自衛隊と安保についての考え(1991年12月)

 自衛隊と安保という問題は、第2次世界大戦終了後、1950年代から70年代にかけ て、この国の政治の上で最大の争点であった。その論争はいまだ尽くされたとは言いがた いままなのに、既にこの問題は政治の表舞台から下りてしまったように思われる。199 0年代に入るや「湾岸戦争」が勃発し、またもやさしたる議論が尽くされぬままに自衛隊 の海外派遣が云々され、掃海艇がペルシア湾に出撃していった。
 国民の意識は、なんとなく自衛隊、安保容認へと変わってきたと言ってもよいだろう。 しかし、現実の問題として、どの程度この国の国防問題、あるいは世界平和の問題が意識 され、論議されてきたかを考えると、いささか心許ない気がしないでもない。ここでは、 私なりにこの問題について考察してみることにしたいと思う。

 日本国憲法は、非常に感動的、かつ崇高な理念を掲げた「前文」から始まる。
 「前文」の過半は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにす ることを決意し」「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な 理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の構成と信義に信頼して、われらの 安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を 地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思 ふ。われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利 を有することを確認する」「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国 を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に 従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信 ずる」「日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成するこ とを誓ふ」などの文言によって、日本国憲法の「3原則」の一つである「戦争放棄」を高 らかに宣言することにあてられている。
 そして、さらに第9条において、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠 実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決 する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他 の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している。

 「この憲法第9条が禁止している『戦争』および『交戦権』は、『自衛権』を含んでい ない。よって自衛のために存在している『自衛隊』は『陸海空軍その他の戦力』にはあた らない」というのが現在の日本政府の憲法解釈である。しかし、そのような高等文法によ らず、ふつうの国語として何らの前提条件なしにこの文章を読む時、こうした解釈をすぐ に読み込むことはできない。
 単純に文章の規定どうりに読めば、そうした除外規定が明記してない以上、自衛隊は明 らかに「陸海空軍その他の戦力」であり、憲法に違反していると考えるべきであろう。す みやかに自衛隊を解散させるか、憲法を改正して、この違反状態を正すべきである。
 しかし、自衛隊が創設されて30年にもなるというのに、この憲法違反状態は改善され ていない。しかも最近の世論調査によれば、国民の過半数がこの憲法の規定にも、自衛隊 の存在にも、等しく承認を与えている。自衛隊と憲法は、互いに相矛盾しあう存在である のにもかかわらず、それが30年以上も同時に存在し続け、しかも国民がそれに矛盾を感 じていないということは、異常なことであるし、論理的にみても決して正しくない。
 この間、国民的な議論がなされてこなかったというわけではない。「自衛隊」について は、その創設時にすでに憲法との整合性が大きな論議の対象とされてきたし、その後も自 民党と社会党を主たる論者として、激しい意見の対立が続いてきた。しかし、この論争は 「合憲だ」「違憲だ」という意見の対立が平行線のままで続き、例の如く全く生産性を欠 いてきた。
 自民党は、「自主憲法制定」をその政治目標に掲げながら、敢えてその実現を試みるこ となく、ただ憲法の解釈を変えることで、実質的な憲法改正を行おうとしてきた。つまり 「名を捨てて実を取る」という政治手法を一貫してとってきたのである。
 それに対して、社会党は「自衛隊は憲法違反だ」と主張し続けてきながらも、現実の政 治の上で、違憲である自衛隊を解体させるだけの力を持ちえず、その軍備の拡大を許して きた。そしてまた、「非武装中立」という理念は掲げつつも、その具体的な戦略を大衆的 にアピ−ルすることができないままで現在にいたり、いまやその党内でも自衛隊について の明確な認識を共有できない状態となっている。
 憲法の解釈について、本来、最も明確に判断を下すべき所として、裁判所(「憲法の番 人」とよばれている)が存在しているのだが、この問題に対しては、裁判所も明確な判断 をすることを一貫して避けてきており、「統治行為論」によって、面倒な判断から逃げて しまっている。
 かくして、何らの国民的合意を見出さぬまま、憲法と自衛隊の矛盾した状態が続き、そ の矛盾は何ら解決されないままに、そのうやむやの状態をそのまま国民に認めさせるとい う、実に混乱した状況をもたらしてしまったわけである。

 憲法は、その国の法体系のなかでも最高の法規である。およそ法というものが忠実に運 用されず、その運用当事者の恣意的解釈、意志的判断によってあるいは杓子定規に運用さ れ、あるいは全く運用されないままであったならば、法が法として存立しえなくなるし、 とても法治国家としての成立用件を満たしえない。もしも、法が現実とかけ離れてしまっ て、法を運用することがより混乱をもたらすようであれば、それは法の規定に問題がある のであり、現実を法に合わせるよりは、法を現実に合わせることでなくては、問題は解決 できないはずである。憲法の「戦争放棄」の理念があくまで正しいものであるならば「陸 海空軍その他の軍隊」は解体されるべきであるし、「自衛隊」がどうしても必要なものな らば、憲法は改正されるべきである。
 この国の国民に対して、自衛隊をとるのか、「平和憲法」をとるのか、もっと早く選択 が迫られるべきであった。
 「自衛隊は必要だ」という自民党は、はっきりと憲法改正案を提出すべきであったし、 「自衛隊は憲法違反だ」という社会党は、「自衛隊を存続し続けるためには憲法改正が必 要だ」として、自民党に憲法改正案の提出を迫るべきであった。もしくは、自民党の牽強 付会な解釈を許さぬようなもっと明確「平和主義」憲法の改正案を独自に作成し、提出す べきであった。そうしてこそ、真に憲法の条文に即した議論が国会の中で行えたはずなの だ。たとえ国会内で自民党に破れたとしても、憲法改正には国民投票が必要である。その 国民投票の場でこそ、本当の国民的討論が可能であったはずなのだ。しかし現実には社会 党は自民党が戦後何回かみせてきた憲法改正への動きを一貫して警戒し続け、自民党の方 もついに憲法改正に現実に着手することなく、「解釈改憲」によってその場その場を場当 たり的にしのいできた。これは日本の政治にとって、このうえなく不幸なことだったとい わねばなるまい。

 日本国内に自衛隊と在日米軍という二つの軍隊が存在している。その軍事力は東アジア においてかなり強大なものといえる。しかし、現実に他国と戦争になった時、もしくは他 国の侵略を受けた時、あるいは日本国内で大規模な破壊活動や内乱が起こった時、この二 つの軍事力がどのような指揮系統にもとづいて、どのような軍事行動をとり、どの地域で とのように作戦を行うのか、全く明らかなものとなっていない。自衛隊や在日米軍の内部 では当然いろいろな場合が想定され、それぞれの場合における対応策がたてられているの だろうが、一般国民の前にはほとんど公開されていない。10年ばかり前の「有事立法」 論議こそ、そうした想定をわずかなりとも情報公開する機会だったのだが、理性的といわ んよりは感情的な拒絶反応によって、発言した自衛官をクビにすることで決着をつけてし まった。
 しかしこの「有事立法」問題こそ、もっと真剣かつ徹底的に論議されるべきではなかっ たかと思う。この「有事」に際してどう日本政府が行動し、自衛隊や在日米軍が軍事行動 をとるのかということを真剣に論議してこそ、自衛隊や安保条約の持つ問題点や、あるい は必要性といったものが明らかになったはずである。

 自衛隊や在日米軍は、日本の防衛のために存在しているという。他国を侵略するための ものでない以上、戦いは敵国が日本征服を企図し、日本国土に攻撃を開始してから始まる ものでなくてはならない。その場合、自衛隊や在日米軍は、日本に向かって発射されたミ サイルを迎撃して撃ち落とすだけなのか、それとも敵国の領土まで爆撃機やミサイルをと ばし相手のミサイル基地を破壊するのか、さらには報復攻撃として敵国の都市や港湾など をも攻撃するのか、「侵略」に対する反撃の程度にもさまざまな程度がかんがえられるは ずである。どこまでが「自衛権」の範囲内なのか、これはかなり判断がむつかしいはずだ し、放っておけばどこまででもエスカレ−トしかねない危険性を持っている。
 実際に敵軍が日本国土を占領し始めた場合も想定しておかねばなるまい。この場合、自 衛隊や在日米軍は日本国内で大規模な戦闘を継続せねばならない。敵軍が占領した地域や 都市を奪還するためにその都市を爆撃することなども当然ありえるだろう。このような時 に一般国民の避難体制などはどうするのかといった問題は全く公表されていないし、論議 もされていないが、これこそ「防衛」上からは最も必要なことではないのだろうか。

 そもそも「軍事力」は「平和」を維持するために役にたつといえるのだろうか。
 こちらが他国を侵略しようという意図を持っている場合には、自国の軍事力の強大さが その意図の実行を保障するものとなる。ただ自国の軍事力の弱小さがその侵略を阻む要因 となろう。しかし、日本の場合には「自衛権」しか持っていないということになっている のだから、この場合はとりあえず問題としないことにする。
 こちらが他国を侵略しようという意図を持たないのに、外国が一方的に侵略しようとす る場合も、世界史の上では何度も起こってきたことであるし、つい最近にもイラクが典型 的にやってみせた。この場合にこそ、自国の軍事力が「自衛」のために役に立つはずであ る。
 しかし、詳細に検討してみれば「自衛」のための軍事力にもいくつかの違った側面があ るように思われる。
 外国の軍隊が実際に侵略を開始してきて戦闘が始まってしまえば、それは既に「平和」 とはいえまい。軍事力が「平和」を維持するために役に立つのは、侵略の意図を持つ他国 をして、「実際にあの国に攻撃をしかけたら、反対にあの国の持つ軍事力によってひどい 反撃を受けそうだ。だから攻撃をしかけるのは止めておこう」と思わせるだけの力、すな わち「抑止力」を持つ場合のみだと考えられる。
従って、ある国の軍事力が他国の侵略を 躊躇させるだけの「抑止力」を持つためには、相手国の軍事力に対して圧倒的に優位な軍 事力が必要である。もしくは、相手国と実際に全面戦争を行ったら両方が共倒れになると いうことが明らかであるだけの軍事力(米ソの核戦力に典型的)が必要である。しかし、 自国の強大な軍事力は相手国にとっての脅威である。当然相手国もそれを上回る軍事力を 保持しようとして、無限の軍拡競争に突入することになる。あるいは日本の真珠湾攻撃の 如き先制攻撃によって有利に立とうとする。
 不幸にして、他国がその「抑止力」を認めずに侵略してきた場合、自国の軍事力は他国 の侵略に抵抗し、撃退する「抵抗力」として行使されねばならない。その場合にも、自国 の軍事力が圧倒的に優勢であり、他国の軍事侵略をその第一撃の段階で完膚なきまでに撃 退することができるならいざ知らず、そうでない場合には、ある程度長期にわたる自国領 土内での戦闘を継続せねばならない。当然、近代的重装備の正規軍による大規模な反攻が 主体となるであろうが、相手国との軍事力の差が僅かなものであれば、それだけ自国内で の戦闘は長期間にわたる苛烈なものとなるであろう。最終的に戦争に勝利しようが敗北し ようが、どちらにしても国土の破壊、国民の生命財産の損失は計り知れないほどのものと なる。
 相手国が自国に対して、圧倒的に優位な軍事力を誇っている場合には、正規軍による正 面対決はきわめて短期間に片がついてしまうであろう。その場合にも国土の破壊や国民の 生命財産は大きな損失をこうむるだろうが、問題はその後である。国土を他国に軍事的に 支配されてしまった後も、国民の暴力的、あるいは非暴力的な抵抗運動を継続し、ついに は独立を勝ち得た国は、歴史上にたくさんある。日本では第2次世界大戦の敗北に際して は、無条件降伏と占領軍への全面的服従によって、8年後の独立を獲得したが、もしまた 他国に軍事的に敗北し、占領されるということがあった時、今度はどのような対応策がと られるのだろうか。
 「抑止力」の次に相手の侵略の意図をして挫かしめるものがこの「抵抗力」であろう。 相手国をして「あの国を征服しても後がめんどくさそうだからやめとこう」と思わしめる だけの力があればいいのである。
 どちらにしても「もしも相手が攻めてきたらひどいめにあわせてやる」「そのためには かなりの犠牲もいとわない」というだけの国民的覚悟を相手国に対して示す必要がある。 そして、相手がそのはったりにびびってしまって、こちらに攻撃をしかけてこなければし めたもの、軍事力が「平和」の維持に役に立っているともいえるのだが、相手も当然はっ たりをかけ返してくるので、ここははったりのかまし合いというところである。お互いに 「おれは戦争したって怖くない覚悟を決めているんだから、おれのいうことをきけ」と主 張しあうわけである。「戦争は怖いからおまえの言い分を聞こう」と弱気になった方が負 けである。いかに相手よりも気が強いかを争うわけだから、これはチキンレ−スに似てい る。お互いに相手に向かって車を走らせて、弱気になってブレ−キを踏んだりハンドルを 切ったりした方が負けというゲ−ムだ。両方が強気なら正面からぶつかって、両方とも死 んでしまう。
 日本の安全を維持していくためにどれだけの軍事力が必要なのだろうか。純粋に軍事力 だけで世界の全ての国からの侵略を防ごうとすれば、多分どれだけ重装備の軍事力を保持 しようと完全とはいえまい。逆に、さしあたって日本を侵略しようという意図を明らかに している国がいない現状からすれば、軍事力などごくごく弱小なものでよいとも考えられ る。そもそも万一他国が実際に攻めてきたとして、国民の生命財産をかけ、国土を荒廃さ せてまで守るべき国家の独立なのだろうか。
 その意味でも、現在の日本を巡る国際情勢と防衛計画は、詳細に情報公開され、国民的 に議論される必要があろう。
 在日米軍の存在は更に日本の防衛問題を複雑にさせている。実際に日本が侵略の脅威に さらされた時、米軍は日本の防衛にその力を行使してくれるだろうか。もし行使するとし て、どの程度までやってくれるのか。在日米軍のせいで逆に日本が国際的緊張に巻き込ま れる危険はないのか(東西冷戦下では確かにそのような可能性も大きかったといえよう)、 米軍はきちんと日本との信義を守ってくれるのか(核の持ち込み疑惑など)米軍が日本の 内政に関与する可能性はないのか(バナマではアメリカの気にいらない政府指導者を軍事 力を行使して逮捕したではないか)など、既に何度も議論されてきた通りである。

 『国連軍を日本に誘致せよ』(村瀬英幸著 A+A出版 1991年)という本が、最 近よんでかなり面白かった。随所に粗雑な論理展開は見られるものの、大筋としては肯定 できる主張があった。
 いまだに世界にはたくさんの問題があり、国家間の対立、国内の混乱なども多く残って いる。しかし、朝鮮戦争当時、冷戦の始まりのころにつくられた自衛隊と安保条約で、冷 戦終結後の世界には対応できないのではないか。イラクのクウェ−ト侵略に対して、いく ら強大な軍事力を持ち、特殊な権益を持っているからといって、アメリカ合衆国だけに世 界の「警察官」を任せてしまうのには大きな問題がある。
一国だけが圧倒的な軍事力を持 っている現状、先進工業国が第三世界に武器を売りまくっている現状は、決して良い状態 ではない。「全欧安保協力会議」の如き全体的な軍備管理システムが全世界的に必要とな っている。当然その中心となるべきは国連である。しかし、国連が本当に国際紛争を解決 市、戦争を防止するだけの力を持つようになるためには、まだまだかなりの努力が必要で ある。国連の機構を欧米先進国中心から真に世界的なものにするために、機構を改革する ことも必要であろう。
日本はそうした改革を進めていくために、率先して大いに努力する べきである。そのためには自衛隊を解散して国連軍に編入することも、あながち荒唐無稽 な話ではないかも知れない。そのような努力をしてこそ、憲法前文にいう「平和を維持 し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において 名誉ある地位を占めたいと思ふ」「国家の名誉に かけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という、日本の国家的目的が果たされることになるので はないか。

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