いますが、さらに努力していきたいと思っています。
 みなさんも、もっとわかりやすい文章を書いてくださいよ。

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