「いじめ自殺」を考える (1995年12月)
1994年末から1995年はじめにかけて「いじめ自殺」の何回目かのブームがおこ
った。
いじめが原因での自殺は毎年おこっていたのだが、今回は自殺した子供が長文の遺書や
日記を残しており、その親が公然と学校を批判する、学校では教師全員が保護者たちの前
で頭を下げる、教育委員会、国会などでもとりあげられる、といったマスコミ受けする事
件の展開をみせたので、一気に流行するようになった。この流行にあおられて、連日のよ
うに「いじめ自殺」が続いた。
いじめを受けている子供たちからすると、自殺は最後の、最高の復讐方法である。自殺
が報道されることによって、今まで自分をいじめていた相手の子供、鈍感な学校の教師、
親たちが、マスコミによってたかって「いじめ」られるのである。自分の生命を断つこと
で、社会全体がかわりに復讐してくれるのだ。これは生きたままではなしえないことであ
る。生きたままで「自分はいじめられている」と教師や親に訴えてみても、ほとんどなん
にもならないということを彼らはよく知っているのだ。そうした現世での救済に絶望した
からこそ、彼らは自殺という道を選ぶのであろう。
現在「いじめ自殺」は、マスコミによって大いに騒がれている。しかし大方はいつもの
ように「こんなにひどいイジメが!」「こんなにひどい親が!!」「こんなにひどい教師
が!!!」といったひどい実態の暴露によってセンセーションをまきおこし、視聴率をあ
げることが第一の目標になっているので、冷静に事態を分析して対策をたてるようにはな
っていない。せいぜいが「加害者の生徒をどう処分するか」「学校や教師はどう責任をと
るべきか」といった、目先の対応を問題とするのがせいぜいのようだ。しかしただ大騒ぎ
していさえすればよいというものでもない。
今回の「いじめ自殺」流行を受けて、私の勤務する学校にも新聞社から電話がかかって
きた。県内の中学校に軒並み電話をかけて、「おたくの学校にはいじめがありますか」と
取材してみたというわけだ。私の学校では管理職が「回答できない」と回答した(私はこ
のことをその新聞の記事を読んで知ったので、なぜ私の学校が「回答できない」と回答し
たのか、その理由は知らない)のだが、あとで記事をよんでみると、なかには「いじめは
ない」とキッパリ回答している学校もあった。傑作なのはいくつかの学校の「いじめ的な
ものはあるが、いじめはない」という回答である。私はこの学校に「『いじめ的』と『い
じめ』のちがいはなにか」と質問してみたくなった。「ここまでは『いじめ的』で、ここ
からは『いじめ』」という明確な境界線があるとでもいうのだろうか。
ところで、この新聞を読んで親たちはどう思うだろうか。わが子の通う学校が「いじめ
がある」と回答していれば、「やっぱりそうだったのか」「わが子は大丈夫だろうか」と
おおいに不安をつのらせることだろう。しかし学校が「いじめはない」と回答していても
親たちは安心しそうにない。安心するよりも「本当にそうだろうか」と学校に対する不信
感を増幅させそうな気がする。また学校が「回答できない」と回答している場合にも「な
ぜ回答できないのか」「よほどひどいいじめがあるにちがいない」とうけとめるだろう。
つまり学校がどう答えても親たちの不安、学校不信は高まる一方なのではないだろうか。
各学校はそうした親たちの反応を予測した上で、もっとも「あたりさわりのない」返答を
工夫し、「いじめ的なものはあるが、いじめはない」などといった珍回答を考えついたに
ちがいない。新聞社としては「読者にいじめの実態を知ってもらおう」ということだった
のだろうが、いったいこのような調査で「いじめの実態」がわかるとでも思っていたのだ
ろうか。
そもそも「いじめがあるか、ないか」という設問自体、根本的にまちがっていると私は
思う。
「いじめがあるか、ないか」ではなく、「いじめはかならずある」ということこそ
が大前提でなくてはならない。いじめはどんなすばらしい集団でもかならずおこる。「い
じめがまったくない」などということは絶対的にありえない。なぜなら「いじめを絶対に
しない」などという人間が絶対にありえないからである。「自分は今までに全く他人を差
別したことなどない」と確信を持って言い切れる人物などいるはずがない。世の中の人間
は大なり小なりいじめや差別をその性(さが)のようにおこなっているものだ。
したがって「いじめっ子」「いじめられっ子」という二分法も単純には成り立たない。
いじめの加害者は同時にいじめの被害者であることが多い。悪質ないじめの中心人物たち
はえてして、みんなからバカにされ嫌われている弱い存在であり、自分自身もいじめの被
害者になりながら、過激に他人をいじめることで必死に自分の地位を守っていることが多
い。
「いじめ自殺」がおこると、親や教師たちはよく「いじめに気づかなかった」と弁解す
るが、私はこんな台詞は全く信用できないと思っている。毎日ある程度の注意力を持って
子供たちを観察していれば「なにかがおかしい」という兆候は必ずあるはずである。しか
し多くの場合その「おかしさ」を深く追求する手段も能力も親や教師は持っていないし、
たとえその「おかしさ」の原因であるいじめの実態をはっきりとつかむことができたとし
ても、それによって的確な対策をとることができていじめを「解決」することができると
はかぎらない。ぎゃくに「なにかがおかしい」と気づいても、被害者が自殺でもしないか
ぎり(被害者が耐えしのんでいるかぎり)表面化することなしにすますことができるのだ
から、「あまり深く追求したくない」「コトを荒だてたくない」「実態を知りたくない」
という心理が働く。
(もちろん学校が全くの無秩序状態におちいり、教師自身が毎日「いじめ」られていて、
学校に登校するのもやっと、という場合もある。学校や学級の秩序などというのは実にか
よわいものなので、そうした事態も容易におこりえる。そのような場合には教師が「いじ
めに気づかなかった」ということもあり得る話ではある)
村山首相のセリフにもあるように「いじめはあってはならない」と一般に考えらられて
いる。とくに学校においては絶対にあってはならないこととされている。そこで「いじめ
がある」ということは、その当然の前提が崩壊してしまっている異常事態、ただちに解決
されなければならない危機と考えられる。
しかし現実には「いじめ」は日本の学校に普遍的な現象である。学校にかぎらず、あら
ゆる社会集団において「いじめ」は存在する。「いじめ」や差別というものは人間集団の
逃れがたい病である。人々はほんのささいなことを理由にしておたがいに差別しあい、き
ずつけあい、争いあっている。「いじめ」問題は人間の心の弱さに根ざしている。それは
人種差別や宗教対立、戦争や犯罪と同じ、人間の奥底の暗黒の部分から発生している。現
代社会がさまざまに努力を重ねながらも戦争や犯罪をなくすことができないでいるのと同
じく、いじめや差別がそう簡単に根絶できないのは当然である。
もともと日本には絶対的な価値観が伝統的に存在せず、「みんなとおなじ」であるとい
うことがその行為の妥当性を保証してきた。しかし現代の日本社会は、人間と人間のつな
がりがどんどん希薄になり、あらゆるタブーが打ち破られ、人間の思考や行動がどんどん
自由になっていきつつある社会である。
今まで「みんなとおなじ」という規範を保障して
きた農村や下町、会社などといった共同体は拘束力を失ってしまった。人々はより自由に
なり、そして同時に孤独になってきている。その孤独さに耐えられない人間が新たな心の
よりどころを求めて右往左往している。「みんな」という規範はなくなり、新しい規範が
求められているのだが、そんな確固とした規範など現代においてもとよりありえない。結
局、一人ひとりが自分の判断と責任において行動する「個人の自立」と、徹底した討論に
よって社会的合意をつくりだしていく「民主主義」の確立が必要なのである。しかしそれ
はそれで非常に苦しく困難なことなのだ。
異端者をつくり、異端者を差別することは、集団がその結束を確認しあい集団内の安泰
を得る上で最も簡単な方法である。大人たちでさえその陥穽におちやすい。ましてや人間
関係の技術が未熟で、むきだしのエゴがぶつかりあい、そしていったんものごとをやりは
じめたら限度を知らずに極限まで追求してしまう子供たち、ただでさえ自己が不安定な時
期にある中学生たちがこの陰惨で安易な道をたどってしまうのは、当然のことだろう。
何度もくりかえすが、現在の学校の子供たちの生活で、「いじめ」は日常的なできごと
である。しかし「いじめはあってはならない」ということが前提になっているために、い
じめを「いじめ」と認識してしまうと、毎日が「あってはならないこと」非常事態の連続
となってしまう。そしてまた「いじめはすぐに解決されなければならない」のだが、そん
なことは不可能である。そこで「この程度ならばまだいじめとはいえない」「いじめ的で
はあるがいじめではない」(従ってさしたる対策をとらなくてもよい)というとらえ方が
登場してくるのだろう。
人間が自殺をするのは、生きていく希望を失うからである。今後の人生に希望を持てな
いからである。いじめの被害者たちが生きる希望を持てないのは当然だが、生きていく希
望を失ってしまった子供たちは、なにも「いじめられっ子」ばかりではない。将来への漠
然とした不安、無力感は、現代のこの国の子供たちの中に広い範囲で認められる傾向であ
る。いわゆるグレている子供(いじめの加害者である場合が多い)たちの多くも、いじめ
の被害者とおなじように自分の将来に希望を失い、生きていく自信をなくしている。彼ら
はそのウサを、自分よりも弱い者をいじめることでまぎらわしている。
いじめを受けている子供たちが、多少なりとも生きていく希望を持てるようにするには
どうすればいいのだろうか。どんな強靱な意思を持っていようと、非常に苦しいいじめの
毎日が続くなかで、明るい希望を持ち続けることなど不可能である。まだしも近い将来い
じめがなくなる、あるいは弱まっていくということが予想できれば、いじめに耐えること
もできよう。しかし多くの場合いじめはエスカレートしていくばかりであり、そんな甘い
希望を持つことなどむずかしい。
てっとりばやくいじめから逃れる方法は、いじめが行われる人間関係を断ち切って、新
しい人間関係をつくりあげることであろう。登校拒否や転校などが「いじめ」という現象
をとりあえず「解決」することも多い。現在は登校拒否者に対する社会的圧力がまだまだ
大きいので、登校拒否をするのにも大きな勇気が必要である。しかし、自殺してしまうく
らいならば登校拒否をするほうが100万倍マシである。「自殺するより登校拒否」とい
うのが、とりあえずの(といっても非常に情けない)スローガンとなろう。
もちろん「差別は人間の本質であり、絶対になくせない」「差別やいじめがあるのはしょうがない」とあきらめてしまうのは早計であろう。
人間の中には自分の差別性に無自覚であったり、差別を当然のものとして居直ってしま
っている人々も多数いるが、自分自身の差別性を自覚して、意識的にそれをなくしていこ
うと努力している人々もいる。自分が差別されることで、差別に対する鋭い感覚を身につ
けることができるようになった人もいる。そして多くの人々の努力によって、確実に差別
は減ってきた。人類の歴史の中で、人種や宗教、性別、身分などによる差別は長いあいだ
「当然であり正しいもの」とされてきたが、この百年ほどのあいだにほとんど消滅した。
現在ではあからさまに「差別は正しい」とする主張は、すくなくと公式に表明されること
はなくなった。
こうした差別とのたたかいの歴史は、差別されてきた人々が団結し、自分たちの正当性
を主張することが、差別をなくしていく第一歩であることを教えてくれる。いじめの解決
にもそうした団結と運動がもっとも有効であろう。
しかしいじめの被害者たちは学校やク ラスの中で孤立しており、孤立しているからこそいじめられるのである。そうした人々が
団結することなど非常に困難である。それでもいったん学校というワクをはなれてしまえ
ば、団結の可能性はないわけではない。現在登校拒否=不登校の子供たちがつくりあげつ
つあるネットワークが、いじめ問題へのとりくみを強めていく(すでにその方向で動いて
いる)可能性は強い。
いじめ問題にかぎらず、社会的な弱者、差別をうける側の人々の運
動こそが、あらゆる差別を解消していく力を持つほとんど唯一の道である。そうしたさま
ざまな運動こそが、日本の社会全体を人間の権利や自由に敏感なものとし、社会的弱者や
少数者に寛容なものへと変化させていく可能性を持っている。そうした日本社会の全体的
な変容こそが、いじめ問題についてのもっとも強力な解決策となろう。
学校とは、その社会の持つさまざまな問題点が、もっとも凝縮したかたちであらわれて
くる場所である。当然、学校でおきるさまざまな問題のほとんどは、学校だけの問題では
ないし、学校だけで解決できる問題ではない。「いじめ」問題も例外ではない。この問題
は、この国の社会が持つ病理を、もっとも凝縮してあらわしているものといえるだろう。
結局「いじめ」問題は、この国の国民の、個人としての「自立」と根底的な「民主主義」
の確立を問うているのだと、私には思われる。
1995年はじめの阪神大震災、オウム事件などにマスコミの関心が移り、「いじめ自
殺」に対する世間の関心は薄れてしまった。しかしそれによって「いじめ自殺」がなくな
ったわけではない。今後も「いじめ自殺」はおこり続ける。現時点で長期的な視野を持っ
て学校教育を改革していかないかぎり、いじめ自殺者は今後も増加し続けるだろう。数年
に一度のブームの時だけ本気になって考えればすむというものではない。